147. 指輪
「離れろ」
低い、声だった。
びくりと体を震わせてロイドが飛びのいた。
エリザベスが驚いて振り向く。
「トリスタン!?」
その表情には純粋な驚き――ちょっと救われた気がした。
やっぱり、エリザベスのロイドに対する気持ちは、ただの関心や心配。
だけど。
「待って? トリスタン、それって誤解――」
その肩から毛布が落ちた――ナタリアのプレゼントのローブ――足元の華奢なミュールに目がいって、それだけで怒りがわき上がる。
俺の――俺だけの。
「次に触ったら腕を切り落とす。共有なんて――たとえそれが額へのキスでも、絶対しない――冗談だと思うな」
自分のものとは思えないような言葉が口をついて出てきた。
出入り口に自分が立っているせいで外に出られないロイドが部屋の隅にピタリと張り付いて耳を伏せたのが見える。そこに抵抗する意思がないのはわかる、けど。
「トリスタン? 共有って――何のこと? さっきのキスなら、単に友達としての感謝の気持ちで――それ以外の感情はない――」
驚いた顔のまま近づいて来るエリザベスは、夜の光の中でも美しい。
俺の。
誰にも渡せない。
それがどんな相手でも。
こんなんじゃダメだ。
足りない。
全然足りない。
そうだ、このままではいけない。
他のやつに取られてしまうような場所には置いておけない。『俺の』だ。
「……トリスタン?」
心配そうな顔。
沸き起こる強い感情のままに引き寄せれば、大事な人はそのまま腕の中に納まった。
その身体をさらにきつく抱きしめる。
離したくない。
この人だけは、絶対に。
だけど自分には足りない。
どうしたら。
辺りを見回しても、いい考えなんか浮かばない。
腹の底から怒りが沸き起こる――。
どうしたらいい。
暫くそうしていて、ふと違和感に気づいた。親指の指輪が熱い。
目をやれば、ぼんやりと光っているように見えた。
なんだ? 今までこんなふうになったことなんかなかった――どうしても抜けないだけの、ただの指輪だ。ポンコツの、封魔の指輪――。
次の瞬間ハッとした。
これは『封魔』の指輪だ――これを、外せばいいんだ。魔力を抑えるための指輪なんだから。
そうすればもっと強い力を手にすることができる。エリザベスを誰にも触れさせることなく、ずっと俺のものにできる力――。
「トリスタン? ねえ、どうしたの――? もう遅いし、上に行こう? それともお祖父様の話したことについて話したい?」
エリザベスの身体に回した腕を少しだけ緩めて両手をあげると、エリザベスがほっとしたように息を吐いたのがわかった。
だけど、腕を緩めたのは移動するためじゃない。
右手の親指に嵌っている指輪を引き抜こうと反対の手を伸ばす。
前に抜こうとしたときは、ダメだった。接着されたかのようにピクリとも動こうとしなかった。
今回も――ダメか。けして小さ過ぎるわけじゃないのに、動かない。
だけどこれを外しさえすれば、もしかして。
やっぱり動こうとしない。だけど。これが外せれば、きっと。
それを望むのか――?
ああ、そうだ。強くなりたい。
そうだな――その価値があるようだ。
そうだ、エリザベスには、それだけの――。
答えるように指輪がゆっくりと――動いた。
それと同時に身体の中から魔力が沸き上がろうとするのがわかる。
そうだ、このまま抜け――。
そのまま引き抜こうとしたとき。
「トリスタン!? いったい何を――ダメ!! 待って!!」
切羽詰まったような声に指が止まった。
だけど、わからない。
どうして、待て、なんて――。
「……これがなければ、きっと俺はもっとずっと強くなれる。それこそ、他の誰にも君を渡さなくて済むくらいに、強く」
なのになんで、ダメだ、なんて言うんだ――。
誰にも渡したくないだけなのに。
湧き上がろうとする力と一緒に腕の中でエリザベスが震えたのがわかった。俺の腕をさらに緩めようとして腕を突っ張ったのも――離したくないのに。
「トリスタン――何を、してるの?」
「……知っていた、んだろう? ――そのうえで、ここに、俺と一緒にいるって……違うのか?」
もう少しだけ腕を解いて自分が何をしようとしていたのかを見せたら、エリザベスは怯えたようにまた体を震わせた。
「そうだけど、そうだけど、でも待って――それを取っちゃダメ。ダメだと思う。お願いだから取らないで――」
これを外せば。そう思うのに。
エリザベスの不安そうな顔が泣きそうな顔になって、どうしてもだめなのか、と自分も泣きたくなる。
指輪がまたきつくなってきた気がする――光も弱くなったように見えるし、熱も引いて来た。急がないと――。
「さっきみたいなキスでも、他の人間が君に触れるのを見たくないんだ――解呪なんかしてほしくない。あれをやったら、絶対みんな君を好きになる。どんなに力のあるやつだって、権力や財力のあるやつだって――あれを拒むことなんか――俺は、君を誰かに渡すことなんかできない。力があれば――これを外せればきっと――」
指輪にかけた指をエリザベスが押さえた。
優しい指。それを振り払うことは……できない。
だけど。葛藤に叫びたくなる。
「……トリスタン? この指輪――もしかして呪具なんじゃ……」
そう言いながらエリザベスがつ、と指をのばした。
くすんだ銀の指輪。
小さい頃にジジイが嵌めたって言っていた、ポンコツの封魔の指輪。エリザベスだって今まで何度も触れているものだ。何らかの呪いだったりしたら、もう解呪済みのはず。
なのに。
人差し指が触れた途端にエリザベスはその場に膝をついた。
「リジー!?」
抱き起こそうとした途端にエリザベスが苦痛の声をあげ、慌てて手を離す。
何が起こったのかは、感覚でわかった。指輪が、それを嵌めている自分の身体が、エリザベスの身体に残ったわずかな魔力を吸い上げようとしたのだ。
どうしていいかわからないままに、落ちていた毛布を拾い上げてエリザベスにかける。
だけど、触るわけにはいかない。
小さく震えながら毛布を掴んだ指先を見つめることしかできないなんて――。
「私が、運びます――大丈夫です。惚れたりしません――彼女たちがそれを望まない限り」
静かな声が部屋の隅から聞こえた。
ロイド。
こいつに運ばせたりしたくない。
だけど、床の上に膝を落としたままのエリザベスをこのままにしておくなんて――。
「本当に大丈夫です。私はエリザベスが呪いを解いてくれた時、妻に会いました――妻は私があなたたちを困らせることを望みはしない。エリザベスも私に愛されたいとは思っていません。『主人になってくれないか』と聞いたら、『自分の主人は自分だ』と、断られました。さっきも私たち親子が幸せになるように祈ってくれたんです」
その穏やかで落ち着いた言葉に、沸き上がった怒りが落ち着いて行くのがわかる。そんな話をしていたのか――力が抜けて、焦りが消えていく。
だけどロイドは――こんなふうに夜中に会うような相手だし。
そう思っていたら、ロイドが小さく笑った。
「そんなに心配しなくても、エリザベスの心に他の男が入る余裕はありませんよ。彼女が私とここにいた理由は、あなたを待っていたからです。私はたまたま居合わせて、『主人になってくれないか』と――私にできる精一杯の申し出をしたのに――ダメだとあっさり断られた上に、脳みそが甘ったるくなりそうな惚気話を聞かされただけです。あなたがどんな父親になるのか――腕に自分たちの子どもを抱いたあなたが見たいそうですよ」
再び見せたロイドの笑みは、あきらかに苦笑。
予想外の話にぱっとエリザベスを見る。
「……」
床にうずくまったまま――伏せたエリザベスの耳が真っ赤になっていた。
普通の人より夜目が利くことに感謝。
完全に毒気を抜かれた。
それと同時に指輪の光もすっかり消えて――もう熱もない。
隣に膝をつくと、エリザベスが顔をそむけようとする――その顎を捕まえた。
首も真っ赤になったのがわかる。
安堵が胸に沁みる――よかった。
あれが何だったにせよ指輪の力は完全に消えたらしく、今回は苦痛の声の代わりにほっと息を吐く音。触れた指先から緩やかに流れ込んで行く魔力は――馴染みの感覚。
「大丈夫みたいだ――リジーは俺が運ぶよ――ロイド、すまない。さっきはかっとしてしまって――疑って悪かった。リジーに触っても絶対に腕を切り落としたりしない。どうかしてた。許して欲しい――」
深く頭を下げてからリジーを抱えると、ロイドはちょっと困った顔になった。
「もちろんです。……ああ、エリザベスに頼むんじゃなくてあなたに『主人になってくれ』と頼むんだった――それなら今頃はきっと、とばっちりで脅されることもなく、いい主人を得て、住まいと食事の心配もなくなって、ぐっすりと安眠できていたのに――」
「ロイド!」
腕の中から非難の声。
「今となっては誰かに頼むわけにも行きません。女神に等しい人に祈ってもらいましたので」
背を向けてスタスタと戻っていく――。
「本当に平気そうだな……」
その呟きに、エリザベスが腕の中でもぞもぞと動いた。
腕の中に視線を戻すと、睨まれた――。
「奥様のこともそうだけど、ロランには勝てないわ――ロイドには責任がある。
お祖父様に解呪のことを聞いたのね? だけど、私だってそんな簡単にはやらないわよ……解呪した時、ロイドはロランを抱いていたし、ナイジェルはリディアの手を握ってた――リュカがナタリーを抱えていたみたいに。お祖父様も『惚れられる』危険があるって言ってたし、それはウィルで懲りてるわ」
あくび交じりの言葉にほっと息を吐いたのは今度は自分の方だったけれど、エリザベスは――眉を寄せて少しだけ俯いた。
「そういう意味では――ごめんなさい」
謝られるとは思っていなかったので驚いた。
「トリスタンには――出会って早々あれを使っちゃったし、あれからも――そんなつもりはなかったんだけど、逃げられない状況に追い込んだのは、私の方だったのかも」
静かに息を吐いてこっちを見上げた顔は穏やかだった。
「そういうこともやっと話せるのね――」
そんなことを言われるとは思っていなかったのでびっくりしたけど、そっと手を伸ばして頬を撫でてくれるのが気持ちいい。
俺は、あの最初の聖魔法で落とされたのかな――すごくかわいい子だなって思ったのは覚えてるけど――まあ、今となってはどうでもいいけど。
部屋に着いてベッドに降ろすころにはエリザベスはぐっすり眠っていた。




