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第4話:狂った秒針と、見えない波

翌朝。


いつもなら、七時のフェリーの低い汽笛で目を覚ますはずだった。


しかし、航はその一時間も前から、枕元で鳴り続ける奇妙な振動音によって、浅い眠りから引きずり出されていた。


ブー、ブー。

 ブブッ、ブー。


規則性のない、せわしないバイブレーション。

 畳の上に転がった古いスマートフォンが、まるで熱を持った生き物のように震え続けている。


「……なんだよ、朝から」


寝ぼけ眼をこすりながら画面をタップした瞬間、航は自分の目がどうかしてしまったのかと錯覚した。


ロック画面を埋め尽くしているのは、何百、いや、スクロールしても追いつかないほどの桁外れな数の通知だった。

 『あなたの動画がリポストされました』

 『〇〇さんがいいねしました』

 『〇〇さんからメッセージが届いています』


寝ぼけた頭のままSNSのアプリを開くと、そこには目を疑うような数字が並んでいた。

 昨日、結衣の横顔を見ながらアップロードされた、あの山桜の小箱の動画。


再生回数、百二十万回。

 「いいね」の数は、十万を超えようとしている。


「……は?」


乾いた声が漏れた。

 十万という数字の規模が、この過疎の島で生まれ育った航にはまったく想像できなかった。

 島の人口を全員かき集めても、数千人にしかならないのだ。


震える指でコメント欄を開くと、そこには見ず知らずの他人の言葉が、滝のように流れ込んでいた。


『この箱、どこのブランドですか!?』

 『蓋が閉まる音、エグすぎる。ずっと聞いてられる』

 『手元がエモい。職人さん若そうだけど何者?』

 『いくら出せば買えますか。DM開放してください!』


絶賛の嵐。熱狂。そして、手に入れたいという無数の「飢え」。


画面の向こう側の、顔も見えない何十万人という人間が、自分の作った小さな山桜の小箱を見つめている。

 一瞬、背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 それは、自分の「てしごと」が外の世界に認められたという強烈な喜びと同時に、得体の知れない巨大な怪物に見つかってしまったという、本能的な恐怖だった。


「航!!」


突然、一階の玄関の引き戸が、ぶっ壊れんばかりの勢いでガラリと開け放たれた。


「航、おる!? ちょっと、どうしよう!」


階段をドタドタと駆け上がってきたのは、血相を変えた結衣だった。

 すっぴんに、寝巻きのTシャツのまま。

 いつもなら「朝ごはんできたよ」と呑気に笑いかけてくるはずの顔が、今朝は青ざめていた。


「結衣、お前……」


「見た!? ねぇ、見たよね!? 私のアカウント、なんか壊れちゃったみたいで……通知がずっと止まらんのよ! メッセージも何百件も来てて、外国語のもあるし……!」


結衣は泣きそうな声で、熱を持った自分のスマホを航に突き出した。

 彼女もまた、この島という狭く優しい箱庭で生きてきた人間だ。

 インターネットという見えない海の恐ろしさを、今この瞬間、身をもって体感しているのだろう。


「落ち着け結衣。壊れたんやない。お前がアップした動画が、バズったんだ」


「バズ……?」


「ああ。何十万人っていう人が、あの小箱の動画を見とる」


航の言葉に、結衣はへなへなとその場に座り込んだ。


「嘘やろ……私、ただ、航がすごいってこと、ちょっと自慢したかっただけやのに……」


「気にするな。お前は悪くない」


航はそう言いながらも、胃の奥が冷たく重くなるのを感じていた。

 昨日まで、島にはゆったりとした円環の時間が流れていた。

 潮が満ちて、引く。

 ただそれだけの穏やかな日々。

 しかし、あの数秒の動画が放たれた瞬間から、航たちの周りの「秒針」は、都会の狂ったようなスピードに巻き込まれてしまったのだ。


「航ー! 結衣ちゃんー! ちょっと降りてきなさい!」


一階から、母・春子の鋭い声が響いた。

 顔を見合わせ、急いで階段を降りると、居間の電話の子機を握りしめた母が、困惑した表情で立っていた。


「おかん、どうしたん?」


「さっきから、公民館のおばちゃんやら、役場の人間から立て続けに電話がかかってきとるんよ。朝っぱらから『東京の会社から、島で木箱を作っとる若い職人を紹介してくれって問い合わせが殺到しとる』って。……航、あんた、何かしたんか?」


母の言葉に、航は息を呑んだ。


ネット上の熱狂は、すでに画面を飛び出し、現実のこの静かな島へと物理的な波となって押し寄せ始めていたのだ。


航たちがどこの誰なのか、動画には一切書いていなかった。

 しかし、背景に映り込んだ土間の造りや、窓の外に見える風景、結衣のアカウントの過去の投稿などから、特定班と呼ばれる人間たちが一晩でこの島を割り出し、役場にまで問い合わせを始めているのだ。


「……俺のせいだ。おかん、ごめん」


航はうつむき、拳を強く握りしめた。


「謝ることはないやろ。悪いことしたわけやないんやから。……ただ、ちょっと島の衆には迷惑かけるかもしれんね」


母は小さくため息をつき、もう一度咳き込んだ。

 その咳の音が、妙に乾いていて、航の胸をざわつかせた。


居間のテレビでは、朝のニュース番組が、東京の最新トレンドを相変わらずの明るいトーンで報じている。

 その光が、今はひどく攻撃的なものに思えた。


「航、これ……」


隣でスマホの画面を見つめていた結衣が、震える声で航の袖を引いた。


結衣のアカウントに届いた無数のダイレクトメッセージ。

 その中で、埋もれずに異質な存在感を放っている一件のメッセージがあった。


他の「買いたい」「譲ってほしい」という欲にまみれた短い文面とは違う。

 それは、端的ながらも、洗練された礼儀正しいビジネスの言葉で綴られていた。


『突然の不躾なご連絡をお許しください。

 私は、新海出版でアート書籍の担当をしております、神崎と申します。

 あなたの作られた山桜の小箱の動画を拝見し、その圧倒的な生命力と技術に震えました。

 ぜひ一度、直接お会いしてお話を伺えないでしょうか。あなたのアートを、世界に届けるお手伝いをさせてください』


神崎。東京の大手出版社。


その無機質なテキストの羅列は、航が心の奥底でずっと渇望し、そして同時に恐れていた「青くて残酷な世界」からの、最初の招待状だった。


外では、ようやく七時を知らせる始発のフェリーの汽笛が鳴り響いた。

 しかし、その音はもう、昨日までの長閑な響きには聞こえなかった。

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