第16話 太鼓は誰の命で鳴る
又七が長浜へ発った夜、御着の城に太鼓が鳴った。
どん。
低い音が、夜の城に落ちた。
どん、どん。
二つ目で、廊下を走る足音が増えた。
三つ目で、厩の馬がいななき、どこかで女中の短い悲鳴が上がった。
「火か」
新介が立ち上がる。
官兵衛は、すぐには動かなかった。
灯の揺れを見た。
風の向き。
煙の匂い。
太鼓の間。
火事を知らせる太鼓にしては、少し間が短い。
夜討を知らせる太鼓にしては、少し乱れている。
誰かが慌てて叩いている。
あるいは、慌てているように聞かせている。
「どこだ」
官兵衛が問う。
廊下から若い者が飛び込んできた。
「東木戸の方に煙が見えるとのこと!」
「誰が見た」
「番の者が」
「誰が太鼓を叩けと命じた」
若い者は、そこで言葉に詰まった。
「それは」
「誰だ」
「分かりませぬ」
新介の顔が変わる。
官兵衛は立ち上がった。
「四兵衛を呼べ。喜三右衛門は厩へ。新介は東木戸へ行け」
「殿は」
「私は政職様のところへ行く」
新介は一瞬、意外そうな顔をした。
火元へ行かないのか。
そう思ったのだろう。
官兵衛は短く言った。
「火より先に、命令の出どころを見る」
◇
政職の小部屋は、すでに騒がしかった。
近臣が出入りし、奥向きの者が障子の向こうでざわめいている。
政職は寝衣の上に羽織をかけ、険しい顔で座っていた。
「官兵衛」
「はっ」
「東木戸で火と聞く」
「まだ、火とは決められませぬ」
政職の眉が動いた。
「太鼓が鳴っておる」
「はい。ですが、太鼓を誰が鳴らしたかが分かりませぬ」
政職の顔色が変わった。
それは、火事とは別の怖さであった。
火は燃える。
だが、誰かの命で兵が動くなら、城は内から崩れる。
「番頭は」
「呼ばれております」
近臣が答えた直後、荒い足音が近づいた。
入ってきたのは、桑原又兵衛である。
小寺家の番頭の一人で、城内の番、武具の扱い、夜間の見回りに関わる男だった。
年は四十を越えている。
顔に傷があり、声も太い。
文や口上より、槍と足音で物を測る男である。
「殿、ご安心を。東木戸へ人を回しております」
政職が問う。
「太鼓を鳴らしたのは、そなたか」
又兵衛は一瞬、言葉を止めた。
「いえ。私は、太鼓を聞いて出ました」
「では、誰だ」
「番の者かと」
官兵衛が静かに言った。
「番の者は、誰の命で太鼓を叩けますか」
又兵衛の目が官兵衛へ向いた。
嫌な目だった。
若造が戦の口を出すな。
そう言っている。
「火が見えれば叩きます」
「火が見えたのですか」
「煙が見えたと聞いた」
「煙を見た者は」
又兵衛は答えなかった。
官兵衛は政職へ向き直った。
「殿。今夜のことは、火より太鼓が問題にございます」
「太鼓が」
「はい。太鼓が鳴れば、兵が走ります。兵が走れば、門が空きます。武具蔵が開きます。厩が動きます」
又兵衛が低く唸った。
「それが城だ。火が出てから殿の許しを待っておれば、城は燃える」
「火ならば」
官兵衛は又兵衛を見た。
「ですが、火でなければ」
部屋が静まった。
又兵衛の顔が硬くなる。
「何が言いたい」
「誰かが煙を見せ、太鼓を鳴らさせれば、城内の兵を好きな場所へ走らせることができます」
「脅しだ」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「今、起きていることです」
◇
新介が戻ってきたのは、それから半刻も経たぬうちだった。
額に汗が浮いている。
走ったのだろう。
いや、走りすぎないよう抑えた足の汗だった。
「申します」
「言え」
政職が促す。
「東木戸の外れ、古い藁小屋のそばで煙が上がっておりました。火は大きくございませぬ。濡れた藁に火種を入れたものと見えます」
「放火か」
又兵衛が言う。
「まだ断じられませぬ」
新介はそう答えた。
官兵衛の口癖が、若い声に移っている。
「ただ、火を広げるためではなく、煙を出すためのものに見えました」
政職の目が細くなった。
「煙を」
「はい」
新介は続けた。
「太鼓を最初に叩いた者は、東木戸の番ではございませぬ。櫓の下働きの若者です。名は藤七。東木戸で煙と声が上がったため、火事と思い叩いたと」
「誰が声を上げた」
「まだ」
「武具蔵は」
官兵衛が問う。
新介はそちらへ向いた。
「北の武具蔵が一度開きかけました。桑原様の若い衆が、番を固めるためと」
又兵衛が顔を上げた。
「当然だ。火事なら賊も紛れる」
「開けたのは、又兵衛殿の命でございますか」
新介が問う。
又兵衛の眉が跳ねる。
「私が命じる前だ。だが、いずれ命じた」
「門は」
官兵衛が問う。
「東木戸へ人が寄り、南の小門が一時薄くなりました」
「何人」
「六人のうち、四人が東へ」
政職が息を呑んだ。
官兵衛は静かに言った。
「火が出たという声だけで、小門が薄くなっております」
又兵衛が苛立った声を出した。
「ならば、どうしろと申す。火が見えても動くなというのか」
「いいえ」
官兵衛は即座に返した。
「動く者と、残る者を先に決めておくのです」
「戦の最中に紙を読むのか」
「紙は、戦の最中に読むものではございませぬ」
官兵衛の声は静かだった。
「戦の前に、身体へ覚えさせるためのものです」
又兵衛が黙った。
政職も黙っている。
官兵衛は続けた。
「今後は、太鼓が一つなら火の見回り。二つなら門を固める。三つなら武具蔵の番を増やす。誰が叩き、誰が走り、誰が残るか。先に決めておけば、火にも夜討にも早く動けます」
又兵衛の顔が少し変わった。
反論しようとして、止まった顔である。
官兵衛は、そこを逃さなかった。
「今夜、東木戸へ走った者は勇ましい。ですが、南の小門を空けた者でもあります」
政職の顔が硬くなる。
「敵が南から来ておれば」
「入られておりました」
又兵衛が低く言った。
自分で言ったのだ。
官兵衛ではなく、番頭の口から。
それでよい。
◇
煙の火元から、濡れた藁と小さな火縄が見つかった。
火縄は、使い古しであった。
どこの家のものかは分からない。
分からないようにされていた。
だが、喜三右衛門が厩から戻ると、別のものを持っていた。
「殿」
「何だ」
「厩の塩置き場に、知らぬ者が触った跡がございます」
「塩か」
「はい。火の騒ぎの間に、俵を一つ動かそうとしたようで」
新介が顔を強張らせた。
「また塩ですか」
「動かせたか」
官兵衛が問う。
喜三右衛門は首を振った。
「いいえ。源八が止めました」
「源八が」
「太鼓が鳴っても、塩と馬草の番は残れと言われていたと」
官兵衛は小さく頷いた。
源八は守った。
自分の役を。
太鼓に釣られず、残った。
その一人がいたから、塩は動かなかった。
又兵衛もそれを聞いていた。
顔に、ほんの少し違う色が差した。
「源八は、厩番だったな」
又兵衛が言う。
「はい」
喜三右衛門が答えた。
「若いが、踏みとどまりました」
政職が言った。
「褒めよ」
官兵衛は少しだけ目を伏せた。
源八を急に褒めるな。
朝にそう言ったばかりである。
だが今は違う。
政職の前で、役を守った者を褒める。
それは、守りを形にする。
「褒美は小さく」
官兵衛は言った。
政職がこちらを見る。
「小さく?」
「大きすぎれば、源八が目立ちすぎます。握り飯と、明日の厩番を一刻遅らせる程度がよろしいかと」
政職は一瞬考え、頷いた。
「よい。そうせよ」
又兵衛が官兵衛を見る。
「黒田殿」
「何でしょう」
「そなた、兵を紙で縛るつもりかと思うていた」
「違います」
「では、何だ」
「動く足と、残る足を決めるだけです」
又兵衛は鼻を鳴らした。
「うまい言い方をする」
「必要だからです」
官兵衛は答えた。
「城は、全員が勇ましく走れば落ちます」
又兵衛は黙った。
その言葉は、槍の男にも分かる言葉だった。
◇
夜が明ける前に、臨時の小評定が開かれた。
政職は眠れていない顔だった。
官兵衛も、眠っていない。
だが、頭は冷えていた。
火事騒ぎ。
太鼓。
武具蔵。
門。
厩の塩。
ひとつひとつは小さい。
合わせれば、城を動かす実験である。
誰が仕掛けたかは、まだ分からない。
だが、何を見たかったかは分かる。
御着の城が、太鼓一つでどう乱れるか。
それを誰かが見た。
あるいは、官兵衛に見せた。
「殿」
官兵衛は言った。
「太鼓、武具蔵、門番、厩番を改める必要がございます」
老臣の一人がうんざりした顔をした。
「また改めか」
その言葉には、疲れが滲んでいる。
文、蔵、寺、厩、人。
次は太鼓と武具。
家中が息苦しく感じるのも当然だった。
官兵衛は、そこを否定しなかった。
「息苦しくなります」
老臣が意外そうに官兵衛を見る。
「されど、夜に太鼓が鳴るたび門が空く方が、もっと息苦しくなります」
政職は低く言った。
「どう改める」
「まず、太鼓を叩ける者を定めます。火、夜討、急使、それぞれ鳴らし方を分けます」
「武具蔵は」
「桑原又兵衛殿の命を第一とし、ただし殿の許し、または火急の時は定めた副え役の同席を要します」
又兵衛が眉を動かした。
自分から権を奪われると思っていたのだろう。
だが、官兵衛はそうしなかった。
又兵衛を外せば、番の者が反発する。
武具を扱う者は、紙の者に従わない。
ならば、又兵衛を表に立てる。
その横に、控えを置く。
「副え役は誰だ」
政職が問う。
「黒田から一人、小寺家中から一人」
「黒田は」
「四兵衛を」
四兵衛が頭を下げる。
「小寺は」
官兵衛は少し間を置いた。
「河原主計殿を」
部屋がざわついた。
河原が顔を上げる。
昨日、外聞の控えを命じられたばかりの男である。
また新しい役か。
そう思った者もいるだろう。
政職も官兵衛を見た。
「河原を?」
「はい。外聞を見る者は、内の乱れも見る必要がございます」
「河原は東を見すぎる」
「だから、城の内も見せます」
河原の顔が硬くなる。
官兵衛は続けた。
「外ばかり見る者は、内を軽く見ます。内の番を見れば、外へ出す言葉の重さも分かります」
政職はしばらく考えた。
「主計」
「はっ」
「できるか」
河原は頭を下げた。
「務めます」
「違う」
政職の声が少し強くなる。
「できるかと聞いた」
河原は顔を上げた。
しばらく沈黙した後、言った。
「今は、できませぬ」
部屋の空気が止まる。
官兵衛は、内心で目を細めた。
よい。
その答えは、よい。
「ですが、覚えます」
河原は続けた。
「外へ道をつけると言いながら、城の門がどう薄くなるかを私は見ておりませなんだ。覚えねば、また殿を飛び越えます」
政職は、ゆっくり頷いた。
「よかろう」
河原の顔に、悔しさと安堵が混じる。
又兵衛は鼻を鳴らした。
「足手まといなら、怒鳴りますぞ」
河原は頭を下げた。
「お願いいたします」
妙な形だった。
文の者でも、外聞の者でも、番の者でもない線が、そこで一つ結ばれた。
◇
小評定の後、官兵衛は又兵衛に呼び止められた。
廊下の端である。
外の光が少しずつ白み始めていた。
「黒田殿」
「はい」
「そなたは戦場に出たことが少ない顔をしておる」
新介が横でむっとした。
官兵衛は手で制した。
「そう見えますか」
「見える」
又兵衛は腕を組んだ。
「だが、城が落ちる時の足は知っている顔だ」
官兵衛は何も言わなかった。
又兵衛の目は、思ったより鋭い。
紙を嫌う男ではある。
だが、馬鹿ではない。
「どこで見た」
又兵衛が問う。
「夢で」
官兵衛は答えた。
又兵衛は鼻で笑った。
「便利な夢だ」
「悪い夢にございます」
「なら、忘れぬことだ」
又兵衛はそう言って、歩き出した。
数歩進んでから、振り返る。
「太鼓の鳴らし方は、こちらで案を出す」
「お願いいたします」
「紙に直すのは、そちらでやれ」
「承りました」
又兵衛は去った。
新介が小さく言う。
「味方に、なるのでしょうか」
「まだだ」
「敵では」
「それもまだだ」
官兵衛は又兵衛の背を見送った。
「ただ、城を落としたくない男だ」
それで今は十分だった。
◇
昼前、御着の城には新しい定めが出た。
太鼓の鳴らし方。
火と夜討と急使の区別。
門番の残り役。
武具蔵を開く手順。
厩と塩の番。
火急の時ほど、誰が走り、誰が残るかを決めておくこと。
それは、兵を縛る紙ではなかった。
兵の足を散らさぬための紙だった。
家中は、またざわめいた。
だが、昨夜の太鼓を聞いた者は、強くは反対できなかった。
南の小門が薄くなったことを知っている者もいる。
厩の塩が動かされかけたことを知っている者もいる。
そして、源八が残ったことも、静かに広まった。
勇ましく走るだけが役ではない。
残ることも、城を守る。
その言葉は、誰が言ったわけでもない。
だが、城の中に残った。
官兵衛は、黒田の控え部屋へ戻った。
文箱の横に、新しい札を置く。
番。
新介がそれを見た。
「また、箱が増えました」
「箱ではない」
官兵衛は言った。
「足だ」
「足」
「城の足だ。どこへ走り、どこに残るか」
新介は黙って頷いた。
少しだけ、分かった顔だった。
官兵衛は開いた障子の外を見た。
夜の騒ぎの煙は、もう消えている。
だが、煙を出した者はまだ見えない。
見えないままでよい。
今は、見えない手に城を動かされぬことの方が大事だ。
文を握る。
蔵を握る。
寺を握る。
厩を握る。
人を握る。
外聞を握る。
そして、番を握る。
すべて、政職の手に戻す形で。
すべて、官兵衛の目の前を通る形で。
官兵衛は低く呟いた。
「太鼓は、もう勝手には鳴らさせぬ」
それは、城内への言葉であり、己への言葉でもあった。
一度目の人生で、官兵衛は多くの太鼓に動かされた。
小寺の迷い。
信長の疑い。
秀吉の笑顔。
天下の鐘。
誰かが鳴らす音に合わせて、走り、止まり、牢へ落ちた。
今度は違う。
鳴らす者を見る。
鳴らす前に、手首を押さえる。
そして必要なら、自分で太鼓を鳴らす。
御着の城は、まだ小寺政職の城である。
だが、その夜から、城の足音は少しだけ官兵衛の刻みに近づいた。




