最終話 城ヶ島の朝焼けと、二人で見る葉山の海
最終話です。
「好きなだけでは、守れない」
そう泣いた澪。
けれど、好きだからこそ変えられるものもありました。
新しくなった「しおかぜ丸」のホームページ。
そこに映っているのは、
城ヶ島の朝焼け。
父の船。
笑っているお客さん。
そして、受付に立つ澪。
黒瀬がずっと見ていた、この場所の本当の魅力です。
そのサイトから――初めての予約が入ります。
そしてもうひとつ。
澪と黒瀬も、自分たちの未来を選びます。
しおかぜ丸の新しいホームページが公開されたのは、台風が過ぎた翌週だった。
トップには、朝焼けの城ヶ島。
父の船。
笑って魚を持つお客さん。
受付に立つ私の後ろ姿。
初心者向けページには、服装、持ち物、船酔い対策、集合場所、女性一人で来る場合の案内が丁寧に書かれている。
予約は、電話に加えて仮予約フォームを作った。
最終確認は私が電話する形にしたので、父もなんとか納得した。
「ネットで船が動くわけじゃねえからな」
父は最後までそう言っていた。
でも、公開初日の夜。
仮予約フォームから初めての問い合わせが入った。
女性二名。
釣り初心者。
アジ釣り希望。
貸し竿あり。
私は画面を見たまま、しばらく固まった。
「お父さん」
「なんだ」
「予約、来た」
「あ?」
「フォームから。新規のお客さん」
父は老眼鏡をかけて、画面をのぞき込んだ。
「電話じゃねえのか」
「フォームだよ」
「本当に来るのか」
「これから電話して確認する」
「怪しいやつじゃねえだろうな」
「女性二人だよ」
「女性でも怪しいやつはいる」
「お父さん、ネットを何だと思ってるの」
文句を言いながらも、父の口元は少し緩んでいた。
私はすぐに電話をかけた。
相手の女性は、少し緊張した声で言った。
「ホームページを見て、初心者でも大丈夫そうだったので」
その一言で、胸がいっぱいになった。
届いた。
黒瀬さんが言っていたことは、本当だった。
この船の良さは、届いていなかっただけだ。
届く形にすれば、来てくれる人がいる。
それから少しずつ、問い合わせが増えた。
親子連れ。
女性一人。
若いカップル。
会社の同僚同士。
急に満席続きになったわけではない。
売上が一気に回復したわけでもない。
でも、予約表の空白が少しずつ埋まっていく。
それだけで、受付小屋の空気が変わった。
父も変わった。
相変わらず声は大きい。
説明は短い。
愛想もない。
でも、初心者のお客さんが来ると、前より少しだけ言葉を増やすようになった。
「酔いそうなら早めに言え」
「竿は立てすぎるな」
「魚がかかったら慌てるな。魚の方が慌ててる」
最後の一言で、お客さんが笑った。
私はカメラを構えながら、少し泣きそうになった。
第四土曜日。
黒瀬さんが来る日。
私は朝から何度も予約表を見た。
黒瀬航平。
午前船。
一名。
その名前の横に、父が鉛筆で小さく丸をつけていた。
「お父さん、これ何?」
「別に」
「黒瀬さんだけ丸ついてる」
「サイトの件、礼を言う」
「お父さんが?」
「悪いか」
「悪くないけど、ちゃんと言えるの?」
「言える」
「怒鳴らないでね」
「怒鳴らねえ」
もう怒鳴っている。
私は笑いながら、受付の準備をした。
駐車場に白いSUVが入ってくる。
黒瀬さんが降りてきた。
今日は釣り用のジャケット。
でも、私にはもう、ただの釣り客には見えなかった。
葉山の家で名前を呼んだ人。
電話越しに「会いに行ってもいいですか」と言った人。
港で、私の涙を見ても触れずに待ってくれた人。
黒瀬さんが受付小屋に来る。
「おはようございます」
「おはようございます、黒瀬さん」
言い慣れた呼び方なのに、少しだけ距離を感じた。
黒瀬さんも、何かを感じたように私を見る。
「澪さん」
低い声で名前を呼ばれる。
それだけで、朝の冷たい空気が甘くなる。
「はい」
「今日は、少し元気そうですね」
「予約が増えたので」
「よかったです」
「黒瀬さんのおかげです」
「澪さんが、元々やっていたことを見える形にしただけです」
「またそうやって」
「本当です」
彼はまっすぐ言った。
「この船を守っていたのは、澪さんです」
朝の受付小屋で、そんなことを言われたら困る。
私は予約表に視線を落とした。
「出船、六時です」
「はい」
「今日は釣れますよ」
「澪さんが言うなら」
「私、魚とは話せませんけど」
「でも、当たりそうです」
黒瀬さんは船へ向かった。
その背中を見ながら、私は思った。
好きだ。
もう、ごまかせなかった。
私は黒瀬航平さんが好きだ。
無口で、静かで、少し寂しそうで。
でも、人の頑張りをちゃんと見つけてくれる人。
私が笑ってごまかしていた不安に気づき、無理に踏み込まず、横に立ってくれた人。
午前船は、よく釣れた。
アジが上がり、初心者の女性客が歓声を上げ、父が珍しく笑った。
「おお、いいじゃねえか。初めてでそれなら上等だ」
お客さんが嬉しそうに魚を掲げる。
私は写真を撮る。
その後ろで、黒瀬さんが静かに竿を置いていた。
自分の釣果より、周りを見ている。
本当に、この人らしい。
船が戻った後、会計と片づけで慌ただしく時間が過ぎた。
最後に黒瀬さんが受付に来た。
「今日もありがとうございました」
「こちらこそ。釣れました?」
「少し」
「また写真撮らないんですか」
「今日は主役が他にいましたから」
「初心者の方?」
「はい。いい顔でした」
私は笑った。
「黒瀬さん、やっぱり釣果より人を見てますよね」
「そうかもしれません」
彼はカウンターに手を置き、少し黙った。
いつもなら、ここで会計を済ませて帰る。
でも今日は、帰らなかった。
「澪さん」
「はい」
「少し、歩きませんか」
心臓が跳ねた。
父を見ると、わざとらしく背中を向けて船の片づけをしていた。
たぶん、聞こえている。
絶対に聞こえている。
「少しだけなら」
私は受付小屋を出た。
港の端まで、二人で歩いた。
昼の光が海に落ちている。
朝焼けとは違う、明るい海。
風は穏やかだった。
黒瀬さんは岸壁のそばで立ち止まった。
「最初は、釣りに来ているつもりでした」
彼は海を見たまま言った。
「はい」
「葉山の家は静かで、仕事には向いていました。でも、静かすぎて、時々息が詰まることがあった」
私は黙って聞いた。
「城ヶ島に来ると、人の声がしました。船長の声も、お客さんの声も、澪さんの声も」
「父の声、大きいですよね」
「大きいです」
「そこは否定しないんですね」
「事実なので」
少し笑った。
その笑いが、緊張をやわらげてくれた。
黒瀬さんは私を見た。
「でも、いつからか、釣りだけではなくなりました」
胸が、静かに高鳴る。
「澪さんに会いに来ていました」
潮の音がした。
遠くで、鳥が鳴いた。
私は返事をしなければと思った。
でも、言葉がすぐに出てこなかった。
黒瀬さんは続けた。
「あなたが受付で笑っているのを見ると、安心しました。でも、その笑顔の奥で無理をしているのを見ると、放っておけませんでした」
「黒瀬さん」
「仕事として手伝いたいと思ったのは本当です。でも、それだけじゃありません」
彼は、少しだけ不器用に息を吸った。
「あなたが好きです」
世界が、静かになった。
父の声も。
港の音も。
遠くの車の音も。
全部、少し遠くなった。
私は黒瀬さんを見上げた。
四十歳の、大人の男。
無口で、静かで、葉山の海が見える家で一人で仕事をしている人。
でも今、私の前で、少し緊張している。
そのことが、たまらなく愛おしかった。
「私も」
声が震えた。
「私も、黒瀬さんが来る土曜日を待っていました」
黒瀬さんの目が、わずかに見開かれた。
「予約表に名前があると、少し嬉しくて。来ない日は、港が寂しく感じて」
言いながら、涙がにじんだ。
「ただのお客さんだって、ずっと思おうとしてました。でも、無理でした」
私は笑った。
「私も、黒瀬さんが好きです」
黒瀬さんは、すぐには動かなかった。
触れていいのか迷っているようだった。
その慎重さが、彼らしくて、また泣きそうになった。
だから私は、自分から一歩近づいた。
「手、つないでもいいですか」
言った瞬間、顔が熱くなる。
黒瀬さんは少し驚いた後、ゆっくり手を差し出した。
「はい」
大きな手だった。
釣り竿を持つ手。
パソコンでサイトを作る手。
私の実家を、無理に変えず、届く形に整えてくれた手。
その手を握った時、私はようやく息ができた気がした。
「黒瀬さん」
「はい」
「私、たぶん面倒くさいです」
黒瀬さんは私を見る。
「実家のことも、父のことも、船のことも、簡単には切り離せません」
「知っています」
「城ヶ島から急に離れることも、たぶんできません」
「はい」
「仕事も、家族も、港も、全部ついてきます」
「わかっています」
「それでもいいんですか」
怖かった。
好きだと言われたことは嬉しい。
でも、私の恋には、私だけではなく、この港がついてくる。
古い受付小屋。
頑固な父。
修理の必要な船。
天気に左右される仕事。
潮の匂いが染みついた暮らし。
それは、きれいな恋だけではない。
けれど黒瀬さんは、迷わなかった。
「それごと好きになりました」
胸の奥で、何かがほどけた。
「澪さんだけを、どこかから切り取って好きになったわけじゃありません」
彼は静かに言った。
「受付で笑っているあなたも、船長に言い返すあなたも、港の端で泣いていたあなたも、この船を守りたいと苦しんでいるあなたも。全部、見ていました」
涙がこぼれた。
「だから、簡単じゃなくていいです」
「黒瀬さん」
「俺も、葉山の家から少しずつ出ていきます。澪さんのいる海へ」
その言葉が、まっすぐ胸に届いた。
私は手を握り返した。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
黒瀬さんが静かに言った。
「あなたを好きになってよかったと思っています」
そんな言い方をされたら、もうだめだった。
涙が止まらなくなった。
黒瀬さんが静かに言った。
「澪さん」
「はい」
「もう一度、呼んでもいいですか」
「何をですか」
「名前を」
「もう呼んでます」
「さん、なしで」
言われた瞬間、顔が一気に熱くなった。
「黒瀬さんが、ですか」
「嫌なら、やめます」
「嫌じゃないです」
また反射で答えてしまった。
黒瀬さんは、ひどく大事なものを呼ぶみたいに、静かに言った。
「澪」
たった二文字なのに、胸の奥がほどけていく。
「はい」
返事をした私の声は、自分でも驚くくらい甘かった。
受付小屋の方から、父の声が飛んできた。
「澪! 茶!」
私はびくっとした。
「今ですか」
「通常運転ですね」
「はい。最悪のタイミングで通常運転です」
黒瀬さんが小さく笑う。
私も笑った。
涙が残ったまま、笑った。
数日後、私は葉山の黒瀬さんの家を訪れた。
前に来た時と同じ坂道。
白い壁の家。
ローズマリーとオリーブの鉢。
大きな窓の向こうに見える海。
でも、今日は前と少し違って見えた。
静かすぎる家ではなかった。
玄関を開けた黒瀬さんが、少し照れたように言った。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
「今日は仕事ではありません」
「はい」
「釣りでもありません」
「はい」
「俺に会いに来る日です」
そんなことを真面目な顔で言うから、私は困ってしまった。
「黒瀬さん」
「はい」
「そういうの、急に言うのずるいです」
「すみません」
「謝らないでください」
リビングに入ると、窓の向こうに海が広がっていた。
以前は、その海が少し寂しく見えた。
きれいで、静かで、誰も踏み込めない海。
でも今日は違う。
黒瀬さんが隣にいる。
コーヒーの香りがする。
テーブルには、私が城ヶ島から持ってきた小さな干物の包みがある。
生活の気配が、少し増えていた。
「同じ海なのに、やっぱり違いますね」
私は窓の外を見ながら言った。
「城ヶ島の海と?」
「はい。うちの海は、もっと賑やかです。船の音とか、お客さんの声とか、父の怒鳴り声とか」
「こっちは静かすぎるでしょう」
「前はそう思いました」
「今は?」
私は少し考えた。
「今は、二人で見るなら、静かな海もいいなって思います」
黒瀬さんは黙った。
そして、とても小さな声で言った。
「それは、困りますね」
「どうしてですか」
「嬉しすぎて、仕事にならなくなります」
私は笑った。
窓の外で、海が光っていた。
城ヶ島の海は、私の帰る場所。
父がいて、船があって、受付小屋があって、私が守りたい生活がある場所。
葉山の海は、黒瀬さんが一人で見ていた海。
静かで、少し寂しくて、でも今は、二人で見てもいい海になった。
私はまだ、実家の釣り船屋を完全に救えたわけじゃない。
予約はこれからだ。
船の修理費も必要だ。
父は相変わらず頑固だし、天気に振り回される日もある。
でも、もう一人ではない。
隔週土曜に来る常連さんだった人が、今は私の隣にいる。
黒瀬さんが、そっと私の手に触れた。
「澪」
もう一度、名前を呼ばれる。
胸がきゅっと縮む。
「はい」
「これからも、城ヶ島に行っていいですか」
「釣りにですか?」
「それもあります」
「それ以外は?」
「あなたに会いに」
私は窓の外を見たまま、笑った。
「じゃあ、予約表に書いておきます」
「何と?」
「黒瀬航平、一名。目的、釣りと澪」
「それは船長に見られるとまずいですね」
「たぶん怒鳴ります」
「でしょうね」
「でも、大丈夫です」
私は彼の手を握り返した。
「父も、黒瀬さんのこと、少し認めてますから」
「少しですか」
「かなり、かもしれません」
「それは光栄です」
葉山の海が、午後の光を受けてきらきらと揺れていた。
私はその海を見ながら、思った。
好きな場所を守ること。
好きな人と生きること。
どちらか一つを選ばなくてもいいのかもしれない。
城ヶ島の朝焼けも。
葉山の静かな海も。
これからは、どちらも私の物語になる。
黒瀬さんが隣で言った。
「次の第二土曜日も、予約していいですか」
私は笑った。
「はい。お待ちしています、航平さん」
黒瀬さん――ううん、航平さんは、一瞬だけ目を見開いた。
「今」
「名前で呼びました」
「もう一度、お願いします」
「予約表に書いておきます」
「それは困ります」
「どうしてですか」
「毎回、受付で照れます」
私は笑った。
隔週土曜。
無口な常連さんが来る。
でも今は、ただの常連さんではない。
私が名前で呼びたい人が、城ヶ島の海へ来る日だ。
― 完 ―
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
「初めての方も、女性おひとりでも」
黒瀬が形にしてくれた言葉を見て、新しいお客さんが「しおかぜ丸」を見つけてくれました。
澪がずっと守ってきたものには、最初から価値がなかったわけではありません。
ただ――届いていなかった。
それは、澪自身も同じだったのだと思います。
毎朝受付で笑って。
父を支えて。
初めてのお客さんの不安を拾って。
苦しくても「大丈夫」と言ってきた澪。
そんな彼女を、黒瀬だけはずっと見ていました。
そして黒瀬もまた、静かな葉山の家に閉じこもるのではなく、人の声がする城ヶ島へ少しずつ歩き出します。
好きな場所を守ること。
好きな人と生きること。
どちらかを諦めなくてもいい。
城ヶ島の朝焼けも。
葉山の静かな海も。
二人で選べば、どちらもこれからの人生になる。
最後に。
「次の第二土曜日も、予約していいですか」
最初は釣りのためだった予約。
でも今は、もう違います。
隔週土曜。
無口な常連さんが来る日。
そしてこれからは――
澪が、大切な人を待つ日です。
最後まで二人を見守ってくださり、本当にありがとうございました。




