第五話 境界を掴む手
――見つけた。
頭の奥に響いた声は、耳で聞こえたものではなかった。
意味だけが、灰色の線を通って流れ込んでくる。
開け。
戻せ。
通せ。
そんな言葉にならない圧が、額の奥を押してくる。
「ミナト!」
リナさんの声で、俺は息を吸った。
指先が勝手に動いていた。
城壁の下に立つ異形。
その体から伸びる灰色の線。
結界の白い紋を砕いた、毒のような流れ。
俺の指は、その先端を掴んでいた。
実際に触れているわけじゃない。
距離はある。
けれど、その線は砕けた結界を通って、俺の目の前にある白い紋にまで入り込んでいた。
結界に触れている。
こちら側へ入り込んでいる。
だから、掴める。
「何をしてる!」
レンさんが叫ぶ。
「結界に入り込んだ灰色の線を掴みました!」
「掴んだって何をだ!」
「俺にも分かりません!」
「分からねえなら離せ!」
その通りだ。
でも、離せなかった。
離した瞬間、砕けた白い紋から灰色が城壁の内側へ流れ込む。
街と外を分けていた薄い膜に、穴が開いている。
そこから異物が入り込もうとしている。
「離したら、中に入ります」
セリアさんが息を呑んだ。
「結界の裂け目が見えているんですか?」
「白い線が切れています。そこに灰色が入り込んでます」
「……ありえない」
「セリア様、ありえなくても今起きてます!」
リナさんの声が震えている。
異形が三歩目を踏み出した。
城壁の上で兵士たちが弓を引き絞る。
「撃て!」
レンさんの号令。
矢が一斉に放たれた。
十本近い矢が夕闇を裂き、異形の体に突き刺さる。
いや、突き刺さったように見えた。
黒い石の鱗に当たった矢は、乾いた音を立てて折れた。何本かは肩や胸に刺さったが、異形は動きを止めない。
「効いてねえぞ!」
「足を狙え!」
二射目。
矢が膝に集まる。
異形の脚が一瞬揺れた。
だが、倒れない。
傷口から血は出なかった。
代わりに灰色の粉がぼろぼろと落ち、地面に触れた草を黒く染める。
「人じゃない……」
リナさんが小さく呟いた。
俺の視界でも、それは同じだった。
あの体には、命の線がない。
肉と骨の境目も曖昧だ。
黒い石と、灰色の糸と、人の形をした皮だけが混ざっている。
「セリア、結界は直せるか!」
「割れた紋を補助することはできます。でも、灰色の侵食を外さないと塞げません!」
「つまり?」
「ミナトさんが掴んでいるものを、先にどうにかしないと無理です!」
全部こっちに来た。
俺は乾いた笑いを漏らしそうになったが、そんな余裕はなかった。
灰色の線が重い。
手で綱引きをしているわけではないのに、腕が震える。
線の向こうから異形が引いている。
いや、異形のさらに奥。
廃坑の奥にある何かが、俺の掴んだ線を引き戻そうとしている。
――開け。
「うるさい」
俺は歯を食いしばった。
境目を探せ。
灰色の線そのものを切ろうとするな。
どこから来て、どこへ入り込もうとしているのかを見る。
異形。
結界。
街。
廃坑。
その四つが一本の線で無理やり繋がれている。
本来、繋がってはいけないもの。
なら、そこに境目がある。
「レンさん、少しだけ止めてください」
「あいつをか?」
「はい。動かれると線が暴れます」
「簡単に言うな!」
レンさんは怒鳴りながら、城門脇へ視線を走らせた。
そこには防衛用の油壺と拘束鎖が積まれている。魔獣が門へ突っ込んできた時の備えなのだろう。
レンさんは一瞬で判断し、兵士たちへ手を振った。
「油壺! 足元を狙え! 燃やすんじゃねえ、滑らせろ!」
「はっ!」
兵士たちが小さな壺を投げる。
異形の足元で壺が割れ、ぬめる油が石畳に広がった。
異形が踏み出した瞬間、片足が滑る。
体勢が崩れた。
「今だ、鎖!」
城門脇から太い鎖が投げ下ろされた。
兵士二人が滑車を使い、異形の肩と腕に鎖を引っかける。
ぎちり、と金属が鳴った。
異形が首を傾ける。
穴のような目が、城壁の上の俺を見た。
――邪魔。
今度ははっきり分かった。
その意味が流れ込んだ瞬間、灰色の線が膨れた。
「ぐっ……!」
視界が揺れる。
頭の奥に杭を打たれたみたいな痛み。
リナさんが俺の背中を支えた。
「ミナトさん!」
「大丈夫です」
「それは禁止です!」
「今だけ許してください」
俺は線を握り直した。
灰色の線の表面に、細かい裂け目がある。
そこから黒い粉が結界へ染み込んでいる。
違う。
これは一本の線じゃない。
何本もの細い糸を束ねて、太い線に見せている。
毒。
石。
人の形。
廃坑の奥の何か。
全部が混ざっている。
なら、ほどける。
「セリアさん」
「はい!」
「白い線を押さえられますか。砕けた紋の周りだけでいいです」
「やります」
セリアさんが水晶灯を掲げた。
白い光が胸壁の紋へ流れ込む。
砕けた紋の周囲に、薄い網が広がった。
灰色の侵食が少しだけ遅くなる。
「レンさん」
「次は何だ!」
「あと三秒、あれを止めてください」
「三秒だな!」
レンさんが城壁脇の点検足場へ飛び移った。
「レンさん!?」
俺が叫ぶ間もなく、彼は壁に打ち込まれた足場金具を蹴り、鎖を伝って地上へ滑り降りる。
「元討伐班は無茶するなって……!」
兵士の一人が青ざめた声を漏らした。
レンさんは聞こえていないふりをして、異形の正面に着地した。
短剣を逆手に構え、黒い石の隙間へ突き立てる。
刃が折れる音がした。
けれど異形の動きが、一瞬止まる。
「三秒で済ませろ、ミナト!」
一秒。
俺は灰色の束の中から、結界に入り込もうとしている糸だけを探した。
二秒。
街の内側へ向かう流れと、異形の体へ戻る流れを分ける。
三秒。
その境目を掴む。
「ここだ」
切る。
ぱちん。
今までで一番鋭い音が、耳の奥ではなく、城壁の上に響いた。
灰色の線が弾けた。
結界へ入り込んでいた流れが、異形の方へ押し戻される。
砕けた白い紋の周りで、セリアさんの光が一気に広がった。
「今なら塞げます!」
セリアさんが叫び、水晶灯を胸壁に押し当てる。
白い網が切れた部分を覆った。
完全ではない。
でも、穴は塞がった。
街へ流れ込もうとしていた灰色が、結界の外側で弾ける。
異形が初めて声を上げた。
人の声ではなかった。
石臼を無理やり回すような、低く濁った音。
その体から灰色の粉が噴き出す。
「レンさん、離れてください!」
「言われなくても!」
レンさんが折れた短剣を捨て、地面を転がって距離を取る。
異形の胸が割れた。
黒い石の隙間から、灰色の糸がむき出しになる。
見えた。
あれが芯だ。
人の形を保っている中心。
廃坑から伸びる線と、異形の体を結んでいる結び目。
「あそこを外せば……」
俺は壁の縁を掴んだ。
届くか。
結界に触れた線なら掴めた。
でも、あれは異形の内側だ。
直接は触れない。
なら、今こちらへ伸びている灰色の侵食をたどる。
結界に食い込んできた線。
押し戻したばかりの流れ。
まだ俺の指先に残っている感触。
そこから芯へ繋がる糸だけを選ぶ。
俺は右手を伸ばした。
灰色の糸が、指先に絡む。
重い。
冷たい。
頭の奥で、あの声が叫ぶ。
――開け。
「開けない」
俺は結び目を握った。
「ここは、お前の場所じゃない」
切るのではなく、外す。
人の形と、廃坑の線。
無理やり結ばれていた境目をほどく。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
灰色の糸がばらけた。
異形の体が崩れ始める。
黒い石の鱗が剥がれ、地面に落ちる。
腕が砂のように崩れた。
脚が折れた。
穴のような目が、最後まで俺を見ていた。
――境界。
今度は、別の意味が流れ込んだ。
名前を呼ばれたような感覚。
直後、異形は灰色の粉になって崩れ落ちた。
「誰も近づくな!」
レンさんが城壁の下で叫ぶ。
「粉に触れるな! セリア、封じられるか!」
「やります!」
セリアさんが水晶灯を掲げる。
白い網が地面に広がり、崩れた灰色の粉を包み込んだ。
粉は網の中で細かく震えたが、外へ流れ出すことはなかった。
「完全な浄化は神殿で行います。今は封じるのが限界です」
「十分だ。兵士、封鎖線を張れ! 近づいた奴は怒鳴ってでも止めろ!」
「はっ!」
城壁の上に、誰の声もなくなった。
風だけが吹いている。
俺の指先には、まだ一本だけ灰色の糸が残っていた。
細く、細く、北の廃坑へ伸びている。
それはすぐに消えた。
でも、消える直前。
線の向こうで、無数の何かが一斉にこちらを向いた。
「……一体じゃない」
俺が呟くと、リナさんの手が強く袖を掴んだ。
「ミナトさん?」
レンさんが城壁の下から見上げる。
「何が見えた」
俺は北の山を見た。
夕闇の奥。
廃坑のある方角。
そこに、灰色の線がいくつも絡み合っている。
「廃坑の奥に、まだいます」
喉が渇いていた。
それでも、言葉は止まらなかった。
「今ので、こっちの場所を覚えられました」
次話、北門で起きた規格外の戦闘に街中が騒然。ギルド酒場では、ミナトの知らないところで“境界技師”という呼び名が広まり始めます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。




