143. 小さな不安(エリザベス)
違和感を感じたのは、自分がため息を吐いていることに気づいたからだ。
手を振ってトリスタンを送り出してから、洗い物をしているときに気づいた。洗濯物を干しているときにも。畑に夕食に使う野菜を取りに行ったときも。
それで思ったのは、やっぱりトリスタンのことだ。
「調子が悪いの?」って聞いてみたら、「気配を消す練習をしてるんだよ。レイラに叱られるから」って言われた。
確かに、この頃トリスタンはひっそり(・・・・)としていることがあるけど、それだけじゃなくてなんとなく遠慮しているというか、よそよそしくなった――ような気がする。
具体的にどこがって思うと困るけど。
「ギルドの引継ぎもあって忙しいんだ」って言ってるけど、その理由もちょっと……気にかかった。
確かに住民ギルドでも冒険者ギルドでも、働きたいと希望してお祖父様のお眼鏡にもかないそうな人が見つかった。
冒険者ギルドの就職希望者は三人で、一人は大柄な亜人の男性で、常時ギルド内倉庫での勤務を希望。後二人は、なんと以前エリザベスが呪いを解呪したあの冒険者夫婦で――故郷で結婚して、奥さんと一緒に戻って来たのだという。夫婦そろって冒険者向けの宿屋経営に乗り気だ。
祖父も「やはり戻って来おったか――」と、予想していたような言葉と共に頷いた。ということは合格、なのだろう。
住民ギルドへの就職を希望している二人のうち一人はやはり今回解放された亜人の一人で、猫耳の若い女性。もう一人は地元の人で、エリザベスはまだ会っていないけれど、同じく二十代の女性で――なんとウーリッヒの幼馴染なのだそう――恋人といってもいいのかどうかは微妙なところらしいけれど、話を聞いた限りでは脈ありっぽい感じだ。
そんな感じで就職希望者を迎え、確かに各ギルドにはいろいろ変更が生じている。
住民ギルドにはフランコとティアゴが『出向』ではなく正職員としてそのまま残ることになった。テオは冒険者ギルドから出向の形を当面維持するそうだ。冒険者ギルドも現状はまだまだ人が足りていないので、抜けられるのは困るのだ。
テオ本人は「給料は冒険者ギルド職員の方がいいんすけど、住民ギルドだって悪いわけじゃないし、稼ごうと思ったら休みの日にダンジョンに潜ればいいんで、本当はこっちがいいかなって思ってるんすけどね」と、のんびりした様子だ。
ウーリッヒは十月からしばらく運送ギルドに戻ることになった。
幼馴染の女性と一緒の職場で働くのではなく戻ることにしたのは、運送ギルドの方が給料が高いから&建設工事の建材運び人向けの臨時カードで、ダンジョンに入ってみたいかららしい。将来の生活に向けてバリバリ働きたい&地元住民たちの中で話題のダンジョン三階層までが見たい&温泉を楽しみたいのだそうだ。
住民ギルドが女性にも働きやすい環境だと理解したうえで彼女を送り込み、将来自分が戻りやすいように手配しておいて「目標貯蓄額が貯まったら戻って来たい」とかなり都合のいいお願いをして、みんなに「席が空いてると思うなよ」「彼女もいつまでもフリーだと思うなよ」って釘を刺されたそうだ。
もとからの職員は来月には一人減るとはいえ、そのまま残留が二人だ。それに新しく入るのは元職員の近しい知り合いが一人とまったくの新人が一人――猫耳の女性が不慣れなのは当然だとしても、トリスタンが引き継ぎですごく忙しいって程じゃない、と思う。登録カードの配布はあらかた終わっているはずだし。
それに、忙しいっていう割に夜中にレイラと出かける回数は増えている――と思う。始めた頃は多くても週に三回だったのに、先週は四回だった。
出かける時間も本当に様々で、夕食後すぐだったり、深夜だったり、明け方だったり。出かけている時間の長さも様々で、十五分足らずで帰ってきたり、三時間以上、時には五時間近く出ていたり――。
帰って来れば必ずエリザベスのことを抱きしめてくれるしキスもしてくれる。
そんな時は笑顔だし、ちゃんと好きだって思ってくれてるのがわかるんだ『けど』……。
ゆっくりする時間がある時はその日何をしてきたのかも話してくれる『けど』……当然だけど内容はレイラとの出来事だ。
レイラは少しずつだけれど祖父にも慣れようと努力しているそうで、それはいいことだと思う。思う……んだ『けど』。
この『けど』がつくせいでため息なのだ。
こうなってくると、さすがのロランのかわいらしさでも、それだけじゃ癒されきれない。
ロランはあの日以来夜泣きをしなくなったし、長々と抱っこをせがまれることも減った――というか、『抱っこは好きだから、してくれるならして欲しいけど、遊ぶ方がいい』という感じになった。
ぐっと仔犬っぽくなって、トリスタンにも少しずつだけど慣れて来ている。レイラがいる時はレイラに尻尾で遊んでもらったりもする。
格段に落ち着いたと思う。
その理由は、おそらくロイドだ。
解呪をした翌日、ロランは『パパをたすけてくれた』と、そう言った。
ということは、ロランが泣いていた理由は、撃たれた母親よりもむしろ父親の不調を心配してのことだったのだろう。ロイドの心の安定がそのまま自分の安定につながったみたいだ。
ロイド自身も「目が開いたばかり」と言っていたし、母親やきょうだいたちのことは、やっぱりよくわかっていなかったのかも――なんにせよ、落ち着いたのなら、よかったと思う。
いいことなんだ『けど』、頻繁に抱っこを求める相手がいなくなったことで、一人ぼっちの時間が増えたような――そんなふうに感じてしまう。
あの親子を解呪してから、トリスタンがいない夜に思うことはひとつだ。
「一緒にいたいな……」
ぽそっと呟いて、ついまたため息。
左手の指輪を撫でて、「早く帰ってきますように。怪我をしませんように」そんなことを祈りながらベランダから夜空を見上げる。
まだまだ初秋とはいえ深夜や明け方は少し涼しくなってきているのがますます寂しい。あの二人には艶々の黒い毛皮があるから寒くはないはずだけれど。
そうやって待っていると、時々狩りから帰って来た二人の楽しそうな声が聞こえる時がある。
大抵は捕まえた獲物についてやその日の失敗談で、時にはギルドやこの領地のことだったりもする。レイラも全く気負うことのない自然体で、トリスタンにその日のダメ出しをして――気心の知れた仲間みたいな会話だ。
なのに、なんか。ますます寂しい。
そんなことが数回あって、ある夜。
同じように下から聞こえてきた明るい声に、
「私の旦那様、なのに……」
そう口に出して気がついた。
これって『嫉妬』だ――って。
ぜんぜんそんな感じの会話じゃないのに。それに、二人が出かけているのは仕事上のことだし、相手は未成年の女の子だというのに。
『なんか』と感じる理由に気がついて、エリザベスはまたしてものため息と一緒にガックリした。
「私、何やってるんだろ……」
これ以上ないってくらい大事にしてもらってるのに。みんなのためにこんなに頑張ってる人に、これ以上を求める気――?
自分は、まだまだだ。
トリスタンは、ちゃんと大事にしてくれてる。どんなに遅くに帰ってきても、ちゃんとキスしてくれるし、早朝出て行く時も必ずキスをしてから行く。抱きしめてくれるし、一緒にいられて嬉しい、ってちゃんと態度で示してくれている――レイラに嫉妬する必要なんて、全くないはずだ。
「自信持って、リジー。嫁ポイントは最大限で付与したって言われたでしょう?」
鏡に向かって話しかけた。
それでも、見返して来るのはちょっと不安そうな顔――。
「気になるなら、聞いてみればいいじゃない。それに、やって欲しことがあるなら――ダメでも、言ってみればいい――ため込むよりいいはずよ。ウィルにも約束した。そうでしょ、リジー」
うん。
ガウンを羽織って部屋から出ることにした。
さっき声がしたんだから、もう来るはずだ。
「じゃ、また明日ね――」
「ああ、次は落ちない練習にしてくれよ――おやすみ、レイラ」
「ふふふ、あなたはもっと落ちた方がいいと思う――おやすみなさい、トリスタン」
案の定、そんな会話が聞こえて、階段の下を見やると、二匹の黒豹が親し気な様子で軽く頭をぶつけあったところだった。
そんな仕草に、また小さく胸が痛んだけど――仕方ない。自分だって、生きてるんだし。
レイラはキッチンにでも行くのか、そのまま奥へ。トリスタンは階段に足をかける前に人間の姿に戻って――なぜか上半身裸――のその肌が、かなり傷だらけだということに気がついた。
「トリスタン……? それ、どうしたの?」
おもわずかけた声にびくりとしてこっちを見上げる。
驚きの顔がばつの悪そうな顔に変わった。
「リジー、まだ起きてたのか?」
「その怪我、どうしたの――?」
駆け寄ってそっと手を伸ばせば、怪我はあっという間に消えたけど。
トリスタンはちょっと困ったな、って顔のまま、「ちょっと、上手く木から降りる練習をしてて……何回か失敗したんだ」と説明した。
「木から? なんで――?」
「ほら、猫科ってそういうの得意なはずだろ――? レイラは爪を立てて木から降りるのが苦手だって言ってたから、今日は俺が爪を立てて降りる方を教えて、『くるり』で降りるやつの方は教えてもらって――やっぱり本物だし、レイラは上手なんだよ。俺より身軽だし上達も早い。俺の方は、爪を立てて降りる方はできるけど、やってみたら『くるり』は苦手だった。だけどもとが人間なんだし、随分前にやったきりだったから上手いわけがないよな――まあ、何回か練習したらできるようにはなったんだけど。
やっぱりそういうやり方を聞けると助かるよ――と、まあ、そういうわけで練習してたら服が破けちゃって。怪我はたいしたことないよ、本当に。大丈夫だ」
ちょっとためらってから、「リジーは、こんな時間まで何してたんだ? またロランが泣いたの?」と聞いた。
「ううん。ロランはもう夜泣きはしてないもの――ベランダで空を見てたら声が聞こえたから迎えに出ただけ――あの、トリスタン?」
「うん?」
ちょっと眉が寄ってるけど、機嫌は悪くなさそう――話してみても大丈夫だと思う。
「あのね、お願いがあるんだけど――」
トリスタンがちょっとひるんだのがわかって、少しだけ口に出すのがためらわれたけど、黙っていれば改善するっていうようなことでもないし。
「あの、夜に出かけるの、もうちょっと減らしてくれないかな、って思ったんだけど――ダメ、かな」
トリスタンは『予想外』って顔になった。
確かに、こんなに大切にしてもらっているのに、不安に思うなんてダメだよね、って思うけど。
「……減らして――欲しいの?」
「うん――あの、いろいろがんばってくれてるのはわかるんだけど、あの、できればでいいから、もうちょっと――一緒にいる時間が多い方が嬉しいな、って。
私この頃――こんなふうに思うのは違う、ってわかってるんだけど――レイラが羨ましいって思う。それに夜にトリスタンがいないのは寂しいの――皆がいるっていうのはわかってるのよ? ナイジェルたちも、ロイドたちも――だけど、それはやっぱり違うし。だから、ダメ、かな」
思いきって聞いてみた。
迷惑にはなりたくないし、ダメなら仕方ないんだけど。レイラには仕事として頼みたいことが他にもできたし、とりあえず聞いてみるくらいはいいと思う――いいよね?
そう思いながらゆっくり見上げたトリスタンは――なんだかすごく安心したような顔になって――両手を伸ばして、ぎゅーって、抱きしめてくれた。
のは、いいんだけど。
それは思いっきり不意打ち――!
頬に直に触れたすべすべの温かい肌の感触と、その奥で力強く打っている心臓の鼓動がなんだか――ええっと、とけそうな……っていうか、それでいて私の心臓の方が破裂しそうな……。
だけど私、これ――受け入れてもらえたって思っていいんだよね、きっと。
安心したようで、それでいてすごくドキドキするような。それに、これってここからどうするべき――?
「あの、トリスタン……?」
そーっと顔を上げてみたら、すごく優しいのに、真剣な顔。
いつもよりゆっくりとした、穏やかなのに力強いキスに、心に安心が広がっていく。何かを確認するような、問いかけるような動きに、胸の奥が応えるように震えた気がした。
これって、私を待ってる――ってこと、かな。
脳裏に浮かんだのはいくらでも好きなだけ抱きしめてあげられる、私たちの子ども――トリスタン似の真っ黒な髪と金色の目の男の子――そんな子どもを授かったら、きっとすごく素敵だと思う。
すごくすごく、いいと思う。
答えるかわりにきゅっと抱きついた。
だけどそこでカタリと小さな音がして、トリスタンははっとしたように身体を離した。
「ごめん、こんなところで――遅いし、もう寝よう」
言われて自分もはっとした。
そうだ、レイラがいたんだった。階段の真ん中でキスなんかしていたら、それは出て来られないだろう。
思い出したように羞恥心が襲ってきて、頬が熱くなった。




