第四話 北の廃坑から来るもの
畑を覆っていた灰色が剥がれ落ちたあと、誰もすぐには動けなかった。
柔葉草が風に揺れている。
さっきまで葉裏から灰色の粉を吐いていた草とは思えないほど、静かだった。
「……終わった、のか?」
兵士の一人が呟く。
俺は答えられなかった。
目の前の畑は落ち着いている。
けれど、黒い石が砕けた穴の底には、まだ一本だけ線が残っていた。
細い。
でも深い。
地面の下を抜けて、北の山へ伸びている。
その先に、何かがいる。
さっき、一瞬だけこちらを見た何か。
「ミナト」
レンさんが短剣を構えたまま、俺の横に来た。
「何が見えてる」
「線が残っています」
「どこへ」
「北の山です」
レンさんの顔が固まった。
「北の山……廃坑か」
「廃坑?」
「昔、魔鉱石を掘っていた場所だ。十年前に事故で閉じられた。今は誰も近づかない」
魔鉱石。
鉱滓草。
魔鉱毒。
この街の人間なら結びつける言葉なのだろう。
俺には、まだ全部が分からない。
ただ、線だけは分かる。
「あの線は、畑から廃坑へ向かっています。違うかもしれませんけど……廃坑から、ここに何かが流れ込んでいたようにも見えます」
「十分だ」
レンさんは短く言い、兵士たちへ振り向いた。
「採取班は三人だ! 一人は下げた。残り二人の所在を確認しろ! 見つけても勝手に触るな、必ず報告しろ!」
「はっ!」
「畑には誰も入れるな! 黒い石の跡にも近づくな! 街へ伝令、北門警戒。廃坑方面を見張れ!」
「了解!」
兵士たちが一斉に動き出す。
さすがに現場慣れしている。驚いて固まったのは一瞬だけで、指示が飛べばすぐ動いた。
俺は穴の底を見下ろした。
線が震えている。
向こう側から、何かが触れているみたいに。
「……また見てる」
「何がだ」
「分かりません。ただ、線の向こうに何かいます」
レンさんの目が細くなる。
「魔獣か?」
「たぶん、生き物とは違います」
「なぜ分かる」
「生き物の線じゃないからです」
言ってから、俺は自分でも説明になっていないと思った。
案の定、レンさんは眉間にしわを寄せる。
「お前の言うことは、だいたい分からん」
「すみません」
「だが当たる」
その言葉に、背筋が冷えた。
当たる。
当たってしまう。
俺はこの世界のことを何も知らないのに、見えているものだけで危険を言い当ててしまう。
そのせいで、どんどん奥へ踏み込んでいる。
「ミナトさん!」
畑の入口からリナさんの声がした。
振り返ると、リナさんとセリアさんが駆けてくるところだった。
「補給所は?」
レンさんが聞く。
「三人とも命は繋ぎました。応急処置は済んでいます」
「補給所を空けて大丈夫なのか」
セリアさんが息を整えながら答えた。
「神殿の見習いと兵士に隔離を任せています。汚染された傷薬も封じました。私は原因を確認しに来ました」
その目は俺ではなく、砕けた黒い石の跡に向いている。
「……これは」
「ミナトが閉じた」
「何をですか」
「俺に聞くな」
レンさんが顎で俺を示す。
セリアさんの視線がこちらへ移った。
「説明できますか」
「畑と、どこか別の場所が繋がっていました。その開いている部分を、押し戻して閉じました」
「浄化ではなく、封鎖……?」
セリアさんが小さく呟く。
「そんなこと、神殿の記録でも聞いたことがありません」
「俺も初めてやりました」
「初めてでやることではありません」
「はい」
その通りすぎて、返す言葉がなかった。
リナさんが俺の顔を覗き込む。
「ミナトさん、本当に大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「少し疲れました」
「少し、ですか?」
「かなりかもしれません」
「座ってください」
言われて気づいた。
足に力が入っていない。
畑の端に腰を下ろした瞬間、全身から一気に熱が抜けた。
視界の線が揺れる。
緑と灰色が重なって、輪郭がぼやける。
「ミナト!」
レンさんの声が遠くなる。
倒れる、と思った。
その直前、リナさんに肩を支えられた。
「無茶しないって言いましたよね!」
「すみません」
「謝るなら、まず倒れないでください」
怒っている声なのに、手は震えていた。
セリアさんが俺の額に手をかざす。水晶灯の白い光が、目の前で淡く揺れた。
「呪染はありません」
「よかったです」
「よくありません。体力の消耗が異常です。何を代償にしているのか分からない」
「代償……?」
「力には必ず流れがあります。あなたは何かを押し戻した。その反動を、どこで受けたんですか」
分からない。
けれど、胸の奥に重いものが残っている。
あの門を閉じた瞬間、向こう側から何かがぶつかってきた。
それを、体のどこかで受け止めた感覚がある。
「頭の奥が重いです」
「それだけで済んでいるなら、異常です」
「セリア様、その言い方だと褒めているのか怖がっているのか分かりません」
リナさんが困った顔で言う。
「怖がっています」
セリアさんは即答した。
レンさんが短く笑った。
「安心しろ。俺もだ」
「俺も少し怖いです」
「本人が一番普通の反応をするな」
その時、北門の上から角笛が鳴った。
低く、短く、三回。
レンさんの笑みが消える。
「警戒笛だ」
兵士が畑へ駆け込んできた。
「レンさん! 廃坑方面に影があります!」
「数は!」
「一つです! ただ……動きがおかしい!」
レンさんが即座に走り出す。
「ミナトはここにいろ!」
「俺も行きます」
「歩ける状態じゃねえだろ」
「見ないと、どこが危ないか分かりません」
「無茶をするなと言ったばかりだ」
「支えてもらえれば、線だけは見えます」
レンさんの目が、俺を射抜く。
数秒。
怒鳴られると思った。
けれどレンさんは舌打ちして、俺の腕を肩に回した。
「走るな。倒れたら担ぐ」
「分かりました」
「倒れる前提で話してるんじゃねえぞ」
北門の上へ上がる石段は狭かった。
リナさんとセリアさんも後ろからついてくる。
壁上に出た瞬間、冷たい風が顔を打った。
石の胸壁には、白い紋が等間隔に刻まれている。
飾りかと思ったが、俺の視界では、その紋同士が細い光の線で繋がっていた。
城壁に沿って張られた、薄い膜みたいな線。
街と外を分ける境目だ。
北の山。
その麓へ続く街道。
夕闇の中、ひとつの影が揺れていた。
人の形をしている。
だが、人ではなかった。
腕が長すぎる。
背中が曲がり、首が不自然に傾いている。
体の表面に、黒い石が鱗のように張り付いていた。
「採取班の者か?」
兵士の一人が震えた声で言う。
「違います」
俺は即座に否定した。
見た目ではない。
線が違う。
人ならあるはずの線が、ない。
血の流れも、肉の輪郭も、命の揺らぎも見えない。
あれは人の形をしているだけだ。
中身は、さっき畑の下にあったものと同じ灰色で満たされている。
影が、ゆっくり顔を上げた。
目のある場所に、穴が二つ空いている。
その穴の奥で、灰色の線が蠢いた。
ぞわり、と背筋が冷える。
まただ。
見られている。
俺だけを。
「ミナト?」
リナさんが小さく呼ぶ。
俺は壁の縁を掴んだ。
影の口が開く。
声は届かない。
でも、線が震えた。
言葉ではない何かが、俺の頭の奥に触れる。
――開け。
意味だけが、直接入ってきた。
「……今、何か言いましたか」
「誰も何も言っていません」
セリアさんの顔が青ざめる。
影が一歩、街道を進んだ。
その足元から灰色の粉が広がる。
草が枯れ、土が黒く変わる。
レンさんが短剣を抜いた。
「門を閉じたら、向こうから出てきたってことか」
「たぶん」
「その『たぶん』はもう聞き飽きた」
影が二歩目を踏み出す。
北門の兵士たちが弓を構えた。
セリアさんの水晶灯が白く光る。
リナさんが俺の袖を掴む。
俺は、影から伸びる灰色の線を見た。
太い。
さっき閉じた門より、ずっと細い。
でも、動いている。
生き物のように、こちらの境目を探っている。
そして、その先端が城壁の白い紋へ触れた瞬間。
ぱきん、と乾いた音が鳴った。
胸壁に刻まれていた白い紋が、一つ砕けた。
つながっていた光の線が、ぶつりと切れる。
「結界が割れた!?」
兵士が叫ぶ。
影が、穴のような目で俺を見上げる。
頭の奥に、また声が響いた。
――見つけた。
俺の指先が、勝手に灰色の線を掴んでいた。
次話、北門の結界を割った“廃坑からの影”に、ミナトの境界能力が初めて攻撃として向けられます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。




