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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第6話 罠は、主君の前で裏返る

「では、続きは殿の御前で」


 官兵衛がそう言った瞬間、北蔵の前に集まった者たちは息を呑んだ。


 真鍋蔵人は、すぐには動かなかった。


 動けなかったのだ。


 官兵衛を毛利内通の疑いで縛るつもりだった。


 夜半。


 北蔵。


 封を破られた小寺家の文箱。


 そこから出た、黒田官兵衛宛ての怪しき文。


 絵としては整っている。


 あとは、集めておいた小寺家臣たちの前で騒ぎ立てればよかった。


 官兵衛が弁明すればするほど、疑いは濃くなる。


 黙れば、認めたように見える。


 そういう罠だった。


 だが官兵衛は、騒がなかった。


 逃げなかった。


 文を隠さなかった。


 真鍋の名を出した。


 文箱を示した者。


 開けよと促した者。


 その縄の端を、真鍋自身の手に握らせた。


「官兵衛殿」


 真鍋が低く言った。


「夜も深い。殿を起こすほどのことではあるまい。明朝、あらためて――」


「明朝では遅い」


 官兵衛は即座に返した。


「今宵、私が毛利内通の文を持っていたと噂が立てば、夜明けには家中を一回りいたします。疑いは、朝を待ちませぬ」


「大事にするおつもりか」


「大事にしたのは、蔵人殿でござろう」


 真鍋の頬が引きつった。


 官兵衛は文を畳まず、手に持ったまま蔵を出た。


 外の空気が肺に入る。


 冷たい。


 だが、動く。


 蔵の闇から出たというだけで、膝の震えがわずかに鎮まった。


 新介がすぐ横に立つ。


 灯が揺れた。


 官兵衛はその光を見て、短く言った。


「行くぞ」


「はっ」


 戸口にいた小寺家臣たちは道を空けた。


 誰も止めなかった。


 止めれば、自分も罠の内側にいたと認めるようなものだからである。


     ◇


 夜半の御着城に、急な評定の火が入った。


 小寺政職は、寝所から呼び起こされた。


 顔には眠気よりも困惑が濃い。


 その左右に、家老衆が集められている。


 真鍋に近い者もいれば、様子を見る者もいる。


 黒田側からは、新介だけが官兵衛の傍に控えていた。


 喜三右衛門と四兵衛は、まだ姿を見せていない。


 見せないよう、官兵衛が命じていた。


 先に出る者。


 後で出る者。


 証は、出す順で重さが変わる。


「官兵衛」


 政職が疲れた声で言った。


「これは、何の騒ぎだ」


 官兵衛は深く頭を下げた。


「夜分にお騒がせし、申し訳ございませぬ」


「謝罪はよい。何があった」


 真鍋が一歩進み出た。


「殿。北蔵にしまわれていた古き文箱を、官兵衛殿に改めていただいたところ、怪しき文が出ました」


「怪しき文?」


「毛利方へ心を通じるかのごとき文にございます」


 広間がざわめいた。


 政職の顔色が変わる。


「毛利だと」


「しかも、黒田官兵衛殿宛てに」


 真鍋はそう言って、官兵衛を見た。


 今度こそ刺した。


 そういう目だった。


 官兵衛は静かに文を差し出した。


「これにございます」


 政職は文を受け取った。


 火にかざすようにして読む。


 小寺家中、西国御味方の内意すでに定まる。


 殿を動かすには、官兵衛殿の筆をもってすべし。


 時節至らば、御着より西へ旗を翻すべきこと。


 読み終えた政職の手が、わずかに震えた。


「官兵衛」


「はっ」


「これは、何だ」


「私を毛利内通に仕立てるための文にございます」


 広間がさらにざわめいた。


 真鍋が声を荒げる。


「とぼけられるな。文箱より出たのだぞ」


「はい。文箱より出ました」


 官兵衛は頷いた。


「そこが肝でございます」


「何?」


 官兵衛は政職へ向き直った。


「殿。この文箱は、北蔵に古くよりしまわれていたものと聞きました。真鍋殿は、港津の乱れ、ならびに諸家との文の出入りに関わるものとして、私に見よと促されました」


 新介が続いた。


「私も聞いております。真鍋様は確かに、殿に見よと申されました」


 真鍋が新介を睨む。


 新介の肩がわずかに震えた。


 だが、下がらない。


「若輩が」


 真鍋が吐き捨てる。


 官兵衛は声を上げずに言った。


「若輩でも、耳はございます」


 真鍋の顔が赤くなった。


 官兵衛は文を政職の手元へ示した。


「殿。この文が古き文箱に入っていたという話には、無理がございます」


「無理?」


「はい」


 官兵衛は一歩進んだ。


「この文には、“官兵衛殿の筆をもってすべし”とあります」


「それがどうした」


 老臣の一人が言った。


 官兵衛はその男を見た。


「私が殿の文と返書を取り次ぐ役を命じられたのは、つい先日の評定にございます」


 広間が静まった。


「それ以前に、私の筆で殿を動かすなどという文が、なぜ古き文箱の底にあるのでしょう」


 誰もすぐには答えなかった。


 政職の目が文へ落ちる。


 真鍋の口元が固まる。


 官兵衛はさらに続けた。


「紙も新しい。折りも新しい。墨の匂いも残っている。古い商人の誓紙や港荷の控えの下に、これだけ新しい文が入っている」


 真鍋が言った。


「ならば、官兵衛殿が今宵入れたのであろう」


「私は文箱を開けるまで、真鍋殿と蔵番の前におりました。新介も見ております」


「新介はそなたの家臣だ」


「それは確かに」


 官兵衛はあっさり認めた。


「ゆえに、新介の言だけでは足りませぬ」


 その時、広間の外から声がした。


「恐れながら」


 喜三右衛門であった。


 政職が顔を上げる。


「何者だ」


「黒田家中、吉田喜三右衛門にございます」


 官兵衛は振り向かなかった。


 来る時を測っていた。


「入れ」


 政職が命じる。


 喜三右衛門が静かに入ってきた。


 泥のついた草履は脱いでいるが、裾に夜露が残っている。


「申せ」


 政職が言った。


 喜三右衛門は頭を下げた。


「今宵、北蔵の周りに不自然な人の出入りがございました。商人筋の者が一人、小寺家中の若い者二人と蔵の裏手で言葉を交わしております」


 真鍋の眉が動いた。


「何の話をしていたか、聞いたか」


 政職が問う。


「はっ。すべては聞けませぬ。されど、一つだけはっきりと」


 喜三右衛門は真鍋を見た。


「“文は出たか”と」


 広間が凍った。


「文箱が開く前でございます」


 喜三右衛門は続けた。


「まだ官兵衛様が文を手に取る前に、裏手の者は“文は出たか”と申しておりました」


 政職の顔が変わった。


 真鍋が鋭く言う。


「聞き違いであろう」


「かもしれませぬ」


 喜三右衛門は静かに返した。


「ゆえに、その者の顔を覚えました。逃げぬよう、今は四兵衛が見張っております」


 真鍋が黙った。


 官兵衛はそこで、ようやく口を開いた。


「殿。文が出る前から、文が出ることを知る者がいた。ならば、この文は見つかったのではなく、見つけさせられたものにございます」


 政職は文を握ったまま、真鍋を見た。


「蔵人」


「はっ」


「そなたは、この文があると知っていたのか」


「知るはずがございませぬ」


「では、なぜ官兵衛を北蔵へ呼んだ」


「蔵番が、文箱のことを――」


「その蔵番は」


 官兵衛が静かに言った。


 蔵番は広間の隅にいた。


 北蔵からそのまま連れて来られていた男である。


 顔は土のように白い。


 政職が睨む。


「申せ」


 蔵番は震えた。


「わ、私は……」


 真鍋が低く言う。


「余計なことを申すな」


 その一言で、広間の空気が変わった。


 余計なこと。


 それは、知っている者が言う言葉だった。


 官兵衛は見逃さなかった。


 政職も見逃せなかった。


「蔵人」


 政職の声が硬くなった。


「今のは、どういう意味だ」


 真鍋の口が止まる。


 官兵衛は、ここで追い詰めすぎなかった。


 真鍋を即座に逆臣として斬れば、家中は割れる。


 真鍋に近い者は怯える。


 怯えた者は、毛利へ走るかもしれない。


 今、欲しいのは首ではない。


 権限である。


「殿」


 官兵衛は頭を下げた。


「この場で真鍋殿を罪人と決めるのは早うございます」


 真鍋が驚いた顔で官兵衛を見た。


 助けるとは思っていなかったのだろう。


 助けるのではない。


 殺さずに、牙を抜くのだ。


「早い、とは」


 政職が問う。


「罠を仕掛けた者が一人とは限りませぬ。この文が毛利を匂わせている以上、ただの家中争いとして片づければ、外の手を見落とします」


 官兵衛は広間を見渡した。


「今、必要なのは首ではございませぬ。小寺の名で出る文、蔵に収められた文、港から来る口上、それらを勝手に動かせぬ形にすることです」


 政職は黙った。


 迷っている。


 また迷っている。


 だが、今度の迷いは官兵衛の望む方へ向いていた。


 恐怖だ。


 自分の知らぬところで、家中の文箱に偽文が仕込まれた。


 自分の知らぬところで、官兵衛を落とす罠が動いた。


 この恐怖は、政職に決断をさせる。


 官兵衛は静かに言った。


「殿。小寺の文と蔵を、一度改めるべきです」


「すべてか」


「すべてではございませぬ。まずは、諸家との文、港津に関わる控え、寺社を介した文のみ」


「誰が改める」


 来た。


 官兵衛はすぐには答えなかった。


 自分から欲しがってはならない。


 差し出させる。


 これまでと同じだ。


 老臣の一人が言った。


「この騒ぎの渦中にある官兵衛殿に任せるのは、いかがなものか」


「では、真鍋殿に戻しますか」


 官兵衛は穏やかに返した。


 老臣は言葉に詰まった。


 政職が息を吐く。


「官兵衛」


「はっ」


「そなたが改めよ。ただし、一人ではならぬ」


「もちろんにございます」


 官兵衛は深く頭を下げた。


「黒田の者だけでなく、小寺家中よりも目付をお付けください。文箱を開く時は、必ず複数の者の前で。写しを取り、原本は蔵へ戻す。以後、小寺の名で外へ出る文は、殿の許しと取次の控えなきものを無効といたしましょう」


 政職は頷いた。


「よい」


 真鍋の顔色が変わった。


 それが何を意味するか、分かったのだ。


 文箱。


 蔵。


 諸家との返書。


 港津の控え。


 それらの出入り口が、官兵衛の手へ移る。


 小寺家中の実務が、静かに傾く。


「蔵人」


 政職が言った。


「そなたは、しばらく北蔵から離れよ」


「殿」


「まだ罪とは決めぬ。だが、今宵のこと、疑いなしとは言えぬ」


 真鍋は唇を震わせた。


 怒り。


 屈辱。


 焦り。


 それらが顔に出ている。


 だが、抗えない。


 政職が自ら命じたからである。


 官兵衛は何も言わなかった。


 勝ち誇らない。


 ここで笑えば、真鍋に同情が集まる。


 ここで黙れば、周囲は勝手に考える。


 官兵衛を落とそうとした真鍋が、北蔵から外された。


 その事実だけが残ればよい。


「官兵衛」


 政職が言った。


「この件、家中へどう伝える」


「内通の文が出たとは伝えませぬ」


 官兵衛は即答した。


「伝えれば、毛利の名だけが一人歩きします」


「では」


「北蔵の文箱に不審があったため、諸家との文と港津の控えを改める。以後、小寺の名で出る文は、必ず殿の許しを得る。そう触れれば足ります」


「真鍋のことは」


「触れませぬ」


 広間がまたざわついた。


 真鍋が官兵衛を見る。


 なぜだ。


 その目が問うていた。


 官兵衛は答えなかった。


 真鍋を公に叩き潰せば、反官兵衛派は隠れる。


 隠れられては困る。


 今はまだ、震えながら表にいてもらう。


 その方が、誰が真鍋へ寄るか見える。


「よかろう」


 政職は疲れたように言った。


「官兵衛。任せる」


「はっ」


 その一言で、広間の空気が変わった。


 任せる。


 小寺政職が、皆の前でそう言った。


 それはただの命ではない。


 家中の実務の一部を、官兵衛へ渡す宣言だった。


     ◇


 評定が解けた後、広間から出た官兵衛は、廊下でわずかに足を止めた。


 膝が重い。


 北蔵の闇が、まだ身体の内側に残っている。


 息を吸う。


 吐く。


 外の風はない。


 廊下は暗い。


 一瞬、壁が近づいたように見えた。


「殿」


 新介が支えようと手を伸ばした。


 官兵衛は、その手を見た。


 若い手。


 先ほどまで震えていた手。


 それでも、蔵の中で逃げなかった手。


「触れるな」


 思わず出た声は、鋭かった。


 新介の手が止まる。


 官兵衛はすぐに気づいた。


 違う。


 この者は牢番ではない。


 支えようとしただけだ。


 官兵衛は目を閉じた。


「……すまぬ」


 新介が驚いた顔をした。


「いえ」


「今宵、よく覚えていた」


「殿に命じられましたゆえ」


「命じられただけで、できる者ばかりではない」


 新介は唇を結んだ。


 その目に、わずかな熱が宿った。


 官兵衛はそれ以上言わなかった。


 言えば、情になる。


 情は鎖になる。


 そう思いながらも、胸の奥のどこかが少しだけ緩んだ。


 廊下の先で、喜三右衛門と四兵衛が待っていた。


「首は取りませなんだな」


 四兵衛が言った。


「今は首より、蔵だ」


 官兵衛は答えた。


 喜三右衛門が頷く。


「文と蔵を握れば、人の流れも見えます」


「港もな」


「はい。商人どもは、明日にはこの話を嗅ぎます」


「嗅がせろ。ただし、毛利の文のことは漏らすな」


「承知いたしました」


 四兵衛は官兵衛をじっと見ていた。


「真鍋を生かしておけば、また噛みますぞ」


「噛ませる」


 官兵衛は短く言った。


「噛む場所をこちらで選ぶ」


 四兵衛は苦い顔をした。


「殿は、そういうことばかり申される」


「嫌か」


「嫌でございます」


 はっきりと言った。


 新介がぎょっとする。


 喜三右衛門も目を動かした。


 官兵衛は四兵衛を見た。


 四兵衛は頭を下げない。


「されど、必要なら従います」


「なぜだ」


「黒田のためと見えるうちは」


 静かな言葉だった。


 官兵衛の胸に刺さった。


 黒田のため。


 その言葉は、今の官兵衛にとって祈りより重い。


「ならば、見ておけ」


 官兵衛は言った。


「私が黒田を損なう道へ行くと思えば、その時は止めよ」


「止められるとお思いで」


「止められぬ主なら、いずれ家を滅ぼす」


 四兵衛は、初めて深く頭を下げた。


「承りました」


     ◇


 夜が明ける前に、御着城の中で触れが出た。


 北蔵の文箱に不審あり。


 諸家との文、港津の控え、寺社を介した文は、改めて写しを取ること。


 以後、小寺家の名で外へ出る文は、政職の許しと取次の控えなきものを認めぬこと。


 勝手な文の往来は、家を乱すものとして禁ずること。


 真鍋蔵人の名は、どこにもなかった。


 だが、皆が知った。


 真鍋が北蔵から外されたことを。


 官兵衛が文と蔵の改めを命じられたことを。


 小寺政職が、皆の前で官兵衛に任せると言ったことを。


 朝日が御着の屋根を照らす頃、黒田の控え部屋には、文箱が三つ運び込まれた。


 小寺の蔵から出されたものだった。


 新介がその数を見て息を呑む。


 喜三右衛門は、すぐに文箱の置き場所を決めた。


 四兵衛は、入り口に立つ者の顔を見ている。


 官兵衛は、開いた障子の前に座った。


 風が入る。


 光も入る。


 閉じていない。


 それだけで、まだ息ができる。


 小寺の文。


 蔵。


 港。


 寺。


 返書。


 それらが、黒田の部屋へ流れ始めた。


 まだ兵権ではない。


 まだ城を奪ったわけでもない。


 だが、家の血管に指を添えた。


 脈が分かれば、病も分かる。


 病が分かれば、薬を入れる場所も分かる。


 毒を入れる場所も。


 官兵衛は、文箱の一つに手を置いた。


 真鍋の罠は、官兵衛を縛る縄ではなく、小寺家の実務を官兵衛へ渡す綱になった。


 外では、朝の鐘が鳴っている。


 その音に混じって、廊下の向こうから小さな足音が聞こえた。


 軽い。


 子供の足音である。


「父上」


 声がした。


 官兵衛の手が止まった。


 その一声だけで、胸の奥のすべてが乱れた。


 松寿丸。


 まだ奪われていない子。


 まだ人質ではない命。


 官兵衛は、文箱からゆっくりと手を離した。


 小寺家の実務を握った朝。


 天下へ向かう最初の綱を掴んだ朝。


 そのすべてよりも先に、官兵衛の目は廊下の向こうへ向いた。



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