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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第11話 灰に残る道

「行かせよ」


 政職がそう命じた時、官兵衛はすぐに頭を下げた。


「はっ」


 だが、官兵衛自身は動かなかった。


 御着を離れぬ。


 そう自ら言った以上、ここで円明寺へ駆ければ、松寿丸を奥へ置く話を退けた根が揺らぐ。


 動くのは、黒田の手足でよい。


 見るのは、黒田の目でよい。


 決める時だけ、官兵衛が前へ出ればよい。


 官兵衛は廊下に出ると、新介と四兵衛を呼んだ。


「円明寺へ行け」


「はっ」


 新介が即座に頭を下げる。


 四兵衛は黙って官兵衛を見た。


「三宅甚太夫様を、捕らえますか」


「捕らえるな」


 官兵衛は短く言った。


「三宅はまだ罪人ではない。殿の命で円明寺へ人を遣わす。それだけだ」


「では、何を見れば」


「火だ」


 新介が顔を上げた。


「火、でございますか」


「紙を隠す者は、まず懐へ入れる。懐で足りぬ時は、寺へ預ける。それでも危うくなれば、焼く」


 官兵衛は二人を見た。


「紙を探すな。灰を見ろ」


 四兵衛がわずかに頷いた。


「焼いた後を押さえるのですな」


「灰は嘘をつかぬ。だが、灰だけでは人を斬れぬ。見た者の口も要る」


「慶順殿と寺男でございますな」


「そうだ」


 新介は深く息を吸った。


 若い顔に緊張がある。


 官兵衛はその緊張を見て、少しだけ声を落とした。


「新介」


「はっ」


「急げ。だが、走るな」


 新介が目を瞬いた。


 四兵衛が横で低く言う。


「走れば、こちらが慌てていると見える」


「はい」


「それと」


 官兵衛は続けた。


「三宅が寺におれば、問い詰めるな。戻っていただくよう申し上げろ。拒めば、殿の命だと言え。それでも拒めば、そこで初めて囲め」


「斬っては」


「ならぬ」


 官兵衛の声が硬くなった。


「筆の者を刃で追えば、紙の奥にいる者が逃げる」


 新介は頭を下げた。


「承りました」


 二人が去る。


 官兵衛は廊下に残った。


 外へは出ない。


 だが、心だけはすでに円明寺の井戸端へ走っていた。


     ◇


 円明寺へ着いた時、境内にはまだ昼の光が残っていた。


 だが、裏手の井戸のあたりだけは、木の影が濃い。


 新介は山門をくぐる前に、足を止めた。


 境内の端。


 人目につきにくい場所に、白い煙が細く上がっている。


 炊事の煙ではない。


 紙が焼ける匂いだった。


 四兵衛が低く言った。


「遅かったか」


「いえ」


 新介は拳を握った。


「まだ、煙が出ています」


 二人は走らなかった。


 だが、歩みは速かった。


 縁側の向こうから慶順が出てくる。


 その顔には、困惑と警戒が混じっていた。


「井手殿」


「住持様。政職様の命にございます。円明寺へ遣わされました」


 慶順はすぐに頭を下げた。


「奥へ」


「先に裏手を」


 新介が言うと、慶順の顔がわずかに変わった。


 隠す気はない。


 だが、見られたくもない。


 その顔であった。


 裏手の井戸のそばに、三宅甚太夫がいた。


 供は一人。


 寺男の太助もいる。


 そして小さな火鉢の中で、紙が燃え残っていた。


 甚太夫は新介を見ると、静かに眉を上げた。


「これは、黒田殿の若い衆ではないか」


「井手新介にございます」


「そのように急いで、何用かな」


 声は穏やかだった。


 あくまで穏やか。


 だが、火鉢の縁を押さえる指が白い。


 焦っている。


 官兵衛の言った通りだ。


 筆の者は、焦ると余計な線を引く。


「政職様の命により、円明寺へ参りました」


「殿の?」


 甚太夫の目が一瞬だけ揺れた。


 新介は見逃さなかった。


「はい。三宅様にも、御着へお戻りいただきたく」


「私は、寺の古い控えを確かめに来ただけだ」


「それも、御着で伺います」


 甚太夫は笑った。


「若いな。人の用事をすべて疑えば、家中が息苦しくなる」


「疑ってはおりませぬ」


 新介は、官兵衛の言葉を思い出しながら言った。


 「疑わぬために、見たことを政職様の前でそろえます」


 甚太夫の目が細くなった。


 その言い回しに、官兵衛の匂いを感じたのだろう。


「官兵衛殿の受け売りか」


「はい」


 新介は隠さなかった。


「私はまだ、殿の受け売りで足ります」


 四兵衛が、わずかに笑った。


 甚太夫は笑わなかった。


「火鉢の中を、見せていただけますか」


 新介が言う。


 甚太夫は一歩前へ出た。


「寺の反故だ。見るほどのものではない」


「ならば、見ても差し支えございますまい」


「黒田の若造が、三宅の文を見るか」


 初めて、声に怒りが混じった。


 新介の喉が鳴る。


 だが、下がらなかった。


「政職様の命にございます」


 その一言で、甚太夫は止まった。


 四兵衛が横へ動き、火鉢との間を塞ぐ。


 慶順が静かに言った。


「三宅様。ここは、お見せになった方がよろしいかと」


 甚太夫は、慶順を睨んだ。


「寺が、武家の争いに口を出すか」


「寺で火を焚かれれば、寺の用にもなります」


 慶順の返しは淡々としていた。


 甚太夫は黙った。


 新介は火鉢へ近づいた。


 まだ熱い。


 灰の中に、焼け残った紙片がいくつかある。


 手を伸ばそうとすると、四兵衛が止めた。


「素手ではならぬ」


 四兵衛は懐から小さな竹箸を出した。


 用意していたのだ。


 新介はそれを受け取り、灰の中から焼け残りを拾った。


 文字が少し残っている。


 時勢。


 従い。


 私心なく。


 そして、別の紙片には、小さく黒田の文字が見えた。


 黒田官――。


 そこで焼け落ちている。


 新介は息を止めた。


「これは」


「反故だと言った」


 甚太夫が早口で言う。


「文を整える時、不要になった紙は焼く。それだけのことだ」


「なぜ、円明寺で」


 四兵衛が問うた。


「御着ではなく、寺の井戸端で焼く理由は」


 甚太夫は答えなかった。


 答えぬ代わりに、太助を見た。


 太助が身を縮める。


 新介はその視線を見た。


「太助」


「は、はい」


「この火をつけたのは、誰だ」


 太助は怯えた。


 慶順が静かに言う。


「見たままを申せ」


 太助は唇を震わせた。


「三宅様の供の方が」


「紙を入れたのは」


「三宅様にございます」


 甚太夫の顔色が変わった。


「下賤の者の目など」


「下賤でも目はございます」


 新介は言った。


 自分の口から出た言葉に、少し驚いた。


 だが、止まらなかった。


「若輩でも耳はございます。寺男でも目はございます。殿がそう申されました」


 四兵衛が横で頷いた。


 甚太夫はしばらく新介を見ていた。


 そして、ふっと笑った。


「官兵衛殿は、恐ろしい若衆を育てておる」


「私はまだ、育っておりませぬ」


「ならば、なお悪い」


 甚太夫は袖を整えた。


「よかろう。戻る」


 新介は頭を下げた。


「恐れ入ります」


「ただし、その灰だけで私を罪人にはできぬぞ」


「存じております」


 新介は焼け残りを小さな紙に包んだ。


「灰は、人を斬るものではございませぬ。殿がそう申しました」


 甚太夫は初めて、不快を隠さず新介を見た。


「ならば、何だ」


「道を見るものにございます」


     ◇


 御着へ戻った時、日は傾いていた。


 官兵衛は控え部屋ではなく、政職の近くの小部屋にいた。


 報告を受ける場所を、あえてそこにしたのである。


 政職の耳に入る前に、黒田の部屋で形を整えたと思われては困る。


 見たものは、できるだけそのまま上げる。


 そういう形を作るためだった。


 新介、四兵衛、慶順、太助。


 そして三宅甚太夫。


 全員がそろった。


 政職は疲れた顔をしている。


 だが、逃げてはいなかった。


「申せ」


 政職が言った。


 新介は膝をつき、順に報告した。


 円明寺の裏手で火が焚かれていたこと。


 その場に三宅甚太夫がいたこと。


 焼け残りに「時勢」「従い」「私心なく」の文字が見えたこと。


 別の紙片に「黒田官」の文字が残っていたこと。


 寺男の太助が、紙を火に入れたのは甚太夫だと見たこと。


 声は何度か震えた。


 だが、飛ばさなかった。


 盛らなかった。


 言い切れないことは、言い切らなかった。


 官兵衛は黙って聞いた。


 それでよい。


 新介は少しずつ、見たものと考えたことを分け始めている。


 政職は焼け残りを見た。


 小さな紙片。


 灰の匂いが、まだ残っている。


「甚太夫」


「はっ」


「これは、何だ」


 甚太夫は頭を下げた。


「反故にございます」


「なぜ、寺で焼いた」


「円明寺の古い控えと照らすうち、不要になりましたゆえ」


「黒田官、とは何だ」


「官兵衛殿の草案を写したものの一部にございましょう」


 甚太夫は、滑らかに答えた。


 あらかじめ考えていた言い訳である。


「文を整えるため、草案を写すことはございます」


 政職は官兵衛を見た。


「官兵衛」


「はっ」


「どう見る」


 ここで斬れと言えば、政職は引く。


 ここで庇えば、甚太夫は息を吹き返す。


 どちらも違う。


 官兵衛は頭を下げた。


「三宅殿が何を焼いたか、この灰だけでは断じられませぬ」


 甚太夫の肩が、わずかに緩んだ。


「されど」


 官兵衛は続けた。


「殿の文を整える者が、その写しを寺で焼いた。これは事実にございます」


 甚太夫の肩がまた強張る。


「それが何を意味するか、今ここで私が決めるべきではございませぬ。殿がお決めになることです」


 政職の顔が硬くなった。


 官兵衛は、逃げ道を政職へ戻した。


 いや、戻したように見せた。


 政職に決めさせる。


 それが一番、三宅に効く。


「殿」


 甚太夫が声を上げた。


「私は小寺の文を守るために」


「守るために、寺で焼いたのか」


 政職の声は低かった。


 甚太夫が言葉に詰まる。


「守るなら、わしの前で焼けばよい」


 部屋が静まった。


 官兵衛は目を伏せた。


 よい。


 今の言葉は、政職自身のものだ。


 誰かに言わされた言葉ではない。


「甚太夫」


「はっ」


「そなたの筆は、今後も使う」


 甚太夫が顔を上げた。


 助かった。


 そう思った顔だった。


 だが、政職は続けた。


「ただし、官兵衛の控えと並べよ。外へ出す文は、誰が草案を書き、誰が整え、どこを直したか残す。寺へ写しを出す時も、わしの許しなくしてはならぬ」


 甚太夫の顔から血の気が引いた。


 斬られはしない。


 追われもしない。


 だが、筆の自由は奪われた。


 紙の上で、官兵衛の目から逃げられなくなった。


「承知……いたしました」


 甚太夫は深く頭を下げた。


 その背には屈辱があった。


 官兵衛は勝ち誇らなかった。


 甚太夫を潰したのではない。


 政職に命じさせた。


 それが大事だった。


     ◇


 評定が解けた後、官兵衛は廊下で新介を呼び止めた。


「よくやった」


 短い言葉だった。


 新介は目を見開いた。


「いえ、私は」


「見たものを見たまま戻した。余計な刃を抜かなかった。それでよい」


 新介は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし、驕るな」


「はっ」


「今日は三宅が焦った。次は、相手も焦らぬ」


 新介の顔が引き締まる。


「承知しております」


「それと」


 官兵衛は少しだけ声を落とした。


「灰を持った手を洗え」


 新介は一瞬きょとんとした。


「手、でございますか」


「紙の灰は細かい。目にも口にも入る」


「……はい」


 新介は、ようやく笑いかけた。


 官兵衛もそれ以上は言わなかった。


 心配を心配として言うには、まだ慣れていない。


 だから、灰の話にした。


 新介が去ると、四兵衛が横に並んだ。


「若い者は、育ちますな」


「育ちすぎれば、死に近づく」


「育たねば、もっと早く死にます」


 官兵衛は答えなかった。


 四兵衛の言う通りだった。


 廊下の外には、夕暮れの光が差していた。


 閉じていない。


 風もある。


 官兵衛は息を吸った。


 三宅甚太夫は、まだ使える。


 真鍋蔵人も、まだ噛む。


 慈徳は外へ逃げている。


 円明寺は、こちらを恐れ始めた。


 そして政職は、自分の口で二度命じた。


 行かせよ。


 文の控えを残せ。


 小さな言葉だ。


 だが、小さな言葉が重なれば、主君の形は変わる。


 官兵衛は、御着の奥へ目を向けた。


 まだ小寺の城である。


 だが、文の流れは変わった。


 寺の灯に寄った影は、焼け残りの灰を残した。


 その灰を踏んで、官兵衛は次の道を見た。



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