第19話 火箸の夜
小一郎が御着に泊まると決まった夜、城の空気は昼とは違っていた。
昼は、見る目があった。
小一郎の目。
長浜へ持ち帰られる目。
門も、厩も、武具蔵も、助市の立つ小門も、その目に触れた。
夜は、聞く耳が増えた。
誰が小一郎の寝所に近づくか。
誰が羽柴の者へ余計なことを言うか。
誰が織田の名を出し、誰が毛利の名を避けるか。
城のあちこちで、人が声を低くしていた。
官兵衛は、それを止めなかった。
止めれば、声は床下へ潜る。
潜った声は、あとで腐る。
聞こえるところで囁かせた方がよい。
ただし、聞く耳はこちらで置く。
それだけでよい。
◇
小一郎への夕餉は、豪勢ではなかった。
米。
汁。
焼き魚。
少しの漬物。
酒も、過ぎぬ量である。
政職は最初、もう少し膳を厚くせよと言いかけた。
だが、官兵衛が静かに首を横へ振った。
「羽柴殿は、飢えた者の家ではございませぬ」
「では、粗略にするのか」
「粗略ではなく、平らに」
政職は少し考え、頷いた。
厚すぎる膳は、媚びになる。
薄すぎる膳は、侮りになる。
平らな膳は、まだ決めぬ家の膳である。
小一郎は、その膳を見て、少しだけ笑った。
「よい膳にございます」
政職が問う。
「足りぬか」
「いいえ」
小一郎は箸を取った。
「多すぎれば、何を隠しているのかと考えます。少なすぎれば、何を怒っているのかと考えます。これは、考えずに食べられます」
官兵衛は黙っていた。
やはり、この男は見ている。
飯の量まで。
汁の温かさまで。
相手がどれほど緊張しているかまで。
藤吉郎なら、同じ膳を見て笑い、褒め、相手の懐へ手を入れる。
小一郎は、手を入れない。
入れずに、懐の深さだけ測る。
◇
夕餉の後、小さな火鉢が置かれた。
夜風が入る。
障子は細く開いていた。
政職が命じたのである。
「こもると、火も人も悪くなる」
その言葉に、三宅が少し顔を動かした。
河原は控えに残すか迷い、やめた。
又兵衛は黙って火鉢を見ている。
官兵衛は何も言わなかった。
政職の言葉が、少しずつ変わっている。
誰かに言わされているのではない。
見たものが、言葉になり始めている。
そのことが、官兵衛には頼もしくもあり、厄介でもあった。
「官兵衛」
政職が言った。
「昼の火箸を」
「はっ」
官兵衛は布に包んだ火箸を出した。
政職の前へ置く。
鉄の火箸は、飾りがない。
ただ、火を掴むための道具だった。
小一郎はそれを見た。
「兄らしい品でございます」
「ふざけておるのか」
政職が問う。
「半分は」
小一郎は素直に答えた。
「もう半分は、本気にございます」
「本気とは」
「火を好む者は多うございます。火に怯える者も多うございます。ですが、火を扱う手を考える者は、案外少ない」
小一郎は火箸へ視線を落とした。
「兄は火を好みます。火があれば人は集まる。飯も炊ける。冬も越せる。ですが、火は梁も焼く。蔵も焼く。人の腹の中まで焼くことがある」
官兵衛は、その声を聞いていた。
藤吉郎の弟が、藤吉郎の火を語る。
それは一度目の世を知る官兵衛にとって、笑えるほど正しかった。
あの猿は、火を持っていた。
人を温めた。
人を走らせた。
国を照らした。
そして、最後には多くを焦がした。
「小一郎殿は、その火を止めるのか」
政職が問うた。
小一郎は首を横に振った。
「止められませぬ」
「弟でもか」
「弟だからこそ、止められませぬ」
部屋が静かになった。
小一郎は続けた。
「止めるのではなく、火の置き場所を見るだけにございます。近くに水はあるか。燃える物を積みすぎておらぬか。風はどちらから入るか。誰が火に近づきすぎているか」
官兵衛の胸に、冷たいものが落ちた。
この男は、やはり火箸だ。
火そのものではない。
だが、火がどこへ伸びるかを見ている。
「では、羽柴殿にとって、小寺は何に見える」
政職の問いは、まっすぐだった。
以前の政職なら、この問いを避けたかもしれない。
あるいは、官兵衛へ先に目を向けたかもしれない。
今は自分で聞いた。
小一郎は少しだけ頭を下げた。
「湿った薪にございます」
河原が眉を動かした。
三宅は筆を止めた。
又兵衛の目が鋭くなる。
政職は表情を変えなかった。
「湿った薪か」
「はい」
小一郎は続ける。
「すぐには燃えませぬ。だからといって、役に立たぬわけではございませぬ。乾かし方を誤れば煙ばかり出ます。急に強い火へ投げれば、弾けます。ですが、よい場所に置けば、火を長く保ちます」
政職は黙った。
官兵衛も黙っていた。
侮りではない。
だが、甘い言葉でもない。
小寺は、すぐに火となる家ではない。
湿っている。
迷っている。
だが、使いようはある。
それを、羽柴の弟は政職の前で言った。
「では、黒田は」
政職が聞いた。
官兵衛の指が、膝の上でわずかに止まった。
政職がそれを聞くとは思っていなかった。
いや、聞くべき問いである。
だが、今の政職がそれを聞いたことが重かった。
小一郎は官兵衛を見た。
「黒田殿は」
小一郎の声は穏やかだった。
「火を見る者にございます」
「火を持つ者ではなく?」
「今は、まだ」
官兵衛は、小一郎の目を見返した。
今は、まだ。
その二文字に、針がある。
小一郎は気づいている。
官兵衛が火を持ちたい男だと。
今は小寺の火を見ている。
今は羽柴の火を測っている。
だが、いずれ自分で火を置こうとしている。
そこまで見えているのか。
それとも、そう見せてこちらを揺らしているのか。
どちらにせよ、厄介だった。
「買いかぶりにございます」
官兵衛は静かに言った。
小一郎は笑わなかった。
「兄なら、そう言う者ほど買います」
「小一郎殿は」
「私は、買った後の置き場所を考えます」
又兵衛が小さく鼻を鳴らした。
「商人の話か、火の話か、戦の話か、分からんな」
小一郎は又兵衛へ向いた。
「どれも同じかと」
「槍もか」
「槍も、置き場所を誤れば味方を突きます」
又兵衛は黙った。
気に入らぬ顔だった。
だが、言葉は腹に落ちた顔でもあった。
◇
話が途切れた時、小一郎はふと政職へ向き直った。
「小寺様。南の小門の助市殿」
助市の名が出た瞬間、官兵衛は目を細めた。
「厩の源八殿。どちらも、よい者にございます」
政職の顔に驚きが浮かんだ。
「名を覚えたか」
「はい」
「下の者の名まで」
「道は、名の高い者だけでは残りませぬ」
小一郎は、当たり前のように言った。
官兵衛は、胸の奥を冷やされた。
助市。
源八。
御着の中で見え始めた下の者の名。
官兵衛が一度目に見落としたかもしれない名。
それを、羽柴の弟が一度見ただけで拾った。
この男は、火だけではない。
火を消さずに残す薪も、火にかける鍋も、鍋を支える石も見る。
豊臣の家は、藤吉郎一人で強かったのではない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、若い身体の胸が重くなる。
「兄は、人を笑わせます」
小一郎は言った。
「私は、人の足元を見る癖がございます。笑わせる兄の足元が崩れぬように」
官兵衛は、火鉢の炭を見た。
赤い。
小さく、静かに燃えている。
藤吉郎の火は、まだ遠い。
だが、その火を支える手は、もう御着の畳の上にある。
◇
政職は小一郎を寝所へ案内させた。
案内は河原。
見張りではない。
外聞の控えを担う者として、長浜の使いの扱いを見るためである。
又兵衛は、廊下の番を確かめに行った。
三宅は文の控えを整えるために下がった。
部屋には、政職と官兵衛だけが残った。
火鉢の炭が、小さく音を立てる。
政職は、官兵衛が布へ戻した火箸を見ていた。
昼に自ら官兵衛へ預けた、羽柴からの品である。
「官兵衛」
「はっ」
「わしは、湿った薪か」
官兵衛は答えに迷った。
嘘を言えば、政職は見抜く。
本当を言いすぎれば、政職を傷つける。
だが、今の政職は傷を避けているだけの男ではなくなり始めている。
「湿っております」
官兵衛は言った。
政職は小さく笑った。
「そなたは容赦がない」
「されど、腐ってはおりませぬ」
政職の目が官兵衛へ向いた。
「腐った薪は、火に入れても役に立ちませぬ。湿った薪は、乾かせば火を保てます」
「小一郎と同じことを申すか」
「違います」
「どう違う」
「小一郎殿は、羽柴のかまどへ置く薪として見ております」
官兵衛は火箸へ目を落とした。
「私は、小寺のかまどを作り直すために見ております」
半分は真である。
もう半分は違う。
小寺のかまどを作り直しながら、いずれ中の火を黒田の手へ移す。
それはまだ言わない。
言えない。
「小寺のかまどか」
政職は呟いた。
「わしは、火を持てるか」
「持てます」
官兵衛は言った。
政職は少し驚いた顔をした。
官兵衛自身も、己の答えにわずかに驚いていた。
「ただし、火を大きくしようとしすぎれば、殿は焼けます」
「では、小さく保てと」
「いいえ」
官兵衛は顔を上げた。
「火を誰に近づけるかを、殿がお決めください」
政職は黙った。
「羽柴に近づけるのか。毛利から遠ざけるのか。別所へ見せるのか。赤松の名の下へ置くのか。いずれにせよ、殿の知らぬところで誰かが火を運べば、小寺は焼けます」
政職は長く息を吐いた。
「そなたは、わしに決めさせようとするな」
「決めていただかねば困ります」
「そして、そなたはその決め方を作る」
「はい」
政職は、苦く笑った。
「正直になったな」
「隠しきれなくなりました」
「それも怖い」
官兵衛は頭を下げた。
政職は、しばらく火鉢を見ていた。
やがて、布に包まれた火箸へ目を戻す。
「それは、しばらくそなたが預かれ」
「承っております」
「ならば、改めて命じる。返す時は、わしの前で返せ」
「承りました」
「わしが持っておれば、羽柴の火を恐れているように見える。三宅に預ければ、文に包みすぎる。河原に渡せば、東へ走りすぎる。又兵衛に持たせれば、火箸で人を殴りかねん」
官兵衛は、思わず目を伏せた。
政職が冗談を言った。
それも、家中の者を見た上で。
小さな変化だ。
だが、決して軽くない。
「そなたが持て」
「はっ」
官兵衛は布包みを自分の膝元へ引き寄せた。
鉄の重みは、布越しでも分かる。
思ったより、冷たかった。
◇
黒田の控え部屋へ戻る途中、官兵衛は廊下で新介と会った。
「殿」
「小一郎殿の寝所は」
「河原様が案内されました。又兵衛殿が廊下の番を改めております」
「よい」
新介は、官兵衛の手元を見た。
「火箸でございますか」
「預かった」
「羽柴からの品を、ですか」
「羽柴から小寺への問いだ。答えが出るまで返せぬ」
新介は黙った。
夜の廊下は冷えている。
だが、障子の向こうに月の明かりがある。
閉じた闇ではない。
「新介」
「はっ」
「小一郎殿は、助市と源八の名を覚えていた」
新介の顔が変わった。
「一度見ただけで、でございますか」
「そうだ」
「恐ろしい方ですな」
「恐ろしい」
官兵衛は素直に言った。
「藤吉郎殿は、人を笑わせて腹へ入る。小一郎殿は、人の足元を見て家へ入る」
「では、防げませぬか」
「防ぐ相手ではない」
官兵衛は火箸を見た。
「入る場所を選ばせる相手だ」
新介は分かったような、分からぬような顔をした。
「殿は、小一郎殿をどうなさるのですか」
「敵にしない」
「味方に」
「まだ、するな」
「まだ?」
「味方にしたと思った時、人は相手を見なくなる」
新介は黙った。
官兵衛は歩き出した。
火箸は冷たい。
だが、その冷たさの奥に、遠い火がある。
一度目の世で、豊臣の火は多くを照らした。
そして、多くを焦がした。
その火がまだかまどに収まっていた頃の、静かな手が今、御着に泊まっている。
官兵衛は、初めてはっきりと思った。
羽柴藤吉郎だけを相手にしてはならぬ。
羽柴家を相手にせねばならぬ。
◇
その夜、官兵衛はなかなか眠らなかった。
火箸を布に包み、文箱の横へ置く。
だが、札はつけなかった。
火箸。
それだけで十分だった。
新介が灯を小さくする。
「殿、少しはお休みを」
「眠る」
そう言いながら、官兵衛は火箸を見ていた。
誰が火を扱うか。
羽柴が問うた。
政職が官兵衛へ預けた。
小一郎が助市と源八の名を覚えた。
それだけで、御着の夜は昼より騒がしかった。
外では虫が鳴いている。
遠くで、番の足音が一つ聞こえた。
走っていない。
ゆっくりと、持ち場を確かめる足音だった。
官兵衛は、それを聞きながら目を閉じた。
火を扱う手。
水桶を覚える目。
走る者。
残る者。
紙を書く者。
槍を持つ者。
飯を温める者。
門の低さを知る者。
それらを持たぬ家は、火を扱えない。
ならば、黒田も持たねばならない。
小寺の中に作るだけでは足りない。
黒田の中にも。
官兵衛は、薄く息を吐いた。
「猿は、よい弟を持った」
誰にも聞こえぬ声だった。
「ならば、わしも、持つ」
何を。
誰を。
まだ名はない。
だが、その夜、官兵衛の中で一つの考えが形を取り始めた。
天下を盗る者に必要なのは、己の才だけではない。
己の火を、火事にせぬ者たちである。
御着の城は、まだ小寺政職の城である。
だが、羽柴小一郎が泊まったその夜、官兵衛は初めて、黒田という家の中に何を育てねばならぬかを見た。




