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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第17話 残る者にも槍はある

 太鼓の定めが出た翌日、御着の城は朝から落ち着かなかった。


 文の改め。


 蔵の改め。


 寺の改め。


 厩の改め。


 人の改め。


 外聞の控え。


 番の定め。


 それらが続けば、城の中に息苦しさが溜まる。


 武士たちは、声には出さずとも不満を抱いた。


 黒田官兵衛は、ついに槍の足まで紙で縛るつもりか。


 そう囁く者がいた。


 特に若い者ほど、面白くなかった。


 太鼓が鳴れば走る。


 火が出れば駆ける。


 敵が見えれば槍を取る。


 それこそが武士の働きだと信じている者にとって、走るな、残れ、番を守れという定めは、腰を抜かせと言われたように聞こえたのである。


 桑原又兵衛は、その不満を隠さなかった。


 朝の小評定が終わると、又兵衛は官兵衛の前にどかりと座った。


「黒田殿」


「はい」


「定めは出た。だが、紙だけでは兵は動かぬ」


「承知しております」


「ならば、稽古をする」


 又兵衛は短く言った。


「太鼓を実際に鳴らす。一つ、二つ、三つ。それぞれで誰が動き、誰が残るか。口で申すより、足に覚えさせる」


 官兵衛は頷いた。


「よろしいかと」


「よろしいかと、ではない。そなたも見るのだ」


「見ます」


「ただし、兵の前で口を出しすぎるな」


 新介が横で眉を動かした。


 又兵衛は続ける。


「番の者は、私の声で動く。そなたの紙で動くのではない。そこを間違えれば、兵は反発する」


 官兵衛は静かに頭を下げた。


「承りました」


 又兵衛の目が、わずかに細くなる。


 素直に下がられるとは思っていなかった顔である。


「ずいぶん、あっさり引くな」


「番は又兵衛殿の場にございます」


「では、そなたは何を見る」


「走る足ではなく、残る足を」


 又兵衛は鼻を鳴らした。


「嫌な目だ」


「よく言われます」


「誰に」


「夢で」


 又兵衛は一瞬だけ黙り、ふっと笑った。


「また夢か」


 それ以上は聞かなかった。


     ◇


 昼前、御着の庭に番の者が集められた。


 東木戸。


 南の小門。


 北の武具蔵。


 厩。


 水場。


 それぞれの番が、自分の持ち場ごとに並ぶ。


 桑原又兵衛は中央に立った。


 傷のある顔に、いつもの不機嫌を貼りつけている。


 だが、声はよく通った。


「太鼓は、兵を慌てさせるためのものではない」


 又兵衛の声が庭を打った。


「慌てるためなら、犬でもできる。兵は、太鼓を聞いて己の足を決める。分かったか」


「はっ」


 返事はそろっていない。


 又兵衛は怒鳴らなかった。


 その代わり、前列の若侍を睨んだ。


「聞こえぬ」


「はっ!」


 今度はそろった。


 官兵衛は、少し下がった場所にいた。


 政職も来ている。


 ただし、上座めいた場所ではない。


 庭を見渡せる廊下の端に座っている。


 その横に河原主計。


 さらに後ろに三宅甚太夫。


 三宅は筆を持っている。


 河原も控えを持っている。


 武の稽古の場に、筆の者と外聞の者がいる。


 以前なら、又兵衛は嫌な顔をしただろう。


 今も嫌な顔はしている。


 だが、追い払わない。


 それだけでも、昨日とは違っていた。


「一つ」


 又兵衛が合図を出した。


 太鼓が鳴る。


 どん。


 火の見回り。


 東木戸から二人が動く。


 水場から一人。


 厩からは誰も動かない。


 南の小門も動かない。


 武具蔵も動かない。


 最初に動いた二人の足は速かった。


 だが、速すぎる。


 火元を確かめる者が、槍を持ちすぎている。


 水を運ぶ者が、桶を持っていない。


 又兵衛が怒鳴った。


「槍で火は消せぬ!」


 二人が足を止める。


 庭に笑いが起こりかけた。


 又兵衛の目が飛ぶ。


 笑いは消えた。


「火を見に行く者は、火を見る。敵を見に行く者ではない。桶を持て。濡れ布を持て。槍は一人でよい」


 河原がそれを書こうとした。


 又兵衛がすぐ言った。


「書く前に見ろ」


 河原の手が止まる。


「はい」


「火を見る者が槍を持ちたがる。そこを見ろ。紙にするのは後だ」


 河原は顔を赤くしたが、反論しなかった。


 官兵衛は黙っていた。


 又兵衛は正しい。


 紙にする前に、足を見る。


 その順を間違えれば、番の定めは死ぬ。


     ◇


 二つ目の太鼓が鳴った。


 どん、どん。


 門を固める合図である。


 東木戸へ人が寄る。


 南の小門は、残る者が二人。


 そのはずだった。


 だが、一人が走った。


 若い小寺家臣である。


 名は佐橋甚五郎。


 槍の腕を自慢し、声も大きい男だった。


 甚五郎は南の小門の残り番に置かれていた。


 それが、太鼓を聞くなり東へ向かった。


「待て」


 同じ番の足軽が声をかけたが、甚五郎は止まらない。


「東が手薄になる!」


 そう叫んで走った。


 庭の空気が変わる。


 又兵衛の顔が険しくなった。


 しかし、すぐには怒鳴らない。


 官兵衛も動かない。


 代わりに、四兵衛の手の者が、南の小門へ向かった。


 稽古のため、あらかじめ外に回していた者である。


 荷車を一台押していた。


 薪を積んだ荷車に見える。


 だが、積み方は怪しい。


 小門に残った足軽は一人だけだった。


 年は若くない。


 槍も新しくない。


 名を助市という。


 普段なら、誰も名を気にしないような足軽である。


 助市は、荷車を止めた。


「止まれ」


 声は大きくない。


 だが、逃げなかった。


 荷車の者が言う。


「東へ薪を運ぶ。火の備えだ」


「太鼓二つなら、門を固める。荷は通せぬ」


「急ぎだ」


「通せぬ」


「東で火が出たぞ」


「ならば、なおさら通せぬ」


 助市は槍を構えた。


 構えはうまくない。


 だが、門の幅を分かっている。


 一人で塞ぐには、どこへ立つべきか知っている。


 荷車の者は、それ以上押せなかった。


 庭の者たちは、その様子を見ていた。


 走った甚五郎も、途中で足を止めて振り返っている。


 又兵衛の声が響いた。


「見たか!」


 誰も返事をしなかった。


「東へ走った甚五郎は勇ましい。だが、南の小門を守ったのは助市だ」


 甚五郎の顔が赤くなる。


「私は、東を助けようと」


「東を助けるために、南を空けた」


 又兵衛の声は冷たかった。


「敵は、そなたの気持ちではなく、空いた門から入る」


 甚五郎は言葉を失った。


 官兵衛は政職を見た。


 政職は助市を見ていた。


 これでよい。


 残る者の姿を、主君の目に入れる。


 それが今日の要である。


「助市」


 政職が声をかけた。


 助市は驚いて膝をついた。


「はっ」


「よく残った」


 庭に小さなどよめきが起きた。


 助市の顔がこわばる。


 褒められることに慣れていない顔だった。


「恐れ入ります」


「今日の握り飯は一つ増やせ」


 政職が言った。


 官兵衛は少しだけ目を伏せた。


 大きすぎない。


 だが、皆の前で届く褒美。


 よい。


 又兵衛も頷いた。


「甚五郎」


「はっ」


「そなたは明日、南の小門で助市の下につけ」


 甚五郎の顔がさらに赤くなる。


「私が、足軽の下に」


 又兵衛が一歩近づいた。


「不服か」


 甚五郎は唇を噛んだ。


 政職の前である。


 反発すれば、自分がさらに悪くなる。


「……不服にはございませぬ」


「よし」


 又兵衛は短く言った。


「残る足を学べ」


     ◇


 三つ目の太鼓が鳴った。


 どん、どん、どん。


 武具蔵の番を増やす合図である。


 今度は、桑原又兵衛が自ら動いた。


 北の武具蔵へ向かう。


 その後ろに四兵衛。


 さらに河原主計。


 河原は走ろうとして、又兵衛に怒鳴られた。


「走るな!」


 河原は足を止める。


「武具蔵を開ける者が息を切らしてどうする。鍵穴が見えなくなる」


「はっ」


「急ぐことと、慌てることは違う」


 河原は歯を食いしばった。


 だが、歩みを整えた。


 武具蔵の前には、若い番の者が集まっている。


 槍を出すのか。


 弓を出すのか。


 具足まで開けるのか。


 誰もが前へ出たがる。


 又兵衛はそれを手で止めた。


「太鼓三つは、蔵を開ける合図ではない。蔵の番を増やす合図だ」


 若い番が戸惑う。


「武具を出すのでは」


「誰が出せと言った」


「しかし、敵なら」


「敵が見えた時、蔵の前に人が群がっていれば、敵は笑う」


 又兵衛は鍵を出した。


 開けない。


 鍵を見せただけで、またしまった。


「蔵は、開けるより閉めて守る方が難しい」


 河原が、それを聞いていた。


 官兵衛は遠くから見ている。


 又兵衛の言葉は、兵に届く。


 官兵衛が言えば、紙の理屈になる。


 又兵衛が言えば、槍の理屈になる。


 同じことでも、口が違えば届き方が違う。


 政職もそれを見ていた。


「官兵衛」


「はっ」


「あれは、そなたが言わせたのか」


「いいえ」


「では、又兵衛の言葉か」


「はい」


 政職は小さく頷いた。


「よい言葉だ」


「はい」


 官兵衛は素直に答えた。


 よいものは、誰の口から出てもよい。


 むしろ、官兵衛の口から出ない方がよいこともある。


     ◇


 稽古が終わる頃、庭の空気は少し変わっていた。


 不満が消えたわけではない。


 むしろ、恥をかかされた者は不満を濃くしただろう。


 だが、残ることがただの臆病ではないと、少なくとも何人かは見た。


 助市が門を守った。


 源八が厩を守った。


 又兵衛が武具蔵を開けずに守った。


 それらは、分かりやすい。


 紙ではない。


 目で見える。


 人は、見えたものには逆らいにくい。


 官兵衛は、そこまで計算していた。


 だが、すべてが思い通りに進んだわけではない。


 稽古の後、佐橋甚五郎が一人、厩の脇で槍を土に突き立てていた。


 新介がそれを見つけ、官兵衛へ知らせる。


「怒っております」


「当然だ」


「放っておきますか」


「いや」


 官兵衛は厩へ向かった。


 御着の内である。


 外へは出ない。


 甚五郎は官兵衛を見ると、顔を背けた。


「何か御用で」


「南の小門を空けたな」


「分かっております」


「分かっていない」


 甚五郎が睨み返した。


「何を」


「そなたは、東を助けようとした。そこは悪くない」


 甚五郎の顔に、わずかな戸惑いが出る。


「だが、助けたい場所へ走るだけなら、誰でもできる」


「では、見捨てろと」


「違う」


 官兵衛は槍を見た。


 土に深く突き立てられている。


 若い怒りだ。


 昔の自分にも、そういう怒りはあったのだろうか。


 もう思い出せない。


「そなたが南に残れば、東へ走った者は背を気にせず動ける」


 甚五郎は黙った。


「残る者は、走る者の背を預かる。そなたは今日、その背を捨てた」


 甚五郎の目が揺れた。


 怒鳴られると思っていた顔である。


 罰を言われると思っていた顔である。


 だが、官兵衛は別のところを突いた。


「助市の下につくのが恥か」


「……恥です」


「ならば、恥を覚えろ」


 甚五郎が顔を上げる。


「恥を忘れる者は、また同じことをする。恥を覚える者は、次に残れる」


 官兵衛はそこで声を少し落とした。


「そなたは、走れる。だから残れるようになれ」


 甚五郎は何も言わなかった。


 だが、槍から手を離した。


 土に刺さっていた槍が、わずかに揺れる。


「明日、助市に礼を言え」


「足軽に、でございますか」


「門を守った者に、だ」


 甚五郎は唇を噛み、やがて小さく頭を下げた。


「……承りました」


 新介は横でそれを見ていた。


 官兵衛が、人をただ駒として動かしているだけではない。


 そう思いかけた。


 だが、すぐに分からなくなる。


 甚五郎を潰さないのも、次に使うためかもしれない。


 その両方なのだろう。


     ◇


 夕刻、政職の前で稽古の報告が行われた。


 三宅が、定めの文を整える。


 河原が、稽古で見えた人の動きを控える。


 又兵衛が、番の実際を述べる。


 官兵衛は最後に、足りないところだけを補った。


「助市を門番の手本に」


 政職が言った。


「源八を厩番の手本に」


「はい」


「甚五郎は」


 又兵衛が口を開く。


「明日、助市の下につけます」


 政職は頷いた。


「よい」


 河原が、その横で控えを書いている。


 以前なら、外へどう見えるかばかりを考えていた男が、今は城内の足の動きを書いている。


 三宅は、文の表現を整えながら、助市の名を落とさなかった。


 それも小さな変化だった。


 名もなき足軽の名が、政職の前に残る。


 残る者の名が、紙に残る。


 それは、城にとって大きい。


「官兵衛」


「はっ」


「残る者にも、手柄はあるのだな」


「ございます」


「ならば、これからはそれを見落とすな」


「承りました」


 政職は、少し疲れた顔で笑った。


「わしも、見落としておった」


 部屋は静かだった。


 その言葉に、何人かが目を伏せた。


 官兵衛は頭を下げたまま、政職の声を聞いていた。


 この男は、まだ足りない。


 それは変わらない。


 だが、足りないものを見ようとし始めている。


 それは、官兵衛にとって都合がよい。


 そして、少しだけ厄介だった。


     ◇


 夜、黒田の控え部屋へ戻った官兵衛は、文箱の横に白紙を一枚置いた。


 題は書かない。


 札も置かない。


 まだ、こちらで名をつける段ではない。


 新介がそれを見た。


「何も書かれぬのですか」


「明日、書く」


「何を」


「助市に聞いてからだ」


 新介は少し驚いた顔をした。


「助市殿に?」


「南の小門で、いちばん見えにくい場所はどこか。雨の日にぬかるむ場所はどこか。荷車が詰まりやすい幅はどれほどか。毎日そこに立つ者が、一番知っている」


「それを、紙に」


「紙にする前に、聞く」


 新介は黙って頷いた。


 官兵衛は白紙を見た。


 城は、名のある者だけでは守れぬ。


 名のない者が逃げた時に落ちる。


 それを一度目の自分は、どれだけ見ていたか。


 知っていたつもりだった。


 だが、見てはいなかったのかもしれない。


「一度目は、見ていなかったのだろう」


 言ってから、官兵衛は目を伏せた。


 新介が不思議そうに見る。


「一度目?」


「若い頃の話だ」


 官兵衛は短く切った。


 新介はそれ以上聞かなかった。


 風が入ってくる。


 障子は開いている。


 夜の空気は冷たい。


 だが、牢の冷たさではない。


 助市。


 源八。


 小六。


 太助。


 弥平。


 名の大きくない者たちの顔が、官兵衛の中を過ぎた。


 一度目の生で、自分は何人の名を見落としたのか。


 何人を、ただの足として使ったのか。


 何人が残ったから、自分は走れたのか。


 思い出せない。


 思い出せないこと自体が、罪の形をしていた。


 官兵衛は白紙を指で押さえた。


 明日、この紙に最初に書くのは、自分の考えではない。


 助市の言葉だ。


 南の小門の穴は、南の小門に立つ者の口から出る。


 官兵衛は外を見た。


 太鼓の定めはできた。


 番の足も、少しだけ見えた。


 だが、煙を上げた者はまだ見えない。


 それでよい。


 次に煙を上げる時、城は昨日と同じ動きはしない。


 それだけで、相手の手は一つ鈍る。


 官兵衛は低く呟いた。


「残る者を見れば、城の穴が見える」


 そして、城の穴が見えれば。


 その穴から、誰が入ろうとしたかも見える。


 御着の城は、まだ小寺政職の城である。


 だが、残る者の声を聞き始めた夜から、城の守りは少しだけ黒田官兵衛の目を持ち始めた。



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