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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第13話 口を塞ぐ手

 厩の札が下がった翌朝、御着の城は静かだった。


 静かすぎた。


 文の出入りを控えに残す。


 蔵の文箱を改める。


 寺社を介した写しを残す。


 馬の出入り、鞍、馬草、塩、乾飯の出入りを記す。


 ひとつひとつは、小さな改めにすぎない。


 だが、それらは城の中を流れる水路に、細い杭を打つようなものだった。


 水は止まらない。


 ただ、流れを変えられる。


 流れを変えられた者は、必ず低い場所を探す。


 そして低い場所とは、多くの場合、人の口であった。


「源八を動かすな」


 官兵衛は朝一番に言った。


 新介が顔を上げる。


「厩番の源八でございますか」


「そうだ。責めるな。褒めるな。急に役を上げるな。普段通り厩に置け」


「守らなくてよろしいのですか」


「守っていると悟らせるな」


 新介は少し考え、頷いた。


「源八を狙う者を見るのですね」


「源八だけではない」


 官兵衛は文箱の横に、三つの小さな石を置いた。


「源八。播磨屋弥平。円明寺の太助」


 厩番。


 商人。


 寺男。


 三人とも、武士ではない。


 だが、三人とも見た。


 見た者の口は、文より軽い。


 軽いから運びやすい。


 軽いから折りやすい。


「この三人に何かあれば、誰が何を恐れているか分かる」


 喜三右衛門が低く言った。


「先に隠しては」


「隠せば、相手は別の口を探す。今は、口がそこにあると見せておく」


 四兵衛が渋い顔をした。


「囮にするのですか」


「殺させぬ」


「答えになっておりませぬ」


 官兵衛は四兵衛を見た。


 古参の目は逃げない。


 これでよい。


 黒田家中に、官兵衛の冷たさを見て眉をひそめる者がいなければ、黒田は長くもたない。


「囮にする」


 官兵衛は言った。


「ただし、餌だけを置くのではない。縄も置く」


 四兵衛はしばらく黙り、やがて頭を下げた。


「承りました」


     ◇


 昼前、播磨屋弥平が城へ呼ばれた。


 昨日の塩荷の件で、さらに話を聞くためである。


 だが官兵衛は、弥平を叱らなかった。


 むしろ、城の台所から粥と干菜を出させた。


 商人は怒鳴られるより、食わされる方を怖がる。


 借りになるからである。


「弥平」


「はい」


「そなたの蔵から見つかった旅装束と乾飯のことは、まだ外へ出しておらぬ」


「ありがたきことにございます」


「ありがたいと思うなら、今日は余計なことを言うな」


 弥平の目が動いた。


「余計なこと、とは」


「城を出たら、こう言え。黒田様は、備前の名に強く気を取られておられる、と」


 弥平は口を開きかけ、すぐ閉じた。


 商人の顔に戻る。


「それは、まことでございますか」


「まことを言えとは言っていない」


「では、嘘を」


「商人は、嘘を売るのか」


 弥平は苦笑した。


「値がつけば、何でも売る者はおります」


「そなたは違うのか」


「違うと言いたいところにございます」


「ならば、噂を売れ」


 官兵衛は静かに言った。


「嘘ではない。私は備前の名を気にしている。ただし、どの程度気にしているかは、聞いた者が勝手に測る」


 弥平は深く頭を下げた。


「承りました」


 新介は横で聞いていた。


 以前なら、また人を騙すのかと思っただろう。


 今は少し違う。


 官兵衛は弥平に、ただ嘘を撒かせているのではない。


 備前という名に食いつく者を見ようとしている。


 そして同時に、弥平を殺すには惜しい商人に見せている。


 利用されている。


 だが、守られてもいる。


 その両方が、新介には少しだけ分かるようになっていた。


     ◇


 夕刻近く、最初に動いたのは源八だった。


 いや、源八が動いたのではない。


 動かされた。


 厩の裏へ、若い小者が来た。


 名は小六。


 小寺家中の雑用をする者で、どの家の者とも言いにくい。台所にも厩にも出入りし、用を言いつけられればどこへでも走る。


 そういう者は便利である。


 便利な者は、使われる。


 小六は源八へ小さな包みを渡そうとした。


 源八は一度受け取りかけた。


 だが、官兵衛から朝に言われていたことを思い出したのだろう。


 受け取る前に、咳をした。


 それが合図だった。


 馬草の陰にいた新介が、静かに近づく。


 さらに離れた場所で、四兵衛が出口を塞いだ。


「何を渡している」


 新介が問うと、小六は飛び上がった。


「何も」


「まだ包みは手の中だ」


 小六は逃げようとした。


 だが、四兵衛が前に出るだけで足が止まった。


 老いた男の立ち方ではない。


 逃げる者の行き先を最初から塞ぐ立ち方だった。


「中を見せよ」


 新介が言う。


 小六は震えながら包みを開いた。


 中には、小さな銀と紙片があった。


 紙片には、短く書かれている。


 昨夜、真鍋家の馬は城外へ出ず。


 厩番源八、見誤り候。


 新介の顔が硬くなった。


 源八にそう言わせるつもりだったのだ。


 栗毛の馬についた赤土。


 城下の外れまで引き出された痕。


 それを、見誤りにする。


「誰に頼まれた」


 新介が問う。


 小六は首を振った。


「知りませぬ」


「知らぬ者から銀を受け取ったのか」


「顔は隠しておりました」


「声は」


「……若い声ではございませぬ」


 四兵衛が一歩近づいた。


「どこで受けた」


「井戸の脇に」


「誰か聞いていたか」


「いえ」


 小六は怯えきっていた。


 だが、新介には分かった。


 まだ何か隠している。


 官兵衛なら、ここで怒鳴らない。


 逃げ道を一つ置く。


「小六」


 新介は声を落とした。


「今なら、そなたは銀を運ばされた者だ。ここで隠せば、源八の口を塞ごうとした者になる」


 小六は唇を震わせた。


「言えば、私は」


「黒田が守る」


 言ってから、新介は胸の奥が冷えた。


 守る。


 自分が勝手に言っていい言葉だったか。


 だが、言ってしまった。


 小六はそれにすがる顔をした。


「長浜の者に嗅がれる前に、口をそろえろ、と」


 新介の目が動いた。


「長浜」


「そう言っておりました。長浜の者に嗅がれれば、小寺は織田に疑われる。だから、馬は出ていないことにしろと」


 四兵衛が新介を見る。


 新介は頷いた。


 これは大きい。


 恐れている名は、官兵衛ではない。


 政職でもない。


 羽柴藤吉郎。


 長浜の猿の鼻を、誰かが恐れている。


     ◇


 報告を受けた官兵衛は、しばらく黙っていた。


 控え部屋には、新介、四兵衛、源八、小六がいる。


 小六は縄をかけられてはいない。


 だが、座らされているだけで震えていた。


 官兵衛は紙片を見た。


 昨夜、真鍋家の馬は城外へ出ず。


 厩番源八、見誤り候。


 下手な文だ。


 だが、下手だからこそ使いやすい。


「長浜の者に嗅がれる前に、か」


 官兵衛は低く呟いた。


 新介が言った。


「羽柴殿を恐れているのでしょうか」


「恐れている」


「では、織田方に知られたくないことがある」


「そうだ」


 官兵衛は小六を見た。


「声を聞いた時、何か匂いはしたか」


 小六は目を瞬いた。


「匂い、でございますか」


「香、油、酒、紙、墨」


 小六は必死に思い出そうとした。


「……墨の匂いがしました」


「墨」


「はい。それと、少し薬の匂いが」


 三宅か。


 そう思いかけて、官兵衛は止めた。


 決めるな。


 墨なら祐筆。


 薬なら逃げ支度。


 だが、墨の匂いをつけた別人かもしれない。


「小六」


「は、はい」


「そなたは今夜、厩へ戻れ」


「え」


「何事もなかった顔で戻れ」


 小六は蒼白になった。


「殺されます」


「殺させぬ」


 官兵衛は言った。


 四兵衛が眉を動かす。


 今度は、曖昧にしなかった。


「殺させぬ。四兵衛」


「はっ」


「小六の周りを見る。守っていると悟らせるな」


「承りました」


「新介」


「はっ」


「源八には、見誤ったかもしれぬと言わせろ」


 源八が顔を上げた。


「私が、でございますか」


「そうだ。ただし、誰に問われても、政職様の前では見たままを申す、と付けろ」


 新介は息を呑んだ。


「それでは、相手は焦ります」


「焦らせる」


 官兵衛は紙片を畳んだ。


「焦った者は、次に大きい口を塞ぎに行く」


「大きい口」


「弥平だ」


     ◇


 播磨屋弥平は、その夜、自分の店へ戻らなかった。


 戻れなかった。


 官兵衛に言われた通り、城下で噂を流した後、見知らぬ男に声をかけられたのである。


 備前の名を黒田が気にしている。


 その噂に食いついた男だった。


 男は弥平に、城下外れの古い酒屋へ来いと言った。


 弥平は行った。


 一人ではない。


 喜三右衛門が、客のふりをして先に入っていた。


 酒屋の隅には、荷を置く暗い場所がある。


 そこへ男は弥平を呼び込んだ。


「備前の紙片を、誰に見せた」


 男はそう問うた。


 弥平は商人の顔で答えた。


「紙片など、何のことで」


「とぼけるな。黒田はどこまで見た」


「黒田様は、備前の名を気にしておられました」


「だから、どこまでだ」


 男の声は荒くなった。


 その時、喜三右衛門が盃を置いた。


「そこから先は、こちらも聞きたいところでしてな」


 男が振り向く。


 逃げようとする。


 だが、酒屋の外には四兵衛の手の者がいた。


 男は捕らえられた。


 武士ではない。


 だが、小者でもない。


 身なりは商人風だが、手は刀を握る者の手だった。


 名を問うと、黙った。


 殴っても、名は出ないだろう。


 喜三右衛門はそう見て、殴らなかった。


 代わりに、男の懐を改めた。


 出てきたのは、小さな紙包み。


 中には薬包が一つ。


 そして、細く折った書付があった。


 慈徳、備前へ出すべからず。


 東へ振れ。


 喜三右衛門は、すぐに官兵衛のもとへ走らせた。


     ◇


 夜半、御着の小部屋で政職が起こされた。


 また夜の報告か。


 そう言いたげな顔だったが、官兵衛は構わなかった。


 今回は、待てない。


 新介が小六の証言を述べる。


 源八へ渡されかけた紙片を示す。


 喜三右衛門が酒屋で捕らえた男のことを述べる。


 薬包と書付を出す。


 慈徳、備前へ出すべからず。


 東へ振れ。


 政職は、その文字を見て眉をひそめた。


「備前ではないのか」


「そう見えます」


 官兵衛は答えた。


「昨日まで、備前という名を見せられておりました。ですが、今夜出た書付では、慈徳を備前へ出すな、とある」


「では、どこへ」


「東へ」


「東とは、別所か」


「別所かもしれませぬ。織田方へ見せるためかもしれませぬ。あるいは、羽柴殿の目に入る場所へわざと流すつもりかもしれませぬ」


 政職は頭を押さえた。


「分からぬことばかりだ」


「はい」


 官兵衛は認めた。


「分からぬから、今決めませぬ」


「またか」


 政職の声に苛立ちが混じる。


 官兵衛は一歩も引かなかった。


「ただし、今夜分かったことはございます」


「何だ」


「御着の中には、長浜の目を恐れる者がおります」


 政職の顔が変わった。


 長浜。


 羽柴藤吉郎。


 織田方。


 それを恐れる者がいる。


 小寺家中に。


「それは、毛利へ通じる者か」


「そうかもしれませぬ」


「浦上か」


「そうかもしれませぬ」


「別所か」


「そうかもしれませぬ」


「官兵衛」


 政職の声が鋭くなる。


 官兵衛は頭を下げた。


「今、名を一つに決めれば、他が逃げます。ですが、殿。ひとつだけ、今すぐ決めていただきたいことがございます」


「何だ」


「小寺家中の小者、中間、厩番、台所、使番。これらの名と属する先を改めます」


 政職は目を上げた。


「人を改めるのか」


「はい」


「そこまでやれば、家中が騒ぐ」


「すでに騒いでおります」


 官兵衛は静かに言った。


「ただ、騒ぎが殿の耳に入る前に、下の者の口で処理されていただけにございます」


 政職は黙った。


 それは、政職にとって痛い言葉だった。


 自分の城で、小者が銀を運び、厩番の口を変えようとし、商人を呼び出し、僧を逃がそうとしている。


 それを知らなかった。


 知らされなかった。


「殿」


 官兵衛は声を低くした。


「人を責めるためではございませぬ。誰の命で誰が動くかを、殿が知るためにございます」


 政職はしばらく目を伏せた。


 やがて言った。


「……やれ」


「はっ」


「ただし、下の者を無闇に縛るな。使われただけの者まで斬れば、誰も口を開かなくなる」


 官兵衛は一瞬、政職を見た。


 よい命だ。


 予想より良い。


「承りました」


 政職は疲れた声で続けた。


「わしの城なのだな」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 だが、部屋に落ちた。


「わしの城で、わしの知らぬ口が、わしの知らぬ文を運んでおる」


 官兵衛は何も言わなかった。


 それを言わせたかった。


 政職自身に。


     ◇


 夜が明ける頃、人改めの触れが出た。


 小者。


 中間。


 厩番。


 台所。


 使番。


 城内を出入りする者は、属する先と日々の役を控えに残す。


 使われただけの者を罰するためではない。


 勝手に使う者を見つけるためである。


 その一文は、政職の命で入れられた。


 官兵衛が入れたのではない。


 政職が、入れよと言った。


 新介はその触れを見て、静かに息を吐いた。


「殿」


「何だ」


「政職様が、変わられてきております」


「少しな」


「それは、よいことでは」


 官兵衛は触れを見た。


 小寺家中の人の流れが、これで見える。


 同時に、政職自身が、自分の城を取り戻す感覚を覚え始めている。


 それは官兵衛にとって、使える変化だった。


 そして、面倒な変化でもあった。


「よいことだ」


 官兵衛は言った。


「だが、よいことが都合よいこととは限らぬ」


 新介は黙った。


 官兵衛は城の外を見た。


 夜明けの光が、御着の屋根を照らし始めている。


 慈徳はまだ見えない。


 備前の名は揺らいだ。


 東へ振れ。


 その言葉が残った。


 長浜の目を恐れる者。


 慈徳を備前へ出したくない者。


 そして、東へ流したい者。


 その奥にいるのは、誰か。


 官兵衛は、低く呟いた。


「猿に見せたい者がいる」


 誰にも聞こえない声だった。


 長浜へ見せたい。


 羽柴藤吉郎の目に、何かを入れたい。


 そう考える者が、御着の中にいる。


 それは、織田へ寄る者か。


 織田へ疑いを向けさせたい者か。


 あるいは、官兵衛と羽柴を早く結ばせたい者か。


 どれにせよ、盤面は変わった。


 慈徳を追う話ではない。


 慈徳を誰に見せるかという話になった。


 官兵衛は、開いた障子から入る朝風を受けた。


 冷たい。


 だが、息はできる。


 人の口を塞ごうとした手は、逆に城の人の流れを官兵衛の前へ押し出した。


 次に動くのは、慈徳ではない。


 慈徳を見せたい者である。



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