第17話:完璧な静寂と、冷たい木肌
神崎のオフィスを出て、あてがわれた新しいアトリエへと向かうタクシーの中。
窓ガラスの向こうには、島では決して見ることのない無数のネオンサインや巨大なデジタルサイネージが、毒々しいほど鮮やかに流れていく。
その人工的な光の洪水をぼんやりと見つめながら、航はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出した。
暗い車内で眩しく光る画面には、数時間前に届いていた結衣からの短いメッセージが表示されている。
『無事に着いた? 東京の空気はどう?』
たった十数文字の文字列なのに、結衣の少し跳ねるような声が、鼓膜の裏側で鮮明に再生される。
フェリー乗り場で大きく手を振っていた彼女の姿が脳裏をよぎり、航は画面を見つめたまま小さく息を吐き出した。
だが、今の航には「東京の空気」をどう表現していいのか、全く分からなかった。
息が詰まるほど人がいるのに、誰の生活の匂いもしない。
他人に全く興味がないくせに、誰もが同じ方向を向いて急ぎ足で歩き、そして見えないルールに縛られている。
そんな正直な感想を送れば、遠く離れた島にいる彼女を無駄に心配させるだけだろう。
『着いたよ。明日からさっそく個展の準備だ』
航は、嘘ではないが本当の感情も乗っていない、ひどく無難な言葉だけを打ち込んで送信ボタンを押した。
既読のマークがつく前に、逃げるように画面を暗くして、スマホをポケットの奥底へと押し込む。
タクシーの車内に漂う、芳香剤のツンとした化学的な匂いが、航の鼻の奥を不快に刺激し続けていた。
翌日、航は神崎に連れられて、表参道の裏通りにあるギャラリーへと足を運んだ。
数日後に迫った初個展の会場は、黒とグレーを基調としたシックで広大な空間だった。
無駄な装飾は一切なく、床は足音が響かない特殊な素材で覆われ、美術館のような厳かな空気が漂っている。
そこには、島のアトリエから送った航の過去の作品群が、計算し尽くされた照明の下で恭しく飾られていた。
祖父の教えに従って彫った素朴な動物の木彫りや、島の漁師のために作った荒々しい波のレリーフ。
それらが、まるで国宝級のアンティークであるかのように、一つ一つ独立した台座の上に展示されている。
そして、会場の最も奥、中央に設けられた一番広いスペース。
そこには、最も強いスポットライトの束を浴びて、あの「結衣の像」が鎮座していた。
足元には『名もなき少女の祈り』と印字された、洗練されたアクリルプレートが冷たく光っている。
島のアトリエで、むせ返るようなクスノキの匂いと自分の汗にまみれて削り出した彼女の姿。
それが今、見えない分厚いガラスケースに閉じ込められたような、近づき難いオーラを放つ「美術品」へと変貌していた。
航自身がこの手で生み出したはずなのに、まるで他人の凄まじい作品を見せられているような、奇妙な断絶感があった。
木肌のわずかな凹凸が、完璧な角度の照明によってドラマチックな陰影を生み出し、息を呑むほど美しい。
だが、航が指先で感じていたはずの「結衣の体温」は、その完璧な美しさの中で完全に漂白されてしまっている気がした。
「どうです? 完璧な見せ方でしょう。あの田舎の埃っぽい小屋に置かれているのとは、見違えるようだ」
神崎が満足げにささやく声に、航はただ曖昧に頷くことしかできなかった。
自分の手が記憶している結衣の柔らかな温もりは、この冷ややかなLEDの光の中には、もう存在していない。
ただの圧倒的な「商品」として、初日を待つ無機質な物体があるだけだった。
その夜、航は重いスポーツバッグを抱え、神崎が手配した新しいアトリエに足を踏み入れた。
目黒の閑静な住宅街にある、コンクリート打ちっ放しの巨大なデザイナーズマンションの一室。
重厚な鉄の扉を開けた瞬間、航は思わず息を止めて玄関に立ち尽くした。
完璧なまでに真っ白な壁と、チリ一つ落ちていない無垢材のフローリングが、冷ややかな光を反射している。
広さは島のアトリエの三倍は優にありそうだったが、そこには「生活」の匂いや「人間」の気配が全くなかった。
窓は分厚い防音ガラスで二重に覆われ、外を走る車の音すら完全に遮断された、まるで無響室のような空間だった。
最新式の空調設備が微かな電子音を立てて稼働し、室内の温度と湿度を、木材にとって最も適した数値に固定している。
航は玄関にスポーツバッグを下ろし、広すぎる部屋の真ん中に力なく座り込んだ。
持ってきた新聞紙の束を解き、祖父の小刀や、使い込んで柄がすり減ったノミを一つずつ取り出していく。
島の埃と木の渋が黒く染み付いたそれらの道具は、この白すぎる空間では、ひどく汚れた異物のように見えた。
部屋の隅には、神崎が用意させた最高級の木材が、綺麗に整頓されて積み上げられている。
どれも完璧な直方体に製材され、狂いが生じないよう徹底的に乾燥管理された、高価な「商品」の材料だ。
航はそのうちの一つのブロックに手を伸ばし、手のひらで表面をそっと撫でてみた。
つるりとしていて、ひどく滑らかで、そして氷のように冷たい。
島で扱っていた、まだ水分をたっぷりと含み、土の匂いや虫の這った跡が残る荒々しい丸太とは全く違う手触りだった。
『木にはな、声があるんだよ。こっちが無理やり形を押し付けちゃいけねえ。木がなりたい形を探り当てるんだ』
祖父の言葉が蘇る。だが、この完璧に切り出された木材からは、何のうねりも、微かな声も聞こえてこなかった。
木というよりは、工業製品のプラスチックに触れているような、のっぺりとした冷たい感触しか伝わってこない。
航は祖父の小刀を握り直し、深呼吸をしてから、真新しい木材の角に刃を当ててみた。
静寂に満ちた部屋に、木を削る「スッ」という乾いた音が異様に大きく響き渡る。
波の音も、裏山の蝉の鳴き声も、結衣がアトリエに入ってくる時の明るい足音もない。
ただ、自分の荒い呼吸音と、刃が木を削る単調な音だけが、鼓膜をひどく乱暴に叩き続ける。
木に刃が入っていく時の、あの押し返してくるような生命の反発が、指先に全く感じられない。
集中できるはずの完璧な環境なのに、航の心はざわざわと波立ち、小刀を握る手首はひどく強張っていた。
削っても、削っても、自分と木が境界線を失って溶け合うような、あの至福の「フロー状態」は訪れなかった。
ただ物理的に木材の体積を減らしているだけの、虚無的な作業が続くだけだった。
航はたまらず小刀を下ろし、力なく自分の分厚い手のひらを見つめた。
マメだらけで、節が太く、傷跡が残るその手は、今激しく震えていた。
結衣の像を彫り上げた時に感じた、あの万能感と圧倒的な熱量は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
東京の完璧な静寂と管理された空間の中で、彼の「手」は早くも、致命的な麻痺を起こし始めていた。




