第5話 罠は、踏む場所を選ぶ
「官兵衛殿。少し、よろしいか」
廊下の向こうから現れたのは、小寺家の老臣、真鍋蔵人であった。
年は六十に近い。
痩せてはいるが、背筋はまだ折れていない。頬はこけ、目だけが妙に鋭い。長く家中にいて、幾度も評定の端に座り、主君の迷いも家臣の腹も見てきた男の目である。
昨日から、官兵衛に不快を隠さなかった者でもあった。
官兵衛は、板の上の黒い石から指を離した。
黒田を示す石である。
小寺の紙片の下に忍ばせたそれを、真鍋に見られたかどうか。
見られてもよい。
見ただけで意味が分かる者なら、そもそもこのように正面から部屋へ入っては来ない。
「どうぞ、お入りください」
官兵衛は穏やかな顔で言った。
声は若き忠臣のそれだった。
真鍋は部屋へ入ると、まず開いた障子を見た。
「ずいぶんと、風を通される」
「閉じた空気は、考えを鈍らせます」
「左様か」
真鍋はそう言いながら、部屋の中央に置かれた板を見た。
石。
木片。
紙片。
紐。
それらに書かれた名を見るにつれ、目が細くなった。
「これはまた、物々しい」
「子供の遊びに見えましょう」
「遊びにしては、名が重すぎる」
官兵衛は何も答えなかった。
真鍋は少しだけ口元を歪めた。
「赤松、別所、浦上、毛利、織田。港まで並べておられる。官兵衛殿は、もう播磨一国を膝の上に乗せたつもりか」
「膝に乗せるには、播磨は重すぎます」
「では、何のために」
「裂け目を見るためにございます」
真鍋の眉が動いた。
「裂け目」
「はい。裂けてから慌てても遅い。裂ける前に、どこが薄いか見ておく。それだけにございます」
「それだけ、か」
真鍋は部屋の中を歩いた。
年のわりに足音は重い。
官兵衛はその足音を聞きながら、心の中で数えた。
一歩。
二歩。
三歩。
畳が鳴る。
木の床が軋む。
牢の石ではない。
鎖の音でもない。
だが、足音とは不思議なものだった。
聞いているうちに、どうしても別の足音が混じる。
有岡の牢の外を歩く番人の足音。
来るのか。
来ぬのか。
飯か。
水か。
死か。
何も分からぬまま、暗闇で耳だけを澄ませていた日々。
官兵衛は膝の上で指を握った。
今は御着だ。
目の前にいるのは真鍋蔵人であって、牢番ではない。
殺すべき相手でもない。
まだ、使うべき相手だ。
「官兵衛殿」
真鍋が言った。
「家中が騒いでおりますぞ」
「承知しております」
「承知して、なお続けるか」
「騒がねば見えぬものもございます」
「家中を泥水にして、底を見るおつもりか」
真鍋の声に、わずかな怒りが混じった。
「小寺家は、官兵衛殿一人の碁盤ではござらぬ」
「もちろんにございます」
官兵衛は静かに頭を下げた。
「私は殿の命を受け、文と返答を取りまとめているだけにございます」
「その“だけ”が、広すぎる」
真鍋は鼻で笑った。
「諸家からの返書、港の乱れ、米と塩の流れ。気づけば、皆が官兵衛殿の部屋へ集まっている。殿へ届く前に、まず官兵衛殿の目を通る」
「ばらばらに入れば、殿が迷われます」
「迷われることと、そなたが先に握ることは別だ」
鋭い。
老いたから鈍った男ではない。
少なくとも、この真鍋は分かっている。
官兵衛が文を整えているだけではないことを。
返書を集めているだけではないことを。
小寺家の言葉の出入り口に、黒田官兵衛が座り始めていることを。
だから来た。
止めるためか。
探るためか。
それとも、罠にかけるためか。
官兵衛は真鍋を見た。
「真鍋殿は、私が家中を乱しているとお考えか」
「考えていますな」
真鍋は隠さなかった。
「だが、そなたが愚かだとも思っておらぬ。むしろ、そこが厄介だ。才ある者が急ぎすぎれば、家は割れる」
「割れる前から、割れております」
「何?」
「小寺家中には、すでに東を見る者、西を見る者、古き赤松の影を見る者がございます。私が割ったのではございませぬ。割れ目に光を入れただけです」
「光を入れれば、虫も騒ぐ」
「暗いまま腐るよりは、ましにございます」
真鍋の目が細くなった。
しばらく、二人は黙って向かい合った。
若き官兵衛と、古き小寺の老臣。
年でいえば、真鍋の方が遥かに上である。
だが、官兵衛の中には、死の床までの歳月が沈んでいる。
老いの数では負けぬ。
ただし、その老いは若い身体にとって毒であった。
「それほど見えるなら、官兵衛殿に見ていただきたいものがある」
真鍋が言った。
来た。
官兵衛は表情を変えなかった。
「見ていただきたいもの、とは」
「古い文箱でござる」
「文箱」
「城の北蔵にしまわれていたものだ。古い商人の誓紙、港荷の控え、寺を介した文の写しが入っておる。昨日からの騒ぎで、蔵番が怯えてわしに知らせてきた」
「それを、なぜ私に」
「今、小寺の文と港津の乱れを取りまとめておられるのは、官兵衛殿であろう」
真鍋は静かに言った。
「ならば、官兵衛殿の目で見ていただくのが筋かと」
筋。
美しい言葉だ。
美しい言葉ほど、裏に刃を隠しやすい。
「殿には」
「まだ申し上げておらぬ」
真鍋は即答した。
「古い文箱一つで、殿のお耳を煩わせることもあるまい。まず官兵衛殿が見て、まことに急ぐものなら、殿へ上げればよい」
官兵衛は静かに息を吸った。
罠だ。
あまりにも分かりやすい。
だが、分かりやすい罠ほど、別の罠が奥にある。
文箱を開ければ、勝手に小寺家の古文書を改めたと言える。
開けなければ、職務を怠ったと言える。
中から毛利や浦上へ通じる文が出れば、官兵衛がそれを隠そうとしたと騒げる。
中から何も出なくても、官兵衛が事前に抜いたと疑わせることができる。
しかも場所は北蔵。
蔵。
閉じた場所。
暗い場所。
真鍋がそこまで見ているかは分からない。
だが、閉じた場所へ官兵衛を誘うというだけで、身体の奥が冷えた。
有岡の闇が、舌の下に苦く滲む。
湿った藁。
腐った水。
狭い石壁。
空気のない夜。
違う。
まだだ。
ここは御着。
罠なら、踏む場所をこちらで選べばよい。
「分かりました」
官兵衛は言った。
真鍋の目が、ほんのわずかに光った。
「見ていただけるか」
「はい。ただし、今すぐではなく、日が落ちてからにいたしましょう」
「日が落ちてから?」
「人目を避けたいのでしょう」
官兵衛は穏やかに言った。
真鍋の頬が一瞬だけ動いた。
「……官兵衛殿も、話が早い」
「遅ければ播磨は裂けます」
「では、今夜。亥の刻前に北蔵へ」
「承りました」
真鍋は満足げに頷いた。
「くれぐれも、大事にはなされぬよう」
「もちろんにございます」
官兵衛は頭を下げた。
真鍋が去る。
その足音が廊下の向こうへ消えるまで、官兵衛は動かなかった。
やがて、障子の外から風が入った。
冷たい。
だが、閉じてはいない。
官兵衛は低く呟いた。
「蔵か」
笑いは出なかった。
喉の奥に、鉄の味がした。
◇
真鍋が去ってほどなく、新介、喜三右衛門、四兵衛が呼ばれた。
三人が入ってくると、官兵衛は板の上の紙片を片づけさせた。
小寺。
赤松。
別所。
浦上。
毛利。
織田。
すべてをしまわせ、最後に黒田を示す黒い石だけを残した。
四兵衛がその石を見た。
何も言わない。
官兵衛は言った。
「今夜、北蔵へ行く」
新介がすぐに顔を上げた。
「北蔵、でございますか」
「真鍋蔵人が、古い文箱を見ろと言ってきた」
喜三右衛門が眉を寄せた。
「それは、怪しゅうございますな」
「怪しい」
官兵衛はあっさり認めた。
新介が一歩進んだ。
「ならば、行かれぬ方がよろしいのでは」
「行かねば、罠の形が見えぬ」
「罠とお分かりで行かれるのですか」
「分かっている罠ほど、役に立つ」
新介は言葉を失った。
四兵衛が低く言った。
「殿。罠は、踏めば傷を負います」
「踏む場所を選べば、相手の足跡が残る」
「それでも、傷は残ります」
四兵衛の声には、責める響きがあった。
新介とは違う。
ただ心配しているだけではない。
古参として、若い主が自ら危うい場所へ入ろうとしていることを咎めている。
官兵衛はその目を正面から受けた。
「傷なら、もうある」
四兵衛の表情がわずかに変わった。
官兵衛は言葉を続けなかった。
言えば、有岡の闇が口から漏れる。
まだ、この者たちに見せるには早い。
いや、見せたくない。
弱みは、人の手に渡った瞬間、鎖になる。
「喜三右衛門」
「はっ」
「今夜、北蔵の周りにいる者を見よ。だが、近づくな。商人筋の者が紛れていれば、顔だけ覚えろ」
「承りました」
「四兵衛」
「はっ」
「小寺家中で、今夜急に姿を消す者、逆に北蔵へ近づかぬよう不自然に避ける者を見よ」
「承知いたしました」
「新介」
「はっ」
「そなたは私と来い」
新介が息を呑んだ。
「私が」
「文箱を見るには、目が二つでは足りぬ」
「はっ」
新介は深く頭を下げたが、その拳は固く握られていた。
恐れている。
それでよい。
恐れを知らぬ者は、罠の中で騒ぐ。
恐れを知る者は、息を潜める。
「ただし、蔵の戸は閉めさせるな」
三人の視線が官兵衛へ集まった。
喜三右衛門は何か言いかけ、やめた。
四兵衛の目だけが細くなる。
「殿」
「何だ」
「戸を閉められれば、外からは見えませぬ。見えぬ場所では、何をされたと言われても防ぎにくい。そういうことでございますな」
「そうだ」
官兵衛は頷いた。
半分は真である。
もう半分は違う。
閉じられれば、息ができない。
それは言えなかった。
「戸は開けたまま。灯は二つ。文箱に触る前に、誰から何として渡されたか、必ず声に出す。新介、そなたはそれを覚えよ」
「承りました」
「真鍋が文箱を開けろと言ったなら、その言葉も覚えよ。私が自ら求めたのではない。真鍋が示し、真鍋が促した。ここが肝だ」
喜三右衛門が静かに頷いた。
「なるほど。罠を仕掛けさせた者に、縄の端を持たせるのですな」
「そうだ」
官兵衛は言った。
「縄は、持った者の手にも絡む」
四兵衛はしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「殿。ひとつだけ」
「申せ」
「もし、蔵の中で何があっても、新介を捨て駒にはなされますな」
新介が驚いて四兵衛を見た。
官兵衛の胸の奥で、何かがわずかに鳴った。
痛みだった。
怒りではない。
図星を突かれた痛みでもない。
もっと厄介なものだった。
この老臣は、官兵衛が人を駒として見始めていることに気づいている。
そして、その駒にも命があると告げている。
「四兵衛」
「はっ」
「私は黒田の者を、無駄には捨てぬ」
「無駄には、でございますか」
静かな問いだった。
官兵衛は答えなかった。
答えられなかった。
必要なら捨てるのか。
そう問われれば、今の官兵衛は否と言い切れない。
天下を盗ると言う男が、誰一人失わずに済むなどと信じるほど、若くはなかった。
だが。
新介の顔が視界に入る。
若い。
まだ己の死に方も知らぬ顔だ。
その顔を見て、官兵衛はゆっくりと言った。
「今夜、新介は捨てぬ」
四兵衛は頭を下げた。
「承りました」
新介は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
官兵衛はそれ以上見なかった。
約束は少ない方がよい。
少ない約束なら、守れる。
◇
夜の御着城は、昼とは別の顔をしていた。
廊下の先は暗く、庭の木々は黒い影となり、遠くで番の者の咳が一つ聞こえた。
官兵衛は新介を連れ、北蔵へ向かった。
灯は持たせている。
風は冷たい。
月は雲に隠れ、地面はところどころ湿っていた。
北蔵は城の奥まった場所にある。
米蔵ではない。
古い文箱や器具、使わなくなった具足、寺社から預かった品などを置く、半ば忘れられた蔵である。
そこへ近づくにつれ、官兵衛の呼吸は浅くなった。
壁が近い。
闇が濃い。
灯の光が届かない隅に、何かが沈んでいる。
違う。
ここは牢ではない。
扉は開く。
人もいる。
新介もいる。
鎖はない。
だが、身体は理屈を聞かない。
胸の奥で、古い闇が膨らむ。
足の裏が冷える。
膝が、かつての痛みを思い出そうとする。
まだ痛んでいない若い足が、ありもしない傷に怯えている。
「殿」
新介が小さく声をかけた。
官兵衛は、立ち止まりそうになった足を動かした。
「進め」
「はっ」
北蔵の前には、真鍋蔵人が立っていた。
その脇に、蔵番が一人。
さらに少し離れて、小寺家の若い者が二人控えている。
隠す気があるのか、見せる気があるのか。
中途半端な配置だった。
いや。
中途半端に見せているのだ。
官兵衛が油断して戸をくぐった後、どこかから人が出てくる。
そういう絵であろう。
「来られたか、官兵衛殿」
「お待たせいたしました」
「大事にせぬと申したはずだが」
真鍋は新介を見た。
「供を連れて来られたか」
「文箱を見るには、灯持ちと控えが要ります」
「ふむ」
真鍋はそれ以上言わなかった。
官兵衛は蔵を見た。
扉は重い。
木の匂い。
古い紙の匂い。
埃。
湿り。
喉の奥に、牢の空気が蘇る。
真鍋が蔵番へ合図した。
扉が開く。
ぎい、と低い音がした。
その音だけで、官兵衛の背に冷たい汗が浮かんだ。
開いたはずの扉が、閉じる音に聞こえる。
入ったら出られぬ。
そう身体が叫ぶ。
官兵衛は、爪が掌に食い込むほど拳を握った。
ここで退けば、罠は相手のものになる。
ここで崩れれば、恐怖は鎖になる。
「新介」
「はっ」
「灯を高く」
新介が灯を掲げた。
官兵衛は蔵へ入った。
足を踏み入れた瞬間、冷たい空気が身体を包んだ。
暗い。
狭い。
湿っている。
違う。
ここは牢ではない。
違う。
違う。
違う。
耳の奥で、水の滴る音がした気がした。
現には、何も聞こえない。
藁の匂いがした気がした。
現には、埃と古紙の匂いだけである。
官兵衛は一歩、二歩と進んだ。
真鍋が後から入ってくる。
蔵番も続く。
その時、若い小寺家臣の一人が外から扉に手をかけた。
「戸は開けたままに」
官兵衛は振り返らずに言った。
若い家臣の手が止まる。
真鍋が言った。
「夜風で灯が揺れる。文に火が移っては困る」
「灯は新介が持つ。火は文から離す。戸を閉める必要はございませぬ」
「外へ中身が見える」
「見られて困るなら、ここへ私を呼ぶべきではなかった」
真鍋の目が光った。
暗い蔵の中で、その目だけがよく見えた。
「官兵衛殿は、用心深い」
「不用心で命を落とす者を、いくつも見てまいりました」
真鍋が怪訝な顔をした。
「それほど多くの修羅場を見た年でもあるまいに」
「播磨の小城でも、人は死にます」
官兵衛は淡々と返した。
それ以上、真鍋は追わなかった。
追えば、己の仕掛けから目が逸れると思ったのだろう。
蔵の奥に、古い文箱があった。
黒ずんだ木箱である。
紐がかけられ、封がしてある。
封の上には、小寺家の印がある。
官兵衛はそれを見た瞬間、罠の形を理解した。
封を破らせたいのだ。
小寺家の印を、官兵衛の手で。
真鍋が言った。
「これだ」
「この文箱を、真鍋殿が私に見よと」
「左様」
「港津の乱れ、ならびに諸家との文の出入りに関わるものとして」
「そう聞いておる」
「誰から」
真鍋がわずかに黙った。
「蔵番からだ」
蔵番が肩を震わせた。
官兵衛は蔵番を見た。
怯えている。
真鍋に言わされたか。
それとも、元から真鍋の者か。
今はどちらでもよい。
「新介」
「はっ」
「今の言葉を覚えたな」
「はい。真鍋様は、この文箱を港津の乱れ、ならびに諸家との文の出入りに関わるものとして、殿に見よと申されました」
新介の声は少し震えていた。
だが、言い切った。
官兵衛は頷いた。
「よい」
真鍋の顔から、わずかに笑みが消えた。
官兵衛は文箱の前に膝をついた。
封を見る。
古い。
だが、古すぎない。
紐の結びも、蔵に何年も置かれたものにしては締まりがよい。
埃はかぶっている。
だが、箱の下だけが少しきれいだ。
最近動かされた。
「開けられよ」
真鍋が言った。
「急がれよ。夜も深い」
官兵衛はゆっくりと顔を上げた。
「真鍋殿」
「何か」
「これは、罠ですな」
蔵の中の空気が止まった。
新介が息を呑む。
蔵番の肩が跳ねる。
真鍋は一瞬だけ目を細め、それから笑った。
「何を申される。官兵衛殿は、少々疑い深くなられたのではないか」
「疑い深くなければ、乱世では生きられませぬ」
「では、開けぬと?」
「開けます」
真鍋の笑みが、今度こそ止まった。
官兵衛は懐から小刀を抜いた。
新介が思わず一歩動く。
「殿」
「見ておけ」
官兵衛は小寺家の封に刃を入れた。
紙が裂ける小さな音がした。
その音が、蔵の中で妙に大きく響いた。
封を破った。
官兵衛の手で。
真鍋の罠に、確かに踏み込んだ。
だが、踏んだ場所は選んだ。
誰に促され。
何の名目で。
誰が見ている前で。
どの言葉を残して。
それらを置いた上で踏む罠は、もはや相手だけの罠ではない。
文箱の蓋を開ける。
中には、古い商人の誓紙が数枚。
港荷の控え。
寺を介した文の写し。
そして、一番下に、不自然に新しい折紙があった。
官兵衛はそれを見た。
手に取る前から分かる。
これが本命だ。
「新介」
「はっ」
「一番下の文。紙が新しい。折りも新しい。墨も古くない」
「はい」
「覚えろ」
「はっ」
官兵衛はその文を摘まみ上げた。
開く。
そこには、短く書かれていた。
黒田官兵衛殿
小寺家中、西国御味方の内意すでに定まる。
殿を動かすには、官兵衛殿の筆をもってすべし。
時節至らば、御着より西へ旗を翻すべきこと。
署名はない。
だが、毛利方に近い筋を匂わせる言葉が散らされていた。
官兵衛は、文を見つめた。
下手な罠だ。
下手だが、家中を騒がせるには十分である。
黒田官兵衛が、毛利と内通していた。
小寺政職を己の筆で動かそうとしていた。
文箱からそのような文が出た。
そう言えば、真実など関係ない。
疑いは火だ。
一度つけば、消すのに水では足りない。
信長の疑い。
松寿丸。
首。
官兵衛の指が、わずかに震えた。
暗い。
狭い。
息が重い。
だが、震えは一瞬だけだった。
官兵衛は顔を上げた。
「やはり、ありましたな」
真鍋が言った。
その声は低く、勝ちを含んでいた。
「官兵衛殿。これは、どういうことでござる」
「私が知りたい」
「とぼけられるか」
蔵の外で、足音がした。
一人ではない。
二人、三人。
さらに増える。
隠れていた者たちが、頃合いを見て近づいてきたのだ。
小寺家の老臣。
若い家臣。
真鍋に近い者。
戸口に影が重なる。
新介が灯を持つ手に力を入れた。
「官兵衛殿」
戸口の一人が声を上げた。
「夜半に小寺家の文箱を開き、毛利へ通じる文を手にしておられるとは。これは、いかなる了見か」
来た。
罠の口が閉じた。
だが、扉は開いている。
官兵衛は文を手にしたまま、ゆっくりと立ち上がった。
暗い蔵の中で、若い顔に穏やかな笑みを浮かべる。
新介がその横顔を見て、ぞくりと身を震わせた。
官兵衛は笑っていた。
怒りでもなく、恐怖でもなく、ただ罠の形を最後まで見届けた者の顔で。
「皆様、ちょうどよいところへ」
官兵衛は言った。
「今、真鍋殿より示された文箱の中から、誰かが私を毛利内通に仕立てようとした証が出ました」
真鍋の顔が強張った。
「何を」
「罠とは、踏ませる者がいなければ動きませぬ」
官兵衛は文を掲げた。
「さて。どなたが、この罠の縄を引いたのか」
蔵の外の者たちが、ざわめいた。
官兵衛は一歩、戸口へ向かって進んだ。
闇から、光の方へ。
足は動く。
若い足だ。
有岡の痛みはない。
まだ、ない。
「新介」
「はっ」
「今夜聞いた言葉を、一字も忘れるな」
「忘れませぬ」
「よい」
官兵衛は真鍋を見た。
「蔵人殿。私をここへ呼んだのは蔵人殿。この文箱を示したのも蔵人殿。開けよと促したのも、蔵人殿でござるな」
真鍋は答えなかった。
答えられなかった。
官兵衛は静かに笑みを消した。
「では、続きは殿の御前で」
その声に、蔵の中の空気が凍った。
罠は閉じた。
だが、捕らえられたのが誰かは、まだ誰にも分かっていなかった。




