127. 解呪
一瞬で背筋が凍った。
なんだ、これ。
視線を上げるわけにはいかない。絶対そこにいるのは人間じゃないし、自分に死を齎す者、だ。
かたかたと身体が震えた。たぶん今日が俺の命日なんだと思う――。
なのに。
「お祖父様! 早かったですね――」
って、嬉しそうな声でエリーが駆け寄って。
「あれ、お祖父様も来て下さったんですか?」
って、のんびりした声で、リディアまで。
ダメだ。近づいちゃいけない。
そう思うのに声も出ない。身体も動かせない――怖い。
ピクリとでも動いたら死ぬ――。
「ふぉっ、硬直しとるか。お前はなかなかよくわかっとる――見どころがあるな」
化け物が喋った。
「――それならお前が持っとってもええぞ? わしゃいらん。お前は知っとるからのう、そのまま解呪でもええじゃろうが――その場合、邪な考えは持つなよ? それに喋ったら命はないぞ?」
「ええっ!? お祖父様、何をいきなり――」
リディアの驚いた声。
ダメだ、喋るな。機嫌を損ねたら殺されるぞ――そう伝えたいのに、恐怖で声が出ない。眼も向けられない。
「お祖父様――鶏小屋と温泉に行けなくなっちゃったんですって。嗅覚が変わって――それなのになんで『持っていてもいい』になるの?」
エリーの声。
「ファイヤーリザード、じゃろう? 炎系の守護がついたはずじゃ。しかも鱗付きじゃ。通常の刃物は通さんぞ?」
え?
「エリザベス、そこの調薬ナイフでこいつの腕を切ってみろ」
は!?
「嫌よ!!」
ありがと、エリー。
即否定してくれたことに心の中でお礼を言う。
「大丈夫じゃ、傷もつかん。……ハンナさん、やってみるか?」
「大旦那さん、そんなこと言われたって普通は嫌に決まってるでしょうに……擦るくらいでいいですか?」
慣れているのか、ハンナさんは平気そう――擦るくらいなら、まあいいかと思うけど。
シャツの左腕の袖がまくり上げられて、カリカリ、と擦る感じ――。
え、カリカリ?
「うわぁっ!?」
目をやっておもわず声が出た――。
「なに、これ、なんで!?」
ハンナさんが刃物を当てている部分の俺の腕に、真っ赤な鱗――。
「ほらな? わしがやれば切れるかもしれんが普通の刃物では切れん。炎もじゃ。リディア、そこのコンロをこっちに寄越して火をつけろ」
言われるままにリディアが調薬&お茶用のミニコンロに火をつけた。
「ナイジェル、手をかざしてみろ」
恐る恐る、手を伸ばす。
あれ?
まったく熱さを感じない――手をひっくり返してみると炎に向かっていた掌にはまたびっしりと赤い鱗だ。
「便利な呪いじゃが、本当にいらんのか?」
化け物に聞かれて――一瞬迷ってかぶりを振った。
便利かもしれないけれど、鶏小屋と温泉に近づけないのはマズい。管理人失格だ。
「それなら――運ぶのは面倒じゃし、正気も保っとるようじゃからお前たちはシュヘル邸に帰れ。エリザベス、一時間ほどしたらトリスタンをやる――ナイジェル、エリザベスの薬も飲んでおけ――泉の方じゃ。今日はもう潜らずにおとなしくしておれ。リディア、よく見てやれ。そうそう、エリザベスが自力で部屋に行けなかった時は運べ――トリスタンにはわしの腰痛が悪化して治療したと言っておく――余計なことは喋るなよ。いいな?」
最後の一言と一緒に化け物度合いが増した――冷汗が出て、ただ頷く。
「は~い」ってのんびりしたエリーの声と一緒にポーションを渡され、化け物が出て行く。
「何があるの?」
尋ねるリディアの声。
「移動しながら話すわ。行きましょ」
ってエリーが返す。
俺はこの場から化け物がいなくなったことに大きく安堵の息を吐いた。
だけど戻って来るかもしれない――そんな気持ちでびくびくしながらシュヘル邸まで歩く。
その途中で気がついた。
この呪われた状態は、すごい。普段なら全く気にならないのに、地面の足跡がものすごく多い――中には特徴的なブーツの跡とかもあるし、あきらかに情報過多だ。それに食堂から漂う香辛料の臭いは、かなりキツイ。人の臭いもすごい。口を開けるとますますはっきりする。
はっきり感じられるのは悪臭だけじゃない。
体臭のきつい人たちが多い中で、この二人――リディアとエリーは、なんていい匂いがするんだろう――熟れたイチゴみたいな。頬とか耳の後ろとか、舐めたらきっとものすごく甘いに違いない――って思ったところで化け物のことを思い出した。
エリーはダメだ。絶対ダメ。即座に舌を切り落とされる――っていうかこんなことを考えたってバレたらもうそれだけで首を飛ばされる。
さらにびくびくしながらあたりを窺った。――さいわいあの化け物の気配はないけど、怖い。
シュヘル邸に着くと、エリーは俺に椅子に座るように言って、自分はすぐ側に膝をついた。
「呪いを解呪するから手に触るわね――リディア、ナイジェルの反対の手を握っていてくれない?」
ここまでくる道々、ダンジョンで受けた呪いを解除できるのが今のところエリーだけなのだという話を聞いた。かなりの魔力を消費するから、魔力値の高いトリスタンがそれを助けているってことも。
なんだよ、この二人――もう本当にお互いしかいないって運命づけられてるじゃないか。いったい何をぐずぐずと迷ってたんだ。
そう思って顔を顰めたら、エリーが困り顔になった。
「トリスタンは――まだ知らないの。近いうちにお祖父様が話すと思うから、それまでは二人も黙っててくれる?」
「なんで黙ってるんだ?」
驚いた。さっさと話してしまえばいいのに。
この二人は間違いなく最高の組み合わせだ。魔力のやり取りなんて普通はできない。それこそ、親子とか、夫婦でないと――いや、それだってうまくいかないことの方が多いって聞いてる。
「私が呪いを解いているのは――お祖父様が殆どなの。ダンジョンに潜って魔物を減らすのはここの領主の役割なんだけど、そうすると呪いをもらうことがある――お祖父様は一番深く潜っているから、呪いをもらう確率も高いの。いずれはトリスタンも――それはわかるでしょう?
私、トリスタンにはそれを負目に感じて欲しくなくて――だけど、トリスタンはそういうの関係なしで、ちゃんと私がいいって言ってくれたから――近いうちに話せると思うの」
そう言ってエリーはダンジョンの方を振り向いた。
なぜか「『自分がいい』と言ってくれた」と言った時の嬉しそうな顔ではなく、すごく心配そうな顔で。
とにかく椅子に座って、言われたとおりに目を閉じた。
とられた右手から流れ込んでくる癒しの力は、『シルヴァヌスの子』の時に見た聖魔法――ウィリアムとリュカと、絶対誰にも話さないって約束したアレだ。
ゆっくりと、暖かく包まれていく感覚。
不安が消えていく。
愛されている幸せを感じる。
無償で全てを受け入れられている感覚は、最上――ああ、リュカが言ったとおりだ。やっぱりこの人は――そう。この人がいれば、いつだってこんなに幸せで、迷いなく、温かく、愛されて――その深さになんだか泣きたくなった。
こんな幸福感はこれまでに感じたことがない。それともあったのだろうか。
ぼんやりと幸せに浸りながら、身を任せ――欲しい。
この手を流れてくるものがもっと。
欲しい。
……だけどなんだ、それだけじゃない――どこからくる? このもう一つの感情は。
温かくて穏やかな幸せの中に混じる、違和感のある感情の流れ。
あんまり喜ばしくないな――ああ、だけどこれも愛情だ。これは、心配か? でも心配だけじゃない。迷いも、不安も山盛りの、だけど間違いなく俺だけに向けられた愛情。
そうだ。
俺は――これを守らないと。
温かい幸せから手を離す。こっちは大丈夫だ。守らなくていい。
俺はこれ――この不安で山盛りの方を守ってやらないと。
目を開けて、自分が選んだ愛の持ち主を見つめる――クルクルの髪の毛を撫でる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって」
笑いかけると、「心配するわよ」と頬が膨らんだ。
少し足元がおぼつかないエリーを、リディアと一緒に一番近い二階の一室に送った。ベッドに入ったことを二人で確認してちゃんと休まる。
午後のお茶の準備をしているところにトリスタンがすごい勢いで飛び込んできた。
「あのジジイがまたリジーに腰痛を治させたって――リジーは!?」
「階段を上がってすぐの部屋で寝て……」
リディアの答えは最後まで聞かれることはなかった。
ダッシュで駆け上がって行った背中に、二人で顔を見合わせてから笑う。
エリーが嬉しそうに微笑みながら寝てるのを見たら、あいつはきっとまたスライムになるに違いない。




