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実家の釣り船屋が潰れそうなので笑って受付していたら、葉山の常連さんに本気で愛されました  作者: ちょこまろ


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5/5

最終話 城ヶ島の朝焼けと、二人で見る葉山の海

最終話です。


「好きなだけでは、守れない」


そう泣いた澪。


けれど、好きだからこそ変えられるものもありました。


新しくなった「しおかぜ丸」のホームページ。


そこに映っているのは、


城ヶ島の朝焼け。


父の船。


笑っているお客さん。


そして、受付に立つ澪。


黒瀬がずっと見ていた、この場所の本当の魅力です。


そのサイトから――初めての予約が入ります。


そしてもうひとつ。


澪と黒瀬も、自分たちの未来を選びます。

 しおかぜ丸の新しいホームページが公開されたのは、台風が過ぎた翌週だった。


 トップには、朝焼けの城ヶ島。

 父の船。

 笑って魚を持つお客さん。

 受付に立つ私の後ろ姿。


 初心者向けページには、服装、持ち物、船酔い対策、集合場所、女性一人で来る場合の案内が丁寧に書かれている。


 予約は、電話に加えて仮予約フォームを作った。

 最終確認は私が電話する形にしたので、父もなんとか納得した。


「ネットで船が動くわけじゃねえからな」


 父は最後までそう言っていた。


 でも、公開初日の夜。

 仮予約フォームから初めての問い合わせが入った。


 女性二名。

 釣り初心者。

 アジ釣り希望。

 貸し竿あり。


 私は画面を見たまま、しばらく固まった。


「お父さん」


「なんだ」


「予約、来た」


「あ?」


「フォームから。新規のお客さん」


 父は老眼鏡をかけて、画面をのぞき込んだ。


「電話じゃねえのか」


「フォームだよ」


「本当に来るのか」


「これから電話して確認する」


「怪しいやつじゃねえだろうな」


「女性二人だよ」


「女性でも怪しいやつはいる」


「お父さん、ネットを何だと思ってるの」


 文句を言いながらも、父の口元は少し緩んでいた。


 私はすぐに電話をかけた。


 相手の女性は、少し緊張した声で言った。


「ホームページを見て、初心者でも大丈夫そうだったので」


 その一言で、胸がいっぱいになった。


 届いた。


 黒瀬さんが言っていたことは、本当だった。


 この船の良さは、届いていなかっただけだ。

 届く形にすれば、来てくれる人がいる。


 それから少しずつ、問い合わせが増えた。


 親子連れ。

 女性一人。

 若いカップル。

 会社の同僚同士。


 急に満席続きになったわけではない。

 売上が一気に回復したわけでもない。


 でも、予約表の空白が少しずつ埋まっていく。


 それだけで、受付小屋の空気が変わった。


 父も変わった。


 相変わらず声は大きい。

 説明は短い。

 愛想もない。


 でも、初心者のお客さんが来ると、前より少しだけ言葉を増やすようになった。


「酔いそうなら早めに言え」

「竿は立てすぎるな」

「魚がかかったら慌てるな。魚の方が慌ててる」


 最後の一言で、お客さんが笑った。


 私はカメラを構えながら、少し泣きそうになった。


 第四土曜日。


 黒瀬さんが来る日。


 私は朝から何度も予約表を見た。


 黒瀬航平。

 午前船。

 一名。


 その名前の横に、父が鉛筆で小さく丸をつけていた。


「お父さん、これ何?」


「別に」


「黒瀬さんだけ丸ついてる」


「サイトの件、礼を言う」


「お父さんが?」


「悪いか」


「悪くないけど、ちゃんと言えるの?」


「言える」


「怒鳴らないでね」


「怒鳴らねえ」


 もう怒鳴っている。


 私は笑いながら、受付の準備をした。


 駐車場に白いSUVが入ってくる。


 黒瀬さんが降りてきた。


 今日は釣り用のジャケット。

 でも、私にはもう、ただの釣り客には見えなかった。


 葉山の家で名前を呼んだ人。

 電話越しに「会いに行ってもいいですか」と言った人。

 港で、私の涙を見ても触れずに待ってくれた人。


 黒瀬さんが受付小屋に来る。


「おはようございます」


「おはようございます、黒瀬さん」


 言い慣れた呼び方なのに、少しだけ距離を感じた。


 黒瀬さんも、何かを感じたように私を見る。


「澪さん」


 低い声で名前を呼ばれる。


 それだけで、朝の冷たい空気が甘くなる。


「はい」


「今日は、少し元気そうですね」


「予約が増えたので」


「よかったです」


「黒瀬さんのおかげです」


「澪さんが、元々やっていたことを見える形にしただけです」


「またそうやって」


「本当です」


 彼はまっすぐ言った。


「この船を守っていたのは、澪さんです」


 朝の受付小屋で、そんなことを言われたら困る。


 私は予約表に視線を落とした。


「出船、六時です」


「はい」


「今日は釣れますよ」


「澪さんが言うなら」


「私、魚とは話せませんけど」


「でも、当たりそうです」


 黒瀬さんは船へ向かった。


 その背中を見ながら、私は思った。


 好きだ。


 もう、ごまかせなかった。


 私は黒瀬航平さんが好きだ。


 無口で、静かで、少し寂しそうで。

 でも、人の頑張りをちゃんと見つけてくれる人。


 私が笑ってごまかしていた不安に気づき、無理に踏み込まず、横に立ってくれた人。


 午前船は、よく釣れた。


 アジが上がり、初心者の女性客が歓声を上げ、父が珍しく笑った。


「おお、いいじゃねえか。初めてでそれなら上等だ」


 お客さんが嬉しそうに魚を掲げる。

 私は写真を撮る。


 その後ろで、黒瀬さんが静かに竿を置いていた。


 自分の釣果より、周りを見ている。


 本当に、この人らしい。


 船が戻った後、会計と片づけで慌ただしく時間が過ぎた。


 最後に黒瀬さんが受付に来た。


「今日もありがとうございました」


「こちらこそ。釣れました?」


「少し」


「また写真撮らないんですか」


「今日は主役が他にいましたから」


「初心者の方?」


「はい。いい顔でした」


 私は笑った。


「黒瀬さん、やっぱり釣果より人を見てますよね」


「そうかもしれません」


 彼はカウンターに手を置き、少し黙った。


 いつもなら、ここで会計を済ませて帰る。

 でも今日は、帰らなかった。


「澪さん」


「はい」


「少し、歩きませんか」


 心臓が跳ねた。


 父を見ると、わざとらしく背中を向けて船の片づけをしていた。

 たぶん、聞こえている。

 絶対に聞こえている。


「少しだけなら」


 私は受付小屋を出た。


 港の端まで、二人で歩いた。


 昼の光が海に落ちている。

 朝焼けとは違う、明るい海。

 風は穏やかだった。


 黒瀬さんは岸壁のそばで立ち止まった。


「最初は、釣りに来ているつもりでした」


 彼は海を見たまま言った。


「はい」


「葉山の家は静かで、仕事には向いていました。でも、静かすぎて、時々息が詰まることがあった」


 私は黙って聞いた。


「城ヶ島に来ると、人の声がしました。船長の声も、お客さんの声も、澪さんの声も」


「父の声、大きいですよね」


「大きいです」


「そこは否定しないんですね」


「事実なので」


 少し笑った。


 その笑いが、緊張をやわらげてくれた。


 黒瀬さんは私を見た。


「でも、いつからか、釣りだけではなくなりました」


 胸が、静かに高鳴る。


「澪さんに会いに来ていました」


 潮の音がした。


 遠くで、鳥が鳴いた。


 私は返事をしなければと思った。

 でも、言葉がすぐに出てこなかった。


 黒瀬さんは続けた。


「あなたが受付で笑っているのを見ると、安心しました。でも、その笑顔の奥で無理をしているのを見ると、放っておけませんでした」


「黒瀬さん」


「仕事として手伝いたいと思ったのは本当です。でも、それだけじゃありません」


 彼は、少しだけ不器用に息を吸った。


「あなたが好きです」


 世界が、静かになった。


 父の声も。

 港の音も。

 遠くの車の音も。


 全部、少し遠くなった。


 私は黒瀬さんを見上げた。


 四十歳の、大人の男。

 無口で、静かで、葉山の海が見える家で一人で仕事をしている人。


 でも今、私の前で、少し緊張している。


 そのことが、たまらなく愛おしかった。


「私も」


 声が震えた。


「私も、黒瀬さんが来る土曜日を待っていました」


 黒瀬さんの目が、わずかに見開かれた。


「予約表に名前があると、少し嬉しくて。来ない日は、港が寂しく感じて」


 言いながら、涙がにじんだ。


「ただのお客さんだって、ずっと思おうとしてました。でも、無理でした」


 私は笑った。


「私も、黒瀬さんが好きです」


 黒瀬さんは、すぐには動かなかった。


 触れていいのか迷っているようだった。


 その慎重さが、彼らしくて、また泣きそうになった。


 だから私は、自分から一歩近づいた。


「手、つないでもいいですか」


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 黒瀬さんは少し驚いた後、ゆっくり手を差し出した。


「はい」


 大きな手だった。

 釣り竿を持つ手。

 パソコンでサイトを作る手。

 私の実家を、無理に変えず、届く形に整えてくれた手。


 その手を握った時、私はようやく息ができた気がした。


「黒瀬さん」


「はい」


「私、たぶん面倒くさいです」


 黒瀬さんは私を見る。


「実家のことも、父のことも、船のことも、簡単には切り離せません」


「知っています」


「城ヶ島から急に離れることも、たぶんできません」


「はい」


「仕事も、家族も、港も、全部ついてきます」


「わかっています」


「それでもいいんですか」


 怖かった。


 好きだと言われたことは嬉しい。

 でも、私の恋には、私だけではなく、この港がついてくる。


 古い受付小屋。

 頑固な父。

 修理の必要な船。

 天気に左右される仕事。

 潮の匂いが染みついた暮らし。


 それは、きれいな恋だけではない。


 けれど黒瀬さんは、迷わなかった。


「それごと好きになりました」


 胸の奥で、何かがほどけた。


「澪さんだけを、どこかから切り取って好きになったわけじゃありません」


 彼は静かに言った。


「受付で笑っているあなたも、船長に言い返すあなたも、港の端で泣いていたあなたも、この船を守りたいと苦しんでいるあなたも。全部、見ていました」


 涙がこぼれた。


「だから、簡単じゃなくていいです」


「黒瀬さん」


「俺も、葉山の家から少しずつ出ていきます。澪さんのいる海へ」


 その言葉が、まっすぐ胸に届いた。


 私は手を握り返した。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


 黒瀬さんが静かに言った。


「あなたを好きになってよかったと思っています」


 そんな言い方をされたら、もうだめだった。


 涙が止まらなくなった。


 黒瀬さんが静かに言った。


「澪さん」


「はい」


「もう一度、呼んでもいいですか」


「何をですか」


「名前を」


「もう呼んでます」


「さん、なしで」


 言われた瞬間、顔が一気に熱くなった。


「黒瀬さんが、ですか」


「嫌なら、やめます」


「嫌じゃないです」


 また反射で答えてしまった。


 黒瀬さんは、ひどく大事なものを呼ぶみたいに、静かに言った。


「澪」


 たった二文字なのに、胸の奥がほどけていく。


「はい」


 返事をした私の声は、自分でも驚くくらい甘かった。


 受付小屋の方から、父の声が飛んできた。


「澪! 茶!」


 私はびくっとした。


「今ですか」


「通常運転ですね」


「はい。最悪のタイミングで通常運転です」


 黒瀬さんが小さく笑う。


 私も笑った。


 涙が残ったまま、笑った。


 数日後、私は葉山の黒瀬さんの家を訪れた。


 前に来た時と同じ坂道。

 白い壁の家。

 ローズマリーとオリーブの鉢。

 大きな窓の向こうに見える海。


 でも、今日は前と少し違って見えた。


 静かすぎる家ではなかった。


 玄関を開けた黒瀬さんが、少し照れたように言った。


「いらっしゃい」


「お邪魔します」


「今日は仕事ではありません」


「はい」


「釣りでもありません」


「はい」


「俺に会いに来る日です」


 そんなことを真面目な顔で言うから、私は困ってしまった。


「黒瀬さん」


「はい」


「そういうの、急に言うのずるいです」


「すみません」


「謝らないでください」


 リビングに入ると、窓の向こうに海が広がっていた。


 以前は、その海が少し寂しく見えた。


 きれいで、静かで、誰も踏み込めない海。


 でも今日は違う。


 黒瀬さんが隣にいる。

 コーヒーの香りがする。

 テーブルには、私が城ヶ島から持ってきた小さな干物の包みがある。


 生活の気配が、少し増えていた。


「同じ海なのに、やっぱり違いますね」


 私は窓の外を見ながら言った。


「城ヶ島の海と?」


「はい。うちの海は、もっと賑やかです。船の音とか、お客さんの声とか、父の怒鳴り声とか」


「こっちは静かすぎるでしょう」


「前はそう思いました」


「今は?」


 私は少し考えた。


「今は、二人で見るなら、静かな海もいいなって思います」


 黒瀬さんは黙った。


 そして、とても小さな声で言った。


「それは、困りますね」


「どうしてですか」


「嬉しすぎて、仕事にならなくなります」


 私は笑った。


 窓の外で、海が光っていた。


 城ヶ島の海は、私の帰る場所。

 父がいて、船があって、受付小屋があって、私が守りたい生活がある場所。


 葉山の海は、黒瀬さんが一人で見ていた海。

 静かで、少し寂しくて、でも今は、二人で見てもいい海になった。


 私はまだ、実家の釣り船屋を完全に救えたわけじゃない。


 予約はこれからだ。

 船の修理費も必要だ。

 父は相変わらず頑固だし、天気に振り回される日もある。


 でも、もう一人ではない。


 隔週土曜に来る常連さんだった人が、今は私の隣にいる。


 黒瀬さんが、そっと私の手に触れた。


「澪」


 もう一度、名前を呼ばれる。


 胸がきゅっと縮む。


「はい」


「これからも、城ヶ島に行っていいですか」


「釣りにですか?」


「それもあります」


「それ以外は?」


「あなたに会いに」


 私は窓の外を見たまま、笑った。


「じゃあ、予約表に書いておきます」


「何と?」


「黒瀬航平、一名。目的、釣りと澪」


「それは船長に見られるとまずいですね」


「たぶん怒鳴ります」


「でしょうね」


「でも、大丈夫です」


 私は彼の手を握り返した。


「父も、黒瀬さんのこと、少し認めてますから」


「少しですか」


「かなり、かもしれません」


「それは光栄です」


 葉山の海が、午後の光を受けてきらきらと揺れていた。


 私はその海を見ながら、思った。


 好きな場所を守ること。

 好きな人と生きること。


 どちらか一つを選ばなくてもいいのかもしれない。


 城ヶ島の朝焼けも。

 葉山の静かな海も。


 これからは、どちらも私の物語になる。


 黒瀬さんが隣で言った。


「次の第二土曜日も、予約していいですか」


 私は笑った。


「はい。お待ちしています、航平さん」


 黒瀬さん――ううん、航平さんは、一瞬だけ目を見開いた。


「今」


「名前で呼びました」


「もう一度、お願いします」


「予約表に書いておきます」


「それは困ります」


「どうしてですか」


「毎回、受付で照れます」


 私は笑った。


 隔週土曜。


 無口な常連さんが来る。


 でも今は、ただの常連さんではない。


 私が名前で呼びたい人が、城ヶ島の海へ来る日だ。


― 完 ―

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


「初めての方も、女性おひとりでも」


黒瀬が形にしてくれた言葉を見て、新しいお客さんが「しおかぜ丸」を見つけてくれました。


澪がずっと守ってきたものには、最初から価値がなかったわけではありません。


ただ――届いていなかった。


それは、澪自身も同じだったのだと思います。


毎朝受付で笑って。


父を支えて。


初めてのお客さんの不安を拾って。


苦しくても「大丈夫」と言ってきた澪。


そんな彼女を、黒瀬だけはずっと見ていました。


そして黒瀬もまた、静かな葉山の家に閉じこもるのではなく、人の声がする城ヶ島へ少しずつ歩き出します。


好きな場所を守ること。


好きな人と生きること。


どちらかを諦めなくてもいい。


城ヶ島の朝焼けも。


葉山の静かな海も。


二人で選べば、どちらもこれからの人生になる。


最後に。


「次の第二土曜日も、予約していいですか」


最初は釣りのためだった予約。


でも今は、もう違います。


隔週土曜。


無口な常連さんが来る日。


そしてこれからは――


澪が、大切な人を待つ日です。


最後まで二人を見守ってくださり、本当にありがとうございました。

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