第10話 寺の灯に寄る影
円明寺の名が出た翌朝、官兵衛は御着を出なかった。
黒田の当主である自分自身が、文と蔵の改めが済むまで城を離れぬ。
そう告げたばかりである。
その言葉を破れば、松寿丸を奥へ置けという話を退けた意味が薄くなる。
だから、動くのは官兵衛ではない。
井手新介であった。
「円明寺へ行け」
官兵衛は、開け放った障子のそばで言った。
朝の風が細く入り、机の上の紙片を揺らしている。
新介は膝をついた。
「私が、でございますか」
「そうだ」
「慈徳という僧を捕らえますか」
「捕らえるな」
官兵衛は即座に言った。
「寺へは、小寺家の文と蔵の改めに関わる確認として行く。寺社を介した古い文の控えを見たい。そう伝えよ」
「表向きは、でございますな」
「表向きが乱れれば、裏はすぐ逃げる」
新介は深く頭を下げた。
以前なら、ここで理由をさらに問うていたかもしれない。
だが、今は違う。
問いは顔に出る。
それでも、足は前へ出る。
少しずつ、使える目になってきた。
官兵衛は続けた。
「奥座敷へ通されても、できれば縁側を選べ。閉じた部屋で話すな」
「相手に怪しまれませぬか」
「怪しまれてよい。恐れられるよりは、まだ使える」
「承知いたしました」
「住持の名、寺男の名、出入りした者の顔。紙には残すな。戻ってから申せ」
「はっ」
官兵衛は新介の顔を見た。
「それと、分からぬことは分からぬと言え。分かったふりをする者から死ぬ」
新介は一瞬だけ息を呑み、それから深く頭を下げた。
「必ず、戻ります」
官兵衛は頷いた。
必ず。
若い者は、簡単にそう言う。
だが、その言葉を聞いても、以前ほど苛立ちは湧かなかった。
戻れ。
そう思っただけだった。
◇
円明寺の朝は、御着の城よりも早かった。
鐘が鳴る。
低く、腹に沈む音である。
まだ霧の残る境内に、僧たちの足音が静かに流れていた。庭の苔は湿り、石灯籠の影は長い。
新介は山門の前で足を止めた。
振り返る。
少し離れた道の端に、久野四兵衛がいる。
四兵衛は境内へは入らない。
外で人の出入りを見る役である。
すべてを一つの場所に集めない。
官兵衛の命じた通りだった。
山門の前で、一人の僧が待っていた。
年は五十ほど。
痩せているが、目は濁っていない。
「黒田様の御使いにございますな」
「井手新介にございます」
「住持の慶順にございます」
慶順は深く頭を下げた。
その礼は丁寧だった。
丁寧すぎない。
媚びてもいない。
この寺は、小寺家中と古い縁がある。
だからこそ、政職にも、家老にも、港の者にも顔が利く。
便利な寺である。
便利な寺は、必ず誰かに使われる。
殿なら、そう見る。
新介は心の中で呟いた。
「朝早くに、申し訳ございませぬ」
「寺は朝が早うございます。お気になさらず」
慶順はそう言い、新介を奥の一室へ通そうとした。
新介は足を止めた。
「そちらではなく、縁側にてお願いできますか」
慶順の目がわずかに動いた。
「朝は冷えますが」
「紙を見るには、風が通る方がよろしいと、殿より申しつけられております」
「左様にございますか」
慶順は一瞬、新介の顔を見た。
若い使いが、自分の考えではなく、官兵衛の言葉を運んでいると悟ったのだろう。
それでも何も言わなかった。
言わぬ者ほど、見ている。
新介は、官兵衛ならそう考えるだろうと思った。
◇
縁側に、古い帳面と文箱が並べられた。
円明寺を通じた寄進の控え。
寺へ預けられた荷の覚え。
国衆からの使僧の名。
小寺家中からの書状の写し。
新介は、いきなり近年の帳面へ手を伸ばさなかった。
官兵衛に言われた通り、まず古い方から見た。
赤松の名。
小寺の名。
港の商人の名。
寺は、古い縁を積んでいる。
米俵よりも重い縁である。
だから乱世になっても、寺の門は閉じ切れない。
「寺とは、色々な名が集まる場所にございますな」
新介が言った。
慶順は静かに笑った。
「集まってしまう、と申す方が近うございましょう」
「誰もが使いたがる」
「誰もが、自分は清き用で来たと言います」
「実際は」
「俗の用でございます」
慶順は、淡々と言った。
新介は帳面をめくる手を止めた。
思ったより、話が早い。
この住持は隠すばかりの者ではない。
ならば、踏み込む。
「昨夜、僧形の男がこの寺へ入りましたな」
慶順は動かなかった。
「入りました」
「名は」
「慈徳と名乗りました」
「この寺の者ではない」
「はい」
「どこから来た者ですか」
「播磨の寺をいくつか渡る者で、決まった寺を持たぬと申しておりました」
便利な男だ。
新介はそう思った。
だが、口には出さない。
官兵衛なら、ここで短く刺すだろう。
自分はまだ、それを真似すべきではない。
「何をしに来たのでしょうか」
「夜の宿を求めに」
「それだけにございますか」
「表向きは」
慶順の声は穏やかだった。
だが、そこに小さな棘があった。
「裏は」
「御着より長浜へ戻る商人のことを聞いておりました」
新介は顔に出さぬよう努めた。
宗七。
羽柴藤吉郎の文を持ってきた商人。
「その商人が何を持ってきたか、でございますか」
「いいえ」
慶順は首を横に振った。
「何を持ち帰るかを気にしておりました」
新介の背筋が冷えた。
持ってきた文ではなく、返す文。
官兵衛が何を書くか。
政職がどこまで許したか。
黒田と羽柴がどの距離で結ばれたか。
それを知りたい者がいる。
「慈徳は、誰かと会いましたか」
新介は問うた。
慶順は少し黙った。
そして、庭へ目を向けた。
「寺の外では分かりませぬ。ただ、境内では一人だけ」
「誰です」
「三宅甚太夫様にございます」
新介は息を止めた。
三宅甚太夫。
小寺家中の祐筆に近い男である。
武勇では目立たない。
評定でも大声を上げない。
だが、政職の近くで文を整え、家中の言葉を紙にする役を持つ。
真鍋蔵人のように、表で刃を見せる男ではない。
筆で人を動かす男であった。
「何を話していたか、分かりますか」
慶順は首を横に振った。
「そこまでは」
「見た者は」
「寺男にございます」
「お呼びいただけますか」
慶順は一瞬ためらった。
新介は声を荒らげなかった。
「責めませぬ。ただ、見たものを聞きたいだけにございます」
やがて、若い寺男が呼ばれた。
名は太助。
緊張で顔が白い。
新介は、自分が一歩前へ出すぎていることに気づき、少しだけ身を引いた。
相手の逃げ道を塞ぐな。
官兵衛に言われたことを思い出したのだ。
「太助」
「は、はい」
「昨夜、慈徳と三宅甚太夫様が会うのを見たそうだな」
「はい」
「どこで」
「裏の井戸のそばにございます」
「何か渡していたか」
太助は驚いた顔をした。
「なぜ」
「手ぶらで会うなら、堂内で足りる。井戸のそばまで行くなら、人に見られたくないものがある」
太助は唇を噛んだ。
「紙包みを」
「大きさは」
「このくらいにございます」
太助は両手で小さな幅を示した。
書状一通よりは厚い。
帳面ではない。
写しを折ったものか。
「慈徳から三宅様へか。三宅様から慈徳へか」
「三宅様から、慈徳殿へ」
新介は頷いた。
「よく見てくれた」
太助はほっとしたように頭を下げた。
新介は慶順へ視線を戻す。
「この話、誰かに」
「寺の中だけに」
「ならば、今からは外へ出さぬようお願いします」
「承りました」
「ただし」
新介はそこで少し迷った。
ここから先は、官兵衛の言葉をそのまま使うべきだ。
「慈徳がまた来ても、追い返さないでください。飯を出してください。粗末でもよいそうです。泊める必要はございませぬ。ただし、門前で寒い思いもさせるな、と」
慶順は少し驚いた顔をした。
「捕らえませぬか」
「捕らえれば、慈徳一人で終わる」
新介は言った。
その言葉は官兵衛から預かったものだった。
「使うのです」
短い言葉だった。
慶順は新介を見た。
いや、新介の奥にいる官兵衛を見たのかもしれない。
「黒田様は、お若いのに恐ろしい」
慶順が静かに言った。
新介は返せなかった。
否定できなかったからである。
◇
新介が円明寺を出る頃には、霧が晴れていた。
境内の外で、四兵衛が待っていた。
「出入りは」
新介が問うと、四兵衛はすぐ答えた。
「三宅甚太夫の下人が一人。先ほど寺の裏道から出た」
「追わせましたか」
「追ってはおらぬ。殿なら追うなと申されよう」
「では」
「行き先だけは見させている」
「どこへ」
「真鍋の屋敷ではない。政職様の奥向きに近い詰所だ」
新介は唇を結んだ。
「では、三宅様は真鍋殿とは別に動いている」
「そう見える」
「殿へ戻りましょう」
四兵衛は頷いた。
「急げ。だが、走るな」
「なぜです」
「走れば、後ろの者がこちらの値打ちを知る」
新介は足を止めた。
そして、小さく頷いた。
こういう一つ一つが、まだ足りない。
自分はまだ、官兵衛のそばで学ぶしかない。
◇
新介が御着へ戻ると、官兵衛は文箱の前に座っていた。
障子は開いている。
風が入っている。
官兵衛は城を出ていない。
だが、新介には分かった。
この人は、部屋の中にいながら円明寺の縁側まで見ている。
そう思わせるほど、問いが早かった。
「住持の名は」
「慶順にございます」
「慈徳は来たか」
「はい」
「何を聞いた」
「宗七が何を持ち帰るかを」
官兵衛の目が細くなる。
「持ってきた文ではなく、返す文か」
「はい」
「会った者は」
「三宅甚太夫様にございます」
新介が言うと、喜三右衛門が顔を上げた。
四兵衛も、静かに座った。
「渡したものは」
「三宅様から慈徳へ、紙包みを。書状一通より厚く、帳面ほどではないものにございます」
「よく聞いた」
官兵衛は短く言った。
新介の胸に、わずかな熱が灯った。
褒められた。
ただそれだけのことに、思った以上に心が動いた。
だが、官兵衛はすぐに次へ進む。
「甚太夫は、真鍋へ寄ったか」
四兵衛が答えた。
「いいえ。下人は政職様の奥向きに近い詰所へ戻りました」
「真鍋とは別口か」
「そう見えます」
官兵衛はしばらく黙った。
三宅甚太夫。
政職の近くで文を整える男。
官兵衛が小寺の文を握り始めたことで、もっとも息苦しくなっている者。
真鍋は表の反発。
三宅は内側の抵抗。
同じ反官兵衛でも、刃の形が違う。
「問い詰めますか」
新介が問う。
「問い詰めぬ」
「なぜでございますか」
「三宅は筆の者だ。問い詰めれば、証のないところへ逃げる」
「では、どうなさいます」
「書かせる」
新介は意味が分からぬ顔をした。
四兵衛は少しだけ目を細めた。
「自分で縄を結ばせるのですな」
「そうだ」
官兵衛は短く答えた。
◇
昼前、政職から呼び出しが来た。
思ったより早い。
官兵衛は、すぐに向かった。
奥の小部屋には、政職と数名の近臣がいた。
その一人が、三宅甚太夫である。
細い男だった。
目立たぬ顔。
白い指。
よく整えられた筆箱。
武士というより、紙の間に住む者のようである。
甚太夫は官兵衛を見ると、丁寧に頭を下げた。
「官兵衛殿」
「三宅殿」
官兵衛も礼を返した。
政職が口を開く。
「官兵衛。羽柴へ返す文のことだが」
「はっ」
「甚太夫が、文面を整えたいと申しておる」
来た。
官兵衛は、すぐに反対しなかった。
「三宅殿が」
甚太夫は穏やかに言った。
「官兵衛殿の草案は見事にございます。されど、織田方へ出す初めての文。小寺家の旧き言葉に整え、角を取る必要がありましょう」
角を取る。
つまり、官兵衛の刃を抜く。
あるいは、別の刃を入れる。
政職は不安そうに見ていた。
官兵衛と甚太夫。
どちらも文の者。
争えば、また家中が波立つ。
そう思っている顔である。
官兵衛は頭を下げた。
「もっともにございます」
甚太夫の目が、わずかに揺れた。
抵抗されると思っていたのだろう。
「三宅殿に整えていただけるなら、文も落ち着きましょう」
「官兵衛」
政職が少し驚いた声を出した。
「よいのか」
「はい。ただし」
官兵衛は静かに続けた。
「私の草案と三宅殿の整えた文を、並べて控えに残したく存じます」
甚太夫の指が止まった。
「控えに」
「はい。今後、織田方、毛利方、浦上方、別所方、赤松方へ文を出す折、誰がどこを整えたか分かるようにいたします。殿の御意が誤って伝わらぬために」
政職は頷きかけた。
それは筋が通っている。
政職の言葉を守るための控え。
そう聞こえる。
だが甚太夫にとっては違う。
自分がどこを削り、どこを足したかが残る。
紙の上で逃げにくくなる。
「それは、少々堅苦しいのではございませぬか」
甚太夫は柔らかく言った。
「文とは、その場その場で整えるもの。すべて控えに残せば、かえって殿のお心を縛ります」
「縛るのは、勝手に整える者でござる」
官兵衛は穏やかに返した。
政職の目が動く。
甚太夫の顔は、まだ穏やかだった。
「官兵衛殿は、私を疑っておられるか」
「いいえ」
官兵衛はすぐ答えた。
「疑わぬために、控えを残すのです」
部屋が静かになった。
政職は少し考えた。
そして言った。
「よかろう。二つの草案を残せ。甚太夫、そなたは官兵衛の文を整えよ。官兵衛、そなたはその整えを見よ」
「はっ」
甚太夫も頭を下げた。
「承りました」
顔は穏やか。
だが、指先が少しだけ強く筆箱を押さえていた。
官兵衛はそれを見た。
怒っている。
焦っている。
それでよい。
筆の者は、焦ると余計な線を引く。
◇
その日の午後、甚太夫が整えた文が届いた。
官兵衛は控え部屋で、それを開いた。
新介、喜三右衛門、四兵衛がそばにいる。
文は美しかった。
言葉は柔らかい。
長篠の勝利を寿ぐ部分も、播磨の静謐を願う部分も、角が取れている。
だが、一箇所だけ、官兵衛の草案にない言葉が入っていた。
小寺家は、東西いずれにも私心なく、御屋形の御威光を仰ぎ、時勢に従い候。
新介は気づかなかった。
喜三右衛門は首を傾げた。
四兵衛だけが眉を寄せた。
「時勢に従い候」
四兵衛が呟いた。
官兵衛は頷いた。
「便利な言葉だ」
「織田が読めば、織田に従うように読める。毛利が読めば、時勢次第では毛利にも従うように読める」
喜三右衛門が言った。
「そして後で、どちらにも言い訳できる」
「そうだ」
官兵衛は文を畳んだ。
甚太夫は、政職の文を守ったのではない。
政職の迷いを、紙に残そうとした。
あとで誰が勝っても、小寺は最初から時勢を見ていたと言えるように。
それは、臆病な知恵である。
そして、乱世ではよくある知恵だった。
「どうなさいます」
新介が問う。
「消す」
官兵衛は言った。
「ただし、甚太夫には消させぬ。殿に消させる」
「政職様に」
「そうだ」
官兵衛は文を持って立ち上がった。
「迷いを紙に残すな、と殿ご自身に言っていただく」
四兵衛が低く笑った。
「それは、三宅殿には堪えましょうな」
「甚太夫ではない」
官兵衛は首を振った。
「殿に堪えるのだ」
三人が黙った。
官兵衛はそのまま歩き出した。
廊下の向こうには、政職のいる部屋がある。
そこへ向かいながら、官兵衛は思った。
小寺政職は器にあらず。
だが、器でない者にも、時には選ばせねばならない。
選ばせなければ、いつまでも迷いを他人の筆に隠す。
今日は、それを許さない。
◇
政職は、甚太夫の文を読んで顔をしかめた。
「どこが悪い」
官兵衛は、例の一文を指した。
「ここにございます」
「時勢に従う。悪い言葉ではあるまい」
「悪くはございませぬ」
「では」
「弱いのです」
政職の顔が固まった。
官兵衛は頭を下げた。
斬りすぎるな。
だが、浅くも斬るな。
ここは避けて通れない。
「殿。時勢に従うと書けば、読む者は小寺が己の足で立たぬ家だと見ます」
「小寺は小さき家だ」
「小さき家だからこそ、言葉だけでも足を見せねばなりませぬ」
政職は黙った。
「では、何と書く」
「時勢を見極め、播磨の静謐を守る、と」
官兵衛は言った。
「従うのではなく、見極める。流されるのではなく、守る。意味は近い。されど、腰が違います」
政職は文を見た。
長い沈黙。
官兵衛は待った。
今回は、差し出させるのではない。
政職に選ばせる。
選ばせた事実を残す。
「……直せ」
政職は言った。
「時勢に従う、は消せ。時勢を見極め、播磨の静謐を守る、とせよ」
「承りました」
官兵衛は頭を下げた。
小さな勝ちだった。
城も兵も動いていない。
誰も斬っていない。
だが、小寺政職が、迷いをそのまま紙に残すことを一度拒んだ。
これは使える。
そして、危うい。
政職が少しでも己で立つ感覚を覚えれば、官兵衛の思い通りに動かぬ時も来る。
それでもよい。
動かぬ主を操るより、少し立つ主を利用する方が、外から見れば強く見える。
官兵衛は文を受け取った。
その時、廊下から足音が近づいた。
使番が膝をつく。
「申し上げます。三宅甚太夫様が、急ぎ円明寺へ向かわれました」
政職の顔が変わった。
官兵衛は静かに目を伏せた。
早い。
焦りすぎだ、甚太夫。
筆の者が、筆を置いて走った。
それだけで、十分な証になる。
官兵衛は顔を上げた。
「殿」
「何だ」
「円明寺へ、人を遣わしてもよろしいでしょうか」
政職は文を見た。
そして、官兵衛を見た。
迷いはあった。
だが、先ほどより短かった。
「行かせよ」
「はっ」
官兵衛は頭を下げた。
文は整った。
寺も動いた。
そして、政職は自分の口で命じた。
小寺家の迷いが、ほんの一歩だけ、官兵衛の望む形に歩き出した。




