第15話 猿へ返す餌
河原主計が外聞の控えを担うことになった翌朝、長浜の手代はまだ御着に留め置かれていた。
捕らえているわけではない。
客として扱っている。
飯も出す。
湯も使わせる。
荷も乱さない。
だが、帰さない。
帰るための文が、まだ整っていなかったからである。
長浜の手代は、名を又七といった。
若い。
宗七ほど腹は据わっていない。
だが、羽柴の筋に使われるだけあって、ただの荷運びではなかった。
怯えながらも、見るところは見ている。
慈徳が押し留められたこと。
小寺家中で人改めが始まったこと。
河原主計という近臣が呼び出されたこと。
黒田官兵衛が、慌てて慈徳を斬らなかったこと。
それらを、目に入れている。
見せられたものを、見ている。
それが厄介だった。
◇
朝の小部屋には、政職、官兵衛、三宅甚太夫、河原主計がいた。
真鍋蔵人はいない。
呼ばれなかった。
それ自体が、家中への小さな合図である。
文を焼いた三宅。
慈徳を長浜の目へ見せようとした河原。
そして、その二人を斬らずに表へ置いた政職。
この場は、もう以前の評定ではなかった。
小寺家の傷を、小寺家の手でどう包むか。
その場であった。
「長浜へ返す文だ」
政職が言った。
「どう書く」
官兵衛はすぐには答えなかった。
視線を河原へ向ける。
「河原殿」
河原主計の顔がわずかに動いた。
昨日の屈辱は、まだ消えていない。
むしろ、顔の奥で硬く固まっている。
「外聞の控えを担われるのは、河原殿にございます。まず、御意見を」
政職も河原を見た。
河原は一瞬だけ官兵衛を見た。
使われる。
そう悟った目だった。
だが、逃げられない。
「……長浜へは、慈徳の言は小寺家の公の言ではないと伝えるべきです」
「続けよ」
政職が促す。
河原は頭を下げたまま続けた。
「その上で、播磨が揺れていることは隠しきれませぬ。ならば、黒田殿が小寺家中の文、蔵、寺、厩、人の流れを改めていることを、あえて知らせるべきかと」
三宅が眉を動かした。
「それでは、家中が乱れていると自ら言うようなものではござらぬか」
「隠しても、慈徳が言いました」
河原の返しは早かった。
「長浜の手代は聞いております。聞かれたことを、なかったことにはできませぬ」
「だからといって、こちらから傷を開いて見せる必要はない」
三宅の声は硬い。
文を扱う者としては当然の言い分だった。
傷は隠す。
弱みは薄める。
曖昧な言葉で包む。
それが三宅の筆である。
河原は違う。
東へ寄るべきという焦りがある。
だから、傷を見せてでも羽柴の目に入りたい。
どちらも危うい。
どちらも使える。
官兵衛は黙って聞いた。
政職も黙っていた。
以前なら、すぐに官兵衛へ助けを求めたかもしれない。
だが今は、二人の言葉を聞いている。
「官兵衛」
政職がようやく言った。
「そなたは」
「河原殿の申す通り、隠しきることはできませぬ」
三宅の顔が少し険しくなる。
「されど、三宅殿の申す通り、傷を開いて見せすぎれば、羽柴殿に小寺の腹を測られます」
河原の顔も硬くなる。
官兵衛は二人を順に見た。
「ですから、見せるものを選びます」
「何を見せる」
政職が問う。
「慈徳を」
部屋の空気が動いた。
三宅が即座に言う。
「僧をそのまま見せると?」
「はい」
「危うい。慈徳が余計なことを言えば」
「言わせませぬ」
官兵衛は静かに返した。
「慈徳を長浜の手代へ隠せば、羽柴殿は小寺が何かを消したと見ます。慈徳を斬れば、口封じと見ます。慈徳を無かったことにすれば、慈徳の言だけが残ります」
「では」
「慈徳を、殿の前で問い、殿の命で預かる。その姿を長浜の手代に見せます」
河原が小さく息を呑んだ。
官兵衛は続けた。
「慈徳の言は小寺の公の言ではない。されど、小寺はその言を闇に捨てず、殿の前で改めている。そう見せるのです」
政職はしばらく考えた。
「わしの前で、慈徳を問うのか」
「はい」
「長浜の手代にも見せる」
「はい」
「それは、羽柴にわしの迷いを見せることにならぬか」
「なります」
官兵衛は答えた。
政職の眉が動いた。
「だが、迷いを隠して、無いものとして扱うよりはましにございます」
「なぜだ」
「迷いを隠す家は、外から割られます。迷いを殿の前に集める家は、まだ割れませぬ」
政職は官兵衛を見た。
その言葉が慰めでないことは、分かっているようだった。
苦い顔である。
「三宅」
「はっ」
「文の草案を作れ。慈徳の言は小寺の公言にあらず。されど、小寺家中において勝手に外へ言を流す者があり、これを改めておる、と」
三宅は一瞬だけ官兵衛を見た。
官兵衛は何も言わない。
「河原」
「はっ」
「長浜の手代が見たこと、聞いたことを控えよ。ただし、言葉を飾るな」
河原の喉が動いた。
「承知いたしました」
「官兵衛」
「はっ」
「慈徳を連れてこい」
「承りました」
政職は、そこで一度息を吐いた。
「わしの前で、問う」
その声は小さかった。
だが、確かに政職の声だった。
◇
慈徳は、縄をかけられずに連れてこられた。
ただし、両側には黒田の者が立っている。
逃げられない。
だが、罪人として晒してもいない。
長浜の手代、又七は部屋の端に座らされた。
同席を許された形である。
本人は、膝の上で手を握りしめていた。
見たくない。
だが、見ねば帰れない。
そういう顔だった。
政職は上座にいる。
官兵衛は少し下がった席。
その横に三宅。
さらに後ろに河原。
新介は戸口に立っている。
部屋の障子は、少し開けてあった。
官兵衛のためではない。
そう見えるように、政職が命じた。
「部屋がこもる。少し開けておけ」
政職はそう言った。
官兵衛は、その言葉を聞いた時、ほんのわずかに目を伏せた。
政職が気づいたのか。
偶然か。
分からない。
だが、息はしやすかった。
「慈徳」
政職が口を開いた。
「そなたは、長浜の手代へ何を申した」
慈徳は頭を下げた。
「私はただ、世の流れを」
「何を申した」
政職の声が低くなる。
慈徳は黙った。
沈黙が続く。
官兵衛は口を挟まなかった。
政職が問う場である。
ここで官兵衛が奪えば、また政職の足を止めることになる。
「黒田官兵衛は、西国の内意を隠し、羽柴殿へ近づかんとしている。そう申したか」
慈徳の肩が動いた。
政職の口から、その言葉が出た。
又七が小さく息を呑む。
河原が顔を伏せる。
三宅は表情を消した。
「申しました」
慈徳は低く答えた。
「誰の命だ」
「寺の者は、世の声を聞きます」
「誰の命だ」
二度目の問いは、重かった。
慈徳は顔を上げない。
「御着の奥におられる方から」
「名は」
「存じませぬ」
「嘘だな」
政職が言った。
部屋が静まった。
官兵衛は、政職を見た。
今の言葉は、官兵衛のものではない。
政職のものだ。
「そなたは、名を知らぬ者のために、長浜の手代へ小寺の内を語ったのか」
「……」
「寺の者は、それほど安く口を売るのか」
慈徳の顔色が変わった。
寺を侮られたことに反応したのだ。
官兵衛は内心で頷いた。
政職は、よい場所を突いた。
「安くはございませぬ」
「ならば、何を受け取った」
慈徳は黙った。
政職は視線を官兵衛へ移した。
助けを求めたのではない。
続きの刃を渡せと言う目だった。
官兵衛は静かに言った。
「慈徳の荷から、薬包と衣が出ております。逃げ支度に見えます」
慈徳の肩が揺れる。
「それを用意した者の名を知らぬというのは、少し苦しい」
三宅がそこで口を開いた。
「慈徳殿。名を知らぬなら、受け渡しの場所を申されよ。寺の名を守りたいなら、なおさらです」
河原も言った。
「長浜の手代へ言を渡した後、姿を替えよと書かれていた。その紙は出ております」
慈徳は、三宅と河原を見た。
文の者。
外聞の者。
昨日まで別々に動いていた者が、今は同じ場で自分を囲んでいる。
それが効いた。
「……河原様の詰所の近くにて」
慈徳は絞り出すように言った。
河原の顔が強張る。
「誰だ」
政職が問う。
「名は、知りませぬ。ただ、庄兵衛殿を通じて」
河原が低く言った。
「庄兵衛は私の下におります。されど、私が命じたことでは」
「分かっておる」
政職は遮った。
河原が目を見開く。
「そなたは昨日、わしを飛び越えた。だから疑われる。疑われる役についたのだ。言い訳より、調べよ」
河原は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
官兵衛は、胸の奥で小さく息を吐いた。
政職が、河原を斬らずに使う意味を掴み始めている。
これはよい。
そして、面倒だ。
「慈徳」
政職は続けた。
「そなたは、しばらく御着に置く」
慈徳が顔を上げた。
「私は僧にございます」
「僧であれば、寺へ戻すと思うたか」
政職の声は冷たかった。
「寺を使って小寺の内を外へ流した者を、すぐ寺へ戻すわけにはいかぬ」
「では、牢へ」
「牢ではない」
政職は言った。
「円明寺の慶順を呼ぶ。寺の者として預ける形にし、御着の中で見張る。逃げれば、寺の名で責を負わせる」
慈徳の顔色が変わった。
牢より効いた。
寺の名を盾にしていた男に、寺の名で鎖をかけたのだ。
「又七」
政職は長浜の手代へ向いた。
又七は慌てて頭を下げた。
「はっ」
「見た通りだ。慈徳の言は、小寺の公の言ではない。されど、小寺はその言を闇に捨てぬ。わしの前で改める」
「承りました」
「羽柴殿へは、そう伝えよ」
又七は深く頭を下げた。
「必ず」
官兵衛は、その横顔を見た。
手代は怯えている。
だが、今見たものは忘れない。
羽柴藤吉郎のもとへ戻れば、必ず話す。
小寺政職は、迷う。
だが、見ようとしている。
黒田官兵衛は、出すぎず、引きすぎず、場を作る。
三宅甚太夫は筆を握る。
河原主計は東を見たがっている。
御着は割れかけているが、まだ崩れていない。
それを、猿はどう読むか。
◇
文は三通になった。
一通は、政職の名で出すもの。
慈徳の言は小寺の公の言にあらず。
小寺家中において勝手に外へ言を流す者があり、これを改めている。
東西の騒乱に軽々しく乗るものではなく、播磨の静謐を守ることこそ本意である。
三宅が整えた文だった。
柔らかい。
だが、今回は曖昧すぎない。
二通目は、外聞の控えの写し。
長浜の手代が何を聞き、何を見たか。
慈徳が何を言い、政職が何を問うたか。
河原が書いた。
飾りが少ない。
昨日の件が効いている。
三通目は、官兵衛の添え状である。
官兵衛はしばらく筆を止めた。
何を書くか。
猿は読む。
文面だけではない。
こちらが何を見せ、何を隠し、何を隠しきれなかったかを読む。
ならば、餌は小さくてよい。
大きな餌は、釣り針を疑われる。
官兵衛は短く書いた。
慈徳の言、御手代に届き候こと、承知仕り候。
御着にては、殿の御前にてこれを改め、慈徳を寺の名にて預かり置き候。
播磨は揺れ候。
されど、揺れを見る者なき家にあらず候。
いずれ道のこと、人の腹のこと、御目にかかる折に。
黒田官兵衛
書き終えて、官兵衛は筆を置いた。
短い。
だが、十分だった。
揺れていると認める。
だが、見ていると示す。
会う道は閉じない。
だが、まだ開ききらない。
「殿」
新介が文を見て言った。
「揺れ候、と書かれるのですか」
「書く」
「弱く見えませぬか」
「揺れていないと書けば、嘘に見える」
「では」
「揺れを見る者がいる、と書けばよい」
新介は黙った。
官兵衛は文を畳んだ。
「強く見せようとして嘘を書く家ほど、弱い」
◇
又七は昼過ぎに御着を発った。
帰り荷は軽い。
干魚を少し。
播磨紙を少し。
そして三通の文。
それだけである。
宗七の時よりも、さらに少ない。
だが、又七の顔は重かった。
荷より、見たものが重いのだろう。
門の外まで、喜三右衛門が送った。
「道中、お気をつけなされ」
「はい」
又七は何度も頭を下げた。
そして、去り際に一度だけ官兵衛を見た。
官兵衛は門の内にいた。
御着を出てはいない。
又七は迷った末、口を開いた。
「黒田様」
「何だ」
「宗七が申しておりました」
「宗七が」
「温かい飯の礼を、必ずお返しせよと」
官兵衛は少しだけ目を細めた。
又七は続けた。
「長浜では、飯が温かい家ほど、腹の中に火があると申すそうにございます」
官兵衛は声を立てずに笑った。
猿め。
そこまで嗅ぐか。
「そうか」
「はい」
「羽柴殿へ伝えよ」
官兵衛は言った。
「火は、かまどにあるうちが一番役に立つ、と」
又七は意味を測りかねた顔をしたが、深く頭を下げた。
「承りました」
今度こそ、又七は去った。
長浜へ。
羽柴藤吉郎のもとへ。
猿の鼻へ。
◇
夕刻、政職は官兵衛を呼んだ。
部屋には、他に誰もいなかった。
障子は少し開いている。
風が入る。
「文は出たか」
「はい」
「羽柴は、どう読む」
「分かりませぬ」
政職は官兵衛を見た。
「そなたでも、分からぬか」
「羽柴殿は、分かったと思った時ほど危うい男にございます」
「恐れておるのか」
官兵衛は少し黙った。
「恐れております」
政職の目が変わる。
官兵衛は続けた。
「恐れぬ相手ではございませぬ」
「ならば、なぜ近づく」
「近づかねば、いつか向こうから来ます」
政職は何も言わなかった。
官兵衛は静かに言った。
「火から逃げれば、背を焼かれます。火へ近づきすぎれば、身を焼かれます。ならば、火の距離を測るしかございませぬ」
「羽柴は火か」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「羽柴殿は、火を運ぶ猿にございます」
政職は、思わずというように息を漏らした。
笑いではない。
呆れでもない。
その例えの奇妙さに、ほんの少し力が抜けたのだろう。
「そなたの見る世は、妙だな」
「焼けた城の跡を、思えばでございます」
政職の目が、わずかに細くなる。
「焼けた城、か」
「はい」
官兵衛は頭を下げた。
「乱世では、どの城も焼け跡になりえます」
「そうか」
政職は、それ以上問わなかった。
問わなかったことが、逆に重かった。
「官兵衛」
「はっ」
「羽柴と会う時は、わしに先に言え」
「もちろんにございます」
「もちろん、か」
政職は苦く笑った。
「そなたのもちろんは、時に怖い」
官兵衛は頭を下げた。
「肝に銘じます」
政職は頷いた。
「だが、会うなとは言わぬ」
官兵衛は顔を上げた。
「会わずに済む相手ではないのだろう」
「はい」
「ならば、会う道を作れ。ただし、小寺の道としてだ」
官兵衛は深く頭を下げた。
「承りました」
小寺の道。
政職はそう言った。
官兵衛にとっては、使える言葉だった。
そして、縛る言葉でもあった。
◇
夜、黒田の控え部屋で、官兵衛は箱を見た。
羽柴筋。
外聞。
人改め。
文。
寺。
厩。
箱が増えている。
増えるほど、道も増える。
道が増えるほど、逃げ場も罠も増える。
新介が灯を整えた。
「殿」
「何だ」
「羽柴殿は、こちらの文を読んで、どうされるでしょう」
「笑う」
「笑うのですか」
「おそらくな」
官兵衛は羽柴筋の箱に触れた。
「そして、次は文ではなく、人を寄越す」
「宗七殿でしょうか」
「あるいは、もっと猿に近い者だ」
新介の顔が少し強張る。
「では、いよいよ」
「まだだ」
官兵衛は言った。
「猿は、木の上からこちらを見る。すぐには降りぬ」
「こちらも、登るのですか」
「登らぬ」
官兵衛は静かに答えた。
「木の下に、こちらの餌場を作る」
新介はよく分からぬ顔をした。
それでよい。
まだ分からなくてよい。
官兵衛は、開いた障子の外を見た。
夜の御着は暗い。
だが、閉じてはいない。
長浜へ向かう又七の背。
その懐の文。
羽柴藤吉郎の笑う顔。
一度目の世で、何度も見た顔。
懐かしく、憎く、恐ろしく、そして近づかずにはいられない顔。
官兵衛は、低く呟いた。
「来い、猿」
まだ会わぬ男へ向けた声だった。
「今度は、わしのかまどで火を見せてやる」
羽柴へ返した小さな餌は、長浜へ向かっている。
それが食われるか。
吐き出されるか。
あるいは、笑いながら別の餌を投げ返してくるか。
答えは、まだ遠い。
だが、道はつながった。




