第12話 塩俵は、馬の前に置く
翌朝、御着の城はまだ薄暗かった。
夜の湿りが土に残り、厩のあたりから馬の息が白く上がっている。
その厩の裏で、喜三右衛門が塩俵を一つ見つけた。
俵は粗末な筵にくるまれていた。
表には何の印もない。
だが、縄の内側。
普通なら見落とすところに、小さな黒い札が挟まれていた。
黒田が室津で押さえた塩荷につけた札である。
「戻ってきたか」
報告を聞いた官兵衛は、そう言った。
驚きはなかった。
喜三右衛門は少しだけ眉を上げた。
「驚かれませぬか」
「止まった荷はいずれ動く。動けば、どこかに顔を出す」
「ですが、まさか御着の厩裏とは」
「米なら蔵へ行く。紙なら文箱へ行く。塩は、人と馬の近くへ行く」
官兵衛は立ち上がった。
御着を出るわけではない。
厩は城の内である。
それでも、部屋を出る時、開け放った障子の方を一度見た。
風が入っている。
戻る場所に風がある。
それだけで、足は動いた。
◇
厩裏には、喜三右衛門のほか、新介と四兵衛が待っていた。
馬の匂い。
藁の匂い。
湿った土。
朝の冷気。
紙と墨の匂いばかり続いていた数日とは違う。
官兵衛は、少しだけ息を吸いやすく感じた。
ここは閉じていない。
空がある。
馬がいる。
人が動いている。
だが、だから安全というわけではない。
兵は、文より早く人を殺す。
「俵は」
官兵衛が問う。
喜三右衛門が筵をめくった。
中には塩が詰められていた。
粗い塩である。
軍の保存食にも、馬にも、人にも使える。
官兵衛は札を見た。
黒田の印ではない。
あえて商人の目印に似せた、小さな焼き印である。
室津で一部だけ押さえた塩荷に、喜三右衛門がつけたものだ。
「誰が運び込んだ」
「夜明け前、馬草と一緒に運ばれております。厩番は、飾磨から来た荷だと思ったと」
「飾磨から?」
「そう聞かされていたそうです」
新介が口を挟んだ。
「しかし、この札があるなら、室津の塩でございます」
「そうだ」
官兵衛は俵の周りを見た。
土に轍がある。
荷車の跡。
そして、馬の蹄跡がいくつか。
新しい。
夜明け前に馬を出す支度をしたか。
「馬は何頭動いた」
厩番が呼ばれた。
眠そうな顔をしていたが、官兵衛を見て一気に目を覚ました。
「申し上げます。昨夜は、外へ出た馬はございませぬ」
「外へ出た馬は、だな」
厩番の顔が強張った。
外へ出た。
その言葉を、厩番は門を越えて遠くへ遣られた馬という意味で使ったのだろう。
だが、官兵衛が見ているのはそこではない。
門外へ出たかどうかではない。
誰の許しで、誰が、何の名目で、馬を動かしたかである。
「鞍を置いた馬は何頭だ」
「……三頭にございます」
「誰の命だ」
「三宅様の下人が、朝の使いに備えると言いまして」
新介が顔を上げた。
三宅甚太夫。
昨日、円明寺で紙を焼いた男。
また三宅か。
そう思った顔である。
官兵衛はすぐに言った。
「決めるな」
新介ははっとした。
「三宅の名が出るように、置かれた荷かもしれぬ」
「では、真鍋殿が」
「それも決めるな」
官兵衛は俵に手を置いた。
塩は冷たい。
だが、重い。
紙と違って、燃やせば消えるものではない。
動かせば跡が残る。
だからこそ、人は荷に嘘をつかせる。
「喜三右衛門」
「はっ」
「この塩俵の残りを見ろ。どこで荷が割れたか。室津からここまで、一俵だけで来るはずがない」
「承知いたしました」
「四兵衛」
「はっ」
「鞍を置いた三頭を見る。蹄、腹、汗の跡。昨夜、ただ支度しただけか、本当に歩かせたか」
「承りました」
「新介」
「はっ」
「厩番を責めるな。誰がいつ何を言ったか、順に聞け。嘘をつかせるな」
「はい」
官兵衛はそこで少し考えた。
そして厩番へ向いた。
「そなた」
「は、はい」
「名は」
「源八にございます」
「源八。今のうちに申せ。昨夜、鞍を置いた三頭のほかに、綱を替えた馬はあるか」
源八は唇を噛んだ。
しばらく迷う。
官兵衛は待った。
待つことも、時には刃になる。
「一頭、ございます」
「誰の」
「真鍋様の若い衆が使う馬に」
新介が息を呑む。
三宅。
真鍋。
二つの名が重なった。
分かりやすすぎる。
だからこそ、まだ信じない。
「その馬は」
「まだ厩におります」
「見せよ」
◇
馬は栗毛だった。
足は強そうだが、昨夜遠くへ出た様子はない。
腹に汗の跡はない。
だが、蹄の泥が新しい。
城内だけではつかぬ赤土が、少しだけ縁に残っていた。
源八は、外へ出たとは数えていなかった。
門を越え、遠くへ遣られたわけではない。
だが、城下の外れまで引き出されたことは、明らかだった。
四兵衛がしゃがみ、泥を見た。
「外へは出ておりますな」
「遠くか」
「いいえ。城下の外れ程度かと」
「何のために」
新介が問う。
四兵衛は蹄から目を離さずに言った。
「外で誰かと会うには、十分でございます」
官兵衛は頷いた。
塩俵。
三宅の下人。
真鍋の若い衆。
城下の外れ。
室津から戻った荷。
つながっている。
だが、一本ではない。
何人もが同じ荷を、それぞれ別の目的で使っている可能性がある。
「殿」
喜三右衛門が戻ってきた。
「この塩、室津から直接ではございませぬ。一度、飾磨で荷札を替えております」
「飾磨で」
「はい。塩俵は三つございました。一つが御着へ。残り二つは、城下の外れの商人蔵へ入ったと」
「誰の蔵だ」
「播磨屋弥平」
官兵衛は目を細めた。
以前、港の口上に来た商人である。
米と塩の値を探っていた男。
「弥平を呼べ」
「捕らえますか」
「呼べ。捕らえるな」
喜三右衛門は頷いた。
「承知いたしました」
◇
播磨屋弥平は、昼前に御着へ来た。
早かった。
早すぎる。
呼ばれることを予期していたか、あるいは呼ばれる前から城の近くにいたか。
弥平はいつものように腰を低くした。
「官兵衛様。何か不手際がございましたでしょうか」
「まだ分からぬ」
官兵衛は言った。
「分からぬうちに聞く」
「ありがたきことで」
「室津の塩が、なぜ飾磨を経て御着の厩裏へ来た」
弥平の顔から、商人の笑みが少し消えた。
「塩でございますか」
「とぼけるには早い」
「……荷は扱いました」
「誰に頼まれた」
「城中の方にございます」
「名は」
「名を出せば、商人は明日から荷を扱えなくなります」
新介が身を乗り出しかけた。
官兵衛は手で制した。
「名を出さぬなら、明日から小寺の荷を扱えなくなる」
弥平の顔が硬くなった。
脅しではない。
事実である。
文と蔵と港津の控えを官兵衛が見ている以上、弥平の名を外すことはできる。
商人は、武士に斬られるより、荷の道を失うことを恐れる。
「……三宅様の下人が一度」
弥平は低く言った。
「その後、真鍋様の若い衆が一度」
「どちらが先だ」
「三宅様の下人にございます」
「何を頼んだ」
「御着へ少し塩を入れたい。表の荷ではなく、厩の荷に混ぜたいと」
「真鍋の若い衆は」
「同じ荷の残りを、城下の外れへ置けと」
「なぜ」
「そこまでは」
弥平は首を振った。
「商人は、頼まれた荷を動かすだけにございます」
「嘘だな」
官兵衛は言った。
弥平の喉が鳴った。
「商人は、荷の行き先を見て値をつける。理由を知らぬふりはしても、理由を考えぬ商人はおらぬ」
弥平は黙った。
官兵衛は声を落とした。
「何だと思った」
「……どなたかが、夜に人を出す支度かと」
「人とは」
「使いか、若い衆か。あるいは、どこかへ逃がす者か」
部屋の空気が変わった。
逃がす者。
官兵衛は、その言葉に反応した。
慈徳。
円明寺にいた僧形の男。
まだ捕らえていない。
使うために泳がせた男。
その男を、誰かが逃がそうとしているのか。
「慈徳を見たか」
官兵衛が問う。
弥平は目を伏せた。
「名は存じませぬ。僧形の男なら、城下外れの蔵近くで一度」
「いつ」
「昨夜にございます」
新介が拳を握った。
官兵衛は静かに息を吐いた。
点が線になりかけている。
だが、まだ結ぶには早い。
「弥平」
「はい」
「今から、そなたの蔵を改める」
弥平が顔を上げた。
「それは」
「拒むか」
「いえ」
「よい。拒まぬなら、そなたは荷を乱した者ではなく、荷を見せた者になる」
弥平の目が動いた。
商人は罰より利で動く。
逃げ道を見せれば、そちらへ来る。
「ご案内いたします」
◇
城下外れの商人蔵は、古い道沿いにあった。
官兵衛自身は、御着の城を出ない。
行かせたのは、喜三右衛門と四兵衛である。
新介は城に残した。
弥平の話を政職の前で整えるためだ。
官兵衛は、控え部屋で待った。
待つだけの時間は、嫌いではない。
だが、今日の待ちは重かった。
塩。
馬。
僧。
子。
そのどれもが、人質という言葉へ少しずつ近づいている気がした。
松寿丸ではない。
まだ違う。
だが、人の命を荷のように動かす気配がある。
官兵衛は筆を握った。
強く握りすぎて、指先が白くなる。
やがて、喜三右衛門が戻った。
顔が硬い。
「殿」
「申せ」
「商人蔵に、塩俵二つ。黒田の札つきにございます」
「ほかは」
「古い旅装束。草鞋。乾飯。小さな薬包」
「人を逃がす支度だな」
「はい」
「慈徳は」
「おりませぬでした。ですが」
喜三右衛門は、懐から小さな布を出した。
「蔵の隅に落ちておりました」
布には、焦げた紙片が包まれている。
官兵衛は広げた。
文字は少ない。
ただ一つ、読める名があった。
備前。
新介が小さく息を呑んだ。
備前。
浦上の影が、また出た。
毛利ではない。
少なくとも、表の名は浦上に近い。
官兵衛は、紙片を見つめた。
慈徳を逃がす。
備前へ。
塩と乾飯を持たせて。
三宅の下人が荷を入れ、真鍋の若い衆が残りを動かす。
別々に見えた手が、一つの逃げ道を作っている。
だが、三宅と真鍋が仲良く手を組んだとは限らない。
同じ道を、別々の思惑で使っているだけかもしれない。
「殿」
新介が言った。
「慈徳を捕らえますか」
「まだだ」
「まだ、でございますか」
「慈徳は逃げる。ならば、逃げる先を見る」
「備前へ」
「そう見せているだけかもしれぬ」
官兵衛は紙片を畳んだ。
「だが、備前の名を残した者は、こちらにそう見せたかった」
四兵衛が静かに言った。
「わざと落としたと」
「分からぬ」
官兵衛は首を振った。
「だから、今度はこちらも落とす」
「何を」
「偽の手綱だ」
◇
夕刻、政職の前で報告が行われた。
厩裏の塩俵。
黒田の札。
三宅の下人。
真鍋の若い衆。
飾磨の荷替え。
弥平の証言。
城下外れの商人蔵。
旅装束、乾飯、薬包。
そして、備前と読める焦げた紙片。
政職は、何度も目を閉じた。
「また三宅か。真鍋もか」
「名は出ました」
官兵衛は言った。
「されど、二人が同じ考えで動いたとは限りませぬ」
「どういう意味だ」
「三宅殿は、文の行方を消そうとした。真鍋殿の若い衆は、別の者の逃げ道を用意した。あるいは、その逆。今ここで一つに決めれば、残りが逃げます」
政職は疲れたように息を吐いた。
「では、また泳がせるのか」
その声には、苛立ちがあった。
官兵衛は、それを受け止めた。
政職もまた、変わり始めている。
ただ迷うだけではなく、決着を欲し始めている。
それは良い。
だが、急がせれば間違う。
「今度は、泳がせるだけではございませぬ」
「何をする」
「厩を改めます」
政職が顔を上げた。
「厩を?」
「はい。小寺家中の馬の出入り、鞍、馬草、塩、乾飯の出し入れを控えに残す。無断で夜に馬を出すことを禁じます」
老臣の一人が声を上げた。
「そこまで縛れば、急な使いも出せぬ」
「急な使いは、殿の許しを得れば出せます」
官兵衛は即座に返した。
「許しを得られぬ使いが、問題なのです」
政職は黙った。
官兵衛は続けた。
「文は、人の口を動かします。塩は、人と馬を動かします。どちらも殿の知らぬところで動けば、小寺の名が外で売られます」
政職の顔が硬くなった。
小寺の名が売られる。
その言葉は効く。
政職は家を残したい男だ。
家の名を売られることを、何より恐れる。
「よかろう」
政職は言った。
「厩も改めよ。ただし、家中を騒がせすぎるな」
「承りました」
「三宅と真鍋は」
「今は名を伏せます」
「またか」
「はい」
官兵衛は頭を下げた。
「名を伏せれば、彼らはまだ動けます。動けば、誰と繋がるか見えます」
政職は官兵衛を見た。
長い沈黙があった。
「官兵衛」
「はっ」
「そなたは、皆を罠にかけているのか」
部屋が静まった。
官兵衛はすぐには答えなかった。
その問いは、今までで一番まっすぐだった。
政職が、官兵衛の策そのものを見始めている。
ごまかせば、失う。
正直に言いすぎれば、恐れられる。
官兵衛は頭を下げたまま言った。
「罠を置いております」
政職の息が止まった。
「ただし、殿の家を裂くためではございませぬ。殿の知らぬところで小寺の名を売る者を、表へ出すためにございます」
政職は黙っていた。
「乱世では、何も置かぬ道にも罠がございます。ならば、こちらで置いた罠の方が、まだ外せます」
それは本心だった。
半分は。
政職は、やがて低く言った。
「わしにも、外せる罠にせよ」
官兵衛は顔を上げた。
政職の目には、疲れと恐れがあった。
だが、そこに小さな意地もあった。
「承りました」
官兵衛は深く頭を下げた。
予想より、政職は踏み込んできた。
器にあらず。
それは今も変わらない。
だが、器でないからといって、完全な空ではない。
中に残ったものが、時に官兵衛の策を重くする。
◇
夜、御着の厩には新しい札が下がった。
馬の出入り。
鞍の出入り。
塩と馬草の出入り。
夜の使いは、政職の許しと控えなきものを認めぬこと。
家中はざわめいた。
不満も出た。
だが、誰も表では反対しにくかった。
厩裏で塩俵が見つかったばかりだからである。
新介は、札を見上げて言った。
「文、蔵、寺、そして厩」
「次は人だ」
官兵衛は言った。
新介が振り向く。
「人、でございますか」
「文を運ぶのも、荷を動かすのも、馬に乗るのも、人だ。物を見れば、最後は人に行き着く」
新介は黙った。
官兵衛は厩の奥を見た。
馬が一頭、鼻を鳴らす。
塩俵の匂いは、もう薄れている。
だが、その重さは残っていた。
慈徳はまだ見えない。
備前の名も、真か偽か分からない。
羽柴の返事も、まだ来ない。
だが、御着の中で無断に馬を動かす道は、今日ひとつ塞いだ。
官兵衛は低く呟いた。
「父の手に戻すものは、子だけではない」
新介には聞こえなかった。
小寺の文。
小寺の蔵。
小寺の寺社筋。
小寺の馬。
それらは少しずつ、政職の手に戻る形を取りながら、官兵衛の目の前を通るようになっている。
返すふりをして、通り道を握る。
それが、今の一手だった。
夜風が厩を抜けた。
閉じていない。
だが、どこにも逃げ場があるわけではない。
官兵衛は、馬の蹄跡を見た。
次に追うべきは、慈徳ではない。
慈徳を逃がそうとした者たちが、誰を恐れているか。
その名である。




