第三話 灰色の薬草畑
浄化師が補給所に駆け込んできた時、俺は二人目の兵士の腕を押さえていた。
「患者はどこです!」
白い法衣の女性が、息を切らして叫ぶ。
年は二十代半ばくらい。銀色の髪を後ろで結び、肩から小さな水晶灯を下げている。
「セリア様、こちらです!」
リナさんが案内する。
浄化師のセリアさんは寝台の兵士を見て、すぐに表情を変えた。
「呪染が肩まで……! 急いで浄化陣を――」
そこで、彼女の視線が止まった。
俺の手元。
黒く染まっていた兵士の腕から、灰色の粉が浮き上がり、床の水に沈んでいくところだった。
「……え?」
セリアさんが目を見開く。
「今、何を?」
「混ざっていたものを外に出しています」
「外に、出す?」
「説明はあとだ!」
レンさんが割って入った。
「セリア、三人目を見ろ。ミナトが二人目を持たせている間に、お前は残りを頼む」
「ミナト?」
「昨日拾った身元不明だ」
「身元不明に何をさせているんですか!?」
「俺もそう思ってる!」
怒鳴り合いながら、二人は動きだけは早かった。
セリアさんが三人目の兵士の横に膝をつき、水晶灯をかざす。淡い白い光が広がり、黒い指先を包んだ。
俺の視界で見ると、セリアさんの光は細かい網みたいだった。
灰色の線を押し戻している。
すごい。
俺が一本ずつほどいているものを、彼女は面で押さえている。
「ミナトさん、顔色が悪いです」
リナさんが隣にしゃがむ。
「大丈夫です。たぶん」
「その『たぶん』は禁止です」
「すみません」
俺は兵士の腕から最後の灰色の糸を引き剥がした。
ぱちん。
耳の奥で音がして、黒い筋が薄れる。
兵士の呼吸が深くなった。
「レンさん、水を」
「ああ」
傷口を洗い流す。
黒ずんだ薬が落ちると、灰色の線も一気に弱まった。
「これで、すぐ悪くなる感じはしません」
「感じ、か」
「見えている範囲では」
レンさんは一瞬だけ俺を見たあと、短く頷いた。
「十分だ」
その時、外からまた鐘が鳴った。
さっきより近い。
補給所の空気がざわつく。
「北の薬草畑から灰色の煙! 採取班が戻りません!」
「畑に残っていた者がいるのか?」
「三人です! 煙の中に入ったきり、返事がありません!」
レンさんの顔つきが変わった。
「セリア、ここは任せた。俺はミナトを連れて畑に行く」
「待ちなさい。彼まで連れていくつもりですか?」
「畑で何が起きてるか見えるのは、こいつだけだ」
「煙が呪染を運んでいるなら、近づくだけで危険です」
セリアさんの言葉に、兵士たちが息を呑む。
俺は窓の外を見た。
現実の煙は、遠くで細く上がっているだけだ。
でも、俺の目には別のものが見えている。
薬草畑から伸びる巨大な灰色の線。
それは風に流されているのではなく、地面の下を這って、北門へ向かっていた。
「煙だけじゃありません」
俺が言うと、全員の視線が集まった。
「地面の中にも流れがあります。補給所の薬棚にあったものと、同じ線です」
「地面の中だと?」
レンさんが眉を寄せる。
「たぶん、薬草畑が原因です。そこを止めないと、また同じことが起きます」
セリアさんが水晶灯を握りしめた。
「あなた、本当に何が見えているんですか」
「境目だけです」
「だけ、で済む見え方ではありません」
「俺もそう思い始めました」
レンさんが短剣を腰に差し直す。
「立てるか、ミナト」
「行けます」
「なら来い。無理だと思ったらすぐ下がれ」
「分かりました」
リナさんが慌てて布を持ってきた。
「ミナトさん、手を拭いてください。あと、これを口元に」
渡された布は薬草の匂いがした。
「煙を吸い込みにくくする布です。完全ではないですけど」
「ありがとうございます」
「無茶はしないでくださいね」
「たぶん」
「禁止です」
「……気をつけます」
北門を出ると、空気が変わった。
草の匂いの奥に、鉄を焦がしたような匂いが混じっている。
畑は街壁のすぐ外、緩やかな丘の斜面に広がっていた。
本来なら一面に柔葉草が揺れているはずなのだろう。
だが今は、ところどころが灰色に染まっている。
煙は火から出ているのではなかった。
草の葉裏から、細い煙のような粉が吹き出している。
「……燃えてないのに煙が出てるのか」
兵士の一人が後ずさる。
「採取班はどこだ!」
レンさんが叫ぶ。
返事はない。
俺は畑の入口で足を止めた。
「待ってください」
「何が見える」
「踏むと危ない場所があります」
畑の土に、灰色の線が網のように広がっている。
全部が危ないわけじゃない。
緑の線が残っている場所もある。そこはまだ土と草が分かれている。
でも灰色の線が濃い場所は、土と毒の境目が曖昧になっていた。
「俺が歩く場所だけ、踏んでください」
「分かった。全員、ミナトの足跡を外れるな!」
レンさんの命令で、兵士たちが一列になる。
畑に入った瞬間、足元から灰色の線が伸びてきた。
俺の靴底に触れ、止まる。
やっぱり、入ってこない。
けれど安心はできなかった。
俺は平気でも、後ろの人たちは違う。
「右です。次、左。そこは踏まないで」
「おい、何も見えねえぞ」
「黙って従え」
数十歩進んだところで、倒れている人影が見えた。
採取用の籠を背負った男が、畑の中でうずくまっている。
「いた!」
「触らないでください!」
駆け出しかけた兵士を止める。
男の腕には、灰色の草の根が絡みついていた。
根。
いや、根に見えるだけだ。
俺の視界では、それは草から伸びた線ではなく、地面の下から男へ食い込む灰色の糸だった。
「レンさん、腕に絡んでます」
「根か?」
「根みたいに見えます。でも、たぶん違います。土の下から来てる」
「切ればいいか」
「普通に切ったら、中に残ります」
俺は男のそばに膝をついた。
灰色の糸が、男の手首から体の奥へ入ろうとしている。
まだ浅い。
リナさんの時に近い。
「先に境目を止めます」
俺は手首に触れた。
灰色の糸がびくりと震える。
逃げようとした。
「逃がさない」
境界を押さえる。
人の体と、入り込もうとする異物。
その切れ目を掴む。
切る。
ぱちん。
灰色の根が、一斉に枯れた。
「おい……」
兵士が息を呑む。
男の手首に絡んでいた灰色の根が、砂のように崩れていく。
レンさんが男を抱え上げた。
「息はある! 下げろ!」
「はい!」
兵士たちが慎重に男を運び出す。
その直後だった。
畑の奥で、土が盛り上がった。
ぼこり、と鈍い音。
柔葉草の群生が、内側から押し上げられる。
「何だ?」
レンさんが短剣を抜く。
土の中から現れたのは、黒い石だった。
拳ほどの大きさの石が、いくつも根に絡まれている。
その中心に、ひときわ濃い灰色の線が集まっていた。
俺は息を呑んだ。
線が、石から出ているんじゃない。
石の奥に、穴がある。
見た目には何もない。黒い石があるだけだ。
でも俺には、その向こう側に別の場所との境目が見えた。
畑と、どこか暗い地下。
そこが細く繋がっている。
「レンさん」
「どうした」
「この下、畑じゃありません」
「あ?」
「別の場所と繋がっています。たぶん、そこから毒が来てる」
言い終えた瞬間、黒い石にひびが入った。
灰色の煙が噴き上がる。
兵士たちが咳き込み、後ずさった。
俺の視界で、巨大な灰色の糸が一気に膨れ上がる。
このまま広がれば、畑どころじゃない。
北門まで飲まれる。
「ミナト、下がれ!」
レンさんが叫ぶ。
俺は動かなかった。
見えている。
畑と地下を繋いでいる境目。
そこだけを塞げばいい。
ただ、それは今までで一番太かった。
糸じゃない。
縄だ。
いや、門だ。
なら、切るんじゃない。
閉じる。
「普通に、閉じるだけです」
「何が普通だ!」
レンさんの怒鳴り声を背に、俺は黒い石へ手を伸ばした。
灰色の煙が指先を包む。
皮膚には入らない。
でも、重い。
頭の奥を押し潰されるような圧が来る。
畑。
土。
根。
毒。
地下。
黒い石。
混ざり合った線の中から、開いている境目だけを探す。
あった。
この場所に繋がってはいけないもの。
地下から畑へ流れ込んでいるもの。
その境目を掴み、押し戻す。
「閉じろ」
音は鳴らなかった。
代わりに、畑全体が沈黙した。
灰色の煙が空中で止まる。
柔葉草の葉裏に浮いていた粉が、雨のように落ちる。
黒い石が、内側から砕けた。
次の瞬間、北の薬草畑を覆っていた灰色が、一斉に剥がれた。
緑が戻る。
土の匂いが戻る。
兵士たちが、声も出せずに立ち尽くしていた。
レンさんだけが、乾いた声で呟いた。
「……浄化師どころじゃねえぞ、これ」
俺は黒い石の跡を見下ろした。
砕けた穴の底に、まだ一本だけ線が残っている。
細く、深く、北の山へ向かって伸びる線。
その先で、何かがこちらを見た。
目が合ったわけじゃない。
でも、確かに分かった。
向こう側にいる何かが、俺を見つけた。
次話、畑の異常を止めたはずのミナトに、北の廃坑から“向こう側”の視線が届きます。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。




