第20話 預けぬ子、空けぬ城
翌朝、小一郎は御着を発つことになった。
空は薄く曇っていた。
雨になるほどではない。
だが、陽は強くない。
門前には、長浜から来た者たちの馬が並んでいる。
荷は少ない。
来た時と同じで、余計な飾りはなかった。
小一郎は政職へ丁寧に礼を述べた。
「一宿の御厚情、兄へ必ず伝えます」
「羽柴殿にも、よろしく伝えよ」
政職の声は硬すぎず、柔らかすぎなかった。
一晩の間に、ずいぶん考えた顔である。
官兵衛は少し後ろに控えていた。
火箸は、御着の黒田控え部屋に置いてある。
だが、その冷たさはまだ掌に残っていた。
小一郎は政職へ礼を終えると、官兵衛へ向き直った。
「黒田殿」
「はい」
「よい城を見せていただきました」
「まだ、よい城ではございませぬ」
「では、よくなろうとしている城を」
小一郎は、軽く言い直した。
その言い方に、官兵衛はわずかに目を細めた。
余計な角を立てない。
だが、見たものは曲げない。
やはり厄介な男である。
「羽柴殿には、何と」
官兵衛が問う。
「そのままに」
「それが一番、怖うございますな」
「兄には、飾った話より、そのままの方がよく燃えます」
小一郎は、少しだけ笑った。
火の話はもう十分だ。
官兵衛はそう思った。
だが、小一郎の言葉は、その火から離れない。
羽柴藤吉郎という男から離れない。
「もう一つ」
小一郎が言った。
「黒田殿の御嫡子、松寿丸様は御息災でしょうか」
官兵衛の中で、何かが凍った。
門前の風が、急に冷たくなる。
馬の鼻息。
下男の足音。
政職の衣擦れ。
すべてが遠くなった。
松寿丸。
その名を、羽柴の弟が口にした。
一度目の世で、官兵衛は松寿丸を守れなかった。
死なせなかったのではない。
守ったのではない。
他人の義に、他人の危うい判断に、我が子の命を預けた。
その悔いが、骨の内側を噛む。
官兵衛は、一息だけ置いた。
一息置けた。
それだけでも、若い身体を褒めてよいかもしれない。
「姫路にて息災にございます」
声は崩れなかった。
小一郎は深く頷いた。
「それは何より」
「なぜ、お尋ねに」
「黒田殿は、家を見ておられます。家を見る方が、子をどう育てておられるのか。少し、気になりました」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
子は、家の芯だ。
芯を見れば、家の先が見える。
小一郎はそれを知っている。
「姫路へ立ち寄られるおつもりで?」
官兵衛が問う。
「許されるならば」
「許しませぬ」
場の空気がわずかに張った。
河原が息を呑む。
三宅が筆を持っていれば、止めただろう。
又兵衛が、門のそばで小さく眉を動かした。
小一郎は怒らなかった。
むしろ、丁寧に頭を下げた。
「失礼を申しました」
「子は、見せ物ではございませぬ」
「その通りにございます」
その受け方が、また厄介だった。
官兵衛の棘を、棘のまま受け、こちらを悪者にしない。
「兄へは、黒田殿の御子は姫路にて大切に育てられているとだけ伝えます」
「だけ、にございますか」
「はい。だけに」
小一郎は頭を下げた。
それから馬に乗った。
長浜の一行は、静かに御着を出ていった。
派手な別れではない。
だが、残ったものは大きかった。
松寿丸の名が、長浜へ運ばれる。
それは避けられない。
だが、松寿丸そのものは見せなかった。
名だけと、姿では違う。
官兵衛は、遠ざかる馬の背を見送りながら、拳を握った。
預けぬ。
見せ物にもせぬ。
だが、隠し腐らせもしない。
子もまた、家の中で育てねばならない。
◇
小一郎が去った後、政職は官兵衛を小部屋へ呼んだ。
昨夜、火箸を預けた部屋である。
障子は開いている。
朝の風が入っていた。
「官兵衛」
「はっ」
「今日は姫路へ戻れ」
官兵衛は顔を上げた。
「姫路へ、でございますか」
「そなた、わしの前に詰める日が増えた」
「忠節を示すためにございます」
「分かっておる」
政職は短く言った。
「だが、そなたは姫路の城主でもある。松寿丸の代わりに自分が詰めると申したからといって、姫路を空にせよとは申しておらぬ」
官兵衛は黙った。
政職の言葉は正しい。
あまりに正しい。
その正しさが、少し痛かった。
「御着の文、蔵、寺、厩、人、番、外聞」
政職は指を折るように言った。
「それらをそなたの目の前に通す形にはした。だが、姫路の目が曇れば、黒田が揺れる。黒田が揺れれば、小寺も揺れる」
「仰せの通りにございます」
「御着へは来い。必要な時には、わしの前に詰めよ」
政職は官兵衛を見た。
「だが、姫路を空け続けるな。黒田が揺れれば、小寺も揺れる」
官兵衛は頭を下げた。
「はっ」
この男は、器にあらず。
そう見切ったはずだった。
今も、天下を担う器とは思わない。
だが、見えていなかったものを見始めている。
官兵衛が御着に足を置きすぎていることまで、見た。
それは、ただ操るには少し厄介な変化だった。
「火箸は持っていけ」
政職が言った。
「よろしいので」
「預けたのだ。持って戻り、黒田の家で見よ」
「黒田の家で」
「羽柴は、家で来た」
政職の声は低かった。
「小一郎を見て、そう思った。ならば、黒田も家で受けねばならぬのだろう」
官兵衛は、深く頭を下げた。
「承りました」
◇
御着を出て姫路へ向かう道は、遠国へ赴くほどのものではない。
だが、城と城の間には距離がある。
馬を進めればすぐ届くように思えても、その間には田があり、川筋があり、村があり、荷を運ぶ者がいる。
御着で見た乱れが、姫路に届かぬとは限らない。
姫路で生じた穴が、御着に響かぬとも限らない。
官兵衛は馬上で、その道を見ていた。
新介が後ろに続く。
ほかに数人。
多くは連れない。
御着へ黒田の兵を大きく動かしたと思われても困る。
姫路へ戻るにも、見せ方が要る。
馬の蹄が湿った土を叩く。
道の脇で、百姓が頭を下げた。
荷を曳く男が、少し横へ避ける。
官兵衛はその荷を見た。
米ではない。
薪である。
細い薪。
城へ入るものか、町へ売るものか。
薪一束にも、道がある。
水があり、人がいる。
それを見落とせば、城は寒くなる。
寒くなった城では、人の心も固くなる。
「殿」
新介が馬を寄せた。
「御着には、どれほどの間隔で詰められますか」
「評定の日。羽柴や毛利に関わる文が入った日。政職様が呼ばれた日」
「それ以外は姫路に」
「戻る」
「御着の改めは」
「又兵衛殿、河原殿、三宅殿、それぞれに任せる」
新介は少し驚いた顔をした。
「任せるのでございますか」
「任せねば、私がいない時に止まる」
「止まれば困ります」
「だから任せる」
官兵衛は前を見た。
「握ることと、抱え込むことは違う」
新介は黙った。
その言葉は、官兵衛自身へ向けたものでもあった。
松寿丸も。
姫路も。
御着も。
抱え込めば、手が塞がる。
手が塞がれば、火箸も持てない。
◇
姫路へ戻ると、城の空気が違った。
御着の湿った緊張ではない。
黒田の家の匂いがある。
古い柱。
使い慣れた廊下。
門番の声。
台所から漂う飯の匂い。
それらが、官兵衛の胸に奇妙な痛みを生んだ。
ここを空けすぎていた。
そのことを、足が先に知った。
父・職隆は、奥の間で官兵衛を待っていた。
年を重ねた顔である。
だが、目はまだ鋭い。
「戻ったか」
「はっ」
「御着はどうだ」
「湿っております」
職隆は眉を上げた。
「家を薪で見るようになったか」
「羽柴の弟に言われました」
「小一郎か」
職隆は名を噛むように言った。
「藤吉郎だけでなく、弟も来たか。ならば、羽柴は本気で見ておるな」
「はい」
「で、姫路は見えておるか」
官兵衛は沈黙した。
職隆は、そこで少し笑った。
「その顔なら、見えておらなんだな」
「返す言葉もございませぬ」
「御着へ詰めるのはよい。主君のそばで目を置くのもよい。だが、姫路を空けた城主は、城主とは呼ばれぬ」
「承知いたしました」
「承知した顔ではない。痛いところを突かれた顔だ」
官兵衛は頭を下げた。
父は、ありがたい。
そして厄介だ。
一度目の自分は、父の厄介さにどれほど助けられていたのか。
それすら、忘れていたのかもしれない。
「城のことは、久野が控えておる」
職隆は言った。
「蔵の米、井戸の手入れ、門の番、町からの願い、港荷の噂。溜まっておるぞ」
「すぐ見ます」
「その前に、家を見よ」
「家を?」
「光と松寿丸だ」
職隆の声が少し低くなった。
「小一郎が、松寿丸の名を出したと聞いた」
官兵衛は目を上げる。
「もう届いておりますか」
「姫路にも耳はある」
職隆は言った。
「御着にばかり耳を置くな。ここにも耳を置け」
「はっ」
◇
光は、奥の部屋にいた。
松寿丸は庭に面したところで、小さな木の馬を手にしている。
官兵衛を見ると、ぱっと顔を上げた。
「父上」
その声だけで、官兵衛の胸の奥が痛んだ。
痛みは、生きている証でもある。
松寿丸は駆け寄ろうとして、途中で止まった。
乳母が言い聞かせているのだろう。
廊下では走らぬ。
客がいる時は、呼ばれるまで近づかぬ。
幼いなりに覚えている。
官兵衛は膝をつき、目の高さを近づけた。
「息災だったか」
「はい」
「馬を見たか」
「作兵衛が見せてくれました」
官兵衛は少し目を瞬いた。
「作兵衛を覚えているのか」
「はい。馬の鼻を触らせてくれました」
作兵衛は姫路の厩番である。
上から見れば、ただの厩番。
だが、子の世界では馬を見せてくれた者だった。
子は、こちらが思うより人の顔を見ている。
政略の名ではなく、実際に馬を見せてくれた者の顔を。
光が静かに言った。
「殿」
「何だ」
「御着で、松寿丸の名が出たと聞きました」
「ああ」
「怖い顔をしておいでだったのでしょう」
官兵衛は否定しなかった。
「おそらく」
「やはり」
光は小さく息を吐いた。
「松寿丸」
「はい、母上」
「乳母と庭へ」
「父上は?」
「すぐ来られます」
松寿丸は少し不満そうにしたが、木の馬を抱え、乳母と庭へ向かった。
その背を見送ってから、光は官兵衛へ向き直った。
「殿は、松寿丸を守ろうとしておられる」
「ああ」
「それは分かります」
光の声は静かだった。
「けれど、守ろうとするあまり、松寿丸を見る目が、敵を見る目になっております」
官兵衛は黙った。
「敵を見ているつもりだった」
「だからです」
光は言った。
「敵を見る目のまま子を見れば、子はいつか、父の目を怖がります」
胸を突かれた。
敵を見る。
道を見る。
火を見る。
穴を見る。
名を見る。
それは必要だ。
だが、松寿丸を見る時まで、その目で見ればどうなる。
子は、危険物ではない。
隠すべき荷でもない。
「子を、他家の手札にされたくない」
「手札ではありません」
光の声は、少しだけ強くなった。
「松寿丸は、子です」
官兵衛は目を伏せた。
「分かっている」
「いいえ。殿は分かっておられる。けれど、時々忘れておいでです」
庭で、松寿丸が笑った。
木の馬を石にぶつけた音がする。
官兵衛は、その音を聞いた。
牢の闇にはなかった音だ。
「殿は、松寿丸をどこにも預けぬとお考えなのでしょう」
「ああ」
「それは、よいことです」
光は言った。
「けれど、殿お一人で抱えるのも、預けるのと同じです」
官兵衛の目が動いた。
「同じ?」
「殿の手が離れた時、誰も抱けなくなります」
部屋が静かになった。
官兵衛は、何も言えなかった。
光は庭へ目を向けた。
「子は、母の手にも、乳母の手にも、家臣の目にも、祖の言葉にも、少しずつ育てられます。殿お一人で守るなら、殿が倒れた時に終わります」
倒れる。
その言葉で、有岡の闇が一瞬よぎった。
石。
湿り。
閉じた空気。
自分の足が動かぬ日々。
その時、松寿丸はどこにいた。
誰の手にいた。
誰の言葉で生かされた。
官兵衛は、息を吸った。
障子は開いている。
ここは牢ではない。
ここは姫路だ。
黒田の家だ。
「では、どうせよと」
光は少し笑った。
「それを考えるのが、殿のお役目では?」
官兵衛は苦く笑いそうになった。
まことに、妻は時々、どの軍師よりも厳しい。
◇
その日の午後、官兵衛は姫路の黒田家臣を集めた。
大勢ではない。
新介。
喜三右衛門。
古参の久野。
留守を見ていた者。
蔵を見ていた者。
松寿丸の近くに出入りする乳母と、奥向きの女中頭も呼んだ。
武だけではない。
文だけでもない。
子のそばにいる者を集めた。
新介は少し戸惑っている。
喜三右衛門は商いの話ではないと見て、口を閉じている。
久野は眉をひそめた。
「殿。これは、何の集まりにございますか」
「松寿丸のことだ」
空気が変わった。
皆、姿勢を正す。
官兵衛は言った。
「今後、私の名を使っても、文だけで松寿丸を外へ出すな」
新介の顔が強張る。
乳母が小さく息を呑む。
「殿の花押があってもか」
久野が問う。
「文だけならば、だ」
「では、何が要ります」
「顔と声だ」
官兵衛は一人ずつ見た。
「光が知ること。乳母が知ること。近くの者が知ること。そして松寿丸自身が、誰に連れられるかを知ること」
女中頭が恐る恐る言った。
「若様ご自身が、でございますか」
「そうだ」
「まだ幼うございます」
「幼いから覚えさせる」
官兵衛の声は冷たくなりかけた。
だが、光の言葉を思い出し、少しだけ抑えた。
「脅して覚えさせるのではない。遊びの中でよい。誰が迎えに来た時に動いてよいか。誰の言葉なら母に聞くか。それを、暮らしの中で覚えさせる」
喜三右衛門が頷いた。
「商いでも、顔を知らぬ手形は危うございます」
「同じだ」
久野は腕を組んだ。
「殿の御命でも、文だけでは動かさぬ。これは、家中に強く触れれば、殿が疑われておるように聞こえますぞ」
「触れ回らぬ」
「では」
「松寿丸の周りにいる者だけが覚えればよい」
新介が口を開いた。
「殿。もし本当に殿の御急命であれば」
「その時こそ、光へ知らせよ」
「間に合わぬ時は」
官兵衛は新介を見た。
「間に合わぬほど急ぐ者に、我が子を預けぬ」
部屋は静まった。
それは理屈ではない。
誓いだった。
久野が、深く息を吐いた。
「殿は、何を恐れておられる」
官兵衛は答えなかった。
久野は古参である。
官兵衛の若い頃を知っている。
最近の官兵衛が、時々若くない顔をすることにも気づいている。
だが、ここで言えることはない。
「恐れている」
官兵衛は、それだけ言った。
「恐れているから、備える」
久野はしばらく官兵衛を見た。
やがて、低く言った。
「ならば、備えましょう」
その声には、古参の重みがあった。
新介も頭を下げた。
喜三右衛門も続いた。
乳母と女中頭も、慌てて頭を下げる。
官兵衛は彼らを見た。
これだ。
小一郎を見て思ったこと。
黒田にも要る。
火を扱う者だけではない。
火が大きくなりすぎぬよう、水桶の場所を覚える者。
走る者。
残る者。
子の笑い声を、政略の音に変えさせぬ者。
それらが家になる。
◇
夕刻、官兵衛は姫路の仕事に向かった。
蔵の米。
井戸の手入れ。
門の番。
町からの願い。
港荷の噂。
職隆の言った通り、溜まっていた。
御着のことばかり見ていれば、姫路の穴は見えなくなる。
官兵衛は一つずつ聞いた。
米俵の数が帳と合わぬという話。
井戸の縄が傷んでいるという話。
町の鍛冶が炭を欲しがっている話。
港から入る塩の一部が、御着へ回る前に値を上げられているという話。
小さい。
どれも小さい。
だが、小さい穴から城は冷える。
官兵衛は、久野へ言った。
「姫路の控えを、御着の控えと別に作る」
久野が眉を動かす。
「また紙でございますか」
「違う」
官兵衛は首を振った。
「姫路を見る目を戻す」
久野はしばらく官兵衛を見て、頷いた。
「ならば、私が出します」
「頼む」
頼む。
その一言に、久野が少し驚いた顔をした。
官兵衛も、自分で少し驚いた。
任せねばならない。
頼まねばならない。
そうでなければ、家にはならぬ。
◇
夜、官兵衛は黒田の部屋へ戻った。
文箱の横には、火箸がある。
布に包まれている。
だが、今日はそれを見ても、昨日ほど胸は冷えなかった。
代わりに、松寿丸の声が耳に残っている。
作兵衛が見せてくれました。
上から見れば、ただの厩番。
だが、子の世界では、馬を見せてくれた者である。
そういう名が、家を支える。
官兵衛は筆を取った。
書くのは定めではない。
命令でもない。
ただ、黒田の中で誰が何を見ているか。
新介は、走る。
久野は、古い顔と留守を見る。
喜三右衛門は、荷と腹を見る。
職隆は、家の背を見る。
光は、子を見る。
乳母は、泣き声を知る。
作兵衛は、馬と子の目を知る。
ひとつひとつ、名を書いた。
それは人を縛る紙ではなかった。
忘れぬための紙だった。
官兵衛は、筆を置いた。
「わし一人では、家にならぬ」
小さな声だった。
一度目の自分は、才を信じすぎた。
策を信じすぎた。
人を使いながら、人の顔をどこまで見ていたか。
分からない。
だから、今度は見る。
使うためだけではない。
奪われぬためだけでもない。
育てるために。
御着の城は、まだ小寺政職の城である。
姫路の城は、黒田の城である。
そのどちらかを空ければ、官兵衛の道は片足になる。
羽柴小一郎が去ったその日、黒田官兵衛は初めて、御着へ詰めるだけでは天下を盗れぬことを知った。
天下を盗る前に、空けてはならぬ城がある。
守るべき子がいる。
育てるべき家がある。




