152. 再び王都へ(ウーリッヒ その2)
その日の宿もそれまでとは違った――今まで泊まったことのない、上宿だ。
飼い葉は上等で、なんと馬の世話をする必要もないと言われた。めったに扱えない上等な馬だったからちょっと楽しみだったのだが、御者と馬丁とははっきり違うらしく、馬の世話は御者ではなく馬丁の仕事で、この宿には馬丁がいる――そういうことらしい。
ただの御者である自分にも雑魚部屋ではない一部屋が与えられた。ジャスパーと呼ばれていたあの御者もそうだ。至極当然のことだというように悠々と食事をとり、その後は部屋に引っ込んだ。
付き合いの悪いやつだ。
ボスたちは食事を部屋に運ばせたのでやはり別だった。
後でボスだけ降りてきて、宿の主人に奥さんのために温めたミルクを頼みに来たついでのような顔をして、「大丈夫か。からまれると困るから長居するなよ。それに、公爵家に雇われてる人間がいると他の人たちが楽しめないから」とこっそり教えてくれた。
いい上司だ――そして、そういう理由であいつは引っ込んだのか――正直呆れたけれど、そういうのは確かにある。
自分も、酒場にお偉いさんがいる時はあまり騒がないようにするな、って思って苦笑――これまで自分をお偉いさんだと思ったことはなかった。
いつもとは服が違うだけなのにな――。
追加で酒を頼むのはやめて部屋に引っ込むことにしたら、確かに、自分の姿が消えた後の方が、食堂の喧騒がよく響くようになった。
公爵家に雇われている平民は、他の平民とは違うらしい――残念ながら。
そして次の朝、食事を終えて降りてきた奥さんは――昨日にも増して物憂い表情で――そのウエストは昨日よりもなお細かった。
その後ろから宿の奥さんが笑顔で降りてきて、「こんなに飾りがいのある人は初めてだ」と言いながらたっぷりした自分の腰に手を当てる。
「これ以上締めたら骨が折れるわ……はやくシュヘル領に帰りたい……」
呟きにボスが気の毒そうな顔になっている。
なるほど。奥さんの憂い顔の理由はそれか。
とりあえず骨云々の悲痛な呟きは聞かなかったことにして目をそらした。
その日、奥さんは昼食をとらなかった。
「『食べたら吐く』って……」
奥さんに薄めの紅茶を持って行くときにすれ違いながらぼそっと呟いたボスを気の毒に思う……もちろん奥さんも。
自分も、彼女も、平民でよかった。そう思いながら息を吐く。
だが俺は、まだまだ認識が甘いということをそこでもわかっていなかった。
早めに出発して、明るいうちに到着したボスの実家は――王宮かと思うような広さだった。
馬車から降りたボスが奥さんをエスコートして下ろし、姿勢を正して家令に訪問カードを渡す。実家に帰っただけなのに、仰々しいことだ。
そして家令の態度も――一切感情が読めない。歓迎する様子もなく、ただ淡々と手続きをこなすだけ。
その間に俺は荷物を下ろし――それらは侍女たちの手で邸内に運ばれ――自分は御者と一緒に下がるのだろう、と思っていたら、ボスに声をかけられた。
「ウーリッヒ。アーノルド公が在宅だそうだ。一度顔を見ておきたいと仰せだ。一緒に来い」
冷たい物言いにドキリとした。こっちをちらりとも見ずに進む背中をとりあえず追いかける。
まったくブレることのない背中が、硬い足音が響く廊下を進む。
二人ともよくできるな――。
それにしてもすごい装飾品――絢爛豪華、ってやつか。壁にかけられた絵を売っぱらったら、その額縁の金額だけで一年以上暮らせそう――中の絵はおそらくもっともっと高価なのだろうが。
辺りを見回しながら、自分がこんなところにいるなんてなんて場違いな――そう思った。
先に進んで行く二人は、この空間に一切違和感を生じさせてない。豪華な装飾品に驚くこともなければ、それが当然であるというように、玄関にいた家令や侍女に視線を送ることすらなかった。
この二人の生きてきた空間はこっち――これが、当たり前の生き方か。
人の上に立ち、人を使うのが当然の立ち位置。
公爵家の子息子女。
シュヘル領にいたときとは全く違う。
俺一人が場違いで――ついて来るのは、俺でよかったのだろうか。
そんなことを考えながら、ため息を一つ吐き、応接室らしいところに通された二人に続いて中に入る。
奥のソファに眼鏡をかけた小柄な老人が座っていた。
硬い表情、値踏みするように細めた目――アーノルド・フォートワース・ド・パートリッジ。
そこにいるだけで感じられる威圧感。虫でも見るような顔。
これが五十年前の戦争の英雄か。
回れ右をして帰りたくなった。英雄だろうが何だろうが――俺のことはともかく、久しぶりに会った孫たちを見る目じゃないだろう。
だけどボスはそんなことは一切お構いなしで、背筋を伸ばしたまま踵を揃えた。
「アーノルド公、この度は貴重なお時間を頂きありがとうございます。ジークフリート・ウィルベリー公爵の呼び出しによりまかり越しました。滞在中の宿泊先としてこちらをご提案いただきましたこと、トリスタン・エルク・シュヘル及び妻エリザベス、心より感謝いたしますとともにお受けいたします。ご無沙汰しておりましたが、おかわりございませんか」
舌を噛みそうな挨拶の言葉を述べて礼を取る。こっちも自分の祖父にかける言葉とも思えない――こんなボスを見たのも初めてだ。
その横で完璧なタイミングで奥さんが、淑女がよくやるあの礼をした。
こんなに間近で見たのは初めてだ。細い首が際立って、美しい――。思わず凝視した自分の後ろで微かな音を立てて扉が閉まり、その音で我に返った。
完全に出遅れた。雇われ人としては失敗だ。
本当に、ついて来るのが自分でよかったのだろうか。
フランコならもっと人当りもいいし丁寧な物腰だってできる――ああ、だけど小さい子どもを残してついてくるわけにはいかないか。
ティアゴは俺にも増して武骨で――テオは、王都なんてごめんだって感じで――。
『我慢してくれ』『そうしてくれると助かる』そんな言葉と困った顔を思い出して、精一杯急いで頭を下げた。
周囲の空気が一瞬止まったような気がして――ほっほっほ、と笑う声がした。
「元気そうじゃな――トリスタン、エリザベス、それから後ろのやつ――もうええぞ」
その言葉に身体を起こした奥さんがたたっと老人に駆け寄って手を取った。後ろからボスが続く。
「お祖父様! お元気そうで何より――お会いできて嬉しいです」
「助かったよ――ウィルベリー公爵家に滞在しろとか言われたらどうしようかと思った」
「わしも久し振りに孫たちの元気な顔が見られて嬉しいぞ。エリザベス、お前はちょっと見ないうちにまた美しくなったのう。大切にされているようでなによりだが――」
さっきまでとは打って変わって下がった目じりで二人を見る老人はただの好々爺だった――ボスも、奥さんも――全くの別人のようだったさっきまでとは違って、ちゃんと(・・・・)自分の知っている二人に見えた。
その代わりように呆気にとられ、驚くと同時にほっと息を吐く。
なんだ。ちゃんと祖父と孫なんじゃないか。
「――エリザベス、お前腰回りが増えとらんじゃないか。ひ孫はどうなっとるんじゃ」
遠慮のない質問に二人が一気に赤面した。
「お祖父様!」
「ジジイ! その質問はやめろ――余計なお世話だ」
「ビビアンもわしも楽しみにしとる――それだけじゃ。それに、そんなに締めると倒れるぞ」
老人が白い眉をひそめると、奥さんもしゅん、と肩を落とした。
「仕方なかったのよ――泊まった宿の奥さんしか頼める人がいなくて。あの人ったら、本当に遠慮なしに締め付けたの。ご飯も食べられなくて――お祖父様、後で侍女を一人寄越していただけますか? 本当に苦しいの」
「トリスタンに頼んで緩めてもらえばいいだけのことじゃろうが――あ? お前たち――」
「今すぐ黙れジジイ」
首から胸もとまで真っ赤になった奥さんの後ろでボスが低い声を出した。
アーノルド公が疑うような目をボスに向けて、諦めたように首を振る。
「トリスタン、お前ホルストのところに行って態度と言葉使いが悪くなりよったな――まあ、ええわい。それで? その後ろのが仕事場のやつか――少々頼りないのう……もうちょっとマシなやつはおらんかったのか?」
呆れ声と呆れ顔で見られた。
「御者に何を求めてるんだよ――それに、あんなところからわざわざ来てくれたんだぞ――馬車の扱いはばっちりだし、馬の扱いも心得てる。もったいないくらいだろ。おかげで予定よりずっと早く着いた。それに、せめて道中くらいは気を張らなくていい相手にいてもらいたかったんだよ――」
「だがのう――」そこでもう一度こっちを見る。「お前、もうちいとばかりマナーを学んだ方がええぞ。公爵家が雇うような御者には見えん」
それは、そうだろう――自分は運送屋だ。
「俺たちは公爵家じゃなくて男爵家なんだよ。しかも爵位なんてあってないも同然のド田舎だぞ」
「ふん――だがな、お前たちの出自が公爵家である以上、味方はいた方がええ。どちらの顔もできる御者は重宝するぞ――」
自分を見る老人の、眼鏡の奥の細めた目が――なんだかさっきとはまた違う値踏みをしているような。
「そういうのはいいんだよ、俺たちはこっちに出て来るつもりはないんだ。今回だってウィルベリーが急に呼びつけたせいで断れなかっただけなんだから」
「そうじゃ。『断れん』。男爵家である以上はな。お前、ちょうどいい。今週はわしと一緒におれ――」
「「「ええっ!?」」」
自分だけじゃなくてボスと奥さんの声まで重なった。
老人の方は、笑顔だ。
「既にできるならマクサの下で馬の扱いを学ぶこともないじゃろう。わしの小姓扱いで数日過ごして――妙な意味はないわい――その後はエルネストの下につけ」
「え? え?」
自分に言われているということはわかっても、急展開過ぎて意味が解らない。エルネストって誰だ?
「お祖父様! ウーリッヒにはいろいろ頼みたいこともあって――せっかく王都まで来たんだからみんなにお土産とか――」
奥さんが止めようとしてくれてるのはわかった。だけど、老人は笑顔のままで続けた。
「なに、そんなことならわしが連れて行ってやる――そうそう、エルネストというのはの、わしの(・・・)御者じゃ。あいつに指導を受けたと言えば、どの家でも高額で雇ってくれるほどの腕前でな。もちろんかなりの経歴になる――給料も跳ね上がるぞ。そうそう、ここでの給金がわりに土産代は全額わし持ちでええ。馬車に積んで持って帰れるだけ買って構わん」
「お祖父様!?」
「ジジイ! どういうつもりだよ! ウーリッヒは大事な同僚なんだぞ。よそに雇われたりしたら困るんだよ。遠出に付き合わせただけでも悪いと思ってるし、馬が好きなんだから公爵家の馬を相手にゆっくり過ごしてもらおうと思ってマクサにって言ったのに――あいつなら田舎者だって見下したりしないし――」
ボスと奥さんの顔つきからろくでもない提案をされたことはわかる。そして、そういう意図で馬丁に預けることにしてくれたのか――本当にいい上司だ。
祖父さんの方のこれは、おそらくろくでもない提案なのだろう――だけど、ものすごく魅力的な申し出ではある。
土産代を持ってくれるなら――それこそ王都の宝飾店で特別な贈り物も買える――ゴクリ、と喉が鳴った。
「お前、ウーリッヒと言ったか――それでどうじゃ。他に雇われる気がないのならなお重畳というもんじゃ。昇給の話はわしからホルストに話しておくし、この二人が帰る時は必ず一緒に帰してやるわい」
それなら。たかが一週間やそこらだ――。
心配そうな顔をした上司夫妻に頷いた。
それに、土産代のことはともかく、この二人の役に立てることなら――。
「受けます」
簡素な返事に、老人が笑う。
「よしよし。ここにいる間に、いろいろと見聞きするじゃろうが――くれぐれも余計なことは喋らんようにな。軽はずみな言動は後々己の首を絞めるぞ」
とりあえず頷いておく。
この老人や上司夫婦に、いろいろ理由がありそうだということはわかるし。
そんなことを考えているうちに、老人はまた二人に向き直った。
「二人とも、今日は休め。ウィルベリーには使いを送った。『明日の午後の茶の時間に来い』と返事が来とった――相変わらずじゃ」
首を振るやり方が投げやりだが、たしかウィルベリーというのは奥さんの実家のはずだ。明日はそっちに里帰り、か。
「ウーリッヒ。やめたくなったらすぐに言えよ――このジジイもあっちのジジイ並みに常識が通じないところがあるぞ」
「ああ、わかった。ボ――いや、はい。旦那様」
ボスが苦笑いになって、奥さんが小さく笑った。
「本当に無理しないでね――だけど、できればマリッサさんにお土産を買う時、ニーナさんとマデリンさんとカロリーナさんにも――この前手伝ってもらったし」
「はい――ロイド達にも、ですね?」
「そう――ありがとう。それに――」
「住民ギルドのやつらにも?」
にっこり笑う。
「エリザベス、お前は先に行ってその締めあげた腰をなんとかせい。ウーリッヒ、お前は散髪と風呂じゃ――トリスタン、お前はちっと残れ、切るぞ」
老人がそう言うなり、二人がすっと動いて最初の位置に戻った。
また一瞬空気が固まる。
呼んだとも思えないのに扉にノックの音が響いて、侍女が一人と少年が一人入って来た。
「エリザベスを連れて行け。お前はこいつに散髪と風呂じゃ――しばらくの間わしの従者にするでな。部屋もわしの隣に設えろ。身なりを整えて、小ぎれいになったら連れてこい」
またしても一切感情の入らない声と表情だ。
奥さんの方がまたあの礼をして出て行ったけれど、今度はそれを美しいと思うよりも、取り繕った距離を気の毒に思った。
なんとも、上流階級ってやつは……そして自分は大丈夫なのだろうか。




