第26話 親指の火傷
官兵衛が御着を出た後、政職はしばらく小部屋に残っていた。
障子は開いている。
風は入る。
だが、胸の中の重さは抜けなかった。
自分の名が使われた。
文に。
荷に。
子を動かすために。
これまで政職は、名というものをどこか軽く扱っていたのかもしれない。
小寺の名。
当主の名。
守られて当然のものだと思っていた。
だが、守らぬ名は、他人の手で軽く使われる。
官兵衛は姫路へ戻った。
ここから先は、御着の目で見ねばならない。
政職は、そう思った。
「三宅」
「はっ」
「文の写しをもう一度見よ。だが、部屋にこもるな」
三宅が顔を上げた。
「部屋にこもらず、でございますか」
「市で書かれた文なら、市の匂いを見よ。外蔵で動いた文なら、蔵の埃を見よ」
三宅は一瞬だけ黙った。
政職の口からその言葉が出たことに、驚いたのだろう。
「承知いたしました」
「河原」
「はっ」
「外蔵へ行け。佐助が戻っていれば、その顔を見る。戻っていなければ、戻らぬ穴を見る」
「承知」
「又兵衛」
又兵衛は、壁際で腕を組んでいた。
「門を閉めるな」
「閉めませぬ」
「だが、見る」
「見ます」
又兵衛は短く答えた。
政職は彼らを見た。
官兵衛がいない。
だからこそ、言葉が少し重い。
自分の言葉で、家中が動く。
それは当然のことのはずだった。
だが、その当然を、政職は久しく官兵衛の目に預けすぎていたのかもしれない。
「小寺の名を使われた」
政職は言った。
「これは、黒田だけのことではない」
三人が頭を下げた。
◇
河原主計が外蔵へ向かった時、外蔵の前はいつも通りだった。
米俵。
古縄。
空の甕。
荷札。
蔵番の源太が、帳を抱えている。
源太は河原を見ると、すぐに頭を下げた。
「佐助はいるか」
河原が問うと、源太の顔が曇った。
「朝から見ておりませぬ」
「昨日は」
「おりました」
「何をしていた」
「古い荷縄と、破れ俵を選んでおりました」
「何のために」
「英賀へ戻す荷の仕立て、と」
河原は目を細めた。
「誰の命で」
「佐助は、外蔵の戻り仕事だと申しました。赤松筋へ向かう文荷の戻りもあると」
「帳にあるか」
源太は帳を開いた。
そこには、確かに古縄、破れ俵、空甕二つとある。
だが、筆跡が違った。
源太の字ではない。
「これは誰が書いた」
「佐助にございます」
「蔵番の帳を、小者が書くのか」
源太の顔が青くなった。
「急ぎだと言われまして」
「急ぎ」
河原は、その言葉を繰り返した。
この数日、急ぎという言葉ばかりが人を動かしている。
急げ。
誰にも言うな。
急ぎの御用。
急ぎの戻り荷。
急ぎは、便利な縄だ。
だが、便利な縄ほど首にかかる。
「佐助の手を見たことはあるか」
「手、でございますか」
「右の親指に火傷痕があるな」
「はい。昔、火鉢を倒したとかで」
河原は頷いた。
小鹿屋藤七の言葉と合う。
少なくとも、佐助は古道具屋にいた男と同じ特徴を持つ。
「佐助はどこへ向かうと言った」
「英賀へ戻す荷を、門の外の馬借に渡すと」
「馬借の名は」
「権七」
河原は顔を上げた。
「権七か」
「はい。時々、外蔵の空荷を運ぶ男で」
空荷。
河原は蔵の中を見た。
空の俵。
古縄。
割れた甕。
見落とされやすいものばかりだ。
中身のある荷は人が見る。
だが、空荷は見ない。
空だと思った瞬間、人の目は離れる。
「源太」
「はっ」
「今後、空荷ほど見る」
「空荷を、でございますか」
「中身のある荷は重い。空荷は軽い。軽いものほど、よく逃げる」
源太は慌てて頭を下げた。
河原は、佐助の書いた帳の行を指で押さえた。
ここから門へ出た。
ならば、次は門で見る。
◇
又兵衛は西門の脇に立っていた。
門を閉めてはいない。
人も荷も通している。
だが、目だけは閉めていなかった。
薪を担ぐ男。
豆を売る女。
馬を曳く少年。
古縄を積んだ荷車。
又兵衛は、その古縄を見た。
荷車の傍らに、馬借の権七がいた。
顔見知りである。
悪い男ではない。
だが、悪い男でなくとも、悪い荷は曳く。
「権七」
又兵衛が呼ぶと、権七は肩を跳ねさせた。
「又兵衛様」
「その荷は空か」
「へえ。古縄と破れ俵だけで」
「軽そうだな」
「軽いでございます」
又兵衛は荷車の轍を見た。
土に残った跡が、軽い荷にしては深い。
車の片側だけ、妙に沈んでいる。
「降ろせ」
権七の顔が引きつった。
「何を」
「荷だ」
「古縄でございます」
「古縄なら、降ろしても困るまい」
権七は口を開いたが、又兵衛の顔を見て閉じた。
門番二人が静かに近づく。
槍は構えない。
だが、道を塞ぐ。
権七は諦めたように荷縄を解いた。
古縄。
破れ俵。
空甕。
それらが下ろされる。
底の方に、筵が敷かれていた。
又兵衛が顎をしゃくる。
門番が筵をめくった。
そこに、人がいた。
痩せた男。
小者の衣。
右手を胸に抱えている。
右の親指には、古い火傷の痕。
佐助だった。
「走れ」
誰かが叫んだ。
佐助自身か。
権七か。
分からない。
佐助が荷車から転がるように飛び出した。
門番が槍を出す。
又兵衛が怒鳴った。
「突くな!」
槍が止まる。
佐助は門の外へ走った。
又兵衛は追わなかった。
いや、走らなかった。
「右へ二人。井戸場へ一人。権七を押さえろ」
短く命じる。
足の速い者が走る。
又兵衛は、佐助の背だけを見ていなかった。
逃げる者は、出口を見て走る。
追う者は、その出口を消せばいい。
佐助はまっすぐ街道へは出なかった。
門脇の細い畦へ入る。
その先に、小さな水路がある。
飛び越えるつもりだ。
だが、そこには井戸場へ向かった門番が回っていた。
佐助が足を止める。
戻ろうとする。
右から、別の者が来る。
佐助は、腰の小刀へ手を伸ばした。
その瞬間、又兵衛がようやく動いた。
速かった。
年を感じさせぬ一歩である。
槍ではなく、柄で佐助の手首を打つ。
小刀が落ちた。
次に、膝裏を払う。
佐助は土に倒れた。
「縛れ」
又兵衛が言った。
「殺すな。口を塞がせるな」
門番が佐助を押さえる。
佐助は口の中へ何かを入れようとしていた。
又兵衛はその顎をつかみ、無理に開かせた。
小さな紙の玉が、舌の上にあった。
又兵衛は顔をしかめる。
「飲むな。腹を壊す」
そう言って、紙玉を取り出した。
冗談のような言い方だった。
だが、佐助は震えていた。
◇
政職の前に佐助が引き出されたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
河原が外蔵から戻り、又兵衛が佐助を連れてきた。
三宅も呼ばれている。
紙玉は、まだ濡れていた。
三宅は嫌な顔をしたが、文を見る男である。
乾いた布で押さえ、慎重に広げた。
墨は滲んでいる。
だが、読める文字があった。
英賀。
松屋。
鹿。
そして、宗。
「鹿」
政職が呟く。
「小鹿屋の鹿か」
三宅は首を横へ振った。
「それもあり得ます。ですが、鹿の字だけで断じるのは危うございます。屋号か、符丁か、古い家筋の印か、まだ分かりませぬ」
「宗は」
「人名か、屋号か、寺号か。これも、まだ分かりませぬ」
政職は佐助を見た。
「佐助」
佐助は震えている。
逃げる時の必死さは消え、今はただ捕らわれた小者の顔になっていた。
「誰に命じられた」
「私は」
「急げとは言うな」
政職の声が冷えた。
「近ごろ、急ぎという言葉で人を動かす者が多すぎる」
佐助は口を閉じた。
政職は立ち上がらなかった。
怒鳴りもしなかった。
だが、目だけは逸らさなかった。
「わしの名を使ったか」
「……使っておりませぬ」
三宅が文の写しを出した。
「では、この文は誰が書いた」
「知りませぬ」
「小鹿屋で文を書いたな」
「書いておりませぬ」
又兵衛が、佐助の右手をつかんで上げた。
親指の火傷痕が見える。
「この手で、何をした」
佐助は唇を噛む。
「何も」
又兵衛は、そこで佐助を殴らなかった。
政職が、それを見ていた。
殴れば、何かは出る。
だが、出た言葉が使えるかは分からない。
官兵衛がよく言うことだった。
政職は少しだけ息を吐いた。
自分は、いつから官兵衛の言葉を自分の中で反芻するようになったのか。
嫌になる。
だが、役に立つ。
「佐助」
政職は言った。
「そなたは、小者だ。小者の首は軽い」
佐助の肩が震えた。
「だが、小寺の名を軽くした罪は重い」
政職は、紙玉を指した。
「それを飲もうとしたのは、誰を守るためだ」
「……誰も」
「誰も守らぬ者は、紙を飲まぬ」
佐助は黙った。
「守る相手を間違えたな」
その言葉に、佐助の顔が歪んだ。
政職は見逃さなかった。
「そなたを使った者は、そなたを守らぬ。紙を飲ませて、腹の中で黙らせるだけだ」
佐助の息が荒くなった。
「言え」
政職の声は低い。
「誰だ」
佐助は、絞るように言った。
「……宗吉」
三宅が顔を上げた。
「紅屋宗吉か」
佐助は首を横へ振った。
「違います」
三宅の目が細くなる。
「紅屋ではない宗吉、ということか」
「はい」
「では、誰だ」
「英賀の松屋へ出入りする男で……皆、宗吉と」
「本名は」
「知りませぬ」
「鹿の字は」
「小鹿屋へ行けと言われた時の符でございます。鹿と宗、と書いた紙を見せれば、箱を貸すと」
藤七。
やはり、知っていた。
だが、藤七が黒幕ではない。
箱を貸す者。
佐助は書く手。
清六は荷を動かす手。
宗吉は、英賀へつなぐ手。
その先がまだある。
「赤松筋は」
河原が問う。
佐助は目を伏せた。
「赤松の名を出せば、小寺の者は勝手に怖がる、と」
政職の顔が変わった。
「誰が言った」
「宗吉が」
「赤松そのものではないのか」
「分かりませぬ。ですが、宗吉はそう申しました。古い名は、出すだけで人が勝手に道を開ける、と」
政職の手が膝の上で強く握られた。
古い名。
赤松。
小寺。
官兵衛。
羽柴。
それらを、道具のように扱う者がいる。
政職は、奥歯を噛んだ。
「佐助を牢へ入れよ」
又兵衛が頷く。
「縄は」
「罪人の縄でよい」
政職は言った。
「これは小寺の名を軽くした罪だ」
又兵衛は、静かに頭を下げた。
◇
佐助が下げられた後、部屋は重くなった。
三宅は濡れた紙を見ている。
河原は外蔵の帳を膝に置いている。
又兵衛は黙って立っている。
政職は、彼らを見渡した。
「官兵衛へ知らせる」
三宅が顔を上げた。
「文で、でございますか」
政職は少しだけ苦い顔をした。
「文だけでは動かぬ、だったな」
三宅は頭を下げた。
「失礼を」
「いや、よい」
政職は言った。
「文は出す。だが、顔も送る」
「誰を」
「河原」
河原が頭を下げる。
「はっ」
「姫路へ行け。佐助を捕らえたこと、宗吉の名が出たこと、赤松の名はまだ影でしかないことを、官兵衛に顔で伝えよ」
「承知」
「三宅は写しを作れ。ただし、余計な言葉を飾るな」
「承知いたしました」
「又兵衛は門を見る。佐助を捕らえたことが広がれば、逃げる者が出る」
「出るでしょうな」
「閉めるな」
「見ます」
政職は頷いた。
官兵衛がいなくても、御着は動いた。
だが、これで足りると思ってはならない。
動き始めただけである。
「赤松の名を、軽々しく口にするな」
政職は言った。
「だが、恐れて黙るな」
三人が頭を下げる。
政職は、自分の声が震えていないことに気づいた。
それが少し、不思議だった。
◇
その日の夕刻、河原主計は姫路へ着いた。
官兵衛は、清六を置いた部屋の近くにいた。
清六はまだ生きている。
口も残っている。
だが、今日は口を割らせる日ではない。
御着からの顔を待つ日だった。
河原が通されると、官兵衛はすぐに問うた。
「佐助か」
「捕らえました」
河原は膝をつき、詳しく述べた。
外蔵の空荷。
古縄と破れ俵。
権七の荷車。
筵の下の佐助。
右親指の火傷。
口の中の紙玉。
英賀、松屋、鹿、宗。
そして、宗吉という名。
官兵衛は最後まで黙って聞いた。
途中で遮らなかった。
河原が話し終えると、官兵衛はゆっくり息を吐いた。
「政職様は」
「佐助を牢へ。小寺の名を軽くした罪だと」
官兵衛は、ほんのわずか目を閉じた。
政職が、自分の名の重さを自分で罰した。
それはよい。
よいが、重い。
「赤松の名は」
「軽々しく口にするな。だが、恐れて黙るな、と」
官兵衛は目を開けた。
「そう仰せか」
「はい」
官兵衛はしばらく黙った。
政職は変わっている。
そして、御着も変わっている。
官兵衛がいない場所で、門が見て、外蔵が割れ、佐助が捕らえられた。
それは、官兵衛の望んだことでもある。
だが、すべてが官兵衛の手の内ではなくなるということでもある。
官兵衛は、赤糸銭を取り出した。
その横に、河原が持ってきた写しを置く。
英賀。
松屋。
鹿。
宗。
宗吉。
赤松の名を使って、小寺を怖がらせようとする者。
あるいは、本当に赤松の古い根に触れている者。
まだ分からない。
だが、次の道は見えた。
英賀である。
◇
河原が下がった後、官兵衛は清六を呼ばせた。
清六は疲れた顔をしている。
荷縄ではなく、今は部屋に置かれているだけだ。
逃げられない。
逃げる気力も、かなり削られている。
官兵衛は紙を見せた。
「宗吉を知っているな」
清六の顔が動いた。
それだけで十分だった。
「知らぬとは言わせぬ」
「……英賀の荷受けに出入りする男でございます」
「松屋の者か」
「松屋の者、と言われております」
「本当に松屋の者か」
清六は黙った。
「清六」
官兵衛は低く言った。
「そなたは、まだ首が軽い」
清六の肩が震える。
「だが、役に立てば、少し重くなる」
「何をすれば」
「宗吉が欲しがる顔を作れ」
「顔」
「清六は、黒田に捕らえられた。だが、まだ口を割っていない。荷は押さえられたが、赤糸銭の道は生きている。そう見える顔だ」
清六は官兵衛を見た。
「私を、餌に」
「そうだ」
官兵衛は隠さなかった。
「だが、餌にも値がある。死んだ餌は一度しか使えぬ。生きた餌は、相手を近づける」
清六は唇を震わせた。
「私が断れば」
「断れると思うか」
「……思いませぬ」
「ならば、役に立て」
官兵衛は続けた。
「英賀へ文を送る。だが、私の文ではない。清六の息で送る」
「何と」
「荷は止められた。だが、清六は生きている。赤糸銭は、まだ戻せる。宗吉に、そう思わせる」
清六は顔を伏せた。
「宗吉は、来ませぬ」
「来なくてよい」
官兵衛は言った。
「動けばよい」
◇
夜、官兵衛は一人で座っていた。
赤糸銭。
佐助の紙。
清六の名。
宗吉。
英賀。
小寺政職の言葉。
赤松の名を、軽々しく口にするな。
だが、恐れて黙るな。
その言葉は悪くなかった。
悪くないどころか、今の御着には必要だった。
官兵衛は、そこで苦く笑いそうになった。
政職が使える主君になっていく。
それは播磨にとってよい。
黒田にとっても、今はよい。
だが、いつか官兵衛が天下を盗る時、小寺の名が重くなりすぎれば、それは鎖にもなる。
それでも、軽い鎖では国は引けない。
重い鎖でなければ、時に大きなものは引き寄せられない。
官兵衛は筆を取らなかった。
今夜は名を書き足すだけでは足りない。
次は英賀を動かす。
清六を生かした意味。
佐助を捕らえた意味。
御着が自分なしに動いた意味。
それらを、次の道に変えねばならない。
「赤糸は、英賀へ伸びる」
官兵衛は低く呟いた。
そして初めて、少しだけ灯りを遠ざけた。
考えるだけでは、夜が明けない。
道は、人を歩かせて初めて見える。




