146. 小さな不安(トリスタン)
いつもの高笑いを響かせた後、祖父はわずかに眉を寄せた。
「親の方はどうじゃ? 理性は保っとるか?」
ドキリとした。
あの晩、俺たちの部屋から出てきた――。
エリザベスがなにか言って、その言葉に答えたロイドの声が、耳の奥によみがえる。
『わかりました。言いません。おやすみなさい』
気配を消して暗がりに立ち尽くす黒豹の自分は、瞳さえ閉じてしまえば全く目立たなかった。
ロイドはそのまま静かに自分の部屋に帰った――あの時のショック。
かなり待って、絶対眠っただろうって頃に中に入ったけれど、怖くて触れることもできなかった。
明け方近くまで見つめていて、震える指でどうにか頬を撫でたとき、初めてエリザベスの魔力が減っていることに気がついた――何かがあったのはわかったけれど、怖くて聞けなかった。
『言わない』というあの約束が呪いの解呪のことだったのだろうとわかった今は、何があったはずもないと思うけど。
あの後、何度家を空けても、どんな時間に帰宅しても、ロイドとエリザベスが二人きりでいるところに鉢合わせをすることはなかった。ロイドにも全くやましいところはなさそうだった。
そして極めつけがエリザベスからの「寂しい」の言葉。「レイラが羨ましい」とも。
俺の早とちり――誤解だ。
「ロイドは大丈夫だよ。いつだって控え目だし、エリザベスが望まないことをするようなやつじゃない。エリザベス自身もまったくそういう対象だとは思ってないし、ロランも――起きてる時はいつも遊んで欲しがってるけど、今はもう抱っこはせがんでいないんだ。――亜人は人とは反応が違うのかもしれないけど」
「確かに亜人は個人差が大きい――魔法の効き具合も様々じゃ。だが楽観視はするな。たまたまあやつらは『犬』系で、犬は主人には忠義を尽くす生き物――エリザベスを主人と認めたのかもしれん」
「ああ――それが近いかもな。なんか、むかしの俺よりよっぽどナイトっぽい」
エリザベスが街に行く時は片時も離れずについて行く――家にいる時も、エリザベスがどこにいるかいつも気にしてる――と思う。
「さすがにロイドは尻尾を振ったりはしていないけれど、ロランの方は取れそうな勢いで振ってるよ。まさに仔犬って感じだ」
「トリスタン? 取られるなよ」
いや、大丈夫だろう。なにしろエリザベス自身がロイドといるのを嫌がっていないし――エリザベスはそういう感情には敏感だ。
「大人は取り繕うのもうまいぞ」
……だけどロイドの方がもしもうまく隠していて、チャンスを窺っていたら――? 大人だし、自分なんかよりずっと慣れているんだろうし――。
いや、でも。
いやいや、でも。
念のためにエリザベスの気配を探る。いつもより慎重に、正確に――それから、ロイドの気配と位置も。
「トリスタン、もう一つの方も一応話しておくぞ――こっちができればその方がいいと思ったんじゃが、なかなか難航しておってな――話さずにおきたかったのじゃが、その様子では、話しておいた方がいいじゃろう。お前の伯父、ルークのことなんじゃが――トリスタン!?」
再び話し始めた祖父の言葉を背中に、走り出していた。
エリザベスは、ちゃんとシュヘル邸にいる。ロイドも。
だけど、こんな時間なのにいるのはそれぞれの寝室じゃない。ロランはその場にいないのに、二人とも――応接室だ。
~~~~~~
「眠れないんじゃないの。トリスタンを待ってるのよ」
「そうでしたか――ホルスト卿とのお話は長引いているようですね」
「ええ、そうね。でもしかたないわ――長引くだけの理由があるもの。簡単な話をしているわけじゃないってことだし、それは先に進むためだから」
だから、待つ。
自分も先に進むために。
「そちらに行ってもいいですか? 一緒に待ちます」
応接室の入り口で足を止めたままのロイドが聞いた。
「どうぞ――ロランは寝てるの?」
「はい――あれから本当によく眠るようになりました。あんな小さい息子に心配されていたとは、お恥ずかしい限りで――」
近づいてきたロイドが突然言葉を止めた。
「ロイド? どうし――」
「あの、何か羽織る物を持ってきます――」
言うなり踵を返す。
軽い足音が遠ざかった。
ああ、そうか。……ナタリーのプレゼントのこれは、とりあえずロイド的にはダメらしい。
長袖のローブだし、裾も長いけど。
それに、中に比べたら全然何ということもないんだけど。……本当に律儀な人だ。部屋に戻った方がよかったかな。
ロイドはリネン室から薄手の毛布を持ってくると巻き付けるようにエリザベスに被せた。
「ありがとう。気を遣わせちゃったわね」
お礼を言われたり謝られたりすると、ロイドは相変わらず困った顔になる。
「慣れない?」
「はい――命令されることに慣れているので、なかなか」
でも、ここで生きていくなら、一緒にいる人に感謝されたり謝られたりすることにも慣れた方がいいと思う。
だけど、不思議だ。
「ねえ、あなたは奥様に対してもそうだったの?」
エリザベスの素直な疑問にロイドはちょっとだけ笑った。
「そうですね――確かに妻の方が上、でした。子どもができてからは特に――今思えば主人はそれも気に入らなかったのかもしれません。それまでなら呼べば何を置いても駆けつけていた私が駆けつけて来なくなったんですから。でも、生き物にとって『子ども』とはそういう存在です」
「そうね――」
月を見上げてロイドが目を細める。
「あの人の息子がまだ小さい頃、山で道に迷って――探しに行ったことがあります。
こんな月の晩でした。明かりがなくても匂いを辿れる私にとっては造作もないことでしたし、見つけたのは邸からさほど離れてはいない場所でしたが、小さな人間の子どもはよほど怖かったのでしょう。
獣姿の私に気づくと怯えて縮こまり、それが私だと気づくと泣き出して――『これから何があっても絶対に手放さない。お前の主人は僕だ』と――とても嬉しかったんです。屋敷に帰って本当の主人である当主に褒められた時よりもずっと。
主人が私に妻を見つけてきた時も、あの子は――もう『あの子』なんて言う年齢ではありませんが――とても嬉しそうに笑っていました。『これでお前にも家族ができる』と。
あの人間は私がいなくなったことを少しは寂しく思うだろうか――それとも、すぐに忘れて新しい奴隷を手に入れるのだろうか――そんなことを考えます。もちろん、あそこに戻りたいとは思いませんが。
あなたは――あれはまやかしの幸福だったと思いますか?」
口もとに浮かぶのはちょっと寂しそうな笑みだ。
幸せ、か。
「そうね――それは『救い』だったかもしれない、って思うわ。どんなときだって『愛』は必要だと思うから。生きていることに意味を見出せなくなったとき、自分が誰かに必要とされているって――無条件で愛されているんだ。ここにいて欲しいって思ってくれる人がいるんだ――って思えることは、ものすごく大切だと思わない? それがなかったら私なんてきっと今は魔女よ。この国は呪われて――滅びに向かっていると思うわ」
ロイドが驚愕の顔になった。
「あなたが(・・・・)――そんなふうに思ったことがあるんですか」
「もちろんよ――私だって人間だもの。こんなところにこんな設定で生まれてきたことも呪った――『記憶』があるから。でも絶望に沈むわけにはいかなかったのよ――信頼されて、その気持ちに応えたい、相応しくありたいって思ったら、周りを恨んでいる暇なんてなくて」
ぐっと拳を作る。
「――私なんてまだまだよ。すぐ揺らぐし、レイラにまで嫉妬するし――でもがんばるわ。出産は怖いし大変そうだから十人は無理かもしれないけど、がんばれば五人くらいは産めると思うのよ? まだ若いし――動物みたいに四、五匹一度に産めないのが痛いところよね――って、ごめんなさい、こんな発言――」
急いで謝ったけれど、ロイドはエリザベスの言葉に怒ることはなく、逆に笑い出した。
「本当に――トリスタンが羨ましい。あなたのような妻がいるとは――」
「あら、ロイドだって絶対いい旦那様だったと思うわよ? 優先度は『主人より奥様』だったんでしょう? それにここの人たち、絶対あなたの妻の座を狙ってるわよ」
その言葉に今度は泣きそうな顔になる。
「こんなふうに月夜だというだけで昔のことを懐かしく思い返したりしているのに、ですか? あの人間は妻を撃った男の息子なのに」
「呪いは解いたもの――『過去に囚われすぎることなく、しあわせな人生を送れますように。怯えず、笑顔で暮らせますように』って――いい思い出は消えないわ」
今度は寂しそうな顔――表情が豊かになったなあ、と思いながら見上げていたら。
「エリザベス――あなたに主人になって欲しい――そう思うのは私のわがままですか?」
それが真摯で、誠実な申し出だというのはわかったけれど、エリザベスはゆっくりとかぶりを振った。
『寂しそう』じゃなくて、心細い顔、だったのかもしれない。
今までずっと奴隷でいたロイドは、自由が少し怖いのかもしれない。守ってくれる人や安心できる居場所が欲しいのかも――でも、そこに必要なのは主従関係なんかじゃない。
「人は平等なものだ、って言ったでしょう――でも、もちろん出て行きたくなる時までここにいていいのよ、それが心配なら。――もちろん労働に対してはきちんと賃金を支払うし、追い出したりしないわ。ここはもうあなたたちの家でもあるんだから」
困惑した顔を見上げる。
「そうだ! ね、ロイド、せっかくだから一つお祈りしてあげる。ロランもいないしこれ以上あなたに魔法を使うことはしないけど――手を貸して」
ゆっくりと伸ばされた手を取って額に当てた。
「いつでもあなたの主人があなた自身でありますように。これからはあなたが選択した人生をあなたが歩む。ロランと二人、出会いに恵まれますように。本当の幸せと自信と――愛に満ちた暮らしを知ることができますように」
手を放して目を開く。
ちょっと泣きそうなロイドの笑顔を笑顔で見あげる。
「大丈夫よ。みんなついてるもの」
保証するように頷いた。
「ありがとうございます――あの、エリザベス?」
「なあに?」
「あなたに、キスをしても――いいですか? 額に――感謝を込めて」
相変わらずの控え目な申し出だけど、目は少しも卑屈じゃない。
「もちろんよ――お友達だもの。でも、感謝しているのは私もだってこと、忘れないで」
「?」
「あなたたちが来てくれて――ロランがかわいくて。トリスタンはどんな父親になるのかなって――腕に自分たちの子どもを抱きたい。私たちの子どもを抱いたトリスタンが見たいって――そう思うようになった。それがとても嬉しいの」
「……育児は大変ですよ?」
そう言って、「にっ」と笑ったロイドの笑顔はさっきまでとは全く違って明るい。
もう一度差し出された手は、握手の形。
「先輩パパが近くにいるのは心強いわ」
その手を握り返しながら答えると、くい、と引かれて――額にちょん、と触れるだけのキスが。
ロイドと対等になれた――そんな気がした。




