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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第14話 見せるための逃げ道

 人改めは、朝から始まった。


 小者。


 中間。


 厩番。


 台所の者。


 使番。


 城の中を出入りする者たちが、順に名を記され、誰の命で動く者かを問われる。


 ただし、縄はない。


 怒声もない。


 官兵衛がそう命じた。


 人を怯えさせすぎれば、口は閉じる。


 口が閉じれば、裏で人を使う者だけが得をする。


 だから、まず粥を出した。


 薄い粥である。


 豪勢ではない。


 だが、朝から呼ばれた下の者たちにとっては、それだけで十分だった。


 食わせてから、名を聞く。


 名を聞いてから、役を聞く。


 役を聞いてから、誰に命じられることが多いかを聞く。


 叱るのではない。


 ただ、並べる。


 それだけで、城の中に隠れていた線が少しずつ見え始めた。


「思ったより、多うございますな」


 新介が帳面を前に呟いた。


 官兵衛は首を振った。


「思ったより少ない」


「これで、でございますか」


「本当に乱れた城なら、誰の者か分からぬ者がもっと多い」


 御着はまだ壊れていない。


 迷っているだけだ。


 だから、今なら間に合う。


 間に合うからこそ、奪える。


 官兵衛はそう思った。


 喜三右衛門が、別の紙束を持って入ってきた。


「殿。使番の中に、妙な者が一人」


「名は」


「庄九郎」


「誰の者だ」


「そこが妙でございます。ある時は三宅甚太夫様の文を運び、ある時は真鍋蔵人様の屋敷へ走り、別の日には政職様の奥向き近くの詰所から使いに出ています」


 新介が顔を上げた。


「また三宅殿と真鍋殿が」


「違う」


 官兵衛は短く言った。


 新介は、すぐに口を閉じた。


 もう同じ言葉を何度も言わせる必要はない。


「三宅と真鍋の両方を使える場所がある、ということだ」


 四兵衛が低く言った。


「奥向き近くの詰所でございますな」


「そこを見ろ」


「政職様の近くですぞ」


「だから、見る」


 官兵衛は帳面に目を落とした。


 庄九郎。


 小者にしては、出入りする場所が広すぎる。


 ただし、本人が策を考えたわけではない。


 使われている。


 誰に。


「庄九郎を呼ぶな」


 官兵衛は言った。


「呼べば、使った者が気づく」


「では」


「今日は、庄九郎の名だけを帳に残す。聞き取りは明日だと触れろ」


 新介はすぐに頷いた。


「その間に動く者を見るのですね」


「そうだ」


 官兵衛は、筆を置いた。


「偽の手綱を落とす」


     ◇


 昼過ぎ、城内に小さな噂が流れた。


 慈徳という僧形の男は、備前へは出せぬらしい。


 東へ出すなら、東へ抜ける脇道が使えるらしい。


 しかも、長浜へ戻る商人の道と、どこかで重なるらしい。


 誰が言い出したかは、分からない。


 分からないように流した。


 台所で水を汲む者。


 厩で馬草を運ぶ者。


 門近くで荷を数える者。


 それぞれが、少しずつ違う形で聞いた。


 噂とは、水に落ちる油のようなものだ。


 流れに乗る。


 だが、混ざりきらない。


 官兵衛は、それを部屋の中で聞いていた。


 御着を出ない。


 城の中から、外へ伸びる手だけを見る。


 政職の言った言葉が、胸に残っている。


 わしにも、外せる罠にせよ。


 だから今回は、政職にも見えるようにした。


 どこで噂を流したか。


 誰に見張らせているか。


 誰が動いたら止めるか。


 すべて、簡単な形で紙にして政職へ上げてある。


 政職はそれを読んで、しばらく黙った後、こう言った。


「人を傷つけるな」


 官兵衛は頭を下げた。


「承知しております」


「慈徳を斬るための罠ではないな」


「はい」


「ならば、見よう」


 政職はそう言った。


 以前なら、おそらく言わなかった言葉である。


 見よう。


 それは、主君が自分の城の中を見ると言った言葉だった。


 官兵衛にとっては、使える言葉であり、厄介な言葉でもあった。


     ◇


 最初に動いたのは、庄九郎ではなかった。


 庄九郎の兄であった。


 名を庄兵衛という。


 奥向き近くの詰所で雑用をする中間で、庄九郎より年が上である。


 帳には、河原主計の下で働く者と記されていた。


 河原主計。


 政職の近くで使われる若い近臣である。


 真鍋のような老臣ではない。


 三宅のような祐筆でもない。


 武勇で名があるわけでもない。


 だが、政職の周りで人を呼び、物を運ばせ、時に使番を割り振ることがある。


 目立たぬが、手の届く場所にいる男だった。


「河原か」


 報告を聞いた官兵衛は、少しだけ目を細めた。


 新介が問う。


「河原様が、慈徳を動かそうとしているのでしょうか」


「まだ分からぬ」


「ですが」


「河原本人ではなく、河原の下が勝手に動いていることもある」


 四兵衛が言った。


「あるいは、河原様の名を使える者がいる」


「そうだ」


 官兵衛は頷いた。


「庄兵衛はどこへ」


 喜三右衛門が答える。


「東木戸へ。荷車の手配をしております」


「誰の荷だ」


「円明寺へ戻す古い畳と、破れた経机という名目です」


「中を改めたか」


「まだです。殿の命通り、止めずに見ております」


「よい」


 官兵衛は立ち上がりかけ、すぐに座り直した。


 行ってはならない。


 自分で見に行けば早い。


 だが、それでは御着を離れぬという形が崩れる。


 今の官兵衛に必要なのは、自分の目ではない。


 自分の目になる者を育てることだ。


「新介」


「はっ」


「東木戸へ行け。荷車は止めるな。ただし、出る前に車輪の軸へ白墨をつけろ」


「白墨でございますか」


「戻れば分かる。別の車に替わっても分かる」


「承知いたしました」


「四兵衛」


「はっ」


「東木戸の外で見る者を置け。追うな。荷が誰に渡るかを見る」


「承りました」


「喜三右衛門」


「はっ」


「荷が円明寺の古畳なら、畳屋を呼べ。寺へ畳を戻す時の包み方を聞け」


 喜三右衛門は、にやりとした。


「包み方が違えば」


「寺の荷ではない」


     ◇


 東木戸の荷車は、止められなかった。


 新介は、官兵衛に命じられた通り、出る前に車輪の軸へ白墨をつけた。


 名目は、車軸のきしみを見るためである。


 荷を動かす者は怪訝な顔をしたが、文句は言わなかった。


 人改めが始まったばかりである。


 今、強く逆らえば目立つ。


 荷車には、古い畳が二枚。


 その下に、壊れた経机。


 さらに布がかけられている。


 新介は、布の膨らみを見た。


 人が隠れるには小さい。


 だが、紙や衣、薬、乾飯を隠すには十分だった。


 庄兵衛が、しきりに東の道を気にしている。


 その横に、庄九郎もいた。


 兄弟がそろっている。


 使われているのか。


 あるいは、兄が弟を巻き込んでいるのか。


 新介にはまだ分からない。


 荷車が東木戸を出る。


 止めない。


 追わない。


 ただ、見る。


 四兵衛の手の者が、道端の商人に紛れていた。


 喜三右衛門の手配した畳屋は、少し離れた場所から荷の包みを見て、首を傾げている。


 その首の傾げ方だけで、新介にも分かった。


 寺の畳ではない。


 荷車は、円明寺へ向かう道へ出た。


 だが、途中で曲がった。


 東へ抜ける脇道である。


 噂で流した道だ。


 新介は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 罠にかかった。


 そう思った瞬間、官兵衛の言葉を思い出す。


 罠にかかったと決めるな。


 罠にかかったように見せているかもしれない。


 新介は、歯を噛んだ。


 考えろ。


 見たものを、見たまま持ち帰れ。


     ◇


 荷車が脇道へ曲がった頃、別の場所で慈徳が現れた。


 慈徳は、僧形の男である。


 以前、円明寺に入り、宗七が何を持ち帰るかを探っていた男。


 その男が、東へ向かう道の脇に立っていた。


 逃げているようには見えなかった。


 むしろ、誰かに見つけられるのを待っているようだった。


 そこへ、長浜へ戻る商人の一行が通りかかる。


 宗七ではない。


 宗七の手代である。


 御着へ残っていた荷の始末を終え、長浜へ戻る者たちだった。


 慈徳は、その手代に近づいた。


 何かを言う。


 手代は顔色を変えた。


 だが、その場では何も渡さなかった。


 すぐ横の茶屋へ入り、奥へ移る。


 その一部始終を、四兵衛の手の者が見ていた。


 荷車の方では、庄兵衛が焦った顔をした。


 慈徳が予定より早く動いたのか。


 あるいは、荷車の方が遅れたのか。


 どちらにせよ、道が乱れた。


 乱れた時に、誰が何を守るか。


 そこに本音が出る。


 庄兵衛は、荷車を捨てるようにして茶屋へ走った。


 庄九郎は、その場に残った。


 荷車の布を押さえたまま、青い顔で立っている。


 新介は、そこへ歩み出た。


「庄九郎」


 庄九郎が飛び上がった。


「井手様」


「荷を改める」


「これは円明寺へ戻す」


「道が違う」


 庄九郎は黙った。


 新介は布をめくった。


 古畳。


 壊れた経机。


 その下に、衣があった。


 僧衣ではない。


 旅の商人が着るような地味な衣である。


 さらに、乾飯と薬包。


 そして、小さな紙片。


 そこには、短く書かれていた。


 慈徳、長浜の者へ言を渡した後、姿を替えよ。


 新介は、息を止めた。


 慈徳を逃がすためではない。


 慈徳を、長浜の者に見せた後、消すための荷だ。


 官兵衛の読みは当たっていた。


 いや、まだだ。


 当たったと決めるな。


 新介は紙片を包み、庄九郎を見た。


「誰の命だ」


 庄九郎は震えた。


「兄が」


「兄だけか」


「……河原様の詰所から」


 それ以上は言えなかった。


 新介は頷いた。


「分かった。今はそれでよい」


 問い詰めない。


 余計な刃を抜かない。


 自分に言い聞かせた。


     ◇


 茶屋では、慈徳が押し留められていた。


 押し留めたのは、黒田の者ではない。


 長浜の手代であった。


 手代は怯えていた。


 慈徳が近づき、小声でこう言ったという。


 小寺家中、黒田官兵衛は西国の内意を隠し、羽柴殿へ近づかんとしております。


 御着は割れております。


 今なら、黒田を引けば播磨は東へ傾きましょう。


 それは、官兵衛にとって都合のよい言葉にも見える。


 同時に、危険な言葉でもあった。


 羽柴が聞けば、黒田官兵衛は小寺を飛び越えて織田へ寄る気があると読むかもしれない。


 あるいは、小寺家中が割れており、黒田を使えば播磨を動かせると読むかもしれない。


 どちらにせよ、慈徳は羽柴の目に入るために立たされた。


 新介は、慈徳を見た。


「誰に言えと命じられた」


 慈徳は笑った。


「寺の者に、命じるも何も」


 四兵衛が一歩前へ出た。


 何も言わない。


 それだけで、慈徳の笑みが薄くなる。


「名は知らぬ」


 慈徳は言った。


「ただ、御着の奥の方にいる者だ」


「奥とは」


「若い。声は穏やか。手は白い」


 新介の頭に、河原主計の名が浮かんだ。


 だが、言わない。


 言えば、慈徳はそこへ逃げる。


「三宅甚太夫ではないのか」


 四兵衛が問うた。


 慈徳は首を振った。


「違う。あれは紙の匂いが濃い。私に命じた者は、もっと香を使っていた」


 香。


 官兵衛が聞けば、どう考えるか。


 奥向き。


 若い近臣。


 河原主計。


 だが、これもまだ証ではない。


 新介は、慈徳を連れて戻ることにした。


 逃がさない。


 斬らない。


 見せた者を見つけるために、生かして戻す。


     ◇


 御着へ戻ると、政職の前に人がそろえられた。


 新介。


 四兵衛。


 長浜の手代。


 庄九郎。


 慈徳。


 そして、少し遅れて河原主計が呼ばれた。


 河原は、二十代半ばの男である。


 小綺麗な身なりをしていた。


 目立つ武勇はない。


 だが、姿勢はよく、声も整っている。


 政職の近くに仕える者らしく、礼も乱れない。


「主計」


 政職が言った。


「庄九郎は、そなたの詰所へ出入りする者か」


「はい」


「庄兵衛は」


「同じく」


「この荷車のことを知っていたか」


 河原は一瞬、沈黙した。


 その一瞬だけで、部屋の空気が変わる。


「存じております」


 政職の顔が硬くなった。


「なぜだ」


 河原は頭を下げた。


「小寺家のためにございます」


「小寺のために、僧を長浜の者へ見せたのか」


「はい」


 部屋がざわついた。


 官兵衛は黙っている。


 ここで口を挟むべきではない。


 まず、政職に聞かせる。


 河原は続けた。


「殿。今、播磨は揺れております。毛利へ寄る者、浦上を見る者、別所の顔色をうかがう者。されど、長篠で織田が武田を退けた以上、東の勢いは明らかです」


「それで」


「小寺が迷えば、いずれ別所か浦上に先を越されます。黒田官兵衛殿は才ある方。ならば、羽柴殿の目に早く入れるべきと考えました」


 官兵衛の名が出た。


 新介が顔を上げる。


 河原は官兵衛へ目を向けない。


 政職だけを見ている。


「黒田殿を通じて織田方へ道をつける。小寺家が生きるには、それが早い」


「わしに黙ってか」


 政職の声は低かった。


 河原の顔が、初めて揺れた。


「殿が迷われると思いました」


 その言葉が、部屋に落ちた。


 誰も息をしなかった。


 官兵衛は政職を見た。


 刺さった。


 今の一言は、深く刺さった。


 河原は、悪意だけで動いたわけではない。


 真鍋のように官兵衛を落としたかったのでもない。


 三宅のように文の主導権を守りたかっただけでもない。


 小寺を生かすために、政職の迷いを飛び越えようとした。


 それが、もっとも危うい。


 忠義の顔をした越権ほど、家を割るものはない。


「官兵衛」


 政職が言った。


「はっ」


「そなたは、どう見る」


 官兵衛は頭を下げた。


「河原殿は、小寺を売ろうとしたのではございませぬ」


 河原の目がわずかに動いた。


「ただし、殿の名を飛び越えようとしました」


 政職の顔がさらに硬くなる。


「小寺家にとって、外へ道をつけることは必要にございます。ですが、殿の知らぬところで羽柴殿へ小寺の内情を見せれば、それは道ではなく穴になります」


「穴」


「はい。道は人を通します。穴は家を崩します」


 政職はしばらく黙った。


 河原は頭を下げたまま動かない。


「斬るべきか」


 政職が低く問うた。


 河原の肩が震えた。


 官兵衛は首を横に振った。


「斬れば、東へ寄るべきと考える者が隠れます」


「では、許せと」


「許すのではございませぬ」


 官兵衛は言った。


「表へ出します」


「表へ」


「河原殿には、今後、織田方、羽柴方へ関わる外聞の控えを担わせます。ただし、私の草案、三宅殿の整え、殿の許しと並べて残す。勝手に動けば、次は言い逃れできませぬ」


 河原が顔を上げた。


 驚きと屈辱が混じっている。


 官兵衛は見返さなかった。


 河原を助けたのではない。


 河原の焦りを、公式の役に縛るのだ。


 政職は長く考えた。


 そして、言った。


「主計」


「はっ」


「そなたの考えは、分からぬではない」


 河原の目が揺れた。


「だが、わしを飛び越えたことは許さぬ」


「……はっ」


「官兵衛の言う通りにせよ。外聞の控えを担え。だが、今後一つでも勝手をすれば、わしが斬る」


 河原は深く頭を下げた。


「承りました」


 その声は震えていた。


 恐れではない。


 悔しさである。


 だが、その悔しさも使える。


     ◇


 評定が解けた後、政職は官兵衛だけを残した。


 部屋には、細い光が差している。


 障子は少し開いていた。


 官兵衛は戸口に近い席へ座った。


「官兵衛」


「はっ」


「わしは、それほど迷って見えるか」


 静かな問いだった。


 官兵衛は嘘をつけなかった。


 いや、つくべきではないと思った。


「見えます」


 政職は目を閉じた。


「そうか」


「ですが」


 官兵衛は続けた。


「迷わぬ者が強いとは限りませぬ。迷わぬまま家を焼く者もおります」


「慰めか」


「いいえ」


 官兵衛は顔を上げた。


「殿は、迷っておられます。されど、見ようとはしておられます」


 政職は官兵衛を見た。


「それで足りるか」


「今は、足らせます」


「そなたがか」


「はい」


 政職は苦く笑った。


「頼もしいのか、恐ろしいのか分からぬな」


 官兵衛は何も言わなかった。


 どちらも正しい。


 頼もしく見せ、恐ろしく動く。


 それが今の自分だ。


 政職は、やがて低く言った。


「河原のような者は、他にもおるのだろうな」


「おります」


「毛利へ寄せたい者も」


「おります」


「織田へ寄せたい者も」


「おります」


「わしを飛び越えたい者も」


 官兵衛は少しだけ間を置いた。


「おります」


 政職は深く息を吐いた。


「ならば、飛び越えさせるな」


「承りました」


「ただし」


 政職の声が少し強くなった。


「わしの足も、止めすぎるな」


 官兵衛は、静かに頭を下げた。


「承りました」


 政職が、自分の足を口にした。


 それは小さな変化だった。


 だが、軽くはない。


     ◇


 夜、黒田の控え部屋に新しい箱が置かれた。


 文。


 蔵。


 寺。


 厩。


 羽柴筋。


 そして、人改め。


 その横に、官兵衛はもう一つ札を置いた。


 外聞。


 河原主計が担うことになった、新しい筋である。


 新介はその札を見て言った。


「河原様を、お使いになるのですね」


「使う」


「危うくはありませぬか」


「危うい者ほど、表に置いた方がよい」


 四兵衛が静かに言った。


「殿。表に置いた危うい者は、いずれ殿を刺しますぞ」


「裏から刺されるより、ましだ」


「まし、でございますか」


「前から来る刃は、まだ見える」


 四兵衛は何も言わなかった。


 新介は札を見つめていた。


 官兵衛は、開いた障子の外を見た。


 慈徳は押さえた。


 だが、慈徳を見せようとした道は、完全には消えていない。


 河原主計は表に出した。


 しかし、河原が見ていた東の道そのものは、いずれ必要になる。


 織田。


 羽柴。


 長浜。


 避け続けられる相手ではない。


 むしろ、いずれこちらから近づかねばならない。


 ただし、今度は誰かに背を押されてではない。


 自分の足で。


 自分の間合いで。


 官兵衛は低く呟いた。


「猿に会う道が、一本増えたな」


 その声は、新介には聞こえなかった。


 外聞の札が、灯の影で小さく揺れていた。


 小寺家は、まだ小寺政職の城である。


 だが、外へ向く耳の一つが、今夜から官兵衛の前を通る。


 道は塞がない。


 道を選ぶ。


 それが、二度目の黒田官兵衛のやり方だった。



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