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実家の釣り船屋が潰れそうなので笑って受付していたら、葉山の常連さんに本気で愛されました  作者: ちょこまろ


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第4話 来ない土曜日、会いたいと言えなかった

いつも来る人が、来ない。


たったそれだけで、いつもの港がこんなにも寂しい。


しかも同じ日。


澪は、ずっと目を逸らしてきた現実を突きつけられます。


燃料代。


修理費。


減り続ける予約。


潰れるかもしれない「しおかぜ丸」。


好きな場所なのに、守り方がわからない。


そして、一番会いたい人まで今日は来ない。


そんな澪のスマホが鳴ります。

 第二土曜日の朝。


 私はいつもより早く受付小屋に入った。


 電気をつける。

 予約表を開く。

 湯を沸かす。

 釣果写真用のカメラを確認する。


 いつも通りの朝。


 でも、予約表を見た瞬間、手が止まった。


 黒瀬航平の名前がない。


 何度見ても、ない。


 第二土曜日。

 朝五時半。

 一名。


 いつもの欄が、空白だった。


「……そっか」


 私は小さく呟いた。


 別に、毎回必ず来る義務があるわけじゃない。

 黒瀬さんはお客さんだ。

 仕事もある。

 予定だってある。


 来ない日があって当然だ。


 それなのに、港が少し静かに感じた。


 父が受付小屋をのぞく。


「澪、氷出しとけ」


「うん」


「どうした」


「何が?」


「顔がぼんやりしてる」


「してない」


「寝不足か」


「大丈夫」


 私は笑って、氷の準備をした。


 今日の予約は四名。

 台風が近づいている影響で、風が少し強い。

 出船できるかどうか、朝の判断になっていた。


 父は空と海を何度も見ていた。


「午前は出られる。午後は無理だな」


「午後の予約、二組あるよ」


「キャンセル連絡しとけ」


「わかった」


 私は電話をかけた。


 申し訳ありません。

 午後便は風の影響で中止になります。

 安全のためです。

 また別日でご検討ください。


 何度も頭を下げる。

 電話なのに、つい頭を下げてしまう。


 一組はすぐ納得してくれた。

 もう一組は、少し不満そうだった。


「せっかく予定空けたのに」

「すみません。海況のことなので」

「他の船は出るって聞きましたけど」

「船の判断にもよりますので」

「じゃあもういいです」


 電話が切れた後、私はしばらく受話器を見ていた。


 仕方ない。

 安全第一だ。


 でも、キャンセルは痛い。


 午後の売上が消える。

 それだけじゃない。

 不満に思ったお客さんは、たぶんもう来ない。


 午前船を見送った後、受付小屋に戻ると、父が帳簿を見ていた。


 珍しい。


 父は私の前であまり帳簿を開かない。

 心配させたくないのだと思う。


「お父さん」


「見るな」


「見えたよ」


「じゃあ忘れろ」


「無理」


 私はカウンターの向こうから帳簿をのぞいた。


 燃料代。

 修理費。

 保険。

 港の使用料。

 細かい支払いが並んでいる。


 売上の欄は、細く寂しい。


「船、修理必要なの?」


「大したことねえ」


「いくら?」


「お前には関係ない」


「関係あるよ」


 父は帳簿を閉じた。


「俺の船だ」


「うちの船でしょ」


「お前まで、この船に縛られなくていい」


 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。


 父はたぶん、本気で突き放したわけではない。

 私に背負わせたくなくて、そう言ったのだ。


 でも、言われた側は傷つく。


「縛られてるなんて、言ってない」


「この商売はきつい。お前が一生背負うことはねえ」


「だからって、私には関係ないみたいに言わないでよ」


「思ってるだろ。ここから逃げたいって」


 私は言い返せなかった。


 思っていない、と言えば嘘になる。


 この島で、この船で、この受付小屋で。

 私はずっと同じ場所にいる。


 友達は結婚したり、転職したり、東京へ行ったりした。

 私は城ヶ島で、予約表を見ている。


 嫌いじゃない。

 この場所が好きだ。


 でも、好きだから苦しい。


「お父さんは、畳みたいの?」


 父は顔を上げた。


「しおかぜ丸、やめたいの?」


「そんなこと言ってねえ」


「でも、私には関係ないって言うじゃん」


「澪」


「私だって、守りたいと思ってるよ」


 声が震えた。


「お母さんがいた頃から、ここにいた。小さい頃、受付の下で絵を描いてた。おじいちゃんが魚の名前を教えてくれた。お父さんが初めて船に乗せてくれた日も覚えてる」


 言葉が止まらなくなった。


「でも、どうしたらいいのかわからない。予約は減るし、ホームページは古いし、修理代はかかるし。私がSNS更新したって、全然届かない」


 父は黙っていた。


「好きだけじゃ、守れないんだよ」


 言ってしまった。


 受付小屋の中が、しんとした。


 外では風が強くなっている。

 窓が小さく鳴った。


 父はゆっくり息を吐いた。


「……悪かった」


 父の声は、いつもより低かった。


「お前に、そんな顔させるつもりじゃなかった」


 私は急に涙が出そうになり、顔をそらした。


「午前船、戻るまでに掃除してくる」


 それだけ言って、受付小屋を出た。


 港の端まで歩いた。

 風が強い。

 潮が頬に当たる。


 私は岸壁に座り込んだ。


 泣きたくなかった。

 でも、涙は勝手に出てきた。


 好きだけじゃ守れない。


 その言葉が、自分に突き刺さっていた。


 私はしおかぜ丸が好きだ。

 父が好きだ。

 城ヶ島の海が好きだ。


 でも、好きなものを守る力が、私には足りない。


 そして、今日は黒瀬さんが来ない。


 たったそれだけのことまで、苦しい。


 会いたい。


 思ってしまった瞬間、涙がまた落ちた。


 黒瀬さんに会いたい。


 お客さんなのに。

 隔週の常連さんなのに。

 仕事を手伝ってくれているだけの人なのに。


 私は、あの低い声で「澪さん」と呼ばれたかった。


 その時、スマホが震えた。


 画面を見ると、知らない番号ではなかった。


 黒瀬さん。


 私は慌てて涙を拭いた。


「はい、相沢です」


「黒瀬です」


 低い声が耳に届いた瞬間、また泣きそうになった。


「お疲れさまです」


「今、大丈夫ですか」


「はい。どうしました?」


「今日、行けなくてすみません」


「え?」


「予約を入れていなかったので、連絡するのも変かと思ったんですが」


 私は言葉に詰まった。


「いえ、そんな。黒瀬さんが謝ることじゃ」


「仕事で急ぎの修正が入って、朝までかかりました」


「そうだったんですね」


「でも、気になって」


「何がですか?」


「澪さんが、心配しているかもしれないと思って」


 名前で呼ばれた。


 電話越しに。

 優しい声で。


 それだけで、涙がこぼれた。


 困る。

 そんなことを言われたら、困る。


「心配なんて、してません」


 嘘だった。


 声でわかったのかもしれない。

 電話の向こうで、黒瀬さんが黙った。


「澪さん」


「はい」


「泣いてますか」


「泣いてません」


「そうですか」


「はい」


「今、どこですか」


「港です」


「受付ではなく?」


「港の端です」


「風が強いでしょう」


「少し」


「迎えに行きます」


「え?」


 私は立ち上がった。


「来なくていいです。葉山からですよね? 遠いですし、仕事も」


「終わりました」


「でも」


「澪さん」


 黒瀬さんの声が、少しだけ強くなった。


「会いに行ってもいいですか」


 心臓が止まりそうになった。


 迎えに行きます、ではなく。

 様子を見に行きます、でもなく。


 会いに行ってもいいですか。


 それはもう、仕事の言葉ではなかった。


 私はスマホを握りしめた。


「……はい」


 声が震えた。


「待ってます」


 電話が切れた後、私はしばらく海を見ていた。


 風は強い。

 波も少し高い。


 午前船は予定より早く戻ることになった。


 父と一緒にお客さんを迎え、会計をし、釣果写真を撮った。

 体は動く。

 仕事はできる。


 でも、心はずっと駐車場の方を気にしていた。


 夕方近く、白いSUVが入ってきた。


 黒瀬さんが降りてくる。


 釣り道具は持っていなかった。

 いつもの釣り用ジャケットではなく、紺色のシャツに薄い上着。

 仕事帰りのような姿だった。


「黒瀬さん」


 私は受付小屋の前に出た。


 彼はまっすぐ歩いてきて、私の顔を見た。


「大丈夫ではなさそうですね」


「大丈夫です」


「澪さんの大丈夫は、あまり信用できません」


 名前で呼ばれるたびに、胸が痛い。


「今日、父と少し話して」


「はい」


「船の修理費とか、予約のこととか。いろいろ考えたら、わからなくなって」


 黒瀬さんは黙って聞いていた。


「私、この船も父も好きなんです。でも、好きだけじゃ守れないんです」


 昼間と同じ言葉だった。


 でも、今度は父ではなく、黒瀬さんに向けて言っていた。


「何をしたらいいのか、何から始めればいいのか、わからない」


「はい」


「黒瀬さんに手伝ってもらっても、うまくいく保証なんてないし」


「ありません」


 はっきり言われて、私は少し驚いた。


 黒瀬さんは続けた。


「サイトを直しても、すぐに予約が増えるとは限りません。天気にも左右される。燃料代も上がる。船の修理も必要です」


「……ですよね」


「でも、何もしなければ、もっと苦しくなると思います」


 その通りだった。


 黒瀬さんは一歩近づいた。


「一人で守ろうとしなくていいです」


 胸が震えた。


「俺も考えます」


「でも、黒瀬さんには関係ないのに」


「あります」


 彼はすぐに言った。


「俺は、この船が好きです」


 風の音が、一瞬遠くなった気がした。


「船長の声も、港の空気も、受付にいるあなたも」


 黒瀬さんはそこで少し言葉を切った。


「全部、なくなってほしくない」


 私は、もう笑えなかった。


 涙が落ちた。


「黒瀬さん」


「はい」


「私、助けてほしいんじゃないんです」


「はい」


「一緒にいてほしいんです」


 言った瞬間、自分で驚いた。


 これはもう、仕事の話ではなかった。


 実家の釣り船屋を守る話でもある。

 でも、それだけじゃない。


 私はこの人に、そばにいてほしい。


 黒瀬さんの表情が、少しだけ揺れた。


 彼はゆっくり息を吐いた。


「それは」


「すみません。今のは忘れてください」


「忘れられません」


 低い声だった。


「忘れたくないです」


 心臓が、大きく鳴った。


 黒瀬さんは、それ以上踏み込まなかった。

 私に触れもしなかった。


 ただ、風の強い港で、私の前に立っていた。


 その距離が、今はとても優しかった。


 受付小屋の方から、父の声がした。


「澪、黒瀬さんにお茶出せ」


 いつもの大声。

 いつもの港。

 いつもの父。


 私は涙を拭いて、少し笑った。


「父が、お茶を出せって」


「怒鳴っていますね」


「通常運転です」


「安心しました」


 黒瀬さんが、ほんの少し笑う。


 私も笑った。


 涙が残ったまま、笑った。


 その日の帰り際、黒瀬さんは車に乗る前に振り返った。


「澪さん」


「はい」


「次は、予約して来ます」


「釣りにですか」


「それもあります」


「それ以外は?」


 自分で聞いて、胸が鳴った。


 黒瀬さんは、少しだけ困ったように笑った。


「あなたに会いに」


 私は何も言えなかった。


 ただ、頷くことしかできなかった。


 白いSUVが港を出ていく。


 その後ろ姿を見送りながら、私は思った。


 私はこの人に助けられたいんじゃない。


 この人と、一緒に歩きたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「会いに行ってもいいですか」


黒瀬が葉山から城ヶ島へ向かった理由は、釣りではありませんでした。


仕事でもありません。


澪に会うためです。


ずっと「大丈夫」と笑ってきた澪。


そんな彼女がようやく、


怖い。


苦しい。


守りたい。


会いたい。


自分の本当の気持ちから逃げなくなりました。


そして黒瀬もまた、外からすべてを解決してくれる“救世主”ではありません。


澪が欲しかったのは、助けてもらうことではない。


――この人と、一緒に歩くこと。


次話、最終話。


新しくなった「しおかぜ丸」のホームページが、ついに公開されます。


果たして、予約は来るのか。


そして。


隔週土曜に始まった二人の関係にも、答えが出ます。

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