第十二話 小さな門の向こう側
床の灰色の円が開いた。
穴ではない。
石床はそこにある。
けれど、俺の目には分かった。
床と空間の境目が、丸くめくれている。
こちら側と、向こう側。
本来なら重ならないはずの二つが、杭の根元で薄く繋がっていた。
「下がれ!」
レンさんが叫んだ瞬間、灰色の円から細い腕が伸びた。
骨のように細く、黒い石片を貼りつけ、指先だけが異様に長い。
それが床を掴む。
石がじゅっと焦げた。
「来るぞ!」
レンさんが短剣を振る。
刃は腕を斬った。
だが、血は出ない。
灰色の粉が散り、粉が床に落ちる前にまた腕へ戻っていく。
「斬っても戻る!」
「本体じゃありません!」
俺は杭の根元を見た。
腕そのものより、その腕を通している穴が問題だ。
灰色の円の外側では、青い線が必死に形を保っている。
境界固定杭。
その名の通り、この場所の境目を固定している。
でも灰色が、青い線の隙間から無理やり入り込んでいる。
「ミナトさん、無理しないでください!」
リナさんが俺の腕を支えている。
俺の膝はもう震えていた。
それでも、今離したら駄目だと分かる。
灰色の円はまだ小さい。
この大きさなら、青い線から灰色だけを剥がせばいい。
「セリアさん、青い線の外側を押さえられますか!」
「見えません! でも、あなたが示せば合わせます!」
「杭の根元です! 円の外側!」
「マルド司祭、補助を!」
「分かっている!」
セリアさんの水晶灯が白く輝いた。
マルド司祭の祈りが重なり、白い光が床へ広がる。
俺の視界では、その白い光は青い線そのものには触れない。
けれど、灰色の侵食を少しだけ押し返していた。
足りる。
これなら、ほどける。
灰色の腕がもう一本伸びる。
レンさんが前に出た。
「こっちは任せろ!」
短剣で斬らない。
レンさんは腕の関節らしい場所を刃の腹で押さえ、石床へ叩きつけた。
動きを止めるだけ。
壊そうとしない。
昨日からの戦いで、レンさんも分かっていた。
壊せば散る。
散れば広がる。
「五秒だ、ミナト!」
「三秒で足ります!」
「言うようになったな!」
俺は布越しに杭の根元へ指を押し当てた。
青い線と灰色の線。
その境目に触れる。
冷たい灰色が、指先から頭の奥へ入り込もうとした。
皮膚には入らない。
でも、意識に触れてくる。
――開け。
また声が響く。
――境界技師。
――戻れ。
――返せ。
「うるさい」
俺は歯を食いしばった。
意味を追うな。
声を聞くな。
見るのは境目だけだ。
青は固定。
灰色は侵食。
白は補助。
三つの線が、杭の根元で絡まっている。
青い線を切ってはいけない。
白い光を剥がしてもいけない。
灰色だけを、青の隙間から外へ押し戻す。
「そこじゃない……こっちだ」
灰色の線は、一本に見えて一本じゃない。
何本もの細い糸が、青い線の傷口へ食い込んでいる。
傷口。
そうだ。
これは怪我に近い。
青い線が裂けて、そこから灰色が入り込んでいる。
なら、まず異物を外す。
次に、裂け目を合わせる。
最後に、固定する。
「セリアさん、光を強めてください!」
「はい!」
白い光が強まる。
灰色の腕がびくりと震えた。
レンさんが低く唸る。
「重くなってきたぞ!」
「あと少しです!」
俺は灰色の糸を一本外した。
床の円がわずかに縮む。
二本目。
灰色の腕の指が一本崩れる。
三本目。
杭の表面に、機械的な青い文字が流れた。
――境界損傷、修復処理開始。
――技師権限、仮認証。
技師。
また、その言葉。
酒場で勝手につけられたはずの呼び名。
でも、ここでは違う。
冗談でも噂でもない。
この杭は、俺をそう呼んでいる。
「ミナトさん?」
リナさんが俺の顔を覗き込む。
「後で説明します」
「説明できるんですか?」
「できないかもしれません」
「でしょうね!」
俺は四本目の灰色を外した。
その瞬間、円の奥から目が開いた。
穴の中。
向こう側。
そこに、巨大な何かの輪郭があった。
廃坑で見た異形とは違う。
祈る影とも違う。
もっと奥。
もっと大きい。
線だけでできた、巨大な影。
それがこちらを見ている。
――第一境界技師。
意味が流れ込んだ。
――門を閉じた者。
――こちら側を切り捨てた者。
――返せ。
「俺は……知らない」
口から声が漏れた。
知らない。
でも、知らないはずの言葉が胸に刺さる。
門を閉じた者。
こちら側を切り捨てた者。
第一未帰還者。
境界技師・湊。
「ミナト!」
レンさんの怒鳴り声が飛んだ。
「持っていかれるぞ!」
はっとする。
灰色の腕が、俺の手首に絡みついていた。
皮膚ではない。
意識の線を掴まれている。
リナさんが俺の腕を引く。
セリアさんの白い光が手首を包む。
マルド司祭が祈りを強める。
レンさんが灰色の腕を踏みつけ、短剣を石床に突き立てて固定した。
俺一人では、もう戻れなかった。
「すみません」
「謝るな!」
レンさんの怒声が飛ぶ。
「今は手を止めないでください!」
リナさんの声が重なった。
「意識をこちらに保って!」
セリアさんの光が強まる。
マルド司祭の祈りも、さらに深く響いた。
俺は息を吸った。
今、分かった。
境界技師というのが何なのかは、まだ分からない。
でも、少なくとも一人でやるものじゃない。
青い線を守る。
白い光に支えられる。
前に立つ人がいる。
引き戻してくれる人がいる。
なら、まだできる。
「青い線を修復します」
「どうすればいい!」
レンさんが叫ぶ。
「腕を離さないでください。灰色が戻る通り道を固定します」
「固定だな!」
「セリアさん、白い光を円の外側へ。押し潰すんじゃなくて、囲ってください」
「囲う……分かりました!」
「マルド司祭、祈りを止めないでください。白い線が切れると青まで揺れます」
「承知した!」
「リナさん」
「はい!」
「俺が倒れたら、杭から引き剥がしてください」
「倒れる前に引き剥がします!」
「それは困ります」
「困ってください!」
少しだけ笑いそうになった。
こんな状況なのに。
でも、そのおかげで意識が戻る。
俺は灰色と青の境目を掴んだ。
外す。
一本ずつでは遅い。
なら、束の根元を探す。
灰色が青へ食い込んでいる始まり。
そこに、小さな結び目がある。
杭の奥。
開きかけた円の縁。
青い線の傷口に、灰色の楔が刺さっている。
「これか」
俺は楔を掴んだ。
重い。
昨日閉じた畑の門より、小さいのに重い。
向こう側から、何かが必死に引いている。
――開け。
――返せ。
――湊。
「返すものは、後で探す」
俺は言った。
「でも、この街は通さない」
楔を抜く。
ぶつり。
今までと違う音がした。
耳の奥ではない。
杭の内部でもない。
自分の胸の奥で、何かが切れる音。
同時に、頭の中へ記憶が流れ込んだ。
白い研究室。
境界観測装置。
俺と同じ顔をした誰かの背中。
いや、俺だ。
白衣を着た俺が、青い光の前に立っている。
誰かが叫ぶ。
――湊、やめろ!
白衣の俺は振り返らない。
青い門の向こうで、灰色の何かが蠢いている。
その向こうに、誰かが取り残されている。
白衣の俺が、手を伸ばす。
そして。
「ミナトさん!」
リナさんの声で、視界が戻った。
床の灰色の円が、半分まで閉じている。
レンさんが押さえていた腕が、ぼろぼろと崩れていた。
セリアさんの白い光が、円の外側を囲っている。
マルド司祭の額から汗が落ちる。
「あと、少し……!」
俺は青い線の裂け目を合わせた。
開いていた境目を、元の位置へ戻す。
閉じるんじゃない。
正しい形に戻す。
青い線が重なった。
杭の表面に、機械的な文字が次々と流れる。
――境界修復率:六十二。
――七十一。
――八十九。
――固定。
灰色の円が、消えた。
伸びていた腕も、粉になって崩れる前に、白い光の網に包まれた。
石床に残ったのは、黒い焦げ跡だけだった。
誰もすぐには声を出さなかった。
俺は杭から手を離そうとして、体が傾いた。
リナさんが支える。
「ほら、倒れた!」
「まだ倒れてません」
「倒れています!」
「支えられているので、まだ判定は」
「判定しないでください!」
レンさんが深く息を吐いた。
「軽口が出るなら死んではいないな」
「たぶん」
「その言葉を封印したい」
セリアさんが杭の根元を見つめていた。
「灰色は……押し戻されています。少なくとも、ここから神殿へは広がっていません」
マルド司祭が膝をついたまま、祈りを止める。
「だが、この場所は神殿の記録にない。しかも、神殿の下で稼働し続けていた」
「報告が必要ですね」
セリアさんが言う。
「神殿長だけでは済まない。ギルド長も、街長も呼ばなければならない」
大ごとになっていく。
俺は杭を見る。
青い線は、さっきより安定している。
だが、北へ伸びる線には、まだ灰色が絡んでいた。
完全に消えたわけじゃない。
ただ、ここを入口にするのを防いだだけだ。
「廃坑側を止めないと、また来ます」
俺が言うと、レンさんが頷いた。
「ああ。だが今日はここまでだ」
「でも」
「倒れる奴を廃坑に連れていけるか」
「……無理ですね」
「分かってるなら座れ」
リナさんに支えられ、俺は壁際に座り込んだ。
その時、杭の表面に小さな青い文字が浮かんだ。
日本語。
俺にしか読めない文字。
――技師権限、仮復旧。
――境界記憶、一部解凍。
――警告:第二未帰還者の反応を検出。
第二未帰還者。
俺は息を止めた。
第一が俺なら。
第二は、誰だ。
青い文字はすぐに消えた。
代わりに、杭から一本の青い線が伸びる。
北ではない。
廃坑でもない。
街の南側。
人の多い市場の方角へ。
「……嘘だろ」
レンさんが俺を見る。
「何が見えた」
俺は乾いた唇を開いた。
「青い線が、もう一本あります」
「どこへ」
「街の中です」
リナさんの手が強張る。
セリアさんの顔から血の気が引いた。
俺は杭の消えた文字を思い出す。
第二未帰還者。
その言葉が、胸の奥で重く沈んでいた。
「俺以外にも、未帰還者がいます」
次話、神殿地下の門を一時的に押し返したミナト。しかし杭が示したのは、街の中にいる“第二未帰還者”の反応でした。続きが気になった方は、ブックマークと評価で応援していただけると励みになります。




