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てしごと ―小さな小刀が切り開いた、青くて残酷な世界―  作者: 鳴水 匠人
第2章:東京の熱と消費される才能
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第18話:赤いシールと、消費される祈り

表参道のギャラリーの重厚なガラス扉が開いた瞬間、航は濁流のような人の波に飲み込まれた。


数日前に東京の土を踏んだばかりの彼は、初個展の初日、想像を絶する熱狂に包まれていた。

 神崎の仕掛けた緻密なプロモーションと計算し尽くされたメディア戦略は、想像を絶する熱狂を生み出していた。

 開場と同時に雪崩れ込んできた客たちは、一直線に会場の中央——『名もなき少女の祈り』へと群がっていく。

 美術愛好家だけでなく、インフルエンサーや若者たちが、その圧倒的な造形を求めて押し寄せていた。


「やばい、これ生で見ると迫力えぐいんだけど」


「この木の質感、エモすぎない? 絶対バズるよこれ」


無数のスマートフォンのカメラが一斉に向けられ、無遠慮なシャッター音がギャラリーの静寂を容赦なく切り裂く。

 感嘆の声というよりは、目新しいコンテンツを発見した興奮のざわめきが、会場全体を支配していた。


航は人に押し流され、部屋の隅に追いやられるように立ち尽くし、その異様な光景をただ見つめていた。


島で木を削っていた時、航はたしかに「誰かに見てほしい」「自分の力がどこまで通用するか試したい」という野心を持っていた。

 だが、目の前で起きている狂騒は、彼が純粋に想像していた「作品との対話」とは全く質の違うものだった。

 彼らは木の声を聞いているのではないし、彫られた少女の心情に寄り添おうとしているわけでもない。


ただ、今最も話題のコンテンツをいち早く消費し、それを知っている自分をSNSで誇示するための「背景」として像を利用しているだけだ。

 誰も、木が長い年月をかけて重ねてきた年輪の模様や、ノミが残した微かな刃の跡の揺らぎには目を向けていない。

 神崎が用意した『名もなき少女』というキャッチーな糖衣だけを舐めて、みんな満足げに通り過ぎていく。


航が自分の魂を削り、結衣の体温と息遣いを思い出しながら木に込めた、祈りにも似た切実な想い。

 それは、見事に誰にも届くことなく、デジタルな画像の束となって宙に消費されていくだけだった。

 自分の最も個人的で大切な感情が、見ず知らずの人間たちの大騒ぎの道具にされている。

 その事実は、航の胸を鈍いナイフでゆっくりとえぐるような、耐え難い苦痛を伴っていた。


「素晴らしい。大成功ですね、航さん」


いつの間にか隣に立っていた神崎が、シャンパングラスを片手に、完璧なビジネススマイルで口角を上げた。

 彼の視線の先では、壁に飾られた航の過去の作品群のアクリルプレートに、次々と「売約済み」を示す赤いシールが貼られていく。

 島で作った動物の木彫りも、レリーフも、すべてがあっという間に買い手がついていく。


「初日でほぼ完売です。これで君は、名実ともにアートシーンの寵児だ」


神崎はグラスを軽く揺らしながら、興奮する群衆を見下ろして続けた。


「市場は、君の持つあの『泥臭い純粋さ』を、最高のエンターテインメントとして歓迎していますよ。私の目に狂いはなかった」


その称賛の言葉は、航にとって絶賛の形をした冷たい刃のように深く突き刺さった。

 泥臭い純粋さ。

 それは、祖父から受け継いだノミを握り、ただ無心に木と向き合っていたあの神聖な時間のことだ。

 それすらも、彼らは「田舎の青年の美しいストーリー」という見せ物として値踏みし、消費しているのだ。


「……俺は、ただの見せ物になっただけじゃないのか」


人々のざわめきにかき消されるほどの小さな声で呟くと、航は自分の両手を見下ろした。

 ジーンズのポケットに突っ込んでいたその手は、冷房の効きすぎた室内でひどく冷え切っていた。

 島では常に木の匂いが染み付き、マメが硬く熱を持っていたはずの分厚い手のひら。


だが今、無数のスマートフォンのフラッシュの光に照らされる自分の手は、ひどく貧相で、空っぽに見えた。

 次々と赤いシールが貼られ、具体的な何十万、何百万という金額に換算されていく自分の分身たちを見つめる。

 航は、華々しい成功の真ん中にいながら、人生で初めての強烈な自己嫌悪と孤独感に襲われていた。


夜になり、ギャラリーが閉まった後も、熱狂の余韻はSNS上で無限に増殖し続けていた。


コンクリートの壁に囲まれた無臭のアトリエに帰り、航はシャワーも浴びずに、暗闇の中でベッドに倒れ込んだ。

 航のスマートフォンには、新しいフォロワーや絶賛のコメントを知らせる通知の振動が、絶え間なく鳴り響いている。

 ブブッ、ブブッと鳴るその振動音は、まるで不快な羽虫が耳元を飛び回っているようだった。


だが、その何千、何万という無数の称賛の中に、航が本当に欲しい言葉は一つもなかった。


目を閉じると、フェリー乗り場で「負けたらあかんよ!」と泣きながら手を振っていた結衣の顔が浮かぶ。

 かましてやったさ、と心の中で自嘲気味に呟き、航は腕で目を覆った。

 東京という巨大な胃袋に、自分の一番大切なものを、自らの手で切り売りして放り込んでやったのだ。


航はベッドの上で強く拳を握りしめ、自分の爪を掌に深く食い込ませた。

 微かに血が滲むほどの痛みを感じても、心にぽっかりと開いた空洞が埋まることはない。

 どれだけ強く手を握りしめても、そこにはもう、あの温かい結衣の記憶も、木と対話していた豊かな時間も残っていなかった。

 完璧な静寂の中で、航はただ一人、自分のすべてを失ってしまったような絶望に静かに沈んでいった。

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