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境界技師の観測録 〜見えるだけの俺、なぜか世界の呪いまで剥がしてしまう〜  作者: 空乃 カナタ


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第六話 北門酒場の境界技師

 その夜、冒険者ギルド北門支部の酒場は、いつもの三倍うるさかった。


 卓を囲む冒険者たち。

 壁際で声を潜める薬師見習い。

 腕に包帯を巻いた兵士。

 神殿の紋章をつけた見習い浄化師。


 誰もが、昼間の北門で起きた異常について話していた。


「北門の結界が割れたって本当か?」


「本当だ。白い紋が一つ砕けた。俺は壁上にいた」


「おいおい、北門の結界って魔獣避けだろ。何が来たんだよ」


「人の形をした黒い何かだ」


「何かって何だよ」


「俺にも分からねえよ。腕が長くて、背中が曲がってて、体中に黒い石が張り付いてた。矢が刺さっても血が出ねえ。代わりに灰色の粉が落ちる」


 灰色の粉。


 その言葉だけで、酒場の空気が重くなる。


 昼間、北門補給所で兵士三人が倒れた。

 指先が黒くなり、意識を失った。


 原因は、傷薬に混じっていた異物。


 柔葉草に似た、五本葉脈の草。


 ギルドの掲示板には、すでにレンの字で大きく注意書きが貼られていた。


 ――灰色の粉、黒い石、五本葉脈の柔葉草に似た草。発見しても触れるな。北門支部または神殿へ報告。


「補給所の兵士は助かったのか?」


「命は繋いだらしい。セリア様が処置した」


「さすが浄化師様だな」


「いや、それだけじゃない」


 包帯を巻いた兵士が、低い声で割り込んだ。


「最初に持たせたのは、昨日来た身元不明の男だ」


「昨日来た?」


「ああ。街道脇で倒れてたところを、リナが拾ったとかいう奴」


「そんな奴に何をさせてるんだ、北門支部」


「俺もそう思った。だが見たんだよ。黒くなった指から、灰色の粉が浮いて落ちるところを」


 酒場の空気が、また一段静かになる。


 薬師見習いの少女が、杯を握りしめた。


「呪染を……剥がしたってことですか?」


「そう見えた」


「そんなの、浄化師でも簡単にはできませんよ」


「だから騒ぎになってる」


 別の冒険者が身を乗り出す。


「そいつ、何者なんだ?」


「ミナトって名前らしい」


「ミナト?」


「リナがそう呼んでた」


「聞いたことない名だな」


「本人も自分のことをよく分かってないって話だ」


「一番怖いやつじゃねえか」


 誰かが乾いた声で笑った。


 その笑いは、すぐに消える。


 怖い。

 だが、気になる。


 その感情が、酒場中に広がっていた。


「薬草庫でも異物を見つけたんだろ?」


「葉脈が違うって言ったらしい。柔葉草は三本、混ざってた草は五本」


「それは薬師なら分かる奴もいるんじゃないか?」


「匂いも違うって言ったそうだ」


「薬師か?」


「違う。昨日この街に来たばかりだ」


「じゃあ何で分かるんだよ」


「境目が見えるんだと」


 その言葉に、酒場の数人が顔を見合わせた。


「境目?」


「本人がそう言ったらしい。薬草と異物の境目。毒と体の境目。畑と地下の境目」


「待て。最後のは何だ」


「北の薬草畑で、黒い石が出たんだよ。そこから灰色の煙が噴いた」


「畑から石?」


「俺も見た。燃えてないのに煙が出て、草が灰色に染まってた。そしたらミナトが黒い石に手を伸ばして……煙が止まった」


「盛ってないか?」


「少しは盛ったかもしれん。でも煙は本当に止まった。灰色だった畑も、緑に戻ったように見えた」


「ように見えた、か」


「近づくなって怒鳴られてたからな。完全に戻ったかどうかなんて分からねえよ。ただ、あの場にいた全員が止まったのは見た。レンさんもセリア様もだ」


 レンの名前が出た瞬間、疑っていた冒険者たちの顔つきが変わる。


 北門支部の倉庫番。


 今はそう名乗っているが、古い冒険者ほど知っている。


 昔、北の魔獣討伐班にいた男だ。


 嘘や誇張を嫌い、危険を軽く見る者を容赦なく叩き出す。


 そのレンが現場にいて、否定していない。


 それだけで噂は重みを持った。


「そのレンさんも無茶したぞ」


 兵士が苦い顔で言った。


「黒い異形を三秒止めるために、城壁脇の足場から降りた」


「は?」


「短剣一本で、黒い石の隙間を突いた。刃は折れたが、異形は止まった」


「元討伐班の悪い癖が出てる……」


「その三秒で、ミナトが結界に入り込んだ灰色の線を切った。セリア様が白い光で紋を塞いだ」


「何だその連携」


「昨日来た身元不明を中心に作戦を組むなよ」


「組まなきゃ北門が落ちてた」


 兵士の一言で、酒場は再び黙った。


 北門が落ちる。


 それは冗談にできない。


 この街の北側には、廃坑がある。

 十年前に閉じられた、古い魔鉱山。


 魔鉱毒。

 鉱滓草。

 灰色の粉。

 黒い石。


 昼間の出来事は、全部そこへ繋がっている。


「俺は、ミナトが素手で異形を砕いたって聞いたぞ」


「違う。砕いたのは異形の中の線だ」


「お前も何を言ってるんだ」


「俺も分からねえよ。でもそう見えたんだ。あいつが何かを掴んで、外して、そしたら異形が崩れた」


「崩れた後の粉は?」


「セリア様が封じた。近づくなってレンさんが怒鳴ってた」


「なら近づかない方がいいな」


「命が惜しけりゃな」


 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


 その音に紛れて、薬師見習いの少女が小さく言った。


「境界技師……」


 周囲の視線が集まる。


「何だって?」


「浄化師というより、技師みたいだと思って。境目を見て、分けて、閉じるなら……境界技師、としか」


 誰かが茶化すように笑った。


「境界技師ミナトか」


「急にそれっぽいな」


「本人が聞いたら困りそうだ」


「言うだろうな。『俺は技師じゃありません』って」


「いや、『境目が見えるだけです』だろ」


 今度こそ、酒場に笑いが起きた。


 重かった空気が、少しだけ緩む。


 だが、それも長くは続かなかった。


 扉が開いた。


 冷たい夜風と一緒に、ギルド職員が一人入ってくる。


 手には新しい通達板を持っていた。


「北門支部より追加通達!」


 酒場中が振り返る。


「明朝より、北門周辺の立ち入りを制限する! 冒険者各位は、北の廃坑方面への単独行動を禁ずる! 灰色の粉、黒い石、異臭のある草を発見した場合、絶対に触れるな!」


 ざわめきが広がる。


 職員は一度息を吸い、続けた。


「また、北門で確認された異形は一体のみではない可能性がある」


 酒場の笑いが完全に消えた。


「北門支部の現地報告によれば、廃坑の奥に複数の異常反応あり。今後、ギルドと神殿は合同調査隊の編成準備に入る。詳細は追って掲示する」


 職員が通達板を壁に打ちつける。


 木槌の音が、酒場に重く響いた。


 沈黙の中、さっきの冒険者が低く呟く。


「境界技師、明日も働くことになりそうだな」


 誰も笑わなかった。


 暖炉の火だけが揺れている。


 その火の向こう、壁に貼られた通達板には、太い文字でこう書かれていた。


 ――北の廃坑、再調査。

次話、噂の中心にされたミナトへ、ギルドと神殿から正式な聴取が入ります。本人の知らないところで生まれた“境界技師”という呼び名が、廃坑調査に向けて重くなっていきます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。

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