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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第8話 猿の文

 長篠で、武田が退いた。


 その報が御着へ入ったのは、松寿丸を奥へ置けという話を官兵衛が退けた翌日のことであった。


 三河長篠。


 播磨から見れば遠い。


 遠いが、遠すぎるとは言えない。


 戦の勝敗は、道を走る。


 道を走った噂は、港へ落ちる。


 港へ落ちた噂は、米と塩の値を変える。


 朝のうちに、飾磨津の米問屋が値を上げた。


 昼前には、室津の塩荷を押さえようとしていた者が、急に買いを控えた。


 夕刻を待たず、英賀の町衆から小寺家へ、いつになく丁寧な挨拶の使いが来た。


 織田が勝った。


 それだけで、播磨の腹が動いた。


     ◇


「武田が負けた、でございますか」


 井手新介は、信じきれぬ顔をした。


 黒田の控え部屋には、朝から人の出入りが絶えない。


 文箱は三つ。


 港荷の控えが二束。


 寺社を介した口上の書付が数枚。


 そこへ、長篠の報が重なった。


 吉田喜三右衛門は、港から戻ったばかりであった。


「負けたというより、押し返された、という言い方をする者もおります」


「それは、どちらなのですか」


 新介が問う。


 喜三右衛門は肩をすくめた。


「商人の口では、勝ちも負けも荷の値次第で変わります」


 官兵衛は黙って聞いていた。


 長篠。


 一度目の世でも知っている。


 織田と徳川が、武田を退けた。


 そこから時代の重さが、東へ傾いた。


 だが、今ここで大事なのは、戦の細かな形ではない。


 播磨の者が、どう受け取ったかである。


「室津の塩荷は」


 官兵衛が問う。


 喜三右衛門はすぐ答えた。


「止まりました」


「誰が止めた」


「買い手です。西へ流すつもりだった者が、いったん様子を見ると」


「毛利か浦上か」


「そこはまだ。ただ、昨日まで急いでおりました。今朝になって、急に鈍った」


 官兵衛は頷いた。


 織田勝利の報で、塩の流れが止まる。


 それは西が怯えたというより、播磨が迷い直した証だった。


 迷う者は、荷を止める。


 荷を止めれば、人も止まる。


 人が止まれば、噂だけが先へ行く。


「喜三右衛門」


「はっ」


「止まった塩荷を、黒田で一部押さえろ」


 新介が驚いた。


「買うのですか」


「買い占めるな。一部でよい。値を吊り上げるためではない。札をつける」


「札?」


「黒田が払った塩だと分かるようにする」


 喜三右衛門は一瞬考え、すぐに顔を上げた。


「荷の行き先を見るためでございますな」


「そうだ。止まった荷は、必ずまた動く。その時、どこへ流れるか見る」


「承知いたしました」


 久野四兵衛が、部屋の端で低く言った。


「殿。銭が要ります」


「出せ」


「容易く申されますな」


「銭を惜しんで、道を見失う方が高くつく」


 四兵衛は苦い顔をしたが、反論はしなかった。


 官兵衛は新介へ向き直る。


「英賀からの挨拶は」


「こちらにございます」


 新介が紙を差し出した。


 内容は丁寧であった。


 長篠のことには触れていない。


 だが、言葉の端々に、東への意識が見える。


 小寺家の文を重んじる。


 港の乱れは望まぬ。


 今後とも誤解なきように。


 昨日までは別所へ先に知らせを走らせていた英賀が、今日は小寺へ先に顔を出した。


 織田が勝ったからだ。


 ただ、それだけで順番が変わる。


「英賀は、先に頭を下げたのではない」


 官兵衛は言った。


「どちらへ向けば得か、顔だけこちらへ向けた」


 新介は唇を噛んだ。


「では、信用できませぬ」


「信用するな。使え」


 短く言う。


 それで十分だった。


 説明を重ねる必要はない。


 新介も、もう以前ほど白黒を急がなくなっている。


     ◇


 昼過ぎ、官兵衛は政職の前へ呼ばれた。


 小寺家中は、長篠の報で浮き足立っていた。


 広間には、昨日まで毛利の名を口にしていた者が、今日は織田の勢いを語っている。


 別所の出方を見よと言う者。


 赤松の旧誼を忘れるなと言う者。


 毛利を怒らせるなと言う者。


 どの声も、それなりに筋は通っていた。


 だからこそ、決まらない。


 政職は上座で、それらを聞いていた。


 疲れた顔である。


「官兵衛」


「はっ」


「三河で武田が退いたという話、まことか」


「まことと見てよろしいかと」


 官兵衛は答えた。


「ただし、播磨へ届く頃には、噂が大きくなっております。どれほどの勝ちかを測るには、まだ早うございます」


 老臣の一人が言った。


「早いなら、軽々しく動くべきではない」


 別の者が言う。


「いや、織田が武田を退けたなら、いよいよ東へ寄るべき時では」


「毛利を敵に回すつもりか」


「敵に回すのではない。時勢を読むのだ」


 声が重なる。


 官兵衛は黙って聞いた。


 政職がこちらを見る。


 また、決める言葉を欲しがっている。


 だが今、官兵衛が強く織田へ寄れと言えば、家中は割れる。


 逆に待てと言えば、港と国衆が先に動く。


 必要なのは、膝をつくことではない。


 こちらの存在を、相手の目に入れることだ。


「殿」


 官兵衛は静かに言った。


「祝う文を出すべきです」


 広間が揺れた。


「織田へか」


「はい」


 老臣が眉を吊り上げる。


「それでは毛利へ敵意を示すことになる」


「いいえ」


 官兵衛は首を振った。


「戦勝を祝うのは、敵味方を決めることではございませぬ。強き者の勝ちを知らぬふりする方が、かえって不自然にございます」


 政職は黙っている。


 官兵衛は続けた。


「ただし、服属の文ではありませぬ。播磨の小寺家として、東西の騒乱が国中の米と塩と港を乱さぬよう願う。その上で、織田家の御武運を寿ぐ。そう書きます」


「織田は、それで満足するか」


 政職が問う。


「満足はしませぬ」


 官兵衛は答えた。


 政職の眉が動いた。


「ならば意味がないではないか」


「満足させるための文ではございませぬ。覚えさせるための文にございます」


「覚えさせる?」


「播磨に小寺があり、その文を整えた者がいる。そう織田方に覚えさせるのです」


 老臣の一人が鼻で笑った。


「織田ほどの家が、小寺の文など気に留めるものか」


「織田が気に留めずとも、織田の下で働く者は気に留めます」


 その言葉を口にした瞬間、官兵衛の胸の奥で古い顔が浮かんだ。


 笑う顔。


 人懐こい目。


 膝を低くし、相手の懐へ入り込み、気づけば首根を掴んでいる男。


 羽柴秀吉。


 まだ遠い。


 だが、遠いままではいない。


「誰を使う」


 政職が言った。


 官兵衛は頭を下げた。


「まずは近江筋へ。織田家中で播磨のことに目を向ける者へ届くよう、商人と寺を使います」


「寺を使うか」


「毛利も浦上も寺を使っております。こちらだけ使わぬ理由はございませぬ」


 政職はしばらく考えた。


 そして頷いた。


「よかろう。草案はそなたが作れ」


「承りました」


 また一つ、政職は差し出した。


 織田へ届く最初の言葉。


 その骨を、官兵衛が作る。


 真鍋蔵人は広間の端にいた。


 北蔵から外されてから、表で強く出られなくなっている。


 だが、その目にはまだ刃が残っていた。


 官兵衛は、あえて見返さなかった。


 今は真鍋ではない。


 もっと大きな手が、東から伸びてくる。


     ◇


 広間を出ると、新介が待っていた。


「殿。室津から早馬が」


「塩荷か」


「いえ。文でございます」


 新介の顔色が少しおかしい。


 官兵衛は足を止めた。


「誰からだ」


「差出人の名は、はっきりいたしませぬ。ただ、長浜より来た商人が、官兵衛様へ直接渡せと」


 長浜。


 官兵衛の背筋に、冷たいものが走った。


 まだ早い。


 そう思った。


 だが、早すぎるとは言い切れない。


 こちらが播磨を揺らした。


 小寺の文を港へ流した。


 英賀、室津、飾磨津、寺社。


 それらを通じて、小寺家中に目の利く若い男がいるという噂が東へ向かったとしても、不思議ではない。


 新介は懐から小さな包みを出した。


 紙は薄い。


 封は簡素。


 武家の正式な書状ではない。


 商人の手紙に見せている。


 官兵衛は封を見た。


 そこに、猿のような筆跡があった。


 いや、筆跡に猿も何もない。


 だが官兵衛には、見えた。


 一度目の世で何度も見た、あの男の気配が。


 手が、止まる。


「殿?」


 新介が声をかける。


 官兵衛は封を切った。


 中身は短かった。


 播磨にて、米塩港津の筋をよく見る御仁ありと聞き及び候。


 小寺家中、黒田官兵衛殿とや。


 いずれ御目にかかり、国の道筋など承りたく候。


 まずは、三河表の勝ちにて世の風向き改まること、お知らせまで。


 羽柴藤吉郎


 名を見た瞬間、音が消えた。


 羽柴藤吉郎。


 秀吉。


 懐かしい名。


 憎い名。


 頼もしい名。


 恐ろしい名。


 主君となり、天下人となり、最後には黒田を遠ざけた男。


 一度目の官兵衛が、己の才を最も使われた相手。


 この男の笑顔を、官兵衛は知っている。


 この男の涙も。


 この男の飢えも。


 この男が人を愛しながら、同じ手で人を使い潰せることも。


 新介が心配そうに見ている。


「殿、いかがなさいました」


 官兵衛は文を畳んだ。


 指が震えている。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 その二つに、懐かしさが混じっていた。


 最も厄介な感情である。


「新介」


「はっ」


「この文を持ってきた商人を、逃がすな」


「捕らえますか」


「違う。もてなせ」


 新介が瞬いた。


「もてなす、でございますか」


「飯を出せ。酒は少しでよい。話を聞け。長浜で誰に頼まれたか、道中どこへ寄ったか、誰にこの文を見せたか」


「承りました」


「ただし、羽柴の名を大声で出すな」


「はっ」


 新介が走り去る。


 官兵衛は廊下に一人残った。


 風が入らない。


 廊下が急に狭く感じた。


 有岡の闇ではない。


 これは別の闇だ。


 笑顔で近づき、肩を叩き、褒め、頼り、気づけば逃げ道を消している男の影。


「早いな、猿」


 官兵衛は低く呟いた。


 まだ会っていない。


 まだ主従ではない。


 まだ己の命運を預けてもいない。


 ならば。


 今度は、こちらから見る。


 使われる前に、使う。


 惚れ込む前に、測る。


 懐かしむ前に、距離を取る。


 官兵衛は文を懐に入れた。


 長篠の報で播磨が揺れた日。


 織田の火より先に、猿の手が小寺の廊下まで伸びてきた。


 官兵衛は、まだ若い身体で静かに息を吸った。


 そして、初めてはっきりと思った。


 二度目の天下盗りは、ここから難しくなる。



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