114. 思案
遠くに伸びる水平線。
クジラが潮を吹き上げて泳いでいく。
アリアンヌが歓声をあげ、アントニーが感嘆の声を上げて目で追う。
ジョナサンは無言のまま、じっと水平線を見つめている。
ジョナサンが着いた翌日。エリザベスはダンジョンに来ていた。
アリアンヌとアントニーだけではなく、ナイジェルとリディア、リリアナも一緒だ。
一階層の温泉ではリュカが魔法陣を使った進入禁止区域の設定中だ。ホルストも一階層に来ていて、建物建設の進み具合を確認しながら工業、運送、冒険者の各ギルドから派遣されてきた作業員の働きぶりを観察している――さすがにホルストの目の届く所で手を抜いたりさぼろうとする者はいないので、ナイジェルとリディアも休憩を兼ねて一緒に三階層まで降りてきたのだ。
二階層には既に小道に沿った柵が完成していた。目に見える範囲には一つしかないけれど実は柵は二つあって、それぞれの柵には通り抜けできる冒険者カードが登録してある。仕組みはダンジョン入り口の柵や扉と同じだ。
小道の両脇にある一つ目の柵が抜けられない者はこの階層は単に通り抜けるだけの一般冒険者で、定住している冒険者の中でも牧畜中の動物を狩る許可のある冒険者だけが抜けられる。さらに奥にある乱獲防止の名目で建てられた二つ目の柵は彼らにも抜けられず、両方抜けられる者は泉にも行けるようになっている。
無理やり乗り越えようとすれば勝手に温泉に入ろうとした時と同じ要領でダンジョンの外に排出される仕組み――リュカとアントニー苦心の魔法陣と付与魔法の結果だ。
冒険者ギルドに申請してギルドが狩猟許可を与えた者の登録者名簿と確実に連動させるために、トリスタンは朝から冒険者ギルドにこもっている――昨夜も領地内の人間と領地の境界線を越えた人間の把握について祖父と遅くまで話し合い、祖父が帰った後も領地の地図と睨み合って準備をしていた。
住民台帳のようなものも作成中で、それについてはなんと宿屋の主人をはじめとした数名の住民が「手伝う」と申し出てくれた。
昨日のジョナサンの言葉が功を奏したらしく昨晩は酒場での喧嘩はなかったし、冒険者同士の揉め事も今のところない。それに今日は住民たちの目が柔らかくなったように思えて――家から診療所、そしてダンジョンまでの道のりが少し恥ずかしかった。
気持ちのいい風が抜けるダンジョンの三階層で、エリザベスは小さなため息を吐いた。
領地内のことは順調に進みだした。
今の気がかりは一つ。
そして今日も、会えないみたい。
ダンジョンに潜る時のエリザベスはいつもトリスタンの伯父、ルークを探している。
けれどルークにはあれから一度も会えていない。
泉の水を汲みに行って覗いた時に、一度だけ水面に姿を見たような気がしたことがあったけれど、その時も出て来てはくれなかった。
いつでも誰かが一緒にいるせいなのだろうと思う。けれど、エリザベスはダンジョン内ではまず一人になることができない。ホルストが「絶対にエリザベスから目を話さないように」と話しているからだ。
ホルスト自身もまだ会えていないようだ。
祖父も伯父も、トリスタンをダンジョンに入れたくないというところは共通しているようだったし、うまくルークを説得してホルストと入れ替わって外に出て来てもらうことができれば――そしてトリスタンに手伝ってもらうことができれば、呪いの解呪ができると思うのに。
あれからずっと気になっている。
『久しぶりに人と話せて楽しかった』そう言っていた。
あの時もっと話せていれば。あの人が外に出られるようになれば。
そうすれば、新しい恋だって――いつかあの寂しそうな金の瞳にも笑いが戻るかもしれない。
自分がここに来たのにはきっとそんな理由もある。そう思う。
まずは呪いを解く方法があることを伝えたい――それなのに、会えない。
そしてそのことに少しだけほっとしている自分がいることが苦しい。
「トリスタンを魔王にしなくて済むようにがんばるから」「私に会ったことは秘密に」
今は言われたその言葉を盾に、トリスタンにもホルストにも黙っているけれど、ルークを説得できたら――解呪するためには、トリスタンに全てを話さなければなくなる。
リュカが『祖父さんにはトリスタンに伝えるのは待つように言うよ』って言ってくれたシュヘル家の内情を。
伯父の現状と、シュヘル家が受け継ぐダンジョンと魔王の関係。
いずれトリスタンも同じようにダンジョンに潜ることになること。
そこにはエリザベスの能力が、どうしても必要になることも。
それを話したら、トリスタンは――エリザベスを、どんな目で見るだろう。まさかとは思うけれど手放すことのできない道具とか――。
離婚されることはなくなると思う。だけどそれはトリスタンに我慢を強いることになるのかも――自分は、たとえトリスタンが他の人生を望んで別の誰かを選びたくなっても『自分を選べ』と強制できる立場に――そんな存在になってしまう。
『ずっと』狙っていたって言っていたそのままの気持ちで、自分を選んではくれなくなる――。
それが嫌だと思ってしまう自分は、酷い人間だと思う。
『やっとちょっと恋人っぽくなってきた』その時間がもう少し欲しい。もう少し育てたい。
ぎゅっと手を拳にして首を振る。
今、一番辛い思いをしているのはルーク伯父様だ。自分のことなんか考えてどうするの。まずは伯父様と話すことでしょう。
我儘な自分を心の中で叱咤する。
「ルーク伯父様……どこにいるの?」
ぽつりとつぶやく声は潮風に消えて、当然ながら返事はない。
「エリー、もう帰ろうか?」
友人の声に我に返った。
「ジョナサン、もういいの? 私は三階層までしか入れなくても、あなたたちはもっと深くまで潜ってもいいのよ?」
「でも……」
躊躇う様子に促した。
「私なら上に戻ればいいんだし――一階層にはリュカもお祖父様もいるんだし」
「私も一緒に戻るわ。ダンジョンの中ではお姉様と一緒にいろって言われたし、素材にも魔獣にも興味はないし」
「私もエリーと戻る――足湯に入りたい。明日には帰るんだし、今のうちに」
アリアンヌとリリアナがそれぞれ言うと、リディアも「私も戻る。みんなといたいし」と追加した。
「じゃあ、せっかくだから僕はもうちょっと入ってみようかな――ナイジェル、一緒に来てくれるか?」
ジョナサンが聞くとナイジェルが頷いた。
「アントニーはどうする?」
「僕も潜ってみる――素材があれば見たいし。だけど、リュカのところまで送るよ」
心配そうにリリアナに向ける視線。
いいなあ。
微笑ましく羨ましく見ていると、アリアンヌがエリザベスの手を取った。
「行きましょ、お姉様」
リディアもアントニーに声をかける。その顔はちょっとやれやれって感じ。確かに、アントニーはナイジェルよりずっと過保護だ。
それでもリリアナは嬉しそうで――表情が優しい。そこは二人それぞれの在り方の違いだと思う。
リディアがおかしそうに言った。
「三階層だし、送らなくても大丈夫よ。エリーがいる時に魔獣が出たことなんかないもの。唯一の例外があの『クジラ』ってやつ――だけどあれだってここまでは来ないし、私もいるし、リリーは潜るんじゃなくてのぼるんだから」
正しく言えば『クジラ』も魔獣ではなく普通の生き物なのだが、狩られたら気の毒なので、そこは否定せずに魔獣だという認識が広がるままにしてある。
「でも――」
「大丈夫よ。エリーだけじゃなくてアリーもリディアもいるし。心配なのはあなたの方――ちゃんと回復薬を持って行ってね。ナイジェル、お願いね」
穏やかに言うリリアナに、アントニーがちょっとむっとした顔をする。
「リリー、ナイジェルの剣技と僕の魔法を比べる気だったら――」
「そうじゃないわ、誰が一緒でも心配だってだけ。あなたもそうでしょう? 気をつけてね」
そう言われてようやくアントニーが納得した顔になる。
「二階層から卵を取って行きましょうよ。温泉卵を作りたい――エリーが一緒だし、たくさん取れたらリュカと作業をしている人達にもあげられるかも」
「それって何個必要になると思うの? 持てないわよ」
賑やかな面々にナイジェルが笑う。
「卵なら俺たちが帰る時に持って行ってやるから、自分たちの分だけにしとけよ。だけど取り過ぎるとエリーがへばったりしないのか?」
問いかけられてエリザベスは首を横に振った。
「私なら大丈夫よ。こうだったらいいなって希望はしても、ダンジョンの中身を出しているのは私じゃないもの。ダンジョン自体が出してくれてるって感じだから――」
「そうか。じゃ、遠慮なくもらって帰ろう――鶏もいい?」
「いいわよ、もちろん。だけど今日の夕ご飯はまたバーベキューの予定だから、鶏はまた明日よ?」
「了解~、じゃ、行って来る」
「気をつけてね」
ジョナサンとナイジェルとアントニーは四階層に繋がる下り階段に向かい、エリザベスとアリアンヌとリリアナとリディアは海岸を離れて二階層へと階段を上る。
草原を抜けて林に入って少し行ったところで道をそれるとすぐに、一般冒険者立ち入り禁止区域の柵がある。さらにその先――狩猟許可者用の土地の奥に進むと養鶏スペースがあり、その中央にはアントニーお手製の鶏小屋があるのだ。




