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てしごと ―小さな小刀が切り開いた、青くて残酷な世界―  作者: 鳴水 匠人
第2章:東京の熱と消費される才能
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第16話:コンクリートの森と、無臭の部屋

東京という異界に足を踏み入れた航の圧倒的な疎外感。


新幹線の自動ドアが開き、東京駅のホームに足を踏み出した瞬間。

 航は、見えない巨大な壁に全身を力いっぱい殴られたような錯覚に陥った。

 人、人、人。


視界の端から端まで、黒やグレーのスーツを着た無数の人間がひしめき合っている。

 それぞれが一定の、しかし恐ろしく速いリズムで歩き去っていく。

 誰一人として立ち止まらず、空を見上げることもなく、ただスマートフォンの画面か、数メートル先の床だけを見て進んでいる。


島には存在しない、地鳴りのような低いノイズが常に空間を支配している。

 無機質なアナウンスの声、硬い靴音がコンクリートの床を叩く音、神経を逆撫でする電車の発車メロディ。

 それらが巨大なドームの中で複雑に反響し、航の三半規管を激しく揺さぶった。


「……息が、詰まる」


むせ返るような潮の匂いも、青葉を揺らす風の匂いも、ここにはどこにもない。

 代わりに肺に流れ込んでくるのは、鉄が擦れるような鋭い匂いと、空調が吐き出す乾いた風、そして何万人もの人間が発する得体の知れない熱気だった。

 航は使い古されたスポーツバッグの持ち手をきつく握り直し、波に飲まれないよう、必死に足を踏み出した。


神崎の指定したオフィスは、表参道の一等地にそびえ立つ高層ビルの中にあった。


見上げるようなガラス張りの外観は、周囲の景色を冷たく反射している。

 エントランスには巨大な大理石が敷き詰められ、真夏だというのに冷蔵庫のように冷え切った空気が漂っていた。


洗いざらしのシャツに色落ちしたジーンズ、そしてマメだらけの手をした航。

 彼はこの洗練された空間の中で、誰の目から見ても決定的な「異物」だった。

 すれ違う都会の人間たちは、一様に完璧な身なりをしており、航に一瞬だけ怪訝な視線を向けては、すぐに興味を失って通り過ぎていく。


「よく来ましたね。歓迎しますよ、航さん」


最上階の専用ラウンジで待っていた神崎は、島で会った時よりもさらに、おろしたての新しい道具のようにツルツルして見えた。

 シワひとつない上質なダークスーツは、島のアトリエの埃っぽい隙間風に吹かれていた時よりも、この大理石とガラスの空間に圧倒的に馴染んでいる。


「さあ、まずは掛けてください」


促されるまま、航は応接室の中央に置かれた黒い革張りのソファに腰を下ろした。

 ズブッと深く沈み込むような不自然な柔らかさに、航は思わず腰を浮かせそうになった。

 島のアトリエにある、座面が擦り切れてペンキまみれになった丸椅子とは、あまりにも勝手が違いすぎる。


ひどく落ち着かなくて、航は無意識に右手の親指で、人差し指の付け根にある硬いマメを擦った。

 ノミを力強く握り続けてできた、その硬く変色した皮膚の感触。

 それだけが、今の浮き足立った彼を地面に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。


「長旅で疲れたでしょう。だが、ゆっくり休んでもらう間もなく、君の『デビュー戦』の準備は最終段階に入っています」


神崎が軽く指を鳴らすと、音もなく近づいてきた女性アシスタントが、水滴ひとつないグラスに入った冷たいお茶と、最新のタブレット端末をテーブルに置いた。

 柑橘系のツンとした、ひどく人工的なルームフレグランスの香りが鼻を掠める。

 削りたての木の豊かな匂いも、海風の心地よいベタつきも、ここには一切存在しない。


タブレットの鮮やかな液晶画面に映し出されていたのは、今週末から始まる個展のポスター画像だった。

 中央には、航が島で身を削るようにして彫り上げたあの像——結衣の顔が、絶妙な光と影のコントラストの中で神々しく浮かび上がっている。


「おお……」


自分の手が作り出した作品が、こんなにも立派に、美しく写真に撮られていることに、航は純粋に目を輝かせた。

 プロのカメラマンが切り取ったその姿は、航自身が気づかなかったような木肌の滑らかさまで見事に捉えている。

 「結衣に見せたら、すげえって大声で笑うだろうな」と、ポケットの中のスマホの重みを意識した、まさにその直後だった。


像の横に、洗練されたフォントで添えられた大きなタイトル文字に、航の視線がピタリと止まった。


『名もなき少女の祈り』


「……あの、神崎さん。これ、名前間違ってます」


「名前? 私のギャラリーの名前ですか?」


「いえ、作品のタイトルです。『名もなき』って書いてありますけど、これ、結衣です。島でずっと一緒に育った、結衣っていう名前があって……」


航が真面目な顔で指摘すると、神崎は一瞬きょとんとした顔をし、それからフッと息を吐いて上品に笑った。


「ははは。航さん、君は本当に面白い人だ。もちろん、モデルが幼馴染の結衣さんだということは、事前にお聞きして知っていますよ。ですが、これはあくまでアート市場における『商品名』です」


「商品、名……?」


「ええ。東京の人間は、見ず知らずの『結衣さん』という個人の記録にお金は払いません。彼らが求めているのは、自分自身を投影できる都合の良い余白です。『名もなき少女』だからこそ、彼らはそこに自分の失われた青春や、理想の無垢さを見出し、熱狂する。そういうパッケージングなんですよ」


神崎の言葉はスラスラと滑らかで、一切の淀みがなかった。

 その合理的な説明は、航の頭の表面をスルスルと上滑りしていく。

 ビジネスとしては正しいのだろう。

 言っている意味はなんとなくわかる。

 けれど、航の胸の奥で、小さなささくれが深く引っかかっていた。


あの少し癖のある髪の跳ね方も、笑うとできるえくぼの深さも、少しだけ上を向いた鼻先も。

 航の手が、指先が、結衣の体温と息遣いを狂おしいほどに思い出しながら、一つ一つ木から削り出したものだ。

 それを「誰でもいい少女」に書き換えられるのは、なんだか、結衣という唯一無二の存在を、自分から見知らぬ場所へ置き去りにしてしまったような気がした。


「……でも、俺は、結衣を彫ったんです。他の誰でもない」


ぼそりと、しかし確かな抵抗の意志を込めて呟いた航の言葉。

 神崎は冷たいお茶を一口だけ飲むと、完璧なビジネススマイルを航に向けた。


「君のそういう田舎の青年らしい純朴さ、私は嫌いじゃありませんよ。ですが、ここから先はプロの世界です。君はただ、その素晴らしい手で作品を作り続ければいい。それを世界に売るための魔法は、私がかけます。君は何も心配しなくていい」


神崎はゆっくりと立ち上がり、壁一面の巨大な窓の外に広がる、灰色のビル群を見下ろした。


「君のための専用アトリエは手配済みです。湿度も温度も完璧に管理された、ノイズのない静寂に満ちた部屋を用意しました。あの島の埃っぽい小屋より、ずっと制作に集中できるはずですよ」


完璧に管理された、静寂に満ちた部屋。


航はもう一度、自分の分厚い手のひらをじっと見つめた。

 爪の間に深く染み付いた木の渋や、長年の作業でこびりついた土の汚れが、この美しすぎる部屋の中では、急に不潔で場違いなもののように思えた。


航はそっと両手をテーブルの下に隠し、強く拳を握りしめた。


ポケットの中で、ブブッとスマホが短く震えた。

 きっと、結衣からの『着いた?』という無邪気なメッセージだろう。

 だが、航はすぐにはそれを取り出すことができなかった。


自分が今、引き返せない恐ろしい場所に足を踏み入れてしまったという事実。

 それを、彼女の明るい言葉が鋭く突きつけてくるような気がして、たまらなく怖かったのだ。

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