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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第21話 冷えた鍛冶場

 姫路へ戻った翌朝、官兵衛は城下へ下りた。


 大きな供は連れない。


 新介と、古参の久野。


 それに、町筋を知る喜三右衛門だけである。


 姫路の城は、黒田の城である。


 だが、城は石と堀だけで立つものではない。


 門の外に飯を炊く家があり、薪を割る者がいて、井戸へ水を汲む女がいて、炭を焼く者がいる。


 そこが冷えれば、城も冷える。


 昨夜、官兵衛はようやくそのことを思い出した。


 いや、思い出したのではない。


 見ていなかったものを、見ざるを得なくなった。


「殿」


 久野が横で言った。


「町へ出られるなら、先に申し付けてくだされば」


「先に触れれば、整えられる」


「整えられては困りますか」


「困る」


 官兵衛は短く答えた。


「見たいのは、整えた顔ではない」


 久野は眉をひそめたが、それ以上は言わなかった。


 喜三右衛門は、少しだけ笑った。


 商人は、整えた顔と素の顔を使い分ける。


 だからこそ、今の言葉の意味が分かるのだろう。


     ◇


 最初に向かったのは、町の鍛冶場だった。


 城の槍や鎌、鍬の直しも受ける小さな鍛冶である。


 主は源蔵という。


 腕は悪くない。


 だが、顔色が悪かった。


 炉の火が、いつもより弱い。


 炭の匂いも薄かった。


「源蔵」


 官兵衛が声をかけると、源蔵は慌てて膝をついた。


「殿」


「火が弱い」


 源蔵は顔を伏せた。


「炭が入りませぬ」


「炭が?」


「はい。山から来る炭が、先に高く買われてしまいます」


「誰に」


 源蔵は口をつぐんだ。


 官兵衛は、炉の中を見た。


 赤い炭が少ない。


 火が弱ければ、鉄は思うように曲がらない。


 鉄が曲がらねば、刃は立たない。


 刃が立たねば、兵の手が鈍る。


 鍬が直らねば、田も鈍る。


 小さな鍛冶場の冷えは、戦と飯の両方へ伸びる。


「誰に買われた」


 官兵衛はもう一度問う。


 源蔵は、諦めたように言った。


「黒田様の御用、と」


 新介の顔が変わった。


 久野も眉を動かした。


 官兵衛は静かに問う。


「誰がそう言った」


「町の炭問屋にございます。御着へも姫路へも、これからは黒田様が大きく使われる。先に押さえねば、後で足りぬと」


「私は命じていない」


「承知しております」


 源蔵は低く言った。


「ですが、問屋はそう申します。黒田様が御着に詰められてから、荷の行き先が変わった、と」


 官兵衛は黙った。


 痛いところを突かれた。


 御着へ目を置いた。


 そのために、姫路の町では「黒田が荷を吸い上げる」と見られている。


 命じていなくとも、そう見えれば同じだ。


 見え方もまた、道を動かす。


「塩は」


 喜三右衛門が問うた。


 源蔵は顔を上げた。


「塩も高うなっております。鍛冶には直接多くは使いませぬが、職人の飯に響きます。飯が薄ければ、槌も鈍ります」


 源蔵はそう言うと、炉の脇から小さな木札を取り出した。


「先日、炭荷についておりました」


 久野が受け取る。


 札には、墨で大きく書かれていた。


 黒田御用。


 だが、字が悪い。


 黒田家で使う札とは違う。


 花押もない。


 ただ、名だけで人を動かそうとする札だった。


 官兵衛は、その木札を見た。


 冷えた炉。


 薄い炭。


 黒田の名。


 それらが一本の線でつながる。


「久野」


「はっ」


「預かれ」


 久野は木札を懐へ入れた。


 官兵衛は、炉の火を見続けた。


 冷えた火。


 弱い鉄。


 握るべきは、文だけではない。


 炭も、塩も、飯も。


 それを怠れば、家は内から冷える。


     ◇


 次に向かったのは、町端の炭問屋だった。


 名を庄右衛門という。


 太った男ではない。


 むしろ細い。


 細いが、目だけは油を含んだようによく動く。


 官兵衛が入ると、庄右衛門は深く頭を下げた。


「これは殿。むさき所へ」


「炭が町へ回っていない」


「山の出が悪うございます」


「山の出が悪いのか、町へ下ろす前に留めているのか」


 庄右衛門の背が、わずかに固くなった。


「何のことで」


「黒田の御用と言ったか」


「滅相もございませぬ」


 官兵衛は久野へ目を向けた。


 久野が、鍛冶場で預かった木札を出す。


 黒田御用。


 その四文字が、庄右衛門の前に置かれた。


「これは何だ」


 庄右衛門は汗を浮かべた。


「町の者が勝手に」


「誰が」


「それは」


 官兵衛は札を火へ入れなかった。


 燃やせば、終わる。


 終わらせてはならない。


 名を使われたという事実を、残す必要がある。


「庄右衛門」


「はっ」


「私は、炭を買うなとは言わぬ」


 庄右衛門は、意外そうに顔を上げた。


「炭は要る。城にも、鍛冶にも、町にも要る。山から来る者にも銭は要る。商いを止めれば、道が痩せる」


「は、はい」


「だが、黒田の名を勝手に使うな」


 声は荒くない。


 だが、庄右衛門の肩が沈んだ。


「名は、荷より重い」


 官兵衛は札を指で押さえた。


「この札一枚で、鍛冶場の火が弱くなった。鍛冶場の火が弱くなれば、槍も鍬も鈍る。そなたは炭を留めたのではない。姫路の手を鈍らせた」


 庄右衛門は頭を畳へつけた。


「申し訳ございませぬ」


「謝るだけなら犬でもできる」


 官兵衛の声が少し冷えた。


「戻せ」


「は?」


「留めている炭を、町へ戻せ。城へ入れる分、鍛冶へ回す分、町へ売る分を分ける。値は、昨日までの値に戻せとは言わぬ。だが、黒田の名で釣り上げた分は落とせ」


「損が」


「出るな」


 庄右衛門は黙った。


「損を惜しむなら、黒田の名を使う前に惜しめ」


 喜三右衛門が横で口を開いた。


「殿。山の者へ払う銭も要りましょう。急に落とせば、山が怒ります」


「分かっている」


 官兵衛は頷いた。


「城が買う分は、正しく買う。山の者に払う銭は削らぬ。だが、名を使って余分に乗せた分は庄右衛門が呑め」


 庄右衛門の顔が青くなる。


 だが、反論はできなかった。


 官兵衛は続けた。


「今後、黒田の御用を名乗る荷には、久野か喜三右衛門の目を通す。札だけでは通さぬ」


 久野が官兵衛を見る。


 また仕組みか。


 そう言いたげな顔だった。


 官兵衛は先に言った。


「紙を増やすのではない。名を軽くさせぬだけだ」


 久野は少しだけ目を伏せた。


「承知」


     ◇


 炭問屋を出ると、今度は塩の話が待っていた。


 飾磨から入る塩の一部が、姫路の町を通る前に値を上げられている。


 御着へ回る荷が増えると見た商人たちが、先に塩を抱えたのだという。


 塩は飯の味だけではない。


 兵の汗に要る。


 馬にも要る。


 魚を保たせるにも要る。


 塩が滞れば、台所から不満が出る。


 不満は、腹から出る。


 腹から出た不満は、文より早く広がる。


 塩を扱う商人は、灘屋仁助といった。


 庄右衛門よりも年かさで、腹の座った男である。


 官兵衛が会うと、仁助は逃げなかった。


「殿。塩は値が上がります」


 開口一番、そう言った。


「なぜだ」


「皆が、上がると思うからです」


 喜三右衛門が苦く笑った。


「仁助、正直すぎる」


「嘘を申しても、殿には見抜かれましょう」


 仁助は官兵衛へ向いた。


「御着が動く。羽柴の使いが来る。毛利の噂もある。港荷は荒れる。ならば塩は上がる。そう思った者が買う。買う者が増えれば、上がる。商いは、そういうものでございます」


「黒田の名は使ったか」


「使っておりませぬ」


「小寺の名は」


「それは、使う者もおります」


「そなたは」


「匂わせました」


 新介が一歩出かけた。


 官兵衛が手で制す。


「匂わせたか」


「はい」


 仁助は頭を下げない。


 だが、逃げてもいない。


「御着へ回るかもしれぬ。黒田様が港荷を見るかもしれぬ。羽柴が道を尋ねるかもしれぬ。私は、かもしれぬで塩を抱えました」


「それで町の塩が細った」


「はい」


「悪いと思うか」


「商いとしては、悪くございませぬ」


 久野の目が鋭くなった。


 仁助は続けた。


「ですが、城下に住む者としては、悪うございます」


 官兵衛は仁助を見た。


 この男は、ただ罰すれば済む相手ではない。


 商いの腹を持ち、町の腹も少し持っている。


 ならば、使える。


「仁助」


「はい」


「塩を全部出せとは言わぬ」


 仁助の目が動いた。


「抱えた塩のうち、三つに分けよ。城へ売る分。町へ流す分。御着へ回すかもしれぬ分」


「かもしれぬ分まで残すのですか」


「残す。残さねば、そなたは隠す」


 仁助は、初めて少し笑った。


「恐ろしい御方だ」


「隠される方が面倒だ」


 官兵衛は続けた。


「町へ流す分は、急に値を跳ねさせるな。城へ売る分は、相場より少しだけ安くする。その代わり、御着へ回す分は私が必要な時に正しく買う」


「損得は」


「そなたが損だけする形にはしない」


 仁助は官兵衛を見た。


「なぜでございます」


「損だけさせれば、次は隠すからだ」


 仁助は黙った。


「商人を殴れば、荷は地下へ潜る。荷が地下へ潜れば、塩はもっと高くなる。私はそれを望まぬ」


 喜三右衛門が、ゆっくり頷いた。


 仁助も、ようやく頭を下げた。


「承知いたしました」


「ただし」


 官兵衛の声が冷えた。


「黒田や小寺の名を匂わせて、町の腹を絞るな。次は、商いではなく敵の働きと見る」


 仁助の背が低くなる。


「肝に銘じます」


     ◇


 城へ戻る途中、新介は黙っていた。


 だが、顔に疑問が出ている。


 官兵衛は歩きながら言った。


「聞きたいなら聞け」


「はっ」


 新介は少し迷い、言った。


「庄右衛門は強く叱られました。仁助は、叱られながらも使われました」


「違いが分からぬか」


「少し」


「庄右衛門は名を偽った。仁助は相場を読んだ」


「どちらも町を困らせました」


「そうだ」


 官兵衛は頷いた。


「だが、同じ困らせ方ではない。名を偽る者を許せば、黒田の名が腐る。相場を読む者を斬れば、荷の道が痩せる」


 新介は黙って聞いている。


「敵にも種類がある。敵でない厄介者にも種類がある。ひとまとめに叩く者は、最後に自分の手を折る」


「では、仁助は味方に」


「まだだ」


 官兵衛は即座に言った。


「味方と思うな。荷を持つ者と思え」


 新介は、昨日と似た言葉を聞いた顔をした。


 小一郎も、味方と思うな。


 仁助も、味方と思うな。


 だが、敵にもするな。


 その間に、道がある。


「殿は、人を信用されませぬな」


 新介がぽつりと言った。


 久野がぎょっとした顔をする。


 喜三右衛門も横目で新介を見た。


 官兵衛は怒らなかった。


「信用したい者ほど、形を作る」


「形を?」


「信じるだけなら、裏切られた時に憎むしかない。形を作れば、裏切る前に気づけることもある」


 新介は黙った。


 官兵衛は前を見た。


 一度目の自分は、どれほど信じた。


 どれほど疑った。


 どれほど、その二つを間違えた。


 思い出すたび、胸の奥が乾く。


「人を信用せぬのではない」


 官兵衛は低く言った。


「信用だけに、命を預けぬ」


     ◇


 姫路城へ戻ると、職隆が待っていた。


 報告はすでに半分届いているようだった。


「炭と塩か」


「はい」


「小さいようで、大きい」


「見落としておりました」


 官兵衛は素直に言った。


 職隆は少しだけ目を細める。


「御着の火箸を持ち帰ったら、姫路の火が弱っていたわけだ」


「笑えませぬ」


「笑うところではない」


 職隆は言った。


「だが、気づいたならよい」


「遅うございます」


「遅いと知る者は、まだ間に合う」


 官兵衛は頭を下げた。


 父の言葉は、時々こちらの傷口を撫でるようで、同時に押す。


 痛い。


 だが、必要だった。


「炭問屋は」


「黒田の名を勝手に使いました。余分に乗せた分は呑ませます」


「塩商人は」


「町、城、御着へ回す分を分けさせます。隠させぬためです」


 職隆は頷いた。


「よい。商人は、締めるだけでは逃げる」


「はい」


「ただし、甘く見られるな」


「承知しております」


「承知では足りぬ。見せよ」


 官兵衛は顔を上げた。


「何を」


「黒田の名を勝手に使えば損をする。だが、正しく通せば商いになる。それを町へ見せよ」


 官兵衛は、父の顔を見た。


 家を背で見る男。


 昨夜、自分がそう書いた通りだった。


 職隆は、城下の腹を知っている。


 ただ罰するだけでは、家は痩せる。


 ただ許すだけでは、家は舐められる。


 その間を、父は見ている。


「御意」


 官兵衛は言った。


「明日、鍛冶場の火を戻します」


     ◇


 翌日、鍛冶場の炉は昨日より赤かった。


 炭が届いたのである。


 多すぎはしない。


 だが、足りる。


 源蔵は、鉄を火に入れていた。


 槌の音が戻る。


 かん。


 かん。


 かん。


 その音を聞いて、官兵衛は足を止めた。


 城の太鼓とは違う。


 戦の陣鉦とも違う。


 だが、この音もまた、城を守る音だった。


 源蔵が汗を拭い、頭を下げる。


「火が戻りました」


「よい」


「これで、鍬も直せます。槍も」


「まずは鍬から直せ」


 源蔵が驚いた顔をした。


「槍ではなく」


「田が鈍れば、兵も鈍る」


 源蔵は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 新介が横で官兵衛を見ている。


 何かを学んでいる顔だった。


 官兵衛は炉の火を見た。


 火箸の冷たさを思い出す。


 火は、大きければよいものではない。


 弱ければ、鉄を曲げられない。


 強すぎれば、焼き損じる。


 それを扱う手が要る。


 姫路の鍛冶場は、その手の一つだった。


     ◇


 夜、官兵衛は黒田の部屋で火箸を見た。


 御着から持ち帰った羽柴の品である。


 その横に、炭荷についていた偽りの札を置いた。


 黒田御用。


 火箸と札。


 どちらも、名と火に関わるものだった。


 新介がそれを見ている。


「殿、その札は残されるのですか」


「残す」


「なぜ」


「黒田の名は、軽くなれば荷を動かされる」


 官兵衛は札へ指を置いた。


「名を守らねば、城は守れぬ」


「名も、城の一部にございますか」


「そうだ」


 新介は静かに頷いた。


 官兵衛は筆を取った。


 今日見た名を書いた。


 源蔵。


 庄右衛門。


 灘屋仁助。


 作兵衛。


 久野。


 喜三右衛門。


 職隆。


 光。


 松寿丸。


 名が並ぶ。


 人が並ぶ。


 荷が動く。


 火が戻る。


 それらは、策というには小さい。


 天下というには遠い。


 だが、小さい火を見落とす者に、大きな火は扱えない。


 官兵衛は、そう思った。


 一度目の自分は、大きな火ばかりを見た。


 信長の火。


 秀吉の火。


 家康の、火に見えぬ湿った熱。


 その前で、自分は何を見落とした。


 城下の鍛冶場か。


 子の知る厩番か。


 商人が匂わせる一言か。


 名のない者の腹か。


 今度は、拾う。


 拾いながら、使う。


 使いながら、育てる。


 官兵衛は低く呟いた。


「姫路の火を冷やして、天下など盗れぬ」


 御着の城は、まだ小寺政職の城である。


 姫路の城は、黒田の城である。


 そしてその城は、炉の火と塩の味と、名を軽くせぬことの上に立っている。


 その日、官兵衛はようやく、己の足元にある火を見た。



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