第5話:侵食される箱庭
神崎と名乗る大手出版社からのメッセージ。
無機質なテキストの羅列が、熱を持ったように画面から立ち上る。
航の眼球を焼くような輝度だった。
『あなたのアートを、世界に届けるお手伝いをさせてください』
アート。
そんな大層な言葉で自分の「てしごと」を呼ばれたのは初めてだった。
息が詰まる。
航は弾かれたようにスマートフォンの画面をロックし、畳の上に放り投げた。
コツン、とプラスチックがぶつかる乾いた音が、六畳の部屋に虚しく響く。
「……航」
結衣が、すがるような目で航を見上げていた。
自分が放った動画が、航の静かな世界を決定的に壊してしまったのだと、彼女も肌で感じ取っているのだろう。
「気にすんな。お前のせいやない」
「でも……」
「ええから。俺、ちょっと公民館に行ってくる。頼まれてたスプーン、今日が納品の日やったから」
航は逃げるように立ち上がると、結衣を部屋に残し、作業着のポケットに小刀とスマートフォンを突っ込んで一階へ降りた。
居間では、母の春子がまだ電話口で誰かに頭を下げている。
「ええ、はい……。いえ、息子はただの趣味で木を削っとるだけでして……取材とか、そういうのはちょっと……」
困惑しきった母の背中を見るのが耐えられず、航は足早に玄関を出た。
夏の強い日差しが、容赦なく網膜を刺す。
海風が吹いているのに、ひどく息苦しかった。
島を歩く。
いつもなら、すれ違う顔なじみの漁師や近所の人間と、のんびりとした挨拶を交わすだけの平和な道だ。
しかし今日は、空気が決定的に違っていた。
「あ、ほら、航くんよ」
「ネットで有名になったんやろ? なんか、東京からテレビ局が来るかもしれんって、役場の連中が騒いどったよ」
狭い路地裏で井戸端会議をしていた大人たちが、航の姿を認めるなり、ピタリと会話を止め、ヒソヒソと声を潜める。
その視線には、かつての「春子さんとこの大人しい息子さん」を見るような温かさはなかった。
まるで、空から突然降ってきた金の卵を、値踏みするように見る目つき。
航は俯き、足早に公民館へと向かった。
公民館の引き戸を開けると、冷房の効いた部屋の中で、婦人会の集まりが終わったらしいおばちゃんたちが茶飲み話に花を咲かせていた。
「あ、航くん! ええとこに来たねえ!」
航の顔を見るなり、まとめ役のタエ子おばちゃんが甲高い声を上げた。
彼女はいつも、航が納品に来ると「えらいねえ」と背中を叩き、ハッカ飴をくれる優しい人だった。
「頼まれてたオリーブのスプーン、十本。できました」
「ありがとう!……いやあ、でもびっくりしたよ。航くん、ネットですごいことになっとるんやってねえ!」
タエ子おばちゃんは、航が差し出したスプーンの束をひったくるように受け取ると、興奮した様子で他の婦人たちを振り返った。
「あんたら、知っとる? ネットでバズるって言うんやけど、これが東京やったら何万円もするような価値になるかもしれんのよ!」
「ほんとよねえ。うちにある航くんのお椀も、ネットで売ったら高く売れるんかねえ?」
「航くん、これからは一本五百円なんて安い値段じゃなくて、もっとふっかけた方がええよ! 島の名物にしようや!」
悪気のない、ただの無邪気な好奇心と、剥き出しの強欲。
おばちゃんたちの言葉が、鋭い刃物のように航の胸をえぐった。
違う。
俺は、おばちゃんたちの手が少しでも楽になるように。
曲がった指でも握りやすいようにと思って、オリーブの木目を読み、このスプーンを削ったんだ。
金のためじゃない。
島の名物にするためでもない。
ただ、使ってくれる身近な人のために――。
しかし、彼女たちの目にはもう、航の作ったスプーンは「生活の道具」ではなく、換金可能な「商品」としてしか映っていなかった。
動画のバズは、この島の人間から素朴な温かさを奪い、あっという間に『価値』という名の毒を染み込ませてしまったのだ。
「……じゃあ、俺、帰ります」
航は逃げるように公民館を飛び出した。
背後から「あ、お金! 航くん、お金払うけん!」という声が聞こえたが、振り返る気にはなれなかった。
あんな風に値踏みされたスプーンの代金を受け取るくらいなら、タダでくれてやった方がマシだった。
息を切らして自宅の工房に逃げ込み、ピシャリと引き戸を閉める。
むせ返るような木の匂いと、土間の静寂。
ここだけが、世界で唯一、誰にも侵されない聖域のはずだった。
航はへたり込むように土間に座り、ポケットからスマートフォンを取り出した。
相変わらず、画面には絶え間なく通知のポップアップが波のように押し寄せている。
無数の「欲しい」「売ってくれ」という欲の塊。
島のおばちゃんたちと同じだ。
みんな、木の声なんて聞いていない。
ただ「価値のあるもの」を消費したいだけなのだ。
しかし。
そのノイズの海の中で、神崎という男のメッセージだけが、異質な静けさを保ってそこにあった。
『あなたの作られた山桜の小箱の動画を拝見し、その圧倒的な生命力と技術に震えました』
神崎の言葉は、他の有象無象とは違っていた。
彼は動画の数秒の音と指先の動きだけで、航が山桜の木とどう対話したのか、その「底知れぬ深淵」を正確に掬い取っていたのだ。
(……この人は、見えているのか。俺が、あの小箱に込めた熱が)
恐ろしい。
この男の誘いに乗れば、確実に今までの優しい箱庭には戻れなくなる。
さっきの公民館のようにおかしくなってしまった島の空気から逃げ出すことはできるかもしれないが、その先にある世界は、もっと巨大で残酷な消費の海だ。
けれど、航の分厚いマメだらけの右手が、小さく震えていた。
恐怖からではない。
自分の本当の「てしごと」を、正確に理解し、評価してくれる存在に出会ってしまったことへの、抗いようのない武者震いだった。
航は深呼吸を一つすると、震える指で画面をタップし、メッセージの返信画面を開いた。
そして、短い一文だけを打ち込んだ。
『一度、お話を聞かせてください』
送信ボタンを押した瞬間。
航の十九年の人生を閉じ込めていた小さな島の殻に、決して元には戻らない、決定的な亀裂が走った。




