第18話 火箸を持つ弟
又七が長浜へ発ってから、十日ほどが過ぎた。
その間、御着の城はゆっくりと息の仕方を変え始めていた。
文は、誰の筆かを残す。
蔵は、誰の前で開いたかを残す。
寺へ出る写しは、政職の許しを要する。
厩では、馬と塩と馬草の出入りが控えられる。
人改めで、小者や中間の属する先が見え始めた。
太鼓は、鳴らし方を決められた。
そして、門に残る者の名も、少しずつ政職の耳へ入るようになった。
助市は、南の小門の見えにくい場所をよく知っていた。
雨の日、どこがぬかるむか。
荷車がどの角で詰まりやすいか。
塀の影で、外から見えにくい場所はどこか。
それらを話す時、助市は最初、ひどく緊張していた。
だが、官兵衛が余計な口を挟まず、新介が一つずつ聞くと、やがて言葉が増えた。
足軽の言葉は、飾られていない。
だが、毎日そこに立つ者の言葉だった。
官兵衛は、それを紙に残させた。
小さな穴が、一つ見えた。
城は、そうして見えてくる。
上から眺めるだけではない。
下で濡れた草鞋を履く者の足元からも、城は見える。
一度目の官兵衛は、それを知っていたつもりでいた。
つもりでいただけかもしれない。
◇
その日の昼前、長浜からの使いが御着へ入った。
宗七ではなかった。
又七でもなかった。
武士である。
ただし、派手ではない。
小柄ではないが、威圧するほど大きくもない。身なりは整っているが、飾りは少ない。
顔は穏やかで、声も荒くない。
だが、目だけはよく見ていた。
門。
番。
厩へ向かう道。
庭に置かれた桶。
廊下に控える者の立ち位置。
そして、官兵衛の顔。
その目を見た瞬間、官兵衛の胸の奥で古い記憶が動いた。
この男を知っている。
一度目の世で、何度も見た。
猿のそばにいながら、猿ほど笑わなかった男。
猿の火が強くなりすぎぬよう、そっと薪の向きを変える男。
豊臣の家がまだ家であった頃、その柱の一本だった男。
羽柴小一郎。
官兵衛は、ほんの一瞬だけ息を止めた。
秀吉ではない。
だが、秀吉より先にこの男が来た。
猿は、こちらのかまどを覗く前に、火箸を差し入れてきたのだ。
「小寺政職様へ、羽柴藤吉郎が弟、小一郎よりの御挨拶にございます」
小一郎は深く頭を下げた。
礼は丁寧だった。
低すぎもせず、高すぎもしない。
その加減が、かえって官兵衛を冷やした。
よく仕込まれている。
いや、仕込まれただけではない。
元から、こういう男なのだ。
◇
政職は小一郎を広すぎない小部屋へ通した。
大広間ではない。
だが、密談の部屋でもない。
三宅甚太夫が筆を持ち、河原主計が外聞の控えを取り、桑原又兵衛が少し離れた場所に座っている。
官兵衛は政職の下座に控えた。
障子は開いている。
政職が、先にそう命じた。
「風を入れよ」
それだけだった。
官兵衛は、その言葉に頭を下げただけである。
小一郎は一度だけ障子へ目を向けた。
見た。
だが、何も言わなかった。
そういう男だった。
「遠路、大儀」
政職が言った。
「羽柴殿は息災か」
「はい。兄は相変わらず、よく動き、よく笑い、よく人を困らせております」
部屋にわずかな緩みが生まれた。
小一郎はその緩みを使いすぎない。
すぐに膝の前へ文を置いた。
「兄より、小寺様へ」
三宅が受け取り、政職へ差し出す。
政職は文を開いた。
目を通すうち、その眉が少しずつ動いた。
「官兵衛」
「はっ」
「そなたも見よ」
政職は文を渡した。
官兵衛は頭を下げ、文を受け取る。
字は、藤吉郎のものだった。
相変わらず、人の懐へ入るような字だ。
丁寧すぎず、粗すぎず、読む者に少し身を乗り出させる。
そこに、短く書かれていた。
慈徳の件、承り候。
揺れる家に、揺れを見る目ありと知り、頼もしきことに候。
火はかまどにあるうちが役に立つとの御言葉、面白く存じ候。
されど、火は箸なくしては扱い難きもの。
播磨の道、港、米塩の流れ、いずれ小寺殿の御前にて承りたく候。
まずは弟小一郎を遣わし、御挨拶まで。
羽柴藤吉郎
官兵衛は文を畳まなかった。
しばらく、その文字を見ていた。
揺れる家。
揺れを見る目。
火箸。
播磨の道、港、米塩の流れ。
猿め。
又七から聞いたことだけではない。
道中で拾った噂も、商人から吸った匂いも、全部混ぜてこちらへ返してきている。
しかも、直接「黒田官兵衛へ」とは書いていない。
小寺政職の前で承りたい、と書いている。
政職を立てた。
その上で、官兵衛の目を刺してきた。
「火箸とは、何だ」
政職が問う。
小一郎は静かに手を差し出した。
従者が小さな包みを置く。
中には、鉄の火箸が一膳入っていた。
特別な飾りはない。
実用の品である。
「兄が、こちらも添えよと」
小一郎は言った。
「火は、恐れても扱えませぬ。近づきすぎても焼けます。ならば、箸が要ると」
政職は火箸を見た。
河原も見た。
三宅も、又兵衛も。
官兵衛だけは、小一郎を見ていた。
この男は、兄の冗談を運んでいるだけではない。
この火箸そのものが、羽柴からの問いなのだ。
火を扱う箸は、誰か。
小寺か。
黒田か。
それとも、羽柴か。
◇
「小寺様」
小一郎は政職へ向き直った。
「兄は、播磨のことを知りたがっております」
「知って、どうする」
政職の声には警戒があった。
以前より、少し強い。
官兵衛はそれを聞いた。
よい。
警戒を口にできるなら、まだ道はある。
「すぐにどうこうという話ではございませぬ」
小一郎は答えた。
「ただ、東でも西でも、道を知らぬ者は国を測れませぬ。港を知らぬ者は兵糧を測れませぬ。米と塩を知らぬ者は、人の腹を測れませぬ」
官兵衛は内心で苦く笑った。
こちらの言葉を、よく拾っている。
米。
塩。
港。
道。
人の腹。
官兵衛が小寺家中で見てきたものを、羽柴はもう言葉にして返している。
河原の目が動いた。
東へ寄るべきだと焦る男にとって、羽柴のこの言葉は甘い。
三宅の顔は硬い。
文で包むには、相手が近すぎると感じている。
又兵衛は黙っているが、膝の上の手が少し動いた。
道と兵糧の話は、槍の男にも分かる。
「小寺の内を、そう容易く外へ出すわけにはいかぬ」
政職が言った。
小一郎は深く頭を下げた。
「もちろんにございます」
その声は柔らかい。
だが、引きすぎてはいない。
「ですから、兄はまず、小寺様の御前にて承りたいと申しております。黒田殿お一人の言としてではなく、小寺様の言として」
政職は官兵衛を見た。
官兵衛は何も言わない。
ここで前に出れば、小一郎の思う壺だ。
小寺の道として。
政職が十五話で言った言葉を、羽柴側も別の形で差し出してきた。
偶然ではない。
向こうは、こちらが政職を立てていることを読んでいる。
「官兵衛」
政職が言った。
「どう見る」
官兵衛は頭を下げた。
「危うくございます」
河原の顔が少し動く。
三宅は小さく頷いた。
小一郎は表情を変えない。
「ですが、避け続けることも危うくございます」
政職は黙る。
官兵衛は続けた。
「播磨の道をすべて見せれば、相手の地図になります。何も見せねば、相手は勝手に地図を描きます」
「では、どうする」
「見せる道を、こちらで選びます」
小一郎の目が、ほんの少し細くなった。
「まずは、乱れている道ではなく、守るべき道を示すべきにございます」
「守るべき道?」
「はい」
官兵衛は政職を見た。
「飾磨、室津、英賀。米と塩と港荷が乱れれば、播磨の民が困る。小寺はそれを守るために道を見ている。そういう形であれば、こちらの腹をすべて割らずに、相手へこちらの目を見せられます」
河原が口を開きかけた。
だが、止めた。
以前なら、もっと踏み込んで織田へ道をつけよと言ったかもしれない。
今は、まず政職の顔を見ている。
これも変化だった。
三宅が静かに言った。
「文としては、港荷の乱れを避けるための聞き取り、という形にできます」
又兵衛が言う。
「道を見せるなら、門と番も要る。外の者を入れる場所を決めねばならん」
官兵衛は又兵衛を見た。
よい。
武の口から出た。
小一郎がそのやり取りを見ている。
この場そのものを見せることになっている。
小寺は割れている。
だが、それぞれが役を持ち始めている。
その見え方を、羽柴はどう読むか。
「小一郎殿」
官兵衛は初めて小一郎へ直接向いた。
「羽柴殿は、道を知りたいと申されましたか」
「はい」
「では、道を歩く者の腹も知りたいと?」
小一郎は静かに笑った。
笑ったが、藤吉郎のような笑みではない。
火ではなく、炭の奥にある赤みに似ていた。
「兄なら、知りたがるでしょう」
「小一郎殿は」
「私は、道が崩れぬかを見ます」
官兵衛は、小さく息を止めた。
そうだった。
この男は、猿のように飛ばない。
だが、橋が落ちぬかを見る。
だから厄介なのだ。
◇
小一郎は、御着の城内を歩くことを望んだ。
政職は一度、官兵衛を見た。
官兵衛は首を横に振らなかった。
ただし、自由に歩かせるわけではない。
案内は又兵衛。
控えは河原。
文の記録は三宅。
黒田からは新介。
官兵衛自身は、政職のそばに残った。
御着を出ないどころか、小一郎の後ろにもつかない。
そうすることで、小一郎に見せる。
黒田官兵衛は、小寺政職の前を離れない。
少なくとも今は。
小一郎は、東木戸を見た。
南の小門を見た。
厩を見た。
武具蔵の前で足を止めた。
武具蔵は開けなかった。
又兵衛がそう言ったからである。
「太鼓三つは、蔵を開ける合図ではない。蔵の番を増やす合図です」
又兵衛は無愛想に言った。
小一郎は頷いた。
「よい定めです」
「まだ足りませぬ」
「足りないと言えるなら、よい定めです」
又兵衛は返事に困った顔をした。
河原はそれを書き留めようとして、少し考え、まず顔を上げて場を見た。
又兵衛が横目でそれを見る。
今度は怒鳴らなかった。
南の小門では、助市が番に立っていた。
隣には佐橋甚五郎がいる。
甚五郎は不機嫌そうだったが、逃げてはいない。
小一郎は二人を見た。
「この門は、少し低い」
助市が驚いた顔をした。
「はい」
「荷車が詰まりやすいでしょう」
「雨の日は、特に」
助市は答えた。
甚五郎が助市をちらりと見る。
昨日より、少しだけ見方が違う。
小一郎は頷いた。
「道は、地図より門番が知っていることがあります」
新介は、その言葉を胸に置いた。
官兵衛が言いそうなことを、羽柴の弟も言う。
そのことが、なぜか少し怖かった。
◇
小一郎が戻ると、政職の前で短い報告が行われた。
「御着は、よく改められております」
小一郎は言った。
政職の顔が少し緩む。
だが、小一郎は続けた。
「ただし、改めの最中にございます」
緩んだ顔が、また固くなる。
「揺れております。されど、揺れを隠しておられぬ。そこは、兄へそのまま伝えます」
政職は黙った。
官兵衛も黙った。
小一郎は、嘘を言わない。
だからこそ、危うい。
甘く包んで褒めるだけの使いなら、簡単だった。
この男は、見たことをそのまま持ち帰る。
そして藤吉郎は、そのままの中から一番面白いところを噛む。
「小寺様」
小一郎は言った。
「兄は、すぐに小寺様へ旗を求めるつもりではございませぬ」
「今は、か」
「はい。今は、にございます」
政職は苦く笑った。
「正直だな」
「兄に比べれば、私は嘘が下手でございます」
その言葉は軽い。
だが、軽さの下に刃がある。
「ただ、播磨はいずれ、東西のどちらかに大きく揺れます。その時、道を知らぬ者は、道を焼きます」
小一郎は官兵衛を見た。
「黒田殿は、その前に道を数えておられるように見えます」
官兵衛は静かに答えた。
「数えただけでは、道は守れませぬ」
「では、何が要りますか」
「歩く者です」
小一郎は少しだけ笑った。
「兄に、そのまま伝えます」
「余計なことを申しました」
「余計なことほど、兄は喜びます」
官兵衛は目を伏せた。
その通りだ。
藤吉郎は、整った返事より余った言葉を拾う。
こちらが漏らした一滴を、酒一升のように膨らませる。
だから怖い。
政職はしばらく火箸を見ていたが、やがて官兵衛へ向けた。
「官兵衛。これは、しばらくそなたが預かれ」
「はっ」
官兵衛は両手で受け取った。
鉄の重みが、思ったより冷たかった。
◇
小一郎は、その日のうちには帰らなかった。
御着に一泊することになった。
これは政職の判断である。
急いで帰せば、追い払ったように見える。
長く留めれば、織田へ近づきすぎたように見える。
一泊。
その加減を、政職が自分で選んだ。
官兵衛は異を唱えなかった。
夜、黒田の控え部屋に戻った官兵衛は、しばらく黙っていた。
新介が灯を整える。
「殿」
「何だ」
「羽柴小一郎様は、どのような方にございますか」
官兵衛はすぐには答えなかった。
小一郎。
一度目の世で、豊臣の家を支えた男。
あの男がいるうちは、猿の火はまだかまどに収まっていた。
あの男がいなくなってから、火は家の梁を舐め始めた。
そう思っている。
だが、そんなことは言えない。
「火を持つ者の隣で、水桶の場所を覚えている男だ」
新介はよく分からぬ顔をした。
「味方にすべき方ですか」
「敵にしてはならぬ方だ」
「味方では」
「味方にできると思った時が、危うい」
官兵衛は火箸を見た。
政職から預かり、ひとまず黒田の控え部屋に置かれたものである。
鉄の火箸。
飾りのない、実用の道具。
羽柴藤吉郎は笑いながらこれを送ったのだろう。
だが、小一郎は笑わずに運んできた。
その差が、官兵衛には重かった。
「殿」
新介が言った。
「火箸は、どうされますか」
「返さぬ」
「いただくのですか」
「預かる」
官兵衛は火箸を布に戻した。
「これは、羽柴から小寺への問いだ。答えを出すまで、返せぬ」
「答えとは」
「誰が火を扱うかだ」
新介は黙った。
官兵衛は開いた障子の外を見た。
夜の御着は静かである。
だが、その静けさの中に、長浜の目が入った。
猿の目ではない。
猿の弟の目。
笑わず、騒がず、道と門と人を見る目。
それは、藤吉郎本人よりも静かに、御着の内へ入り込んだ。
官兵衛は低く呟いた。
「猿は、よい弟を持った」
羨望ではない。
警戒でも足りない。
それは、かつて知っていた豊臣の強さを、若い御着の部屋で思い出した声だった。
そして同時に、官兵衛は思った。
ならば、こちらも持たねばならぬ。
火を扱う手。
水桶を覚える目。
走る者と残る者。
紙を書く者と槍を持つ者。
それらを、黒田の側にも。
御着の城は、まだ小寺政職の城である。
だが、羽柴小一郎が見たその城は、すでに以前の御着ではなかった。
そして官兵衛もまた、猿と会う前に、猿の家の強さを思い出していた。




