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実家の釣り船屋が潰れそうなので笑って受付していたら、葉山の常連さんに本気で愛されました  作者: ちょこまろ


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第3話 葉山の海が見える家で、名前を呼ばれた

城ヶ島では、いつも「常連客」と「受付」。


けれど今日、澪が向かうのは――葉山にある黒瀬の家。


海が見える静かな部屋で、二人きり。


仕事の打ち合わせのはずなのに。


黒瀬は澪へ、ひとつだけお願いをします。


「名前で呼んでもいいですか」

 黒瀬さんの家に行くことになったのは、サイト改善の打ち合わせのためだった。


 父には、最初にきちんと説明した。


「お父さん、黒瀬さんがホームページの改善案を作ってくれたの」


「黒瀬さんって、あの無口な人か」


「そう。Webの仕事をしてるんだって」


「金かかるのか」


「それはちゃんと相談する。でも、まず見せてもらうだけ」


 父は腕を組んだ。


 明らかに警戒している。


「客にそこまで頼むのはな」


「客じゃなくて、仕事として頼むならいいでしょ」


「うちは昔から電話でやってきた」


「昔から電話でやってきた結果、今困ってるんでしょ」


 父は黙った。


 言いすぎたかもしれない。

 でも、言わなければいけないことだった。


 しばらくして、父はぼそっと言った。


「変なやつじゃねえだろうな」


「黒瀬さん?」


「ああ」


「変ではないよ。無口だけど」


「無口な男は何考えてるかわからん」


「お父さんも人のこと言えないよ」


 父は不満そうに眉を寄せた。


「打ち合わせなら、店でやればいいだろ」


「黒瀬さんの仕事場に、画面とか資料があるんだって。昼間に行って、夕方には戻る」


「葉山か」


「うん」


「遠くはねえな」


 父はしばらく考えてから、低い声で言った。


「変なことされたら電話しろ」


「されないよ」


「わからんだろ」


「お父さん、黒瀬さんを何だと思ってるの」


「四十の男だ」


 私は少し言葉に詰まった。


 たしかに黒瀬さんは四十歳の男性で、私は二十八歳の女性だ。


 客と受付。

 仕事の相談。

 そう言い聞かせているけれど、完全に何も意識していないわけではない。


 むしろ、意識しすぎている。


 葉山の海の見える家。

 黒瀬さんの仕事場。

 二人きり。


 考えれば考えるほど、落ち着かなくなる。


 その日の午後、私はバスと電車を乗り継ぎ、葉山へ向かった。


 城ヶ島から見る海と、葉山から見る海は、同じ神奈川の海なのに空気が違う。


 三浦の海は、漁港の匂いがする。

 魚、エンジン、ロープ、濡れたコンクリート。


 葉山の海は、少し静かだ。

 風に洗われた白いシャツみたいな匂いがした。


 黒瀬さんは、バス停まで迎えに来てくれていた。


「すみません、わかりづらかったですよね」


「大丈夫です。観光客みたいにきょろきょろしましたけど」


「打ち合わせは一時間くらいで終わらせます。帰りはバス停まで送ります」


「そこまで決めてくれてるんですか」


「不安にさせたくないので」


 さらっと言われて、胸が小さく鳴った。


 この人は、いつもそうだ。


 近づいてくる時も、こちらが逃げられる場所を残してくれる。

 優しいのに、押しつけない。

 大人なのに、ずるくない。


「ありがとうございます」


「いえ。この辺は坂が多いので、歩きます」


「はい」


 黒瀬さんの後ろを歩く。


 坂道を上がるにつれて、海が少しずつ見えてきた。


 家々の隙間から、青い光がのぞく。

 風が少し強くなる。

 遠くで鳥の声がした。


 私は黒瀬さんの背中を見ていた。


 釣り用のジャケットではない。

 今日は紺色のシャツに、薄い上着。

 仕事をしている大人の男の人、という感じだった。


 その後ろ姿を見て、急に緊張した。


 私は、この人の家に行くんだ。


 今さらそんなことを思って、顔が熱くなる。


「この先です」


 黒瀬さんが立ち止まったのは、白い壁の小さな一軒家の前だった。


 豪邸ではない。

 でも、古いのに清潔で、静かな存在感がある家だった。


 玄関脇には、ローズマリーとオリーブの鉢が並んでいる。

 木の門扉は少し色あせていたけれど、丁寧に手入れされていた。


「素敵な家ですね」


「古いだけです」


「古いだけの家は、こんなにきれいじゃないです」


 黒瀬さんは一瞬黙って、それから小さく言った。


「ありがとうございます」


 玄関に入ると、木の匂いがした。


 靴を脱ぎ、リビングへ通される。


 その瞬間、私は言葉を失った。


 窓の向こうに、海があった。


 大きな一枚の窓。

 その先に、相模湾が広がっている。


 光が海面に反射して、部屋の中まで揺れていた。


「すごい……」


 思わず声が出た。


「仕事中も、ずっとこの景色なんですか」


「はい」


「それ、仕事できます?」


「慣れます」


「私なら一日中見ちゃいます」


「最初は俺もそうでした」


 黒瀬さんは少し笑った。


 リビングの隣が仕事部屋だった。

 大きな木の机。

 二枚のモニター。

 ノートパソコン。

 壁際には本棚があり、Web関係の本だけでなく、地域観光や写真集、釣りの本も並んでいた。


 部屋は整っていた。

 無駄なものがない。


 でも、どこか寂しい。


 人を迎えるための部屋というより、一人で静かに仕事をするための部屋だった。


 仕事の話をしに来たはずなのに、私は何度も思ってしまった。

 ここは黒瀬さんの家で、私は今、この人の生活の中に入っているのだ、と。


「コーヒーでいいですか」


「あ、はい。ありがとうございます」


 黒瀬さんはキッチンに立ち、手際よくコーヒーを淹れた。


 私はリビングの椅子に座り、窓の外を見る。


 城ヶ島の海とは違う。


 うちの海は、朝から声がする。

 父の怒鳴り声。

 お客さんの笑い声。

 魚を入れるバケツの音。

 船のエンジン音。


 ここは静かだ。


 きれいすぎるくらい、静かだ。


「どうぞ」


 黒瀬さんがカップを置いてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 受け取ろうとした時、指先が触れた。


 ほんの一瞬。


 でも、その一瞬で、心臓が跳ねた。


 熱いカップより、触れた指先の方が熱く感じる。


「すみません」


 黒瀬さんが手を引いた。


「いえ、大丈夫です」


 大丈夫じゃない。


 私の中は、全然大丈夫じゃない。


 ここは黒瀬さんの家で。

 窓の外には海があって。

 二人きりで。

 彼の指が、ほんの少しだけ私に触れた。


 それだけで、仕事の打ち合わせという言い訳が、薄くなっていく。


「では、見てもらってもいいですか」


「はい」


 黒瀬さんはモニターに、しおかぜ丸の新しいサイト案を映した。


 私は息をのんだ。


 トップには、朝焼けの城ヶ島の写真。

 その下に、短い言葉。


 初めての方も、女性おひとりでも。

 城ヶ島の海で、ゆっくり釣りを楽しめる船です。


 父の船。

 受付小屋。

 常連さんが魚を持って笑っている写真。

 そして、カウンターに立つ私の後ろ姿。


「これ……いつの写真ですか」


「以前、SNSに上がっていたものです。使うなら確認が必要ですが」


「こんなふうに見えるんですね、うち」


「こういう場所だと思います」


 黒瀬さんは淡々と言う。


 でも私は、胸がいっぱいになっていた。


 古い船。

 怖い父。

 減っていく予約。

 暗いホームページ。


 私が不安の中で見ていたしおかぜ丸が、画面の中では少し違って見えた。


 温かい場所に見えた。


「初心者向けページは、こうです」


 黒瀬さんが画面を切り替える。


 持ち物。

 服装。

 集合時間。

 船酔い対策。

 トイレ。

 女性客への案内。

 親子で来る場合の注意点。


 全部、私が普段電話で説明していることだった。


「相沢さんがいつも言っていることを、文字にしただけです」


「私が?」


「はい。受付で聞いていて、必要だと思ったので」


「聞いてたんですか」


「聞こえます」


「恥ずかしいです」


「丁寧で、わかりやすいです」


 また、そんなふうに言う。


 黒瀬さんはたぶん、自分の言葉が人をどれだけ動かすか、あまりわかっていない。


 私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、画面を見続けた。


 打ち合わせは一時間ほど続いた。


 黒瀬さんは、うちの良さを壊さず、伝わる形に変えようとしてくれていた。


 派手な言葉はない。

 過剰な売り込みもない。


 ただ、初めての人が不安にならないように。

 この船に来てみたいと思えるように。


 それなのに私は、だんだん資料よりも、黒瀬さんの横顔を見てしまっていた。


 窓からの光が、彼の頬に落ちる。

 腕時計をした手が、マウスを動かす。

 低い声が、私の名前ではなく「相沢さん」と呼ぶ。


 そのたびに、胸が少し痛くなる。


 この人にとって私は、相沢さん。

 しおかぜ丸の受付。

 仕事を手伝っている相手。


 それでいいはずなのに、少し寂しい。


「相沢さん」


 そう呼ばれて、私は顔を上げた。


 黒瀬さんは、モニターではなく私を見ていた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「はい」


「名前で呼んでもいいですか」


「え?」


 思わず変な声が出た。


 黒瀬さんは、少しだけ気まずそうに視線を落とした。


「仕事の話をしている時は、相沢さんのままでいいと思っています。でも、さっきからずっと、あなた個人の話をしている気がして」


「私、個人……」


「はい。しおかぜ丸の受付としてではなく、澪さんとして話したいと思いました」


 心臓が、静かに大きく鳴った。


 名前。


 黒瀬さんが、私を名前で呼ぶ。


 想像しただけで、胸の奥が熱くなる。


「嫌なら、やめます」


「嫌じゃないです」


 ほとんど反射で答えていた。


 答えてから、顔が熱くなる。


「嫌じゃ、ないです」


 もう一度、小さく言った。


 黒瀬さんは、少しだけ表情をやわらげた。


「ありがとうございます。澪さん」


 その一言で、葉山の海が少し近くなった気がした。


 私はカップを握りしめる。


「黒瀬さんは、ずるいです」


「またですか」


「はい。ずるいです」


「何がでしょう」


「そういうふうに、ちゃんと聞いてから近づいてくるところです」


 言ってから、また顔が熱くなった。


 でも、もう引っ込められなかった。


 黒瀬さんは、しばらく黙っていた。


「近づいてもいいんですか」


 低い声だった。


 私は息を止めた。


 仕事部屋に、波の光が揺れる。

 窓の外の海が静かに光っている。


 彼は一歩も動いていない。

 でも、言葉だけが近い。


「……仕事の話、ですよね」


 逃げるように言うと、黒瀬さんは少しだけ笑った。


「今は、そういうことにしておきます」


 それは、完全な逃げ道ではなかった。


 むしろ、いつかそうではなくなる日を示す言葉だった。


 打ち合わせが終わる頃、外の光は少し傾いていた。


 私はカップを両手で持ちながら、ぽつりと言った。


「黒瀬さんは、ここでずっと一人で仕事してるんですか」


「はい」


「寂しくないですか」


 言ってから、しまったと思った。


 踏み込みすぎた。


「あ、すみません。変なこと聞きました」


「いえ」


 黒瀬さんは窓の外を見た。


 海はきれいだった。

 でも、そのきれいさが、少し冷たく見えた。


「寂しいというより、静かなんです」


「静か」


「東京の会社にいた頃は、ずっと人の声がしていました。会議、電話、急ぎの案件、納期、謝罪。うるさいくらいだった」


「はい」


「それが嫌で、独立して、ここに来ました。海が見える家なら、落ち着けると思った」


「落ち着けましたか」


「最初は」


 黒瀬さんは小さく笑った。


「でも、静かすぎると、自分の声まで聞こえなくなることがあります」


 私は何も言えなかった。


 この家が寂しいと感じた理由が、少しわかった気がした。


 整っている。

 美しい。

 静か。


 でも、人の気配が少なすぎる。


「だから、城ヶ島に来るんですか」


「たぶん」


「釣りじゃなくて?」


「釣りもします」


「でも、それだけじゃない?」


 黒瀬さんは私を見た。


 その目が、少しだけ揺れた。


「城ヶ島に行く日は、少しだけ、人のいる場所に戻れる気がするんです」


 胸が苦しくなった。


 私は、うちの港を重たいと思うことがある。


 父の声。

 常連さんの世話。

 予約の不安。

 逃げられない実家。


 でも、それを欲しいと思う人もいる。


 人の声がする海を、求めている人がいる。


「黒瀬さん」


「はい」


「また来てくださいね」


 言ってから、顔が熱くなった。


 仕事の話としては変じゃない。

 常連客に言う言葉としても変じゃない。


 でも、私の声はたぶん、少しだけ違っていた。


 黒瀬さんは、まっすぐ私を見た。


「行きます」


 短い返事。


 それだけで、心が揺れた。


 帰り際、玄関で靴を履いていると、黒瀬さんが言った。


「今日は来てくれてありがとうございました」


「こちらこそ。すごく助かりました」


「次は、城ヶ島で」


「はい。隔週土曜ですね」


 言ってから、自分で恥ずかしくなった。


 まるで、待っているみたいだ。


 黒瀬さんは少しだけ笑った。


「覚えていてくれたんですね」


「予約表にありますから」


「そうですね」


 彼はそれ以上言わなかった。


 でも、扉を開けた時、海からの風が入ってきて、私はふと思った。


 この家は、誰かを待っているような家だ。


 そして私は、その誰かになりたいと思ってしまった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


「相沢さん」から、


「澪さん」へ。


たったそれだけ。


それなのに、二人の距離は確実に変わりました。


さらに黒瀬が城ヶ島へ通っていた理由も、少しだけ見えてきます。


静かすぎる葉山の家。


人の声がする城ヶ島の港。


そして、そこにいる澪。


「また来てくださいね」


「行きます」


まだ誰も「好き」とは言っていません。


けれど、もう互いを待っています。


だからこそ――次の第二土曜日。


澪はいつもより早く受付小屋へ入り、予約表を開きます。


そこにあるはずだった、


「黒瀬航平」


その名前だけが、ありませんでした。

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