第7話 父の手に戻す
天正三年、六月。
播磨はまだ、織田にも毛利にも膝をついていなかった。
小寺家は迷い、赤松は古き名を鳴らし、別所は東播磨で値を測り、浦上は西から探りを入れている。
その迷いの中へ、黒田官兵衛は二度目の手を差し入れ始めていた。
「父上」
廊下の向こうから聞こえた声に、官兵衛の手が止まった。
文箱。
写し。
小寺家の蔵。
真鍋蔵人の罠。
夜明け前まで頭の中を占めていたものが、その一声で音を失った。
松寿丸。
まだ幼い。
だが、ただの幼子ではない。木刀を握れば真剣な顔を作り、父の顔色を読むくらいの年にはなっている。
それでも、まだ誰の人質でもない。
まだ信長の疑いにも、秀吉の都合にも、竹中半兵衛の義にも預けられていない。
ただ、黒田官兵衛の子として、そこに立っていた。
「父上、お加減が悪いのですか」
松寿丸は恐る恐る近づいてきた。
官兵衛は返事をしようとした。
だが、喉が動かなかった。
子の顔を見る。
一度目の世では、この子は死ななかった。
松寿丸は生きた。
長政となり、黒田を継いだ。
それは官兵衛も知っている。
だが、あの時、守ったのは誰だったか。
わしではない。
有岡の牢の中で、官兵衛は何もできなかった。
信長が疑い、秀吉が迷い、半兵衛が命を賭けて隠した。
わしはただ、暗い牢の中で、息子の命が誰の手にあるのかも分からず、祈るしかなかった。
あれを、父の務めとは呼べぬ。
「父上?」
松寿丸がさらに一歩近づいた。
その先は、朝日が届かぬ廊下の影であった。
官兵衛の身体が勝手に動いた。
子の腕を掴む。
強すぎた。
「痛っ」
松寿丸が小さく声を上げた。
官兵衛ははっとして手を放した。
松寿丸の細い腕に、指の跡が残りかけている。
官兵衛の胸が冷えた。
守るつもりで、傷つけた。
それは、あまりにも早い答えだった。
「……すまぬ」
官兵衛は膝をついた。
松寿丸の目の高さまで下がる。
「父が悪かった」
松寿丸は驚いた顔をした。
父が子に頭を下げるなど、そうあることではない。
だが、官兵衛にはそうせずにいられなかった。
「影に入るな」
「影、でございますか」
「いや」
官兵衛は首を振った。
「違う。今のは、父が悪い」
影が悪いのではない。
闇を恐れている己が悪い。
牢からまだ出られていない己が、子の腕を掴んだのだ。
その時、廊下の奥から女の声がした。
「松寿丸」
光であった。
官兵衛の妻である。
彼女は松寿丸の腕を見て、すぐに何かを察した。
責める顔はしなかった。
ただ、官兵衛を静かに見た。
「殿。昨夜は、城で何かございましたか」
問いは穏やかだった。
だが、逃げ場はなかった。
光は、官兵衛の嘘をすぐ見抜く女である。
一度目でもそうだった。
この女には、策を語る必要はない。
沈黙の形で、ある程度を読む。
「少し、文箱のことで揉めた」
「少し、でございますか」
「少しではない」
官兵衛は短く言い直した。
光の眉がわずかに動く。
官兵衛は松寿丸の腕に視線を戻した。
「松寿丸を、こちらへ近づけすぎたかもしれぬ」
「父上?」
松寿丸は意味が分からぬ顔をした。
官兵衛は子を見た。
この子は、まだ知らない。
己の名が、いつか父を縛る札になることを。
小寺も、織田も、羽柴も、皆が家の結び目として子を見る。
子は宝である。
だからこそ、人質になる。
官兵衛は立ち上がった。
「光」
「はい」
「松寿丸を、しばらく不用意に御着の奥へ入れるな」
「すでに御着の城中にございます」
「奥だ」
官兵衛の声が硬くなった。
「評定の近く、蔵の近く、家中の者が集まる場所。そこへ近づけるな」
光は少し黙った。
「誰かが、この子を使いますか」
官兵衛は答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。
光は松寿丸の肩に手を置いた。
「分かりました」
それだけだった。
詮索しない。
だが、軽くも見ない。
やはり、この女は強い。
官兵衛はそう思った。
◇
その日の昼、政職の使いが来た。
昨夜の文箱の件ではない。
表向きは、黒田家への慰労である。
だが、使者の言葉は途中から形を変えた。
「政職様は、官兵衛殿の働きを大層頼もしく思われております」
「ありがたきこと」
官兵衛は静かに答えた。
使者は続けた。
「されど、家中にはまだ不安もございます。官兵衛殿に文と蔵の改めが任された以上、黒田家の忠節が目に見える形で示されれば、皆も安心いたしましょう」
来た。
官兵衛は表情を動かさなかった。
「目に見える形とは」
使者は少し言いにくそうにした。
「松寿丸様を、しばらく御着の奥にお置きになってはいかがかと」
部屋の空気が、薄くなった。
新介が息を呑む。
喜三右衛門の顔が硬くなる。
四兵衛は目を伏せた。
官兵衛だけが、笑わなかった。
怒りもしなかった。
ただ、心の奥で何かが静かに切れた。
やはり来た。
人は、いちばん柔らかいところに手を伸ばす。
「御着の奥に、ですか」
「はい。人質などという重い話ではございませぬ。若君を政職様の近くに置き、家中に黒田の誠を示すだけにございます」
人質ではない。
そういう者ほど、人質にする。
名を変えるだけだ。
小姓。
預かり。
近習見習い。
学び。
誠の証。
言葉はいくらでもある。
だが、子の寝る場所を他人が決めた時点で、それは父の手から離れる。
「なるほど」
官兵衛は言った。
「黒田の誠を示せ、と」
「左様にございます」
「その話、真鍋殿から出ましたか」
使者の顔が、ほんのわずかに乱れた。
それだけで足りた。
官兵衛は続けた。
「それとも、真鍋殿に近いどなたかか」
「いえ、これは家中の安心のために」
「家中とは、誰のことでござる」
声は穏やかだった。
だが、使者は言葉に詰まった。
官兵衛は立ち上がった。
「殿へは、こうお伝えください。黒田の誠は、子を差し出して示すものではございませぬ」
「官兵衛殿、それでは家中が」
「家中が不安なら、私の身を御着に置けばよい」
新介が顔を上げた。
「殿」
官兵衛は制した。
「私はしばらく御着に詰める。文と蔵の改めが済むまで、黒田の当主である私自身が城を離れぬ。これで足りませぬか」
使者は驚いた顔をした。
松寿丸を出せと言いに来た。
だが、官兵衛本人が御着に詰めると言えば、それ以上は言いにくい。
それでも使者は食い下がった。
「しかし、松寿丸様を政職様の近くに置けば、黒田家への疑いはより晴れましょう」
「疑いがあるのですか」
官兵衛は問うた。
使者は口を閉じた。
それを認めれば、政職が黒田を疑っていることになる。
認めなければ、松寿丸を置く理由が消える。
「黒田への疑いがあるなら、私を問えばよい。私の文を改めればよい。私の出入りを見張ればよい」
官兵衛は一歩近づいた。
「だが、幼子を奥に置かねば晴れぬ疑いとは、何でござるか」
使者は答えられなかった。
官兵衛はそこで声を和らげた。
押し切りすぎれば、相手は逃げ道を失う。
逃げ道を失った者は、無茶をする。
「殿には、こうお伝えください」
「は、はい」
「黒田官兵衛は、文と蔵の改めが済むまで御着に詰める。必要なら、黒田家の蔵米の控えも小寺家の目付へ見せる。黒田の兵が勝手に動かぬよう、出入りも届ける」
使者は少し安堵した。
代わりの形がある。
そう思ったのだろう。
官兵衛は最後に言った。
「ただし、松寿丸を誠の証とする話だけは、お断り申す」
使者は深く頭を下げた。
「承りました」
使者が去ると、部屋に沈黙が落ちた。
◇
最初に口を開いたのは四兵衛だった。
「殿。今の断り方では、真鍋一派は怒ります」
「怒らせる」
官兵衛は即答した。
「ただし、表で怒らせる。幼子を寄越せと強く言えば、言った者の方が悪く見える」
喜三右衛門が頷いた。
「殿ご自身が御着へ詰めると申された以上、向こうは押しにくい」
「黒田の蔵米の控えまで見せると言えば、なおさらだ」
官兵衛は言った。
新介は黙っていた。
その顔には、納得よりも心配がある。
「申せ」
官兵衛が言うと、新介は顔を上げた。
「殿が御着に詰めれば、殿ご自身が人質のようになります」
「そうだ」
「では」
「私なら、逃げる手も打てる。松寿丸には打てぬ」
新介は言葉を失った。
官兵衛は続けた。
「私は策を持てる。嘘もつける。人も動かせる。だが、松寿丸はまだ子だ。子に父の策の代わりをさせるつもりはない」
四兵衛が静かに言った。
「それが、父としてのお考えにございますか」
官兵衛はすぐには答えなかった。
父として。
その言葉が胸に刺さる。
一度目の世で、自分は父だったか。
松寿丸は生きた。
長政になった。
黒田を継いだ。
だが、それを自分の手柄のように思ったことはない。
あれは、半兵衛の義がつないだ命だった。
官兵衛は低く言った。
「一度、人の義に子の命を預けた父は、二度目を許されぬ」
三人は黙った。
意味は分からなかっただろう。
だが、官兵衛の声に触れて、聞いてはならぬものだと悟った。
新介が小さく言った。
「松寿丸様は、死ぬのですか」
官兵衛の目が鋭くなった。
「死なせぬ」
「いえ、そうではなく……殿が、あまりに」
「松寿丸は死なぬ」
官兵衛は言った。
強く。
自分に言い聞かせるように。
「死なせるために守るのではない。他人の手札にさせぬために守る」
新介は深く頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
「よい。そなたの問いは正しい」
官兵衛は廊下の方を見た。
先ほど松寿丸が立っていた場所。
そこに、もう子の姿はない。
だが、小さな足音の余韻だけが、まだ耳に残っていた。
「喜三右衛門」
「はっ」
「黒田の蔵米の控えを整えよ。見せてもよいものと、見せてはならぬものを分ける」
「承知いたしました」
「四兵衛」
「はっ」
「松寿丸の周りに、見慣れぬ者が近づかぬようにせよ。ただし、守っていると悟らせるな」
「難しゅうございますな」
「だから、そなたに任せる」
四兵衛は深く頭を下げた。
「承りました」
「新介」
「はっ」
「小寺家中で、松寿丸を奥へ置く話を誰が言い出したか探れ。噂の元を見る」
「真鍋でございましょうか」
「決めるな」
官兵衛は静かに言った。
「決めた瞬間、別の者を見落とす」
「はっ」
◇
夕刻、官兵衛は松寿丸のいる部屋へ向かった。
光がそばにいた。
松寿丸は小さな木刀を持っている。
稽古というには、まだ遊びに近い。
だが、目は真剣だった。
「父上」
松寿丸が顔を明るくした。
その顔を見た瞬間、官兵衛の胸がまた痛んだ。
この子は、父を疑っていない。
父が何を恐れ、何を企み、誰を罠にかけ、誰を使おうとしているかも知らない。
知らなくていい。
子は、父の闇を背負うものではない。
「腕を見せよ」
官兵衛は膝をついた。
朝に掴んだ腕である。
跡はほとんど残っていなかった。
それでも官兵衛は、指でそっと確かめた。
「もう痛みませぬ」
松寿丸が言った。
「父上は、心配しすぎでございます」
「そうか」
「はい」
松寿丸は得意げに木刀を構えた。
「私は、強くなります。父上をお守りします」
官兵衛は息を止めた。
守る。
この子が。
自分を。
それは無邪気な言葉だった。
だが官兵衛には、刃より深く刺さった。
「父を守るのは、まだ早い」
「では、いつならよろしいのですか」
官兵衛は少し考えた。
答えなどない。
この子は、いずれ長政になる。
戦場へ出る。
家を背負う。
父を越えようとする。
その日が来ることも、官兵衛は知っている。
だが今だけは。
今だけは、子でいてほしかった。
「まずは、自分の足で立て」
官兵衛は言った。
「転んでも、人のせいにするな。恐くても、目を逸らすな。だが、誰かに命じられて、己の命を差し出すな」
松寿丸は首を傾げた。
難しすぎたのだろう。
光は黙って聞いていた。
官兵衛は、少しだけ言葉を変えた。
「父が許さぬ者について行くな」
「はい」
「父が許さぬ部屋へ入るな」
「はい」
「父が許さぬ約束をするな」
「はい」
松寿丸は素直に頷く。
その素直さが、怖かった。
素直な子は、人に使われる。
だから、教えねばならない。
疑うことを。
選ぶことを。
だが、早すぎれば子の心を歪める。
官兵衛は、深く息を吐いた。
「松寿丸」
「はい」
「誰かが、父のためだと言ってそなたを呼んだ時は、まず母に言え」
松寿丸は光を見た。
光は静かに頷いた。
「分かりました」
官兵衛はようやく頷いた。
それだけでも、ひとつ縄を切った気がした。
◇
夜、官兵衛は御着に詰める支度を命じた。
黒田の屋敷には戻らない。
少なくとも、文と蔵の改めが済むまでは。
それを聞いた小寺家中は、少し安堵した。
黒田官兵衛は逃げぬ。
そう見えたからである。
だが、真鍋に近い者たちは別の顔をした。
松寿丸を取れなかった。
黒田の子を手札にできなかった。
かわりに、官兵衛本人が城に残る。
それは縛ったようでいて、縛りきれない。
官兵衛は、自分で選んだ場所なら檻でも使う。
その夜、官兵衛は開け放った障子のそばで文を読んだ。
小寺の文。
港の控え。
寺からの口上。
そして、松寿丸を奥へ置く話を誰が漏らしたかという、新介の報告。
まだ名は定まらない。
だが、真鍋一人ではない。
そう見えた。
小寺家中の反官兵衛派は、官兵衛の才を恐れている。
だが、それ以上に、官兵衛が黒田を小寺より上に置き始めたことを嗅いでいる。
正しい。
だからこそ危うい。
官兵衛は筆を置いた。
廊下の向こうには、松寿丸はいない。
光のもとに戻してある。
それでよい。
父の手元に置いて縛るのではない。
光のもとへ戻し、父の策の駒にしない。
それが、今できる守りだった。
「松寿丸は死なぬ」
官兵衛は低く呟いた。
「だが、二度と預けぬ」
その言葉は、祈りではなかった。
後悔でもなかった。
父として、最初に引いた線だった。




