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『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


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第25話 赤糸は御着に戻る

 翌朝、官兵衛は御着へ向かった。


 供は少ない。


 新介と、黒田の小者が二人。


 喜三右衛門は姫路と飾磨の間に残した。


 赤糸銭を見た者を探すためである。


 久野は姫路に置いた。


 清六を預かり、松寿丸の周りを見る。


 姫路を空けぬ。


 だが、御着を見る。


 その二つを同時にやらねばならない。


 馬上で、官兵衛は朝の道を見た。


 田の上に薄い霧が残っている。


 荷車が一台、姫路へ向かっていた。


 積んでいるのは薪である。


 その横を、魚を入れた桶を担ぐ男が歩く。


 道はいつも通りに見える。


 だが、道はいつも通りの顔で嘘をつく。


 清六の荷もそうだった。


 炭の顔をして、塩を隠していた。


 商いの顔をして、黒田の家を測る文を運ぼうとしていた。


 官兵衛は、赤糸銭の小さな重みを懐に感じた。


 小さな銭である。


 だが、道を持っている。


 その道は、御着へ戻っている。


     ◇


 御着の門に着くと、門番はすぐには開けなかった。


 官兵衛を見ても、である。


「黒田官兵衛様にございますな」


 門番が言った。


 新介が目を丸くする。


 官兵衛は軽く頷いた。


「そうだ」


「御用向きは」


「政職様へ、急ぎの報せ」


「御供は」


「新介と小者二人」


 門番は一つずつ確かめた。


 その後で、門が開く。


 新介は不満そうに門番を見たが、官兵衛は止めた。


「よい」


 門番が慌てて頭を下げる。


「失礼を」


「失礼ではない」


 官兵衛は言った。


「名だけで門を開けぬ。よい門だ」


 門番の顔が少し赤くなった。


 御着も、わずかずつ変わっている。


 太鼓の夜。


 南の小門。


 武具蔵。


 あの後の定めが、ただの紙ではなく、門番の声になり始めている。


 それは小さい。


 だが、小さいものほど、いざという時に人を止める。


     ◇


 政職は、小部屋で待っていた。


 障子は開いている。


 今日は風が入っている。


 官兵衛が入ると、政職はすぐに問うた。


「姫路で何かあったか」


 早い。


 以前なら、まず顔色を見てから探るように聞いただろう。


 今は違う。


 官兵衛は頭を下げた。


「殿の御名が使われました」


 政職の顔が固まった。


「わしの名が」


「はい」


「何に」


「我が子、松寿丸を御着へ動かす文に」


 政職は、しばらく声を出さなかった。


 怒りか。


 恐れか。


 恥か。


 その三つが、顔の上で交じっていた。


「松寿丸は」


「動いておりませぬ」


 政職は息を吐いた。


 安堵だけではない。


 自分の名で幼子が動かされかけたことへの、重い息だった。


「文を」


 官兵衛は、写しを差し出した。


 本物は姫路に残している。


 御着へ持ち歩き、万一にも奪われるわけにはいかない。


 政職は写しを読んだ。


 政職様御前。


 羽柴方へ御挨拶の儀。


 松寿丸様、急ぎ御着へ。


 官兵衛様、御着御出仕中。


 奥向きにて支度。


 急げ。


 誰にも触れるな。


 政職の手が、紙を強く握った。


「わしは、このような文を出しておらぬ」


「承知しております」


「承知して来たか。疑って来たか」


 政職の声は低かった。


 官兵衛は顔を上げた。


「疑いを晴らすために、殿の顔を見に参りました」


 政職は官兵衛を見た。


 しばらくして、紙から手を離した。


「ならば、顔を見せる」


 政職はそう言った。


「わしの名を使った者を、わしも見る」


 官兵衛は、わずかに目を細めた。


 政職が逃げなかった。


 名を使われたことを、ただの災いとして官兵衛へ投げなかった。


 それは、官兵衛にとって都合が悪い成長でもあった。


 だが、今は必要な成長だった。


「三宅を呼べ。河原も。又兵衛もだ」


 政職が命じた。


「わしの城で、わしの名が使われた。家中の目で見る」


     ◇


 三宅は、文の写しを読むなり眉を寄せた。


「これは、御着の祐筆部屋の文ではございませぬ」


「分かるか」


 政職が問う。


 三宅は頷いた。


「字ではございませぬ。言い回しです」


「言い回し」


「はい。政職様御前、という置き方が粗い。御前を使えば重く見えると思っておりますが、実際には宛ての筋がぼやけます」


 官兵衛は三宅を見た。


 やはり、この男は文の中ではよく働く。


 紙を焼こうとした男でもある。


 だからこそ、紙の癖を見る目はある。


「羽柴方へ御挨拶の儀、というのも妙です」


 三宅は続けた。


「武家の急ぎというより、商人が間へ入った時の言い方に近い。寺社の願文と、市の口上と、武家の名を混ぜております」


「つまり」


 官兵衛が言う。


 三宅は紙から目を離さず答えた。


「どれか一つに属する者ではなく、三つの間を歩く者の文にございます」


 寺。


 市。


 武家。


 その間を歩く者。


 清六に近い。


 だが、清六だけではない。


「書いた者は」


 政職が問う。


 三宅は口を閉じた。


「断じるには早うございます」


 官兵衛は、内心で頷いた。


 早い。


 三宅も、それを言えるようになっている。


「墨の手、炭の匂い、赤糸銭」


 官兵衛は懐から赤糸銭を出した。


 小さな銭が、畳の上で鈍く光る。


 そこに巻かれた赤い糸を見て、河原主計が身を乗り出した。


「これは」


「見覚えがあるか」


「御着の市で、似たものを見たことがあります」


 政職が河原を見る。


「どこで」


「米ではございませぬ。馬でもございませぬ。荷駄の受け渡しでございます」


「荷駄」


「はい。荷を預ける者と受ける者が、互いの名を表に出したくない時、符のように使うことがございます。珍しくはありませぬが、赤糸は少し目立ちます」


 又兵衛が、低く言った。


「赤は、遠目に見える」


 皆が又兵衛を見る。


「戦場でも同じだ。小さいものでも、赤なら土の上で目に入る。荷の中で探しやすい」


「なぜ目立つ色を使う」


 政職が問う。


 又兵衛は肩をすくめた。


「早く探すためでしょう。隠す相手と、見つける相手が違う」


 その言葉に、官兵衛は目を止めた。


 隠す相手と、見つける相手が違う。


 たしかにそうだ。


 赤糸銭は、皆から隠すためではない。


 関係する者だけがすぐ見つけるための印だ。


「赤い糸を売る者は」


 官兵衛が問う。


 河原がすぐ答えた。


「市に二軒。糸屋のおえんと、紅屋宗吉」


「見に行く」


 新介が一歩出る。


 政職も立ち上がりかけた。


 官兵衛は政職へ目を向けた。


「殿」


「何だ」


「市へお出になるなら、兵を並べすぎてはなりませぬ」


「分かっておる」


 政職は少し不機嫌そうに言った。


「わしが出れば、市は驚く」


「はい」


「だが、わしの名が市で使われたなら、わしの顔も市に見せねばならぬ」


 官兵衛は頭を下げた。


「御意」


 政職は、少し息を吸った。


「わしも行く。だが、前に出すぎぬ。官兵衛、そなたが問え。わしは見る」


 見る。


 政職は、そう言った。


 以前なら、見られる側でいることが多かった男が、今は見ると言っている。


 官兵衛は、それを胸の奥にしまった。


     ◇


 御着の市は、昼前で人が多かった。


 魚の匂い。


 炊いた麦の匂い。


 馬糞の匂い。


 布の匂い。


 そして、人の声。


 市は、城の腹である。


 米蔵よりも早く噂を飲み、評定よりも早く吐き出す。


 政職が姿を見せると、ざわめきが起きた。


 兵は多くない。


 又兵衛が少し離れて立ち、河原が人の流れを見る。


 三宅は文の写しを持つ。


 官兵衛は、市の中ほどにある糸屋へ向かった。


 糸屋のおえんは、背の曲がった女だった。


 だが、目は鋭い。


 糸を扱う者の目である。


 細いものを見落とさない。


「おえん」


 河原が声をかけた。


 おえんは政職に気づいて、慌てて膝をつきかけた。


 官兵衛が止める。


「そのままでよい。赤い糸を買った者を探している」


「赤い糸など、いくらでも売ります」


「銭に巻くほど細く、目立つほど濃いものだ」


 おえんの目が動いた。


「近ごろ、二度売りました」


「誰に」


「一度は長尾屋清六の手代」


 河原が小さく頷いた。


「もう一度は」


 おえんは少し迷った。


 政職が口を開きかける。


 官兵衛は先に言った。


「名を言えぬなら、顔を言え」


 おえんは官兵衛を見た。


「笠を被っておりました」


 新介の顔が固くなる。


 また笠。


「手は」


 官兵衛が問う。


「白い手ではございませぬ。荷を持つ手でもない。筆を持つ手に見えました」


 三宅の顔が強張る。


 市の空気も、少し動いた。


 官兵衛は三宅を見なかった。


 見れば、そこへ疑いが集まる。


「爪は」


「短うございました」


「墨は」


「ありました」


「炭の匂いは」


「ありました。袖に炭の粉がついておりました」


「声は」


「武家の言葉を使おうとしておりました。ですが、使い慣れておらぬ」


「年は」


「若くはございませぬ。老いてもおりませぬ」


 曖昧。


 だが、曖昧な中にも形がある。


 官兵衛はさらに問う。


「銭は何で払った」


「古い銭で。端が少し欠けておりました」


「赤糸を何に使うと言った」


「護符に巻く、と」


 三宅が小さく息を吸った。


 官兵衛は、そこで三宅を見た。


「何かあるか」


 三宅は慎重に答えた。


「護符に糸を巻く言い方は、寺社筋でございます。ですが、寺の者なら、糸屋でそんな説明はあまりいたしませぬ」


「なぜ」


「聞かれたくない者ほど、先に理由を言います」


 官兵衛は頷いた。


 よい。


 三宅は自分に疑いが向きかけても、文の目を曇らせなかった。


 おえんが、ふと思い出したように言った。


「そういえば」


「何だ」


「その男、帰りに紅屋へは行かず、古道具屋の裏へ回りました」


「古道具屋」


「はい。紅屋宗吉の隣でございます」


 河原が顔を上げる。


「紅屋ではなく、古道具屋か」


 官兵衛は問う。


「その古道具屋の名は」


「小鹿屋藤七」


 喜三右衛門がいれば、すぐ顔を知っていただろう。


 官兵衛は河原を見た。


「知っているか」


「古道具を扱いますが、荷預かりも少し。市の端で、人目を避けやすい場所です」


 政職が低く言った。


「市の中に、穴があったか」


 官兵衛は答えなかった。


 穴はどこにでもある。


 だが、主がそれを口にするのは悪くない。


     ◇


 小鹿屋藤七の店は、市の端にあった。


 壺、古い鍋、折れた鋤、使い古した箱、破れた具足の一部。


 物の終わりと始まりが、雑に積まれている。


 こういう店は、荷を隠しやすい。


 価値のないものの中に、価値のあるものを混ぜられる。


 藤七は、政職の姿を見ると顔色を変えた。


「殿、このような所へ」


「赤糸を買った笠の男が、ここへ来た」


 官兵衛が言う。


 藤七は目を泳がせた。


「誰のことで」


「知らぬと言う前に、考えよ」


 藤七は口を閉じた。


 官兵衛は店の中を見た。


 古い箱が多い。


 文箱もある。


 煤けた小箱。


 寺から流れたような香箱。


 商家で使った帳箱。


 官兵衛は、一つの箱に目を止めた。


 蓋の端に、赤い糸くずが挟まっている。


「それを」


 新介が箱を取った。


 藤七が動こうとした。


 又兵衛が、何も言わずに一歩出る。


 それだけで、藤七は止まった。


 箱の中は空だった。


 だが、底に炭の粉が薄く残っている。


 そして、墨の染み。


 三宅が覗き込み、すぐに言った。


「筆を置いた跡です」


「ここで文を書いたか」


「少なくとも、筆と墨を使っております」


 藤七は汗を流した。


「古道具ですから、前の持ち主が」


「赤い糸くずも、前の持ち主か」


 藤七は黙る。


 官兵衛は箱を閉じた。


「藤七」


「はっ」


「この店で、笠の男は何をした」


「……箱を借りました」


「何のために」


「文を書くために」


 市のざわめきが遠く聞こえる。


 政職の顔が硬い。


 官兵衛は問う。


「誰へ書いた」


「存じませぬ」


「誰の名を書いた」


「見ておりませぬ」


「誰が紙を持ってきた」


「男が」


「その男は、清六か」


「違います」


「嘉助か」


「違います」


「三宅か」


 三宅の背が強張った。


 藤七は首を横に振った。


「違います」


 官兵衛は、あえて三宅の名を出した。


 ここで出さねば、疑いが後で腐る。


 藤七の否定を、市の前で得る必要があった。


 三宅は、それを理解したのか、顔を伏せたまま動かなかった。


「顔は」


「笠で」


「また笠か」


 又兵衛が低く吐き捨てた。


 官兵衛は続ける。


「手は」


「右の親指に、古い火傷の痕がありました」


 河原が息を止めた。


 政職が河原を見る。


「知っているのか」


 河原は迷った。


 そして一度、周囲を見た。


 それから声を落とす。


「御着の外蔵付きの小者に、右親指に火傷痕のある男がおります」


「名は」


「佐助にございます」


「誰の小者だ」


「外蔵付きの小者にございます。蔵荷の受け渡しや、赤松筋へ向かう文荷の取次に使われることもございます」


 赤松筋。


 市の端で、低く落とされた名である。


 それでも、重い。


 政職の顔が、さらに重くなる。


 赤松は古い。


 播磨に根がある。


 小寺がその下で揺れ続けてきた名でもある。


 その筋へ向かう文荷に添えられる小者が、黒田の名を軽くし、松寿丸を動かし、英賀へ報せを出そうとしている。


 まだ、赤松そのものとは言えない。


 だが、古い根が動いている可能性はある。


 官兵衛は、藤七へ言った。


「佐助は、どこへ行った」


「分かりませぬ」


「嘘か」


「本当に分かりませぬ。ただ」


「ただ」


「市の後、外蔵の方へは戻っておりませぬ。英賀へ向かう荷の者と話しておりました」


 英賀。


 やはりそこへ戻る。


     ◇


 政職は、市の端で立ち止まった。


 人々が遠巻きに見ている。


 官兵衛は、政職が逃げるかと思った。


 いや、逃げてもおかしくなかった。


 自分の名が使われ、家中の外蔵に出入りする小者の名が出た。


 赤松筋という古い影まで触れた。


 ここで政職が「後は官兵衛に任せる」と言えば、官兵衛は動ける。


 動けるが、小寺の名はさらに軽くなる。


 政職は、ゆっくり口を開いた。


「聞け」


 声は大きくない。


 だが、市のざわめきが少しずつ沈む。


「小寺の名で荷を動かす者がいる。わしの名で文を動かす者がいる」


 政職は、一度言葉を切った。


「わしは、そのような文を出しておらぬ」


 市の者たちは黙っている。


「小寺の名を使うなら、顔を見せよ。文だけ、札だけ、銭だけで通そうとする者は、小寺の者ではない」


 官兵衛は、政職の横顔を見た。


 政職は続けた。


「市を閉めるつもりはない。荷を止めるつもりもない。だが、名を偽る荷は通さぬ」


 それだけだった。


 短い。


 だが、十分だった。


 主君が市へ顔を出した。


 小寺の名を、文だけにしなかった。


 それは、官兵衛が一人で言うより重い。


 重いが、扱いにくい重さでもある。


 政職が小寺の名を取り戻せば、官兵衛が盗むべきものは少し遠くなる。


 だが、軽い名の家を盗っても、天下へは届かない。


 官兵衛は、その矛盾を胸の奥へ押し込めた。


     ◇


 藤七は、その場で捕らえなかった。


 店は閉めさせた。


 ただし、店を潰してはいない。


 藤七には、市の者の前で言わせた。


 笠の男が来たこと。


 箱を貸したこと。


 右親指に火傷の痕があったこと。


 外蔵付きの小者、佐助らしき男であること。


 それだけ言わせた。


 嘘なら、次に割れる。


 本当なら、佐助の道が見える。


「河原」


 官兵衛は言った。


「外蔵へ」


「はっ」


「ただし、佐助を捕らえるな」


 河原が顔を上げた。


「捕らえぬので」


「外蔵に戻っていれば、戻った理由を見る。戻っていなければ、戻らぬ理由を見る」


「承知」


「又兵衛殿」


 又兵衛が官兵衛を見る。


「門を固めるな。外へ出る者を見よ」


「閉めるのではなく、見る」


「はい」


 又兵衛は、にやりともせず頷いた。


「その方が難しい」


「難しい方を」


「分かった」


 三宅には、官兵衛が言った。


「文の言い回しを、もう一度見よ。赤松筋で使う癖が混じるか」


 三宅は頭を下げた。


「承知いたしました」


 疑いを向けた。


 だが、役も渡す。


 疑いだけを残せば、人は腐る。


 役を渡せば、目が残る。


 官兵衛は、それをようやく少し分かり始めていた。


     ◇


 御着を出る前、政職は官兵衛を小部屋へ呼んだ。


 昼を少し過ぎていた。


 日暮れまでに姫路へ戻るなら、長居はできない。


 政職も、それを分かっている顔だった。


「官兵衛」


「はっ」


「わしの名は、軽かったか」


 官兵衛は黙った。


 嘘を言えば楽だった。


 しかし、政職はそれを望んでいない。


「軽く使われました」


 官兵衛は答えた。


 政職の顔が少し歪む。


「そうか」


「ですが、今日、市で殿が顔をお見せになりました」


「それで重くなるか」


「すぐには」


「すぐには、か」


「はい」


 官兵衛は言った。


「名は、一度軽くなれば、顔と声で何度も戻すしかございませぬ」


 政職は、深く息を吐いた。


「面倒だな」


「面倒でございます」


「家とは、面倒なものだな」


 その言葉に、官兵衛は一瞬だけ姫路を思った。


 光。


 松寿丸。


 久野。


 作兵衛。


 門番。


 女中頭。


 確かに、面倒である。


 だが、面倒でなければ家ではない。


「殿」


 官兵衛は言った。


「佐助の先に、赤松筋の影があるかもしれませぬ。あるいは、英賀を通じた別の手かもしれませぬ。まだ断じられませぬ」


「分かっておる」


 政職は短く言った。


「断じてから動けば、遅い。断じる前に斬れば、間違える。そうであろう」


 官兵衛は、政職を見た。


 政職は苦い顔で笑った。


「そなたの言いそうなことを、先に言っただけだ」


「恐れ入ります」


「姫路へ戻れ」


 政職は言った。


「日暮れまでに戻るのであろう」


「はい」


「清六は生かしておけ」


 官兵衛は目を細めた。


「なぜ、そう思われます」


「そなたが浜で斬らなかった。ならば、まだ使うのだろう」


 政職は、少しだけ目を伏せた。


「わしの名を使った者を、わしは斬りたい。だが、斬れば分からなくなることもあるのだろう」


 官兵衛は頭を下げた。


「御意」


 政職が、ここまで言う。


 これは、ただ操りやすい主君ではなくなってきている。


 だが、今はそれでよい。


 今、播磨は軽い主君では守れない。


     ◇


 官兵衛は、昼過ぎに御着を出た。


 新介が後ろに続く。


 御着の門では、来た時と同じように、門番が供の数を確かめた。


 出る者も見る。


 官兵衛はそれを見て、少しだけ頷いた。


 道中、新介が言った。


「殿」


「何だ」


「政職様は、変わられました」


「ああ」


「よいことにございますか」


 官兵衛は答えに少し迷った。


 よい。


 播磨を守るにはよい。


 小寺の名を重くするにはよい。


 だが、官兵衛がいずれ盗るには、少し厄介になる。


 しかし、軽いものを盗っても仕方がない。


「よいことだ」


 官兵衛は言った。


「今は」


 新介は、その最後の二文字を聞き逃さなかった。


 だが、何も言わなかった。


 夕刻、姫路の城が見えた。


 門は開いている。


 だが、緩んではいない。


 官兵衛が戻ると、久野が待っていた。


「変わりは」


「松寿丸様、光様ともにご無事。清六も逃げておりませぬ」


「よい」


 官兵衛は短く言った。


 姫路は空いていなかった。


 御着も見た。


 片足ずつ、地につけた。


 まだ不安定だ。


 だが、歩ける。


     ◇


 夜、官兵衛は赤糸銭を取り出した。


 御着で聞いた名を、別の紙に書く。


 小鹿屋藤七。


 佐助。


 外蔵。


 赤松筋。


 英賀。


 長尾屋清六。


 松屋。


 名は増えた。


 だが、ただ増えたのではない。


 道の形が少し見えた。


 御着の市で糸を買う。


 古道具屋の箱で文を書く。


 寺を道にする。


 飾磨の浜から英賀へ出す。


 黒田の家を測る。


 小寺の名を軽くする。


 そして、その向こうに古い播磨の影がある。


 官兵衛は筆を置いた。


「赤糸は、御着に戻った」


 小さく呟く。


 御着へ戻ったなら、次は御着からどこへ出たかを見る。


 英賀か。


 赤松か。


 それとも、さらに西か。


 焦るな。


 斬るな。


 焼くな。


 だが、逃がすな。


 赤い糸は細い。


 強く引けば切れる。


 緩めすぎれば、どこへでも絡む。


 官兵衛は赤糸銭を掌に乗せた。


 小さな銭が、やけに重かった。



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