第9話 返す文は、刃を包む
羽柴藤吉郎の文を持ってきた商人は、宗七と名乗った。
年は三十半ば。
近江長浜を出入りし、布、針、紙、干魚などを扱うという。
いかにも商人らしく腰は低い。
だが、目はよく動く。
部屋の広さ。
置かれた文箱。
新介の立ち位置。
喜三右衛門の腰の刀。
そして、官兵衛の顔。
それらを、話しながら見ていた。
ただの使いではない。
少なくとも、ただ文を運んで帰るだけの男ではなかった。
「遠路、ご苦労であった」
官兵衛は、宗七を責めなかった。
縛らなかった。
飯を出させた。
温かい飯。
焼いた干魚。
少しの味噌。
酒は盃に一つだけ。
過ぎたもてなしではない。
だが、雑でもない。
宗七はその膳を見て、一瞬だけ目を細めた。
「ありがたき仕合わせにございます」
「長浜から播磨まで、商いには少し急ぎすぎる」
官兵衛は言った。
宗七は箸を置いた。
「急ぎの荷もございましたので」
「荷はどこに」
「室津に」
「文は懐に」
宗七は笑った。
「商人は、軽いものほど懐に入れます」
「重い文だ」
官兵衛が言うと、宗七の笑みが少し薄くなった。
「私には、ただの紙にございます」
「そう思える者は、長浜から御着まで文を運ばぬ」
宗七は黙った。
新介が横で息を殺している。
喜三右衛門は、商人の手元を見ていた。
四兵衛はいない。
あえて外させてある。
この場に古参の目が多すぎれば、宗七は口を固くする。
商人にとって怖いのは、怒鳴る武士ではない。
黙って顔を覚える古参である。
「宗七」
官兵衛は名を呼んだ。
「羽柴殿は、何を見よと申した」
宗七は一度だけ目を伏せた。
「それは」
「文を届けよ、だけではあるまい」
宗七はしばらく黙っていた。
やがて、観念したように小さく息を吐く。
「黒田官兵衛様が、文を隠されるか。殿へ上げられるか。怒るか。笑うか。商人を捕らえるか。もてなすか。そこを見るように、と」
新介の顔が強張った。
官兵衛は、声を立てずに笑った。
「猿め」
宗七が顔を上げた。
「猿、でございますか」
「こちらの話だ」
官兵衛は盃を指で回した。
やはりそうだ。
藤吉郎の文は、文ではない。
針だ。
播磨に刺し、どれほど深く入るかを見る針。
官兵衛が隠せば、羽柴は黒田が小寺に内緒で織田へ近づく男だと見る。
慌てて政職へ上げれば、小寺の目を恐れる小心者と見る。
商人を捕らえれば、外の道を知らぬ男と見る。
もてなしすぎれば、織田に媚びる男と見る。
何をしても見られる。
ならば、見せるものをこちらで選べばよい。
「宗七」
「はい」
「この文は、殿へ上げる」
宗七の目が動いた。
「よろしいので」
「隠す理由がない」
「羽柴様は、官兵衛様へ直に」
「だからこそ、上げる」
官兵衛は静かに言った。
「私信を隠せば私の道になる。殿へ上げれば小寺の道になる。羽柴殿が見たいのは、その違いであろう」
宗七は答えなかった。
だが、その沈黙で十分だった。
◇
政職は、羽柴藤吉郎の文を読んで、しばらく黙った。
広間ではない。
奥の小部屋である。
官兵衛は戸口に近い席へ座っていた。
障子は少しだけ開いている。
光が細く入っている。
それだけで、息はできた。
「そなたへ直に来たか」
政職が言った。
「はい」
「なぜ、そなたへ」
「播磨の米、塩、港津の筋を見る者ありと聞いた、とございます」
政職の目が文へ落ちる。
顔には不安があった。
当然である。
織田の下で働く羽柴藤吉郎という男が、小寺家中の黒田官兵衛へ直に文を寄越した。
喜ぶには早い。
疑うには危うい。
無視するには惜しい。
政職がもっとも苦手な形だった。
「官兵衛」
「はっ」
「これは、どう扱う」
「殿の文にいたします」
政職が顔を上げた。
「わしの文に?」
「はい。羽柴殿からは私宛てに来ました。されど、返す文は殿の御意として出すべきです」
「そなたへの文なのにか」
「私宛てのまま返せば、黒田が織田方と直に通じる形になります。」
官兵衛は言葉を区切った。
「それは、殿にも黒田にも害がございます」
政職は小さく頷いた。
安心が見えた。
官兵衛が隠さず上げたこと。
自分の名で返すと言ったこと。
その二つが、政職の不安を少し薄めたのだ。
だが、完全には消えない。
消えない方がよい。
政職には、まだ自分で決めたと思ってもらわねばならない。
「返事には何を書く」
「二つに分けます」
「二つ?」
「一つは、殿の名で長篠の御勝利を寿ぐ文。小寺は播磨の静謐を願い、東西の騒乱が米塩港津を乱さぬよう努める、と」
「もう一つは」
「私から羽柴殿への添え状にございます」
政職の顔に、また不安が戻った。
官兵衛はすぐ続けた。
「ただし、殿にお見せした上で添えます。内容は、羽柴殿の文を拝見したこと、播磨の道筋については殿の許しなきことは申せぬこと、いずれ御目にかかる折に申し上げる、と。それだけです」
政職は黙った。
考えている。
官兵衛は、そこで押さなかった。
沈黙の間を与える。
人は、沈黙の中で自分の決断だと思い込む。
「よかろう」
政職は言った。
「ただし、文面はわしが見る」
「もちろんにございます」
「羽柴という男は、信用できるのか」
官兵衛の手が、膝の上で止まった。
信用。
その言葉だけで、遠い笑顔が浮かぶ。
人懐こく笑う藤吉郎。
涙を流す秀吉。
天下人の秀吉。
人を褒め、人を使い、人を疑い、人を遠ざける男。
信用できるか。
一度目の官兵衛なら、別の答えをしたかもしれない。
今は違う。
「信用するには、早うございます」
官兵衛は言った。
「ただし、目を逸らすには危うい男にございます」
「それほどか」
「はい」
政職は文を畳んだ。
「そなたが、そう言うなら」
まただ。
政職は官兵衛の言葉に寄りかかる。
官兵衛は、その重みを感じた。
頼られる。
それは鎖でもある。
だが、今はその鎖を利用する。
「草案を作れ」
「承りました」
◇
控え部屋へ戻ると、四兵衛が待っていた。
「商人宿の裏に、見慣れぬ者が一人」
官兵衛が座る前に、四兵衛は言った。
「真鍋筋か」
「まだ断じられませぬ。ですが、北蔵にいた若い者と顔を合わせております」
新介が顔を上げる。
「また真鍋殿ですか」
「決めるな」
官兵衛は短く言った。
新介はすぐに口を閉じた。
「真鍋なら分かりやすい。分かりやすい者ばかり見れば、奥の者を逃す」
四兵衛が頷いた。
「では、泳がせますか」
「追わせるな。宿の者に聞かせろ。あの長浜商人は明日帰るらしい、と」
喜三右衛門が笑った。
「実際には」
「明後日だ」
「一日ずらすのですな」
「今日動く者は、商人の荷を見たい者。明日動く者は、返書を見たい者。両方を見る」
新介は紙を取り出した。
「記します」
「記すな」
官兵衛が止めた。
新介の手が止まる。
「これはまだ、紙に残すな。そなたの頭に置け」
「はっ」
紙は便利だ。
だが、紙は奪われる。
紙は燃える。
紙は誰かを縛る。
官兵衛は文箱に目をやった。
北蔵の罠は、紙で仕掛けられた。
ならば、こちらも紙を使う時と使わぬ時を分けねばならない。
「喜三右衛門」
「はっ」
「宗七へ帰り荷を用意する。干魚と播磨紙を少し。多すぎるな」
「多すぎれば買収に見えますな」
「少なすぎれば侮りに見える」
「難しゅうございます」
「だから商いは戦より難しい」
喜三右衛門は苦笑した。
官兵衛は、そこで初めて筆を取った。
政職の名で出す文。
そして、自分の添え状。
紙を二枚並べる。
一枚は表。
一枚は裏。
だが、裏を隠しすぎてはならない。
隠しすぎた裏は、見つかった時に毒になる。
官兵衛はまず、政職の文を書いた。
長篠の御勝利を寿ぐ。
播磨の静謐を願う。
米塩港津の乱れを避ける。
織田家の御武運を祝しつつ、小寺家が軽々しく東西の争いに呑まれぬよう言葉を整える。
強すぎない。
弱すぎない。
政職が飲み込める言葉で、羽柴が味を見る文。
次に、添え状へ移る。
筆先が、少しだけ止まった。
藤吉郎へ何を書く。
懐かしさを書くな。
怒りを書くな。
恐れを書くな。
才を見せすぎるな。
隠しすぎるな。
猿は匂いを嗅ぐ。
飢えた猿は、果実が熟す前から枝を揺らす。
ならば、熟しているように見せず、青すぎるようにも見せぬ。
官兵衛は短く書いた。
御文、拝見仕り候。
播磨の道筋、米塩港津のこと、私一存にて申すべき儀にあらず候。
されど、道は紙に描けど、人の腹は会わねば測りがたく候。
いずれ御目にかかる折、殿の御意を受け、申し述ぶべく候。
三河表の御勝、恐悦に存じ候。
黒田官兵衛
書き終えて、官兵衛は筆を置いた。
新介が息を呑んだ。
「殿。これは」
「何だ」
「羽柴殿に、会う気があると読まれませぬか」
「そう読ませる」
「では」
「会う気がない者に、相手は近づかぬ。近づかねば、測れぬ」
四兵衛が静かに言った。
「近づけば、向こうも殿を測ります」
「測らせる。測らせた上で、間違えさせる」
「何を、でございますか」
官兵衛は添え状を畳んだ。
「私が、まだ小寺の忠臣だということを」
部屋が静かになった。
新介も、喜三右衛門も、四兵衛も、すぐには何も言わなかった。
官兵衛はその沈黙を受けた。
今の言葉は、半分だけ本当だ。
表では小寺の忠臣。
裏では黒田を守る者。
さらに奥では、天下を盗ろうとする者。
どの顔を誰に見せるか。
それを誤れば、一度目と同じ道へ戻る。
◇
宗七は翌朝、帰る支度を整えた。
実際には帰らせない。
そう見せただけである。
黒田の者が宿へ行き、荷をまとめる手伝いをした。
それを見た者が、すぐに動いた。
宿の裏手。
井戸端。
馬屋。
三つの場所で、それぞれ別の者が様子を探った。
新介は、その顔を覚えた。
紙には書かない。
頭に置く。
一人は北蔵の夜に戸口にいた若い小寺家臣。
一人は真鍋の家に出入りする下人。
もう一人は、見慣れぬ僧形の男だった。
報告を聞いた官兵衛は、最後の一人にだけ反応した。
「僧か」
「はい。室津で塩荷を見ていた僧とは違うようです」
「寺は一つではない」
官兵衛は低く言った。
「毛利も浦上も使う。織田も使う。商人も使う。小寺家中の者も、寺なら言い訳が立つ」
「追いますか」
「追うな。寺の名だけ見ろ」
「承知いたしました」
宗七は昼まで御着に留められた。
その間、飯を出し、荷を見せ、馬を替える話をした。
そして夕刻近く、ようやく文を渡した。
政職の文。
官兵衛の添え状。
干魚と播磨紙。
多すぎず、少なすぎぬ帰り荷。
宗七は深く頭を下げた。
「たしかに、長浜へ」
「羽柴殿へ渡せ」
「はい」
官兵衛は宗七を見た。
「宗七」
「何でございましょう」
「羽柴殿に伝えよ」
「言葉でございますか」
「いや」
官兵衛は少し考えた。
言葉は余る。
余った言葉は、猿の餌になる。
「飯は温かかった、と」
宗七は一瞬、意味が分からぬ顔をした。
だが、すぐに小さく笑った。
「承りました」
商人には、それで十分だった。
もてなした。
だが媚びてはいない。
捕らえなかった。
だが見逃してもいない。
温かい飯を出したという一言に、官兵衛の返答の形が入っている。
宗七が去る。
門の外へ出る。
その後ろを、すぐには誰も追わせない。
見張るのは、追う者ではない。
追おうとする者だ。
◇
日が暮れた後、新介が戻ってきた。
「動きました」
「誰が」
「北蔵の夜にいた若い者が、真鍋殿の屋敷へ。下人はその後を追うように。僧形の男は、城下の寺へ入りました」
「寺の名は」
「円明寺にございます」
官兵衛は目を細めた。
円明寺。
小寺家中の古い縁がある寺だ。
毛利の寺ではない。
浦上の寺でもない。
だからこそ、使いやすい。
内の者が外と話すには、近すぎる寺の方が便利なこともある。
「真鍋だけではないな」
官兵衛が言うと、新介は頷いた。
「はい」
四兵衛が低く言った。
「家中の誰かが、寺を使って羽柴の文の行方を見ておりますな」
「そうだ」
「織田へ寄るためか、官兵衛殿を疑うためか」
「どちらでもある」
官兵衛は文箱へ目を向けた。
「織田へ寄りたい者は、私の文を盗み見たい。私を疑う者は、羽柴との私信を証にしたい。毛利へ知らせたい者もいるだろう」
「敵が増えております」
新介が言った。
「違う」
官兵衛は首を振った。
「見えてきただけだ」
部屋の外で、夜風が鳴った。
障子は開けてある。
闇はある。
だが、閉じてはいない。
官兵衛は、遠い東を思った。
長浜へ向かう宗七。
その懐の文。
それを受け取る羽柴藤吉郎。
猿は笑うだろう。
温かい飯。
殿の文。
官兵衛の添え状。
そして、播磨の寺が文の匂いを嗅いだこと。
どこまで読むか。
どこで間違えるか。
官兵衛は静かに息を吐いた。
「猿よ」
誰にも聞こえぬ声で言った。
「今度は、わしも餌を選ぶ」
その夜、黒田の控え部屋に置かれた文箱は、一つ増えた。
中にはまだ何も入っていない。
だが、官兵衛はその箱に小さく札をつけた。
羽柴筋。
それは、二度目の世で初めて作られた、秀吉を測るための箱だった。




