141. 逃亡奴隷の告白 (重い)
ちょっと内容が重くなってます。苦手な方は、斜め読みでどうぞ。
静かに開けた目に映ったのは、ロイドの頬を静かに伝わる涙だった。
「ロイド――?」
「あり、がとう、ございます。エリザベス――」
感謝の言葉はいいけれど――。
次々と落ちる涙と一緒に、押し殺した嗚咽も聞こえる。
解呪したつもりで、何かを間違えた――? ううん。幸せになれますように、って祈ったはずだ。
「ロイド? どうしたの? 苦しいの?」
手を伸ばして頬に触れると、ロイドは、涙き顔のままで少しだけ笑った。
小さく首を振る。
「……いえ、自分は生きていていいんだな――って、そう――そう思えたのは、あの商人に捕まって以来初めてのことだったので」
大きく息を吸って吐く。
もう一度小さな笑み。
「……もし、差し支えなかったら、このまま少し話を聞いてもらってもいいですか」
静かな提案は、丁寧に尋ねるかたちになっていても要求だ。珍しい――いい傾向だと思う。
「それは、もちろん――いいわよ」
励ますようにゆっくり頷くと、ロイドは手の甲で頬を拭ってから話し出した。
「耳に優しい話ではないのですが――あなたに聞いて欲しいんです。あの商人に捕まる前の私とロランのことを。
私はハリオネスのある貴族の家の奴隷でした。
今思えば、主人はとても恐ろしい人だった――奴隷が意見を言ったり逆らったりすることは許されませんでした。けれど私にはそれが普通のことだったので、そういうものだと思っていたんです。
それに、そこでの私の扱いは悪くなかった――私は主人のお気に入りで、食事も住むところも他の奴隷たちよりずっと恵まれていたし、家族を持つことさえ許されて――主人が連れてきた人ですが、妻は美しかった。そして子どもたちを四人授かりました。私たちは多産なんです。男の子が三人と女の子が一人。ぶち模様の子や鼻ぺちゃの子もいました。みんな元気で、かわいくて――私は有頂天でした。幸せだ、と思いました」
その時のことを思い出しているのか、ロイドの目じりが下がり、嬉しそうに口角をあげたまま目を閉じる。
なのに次に目を開いた時は、その表情は跡形もなく消えていた。
「ですがある日、主人は――私たちの目の前でロラン以外の三人の子どもたちを水おけに沈めたのです――みんな目が開いたばかりでした。
生まれた子どもたちの中で主人の望むような容姿をしていたのはこの子――ロランだけだったんです。『こいつなら高く売れる、次はもっと見目のいい子どもを産め』――そう言われた言葉の意味はすぐにはわかりませんでした。……妻は正気を失って――いえ、正気だったからこそだったのかもしれません。主人に噛みついたのは当然です。
主人は即座に妻を鞭で打って――その後、銃で右足を――次に左手を撃ち抜いたとき、妻が私を見た。絶望した妻の眼を見た直後、私は即座にロランを咥えて走っていました――主人の『戻れ』という声に逆らった――生まれてから一度も逆らうことのなかったあの声に。
輪がついたままでどうして逆らうことができたのか――それはわかりません。けれどあのままあそこにいることなんか到底できなかった。
せめてこの子には、奴隷ではない生き方をさせたい、そう思いました。
向かったのはモルドネシアです。あそこなら亜人は奴隷ではない生き方ができる――必死で走りました。自分が撃たれていたことにも気づかなかった。
だけどあの屋敷から逃げだしたからといっても、私は手負いで、そもそも野生の獣ではなかったから――当然です。私は自分で餌をとったことなんかない。まだ小さい頃にもらわれてきたんです。――それこそ犬の仔のように。両親の記憶もない。森に入っても、生き物を狩ることさえできない――あっという間にロランは弱っていった。
そんな時にあの奴隷商人に会ったんです。三人が話していた言葉の内容からハリオネスではなくリナリアの人間で、亜人を集めてからそこに行くのだと知りました。即座に人の形をとって『助けてくれ』『連れて行ってくれ』と泣きつきました。
追手がいた場合は撒けるようにと逃げながら何度も川を渡りましたがそれでも油断はできなかった。馬車に乗せてもらえれば匂いも途切れるだろう――モルドネシアにたどり着くことはできなくても、外国に行ってしまえば手は出せない――そう考えたんです。
そんなことをすればロランの首にもあの輪がつけられると知っていたのに」
微かに上がった口角はすぐに戻り、蔑むような声が続いた。
「商人たちは親切でした。親子揃って買い取ってくれるところを探してやる、とさえ言ってくれた。
そうして私たちの命は助かったんです。
けれど、ずっと消えなくて。
あの時主人の命令に背かずにいれば、この子は死にかけたりはしなかった――あんな奴隷の輪を嵌められることも。妻だって、私が気づいて止めていれば――それかすぐに謝って主人に訴えたら、もしかしたら生きていたかもしれない。
そんなのは世迷言だってわかっています――奴隷なんていくらでも代わりがいる。あの人が妻を助けてくれたはずがない。
だけど、飼い犬以外の生き方をしたことがない自分に何ができるのか――せっかく救われた命なのに、あの子に何を教えられるのかもわからない――」
ロイドは一度目をつむると、静かに開いて外を見て――それからエリザベスに視線を戻した。
「さっき――あなたが手を握っていてくれた時に――妻に会いました。『あなたのしたことは間違っていない。あの子のことを頼む』と――『生きて』と、そう言われた。ありがとうございます」
拭ったはずの頬はとめどなく落ちる涙でしとどに濡れていた。
ロイドが抱えていたのは、そういう、過去。
呪いにも等しい酷い過去――。
「……ロラン、は覚えているの?」
「見えていたとは思えません。ですが漠然とはわかっているのでしょう、こんなふうに泣いている以上、おそらく」
今は腕の中で落ち着いた寝息を立てている息子を優しく見つめる。
「そっか……ロランが泣くの、当然よね」
そっと手を伸ばして撫でれば、小さな吐息。
確かにものすごくかわいい子だと思う――だけど高く売れる、だなんて。動物じゃないのに。ううん。たとえ動物に対してだっておかしい。そんなふうに軽々しく命を扱うなんて。
主人だったというその貴族は、生まれた命を愛おしいと思わなかったのだろうか。
弱くて、小さくて、助けがなければ生きられない存在を、守りたいとは思わなかったのだろうか。
しばらくそうやってロランを撫でていた。
「……エリザベス? もう遅いですし、部屋に帰った方がいい」
「え? あ、そう――そうよね」
言われて立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気がついた。
「あ……ごめんなさい。魔力切れみたい――私、ここでトリスタンを待つから、ロイドは部屋に帰って。毛布か何か持ってきてくれると助かる――」
「ロランを置いて来ます――その後で運びますから。すみません、私たちのために――」
「それはいいのよ。でも運ぶのは――」
「置いて来ます」
きっぱりと言い切ってロイドは立ちあがった。
部屋に戻ったらしく、ほどなくロランを置いて戻って来た。
「あの、気持ちはありがたいけど、運ぶのは本当にいいから――」
「あなたは恩人です。こんなところに一人で置いていくわけには行きません」
「だけど――」
「心配する必要はありません。手を出したりしません――どんなにあなたが魅力的でも。私には、愛する息子がいますから」
言うなり軽々と抱きあげて、あっという間に運ばれた。
ベッドの上に降ろし、礼をして出て行こうとする。
その背中に声をかけた。
「あの、ロイド、ありがとう――あの、一つだけ――解呪のことなんだけど、他の人には黙っててくれる? 私の特異体質のことは広まると困るの――はわかるでしょう? それにあれは簡単にはできないし、トリスタンもまだ詳しくは知らない部分があるの。お祖父様が『近いうちに話す』って言ってるから」
「わかりました。言いません。おやすみなさい」
はっきりと言い切ってドアを閉める。
「おやすみ、なさい……か」
静かに言ってエリザベスはもぞもぞどベッドにもぐり込んだ。まだちょっと温かいけど、重たい話を聞いたせいか、凄く寂しい。
「トリスタン、遅いな……」
魔力のこととかじゃなくて、こういう時、一緒にいられたらいいのにな。
小さく息を吐いて、トリスタンがいつも使う方の枕に手を伸ばし、エリザベスは目を閉じた。




