表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/26

第23話 寺前に立つ子

 翌朝、姫路の空は晴れていた。


 風は冷たくない。


 だが、官兵衛の胸の内は冷えていた。


 妙徳寺へ行く。


 松寿丸を連れて。


 光も行く。


 乳母も行く。


 新介、久野、喜三右衛門もつける。


 作兵衛には、馬を曳かせることにした。


 松寿丸が顔を知る者である。


 ただの護衛ではない。


 子が怖がった時、戻れる顔だ。


 官兵衛は、それを忘れぬようにした。


 敵を見るためだけに行くのではない。


 松寿丸に、家を見せるために行く。


 それを忘れれば、己は子を囮にする男になる。


     ◇


 出立の前、職隆が官兵衛を呼んだ。


 姫路の奥の間である。


 職隆は、すでに話を聞いていた。


 火箸。


 偽札。


 松寿丸を動かそうとした文。


 半助。


 妙徳寺。


 そのすべてを聞いたうえで、父は官兵衛を見た。


「松寿を連れて行くか」


「はい」


「怖がらせるぞ」


「承知しております」


「承知では足りぬ」


 職隆の声は低かった。


「子が震えた時、そなたが先に怒れば終わりだ。敵を見る前に子を見よ」


「光にも、同じことを言われました」


「ならば、二度言われたと思え」


 官兵衛は頭を下げた。


「はっ」


「寺は焼くな」


「焼きませぬ」


「僧を斬るな」


「斬りませぬ」


「町を怯えさせるな」


「できるだけ」


 職隆が眉を上げた。


「できるだけ、では足りぬ」


 官兵衛は少しだけ口を閉じた。


 そして言い直す。


「怯えさせませぬ。ただし、黒田の名を軽く見る者には、重さを見せます」


 職隆は、ようやく頷いた。


「それでよい」


 それから、少し声を柔らげた。


「松寿の横に、光を置け」


「はい」


「乳母を離すな」


「はい」


「作兵衛も連れて行け。子は馬の匂いを覚えておる。怖い時、知った匂いがあるだけで違う」


 官兵衛は顔を上げた。


 父は、そこまで見ている。


 家の背を見る男。


 まさにそうだった。


「承知いたしました」


「それと」


 職隆は続けた。


「そなたは、前に出すぎるな」


「私が、でございますか」


「怒った父が前に出れば、子は父を見る。子に見せたいのは、怒りではあるまい」


 官兵衛は、深く頭を下げた。


「はい」


     ◇


 妙徳寺へ向かう列は、物々しくはしなかった。


 兵を並べれば、寺を攻めるように見える。


 それでは相手が潜る。


 町も怯える。


 だから、列は小さい。


 官兵衛。


 光。


 松寿丸。


 乳母。


 新介。


 久野。


 喜三右衛門。


 作兵衛。


 それに、離れて二人。


 近すぎぬ護衛である。


 松寿丸は小さな駕籠に乗った。


 ただし、閉じ込めない。


 簾は少し上げ、外が見えるようにしてある。


 光がそばを歩く。


 乳母も歩く。


 作兵衛は、静かな馬を一頭曳いている。


 松寿丸が時々、その馬を見る。


 官兵衛は、そのたびに胸の内で確かめた。


 子を見ているか。


 敵だけを見ていないか。


 道の途中、町の者が頭を下げた。


 昨日、炭と塩の話が広がっている。


 黒田の名を勝手に使った札があったこと。


 鍛冶場の火が戻ったこと。


 そして今日は、黒田の若君が妙徳寺へ向かうこと。


 噂は、官兵衛が思うより早い。


 腹から出た不満も早いが、目で見える出来事も早い。


 ならば、見せるものを選ぶ。


 官兵衛は、そう決めていた。


     ◇


 妙徳寺は大きな寺ではない。


 門も高くはない。


 だが、古い。


 姫路の町と村の間に立ち、行き交う者が手を合わせる寺である。


 葬りもする。


 寄進も受ける。


 時には文も預かる。


 そういう寺だ。


 住持は了善といった。


 年は六十を越えている。


 背は曲がり、声は細い。


 だが、目はまだ曇っていない。


 官兵衛が門前に着くと、了善は慌てて出てきた。


「黒田様、これは」


「騒がせてすまぬ」


 官兵衛はそう言った。


 謝ったのではない。


 だが、いきなり責める口では入らない。


「今日は、寺を責めに来たのではない」


 了善の顔が少しだけ緩んだ。


 だが、官兵衛は続けた。


「寺を道にした者を見に来た」


 緩んだ顔が、また固まる。


 官兵衛は、寺の前の石に布を敷かせた。


 そこに三つのものを置く。


 御着から持ち帰った火箸。


 黒田御用と書かれた偽札。


 松寿丸を御着へ動かそうとした文。


 町の者が遠巻きに見ている。


 寺男もいる。


 小僧もいる。


 商人の手代らしい男もいる。


 官兵衛は、声を張りすぎなかった。


 張れば脅しになる。


 聞こうとする者に届く程度でよい。


「黒田の名を使った札が出た」


 官兵衛は偽札を指した。


「黒田の名を使った文が出た」


 次に文を指す。


「そして、我が子を動かそうとした」


 松寿丸が、駕籠の中で小さく身じろぎした。


 官兵衛はそれを見た。


 すぐに言葉を止める。


 敵ではない。


 子を見る。


 光が松寿丸のそばに膝を折った。


「大丈夫です」


 小さく言う。


 松寿丸は頷いた。


 官兵衛は、それを見届けてから続けた。


「文そのものが悪いのではない。札そのものが悪いのでもない。名を偽り、文だけで人を動かそうとする者が悪い」


 了善は頭を下げた。


「当寺は、そのようなことは」


「まだ、そなたを責めておらぬ」


 官兵衛は言った。


「寺は道だ。道ならば、足跡を覚えておるはずだ」


 了善の唇が動いた。


 だが、言葉にならない。


     ◇


 官兵衛は喜三右衛門へ目を向けた。


 喜三右衛門が一歩出る。


「昨日、半助という男が水車小屋へ向かった。その後、使いの少年がこの寺の裏道へ入った。見た者がいる」


 寺の小僧たちの中で、一人の肩が跳ねた。


 新介が動きかける。


 官兵衛は、目だけで止めた。


 追うな。


 今は、追う場ではない。


 喜三右衛門が柔らかい声で続けた。


「逃げた者を責めに来たのではない。誰の道を通ったかを聞きに来た」


 小僧は顔を伏せた。


 了善が振り向く。


「与吉」


 小僧の名らしい。


 与吉は震えていた。


 年は十二、三。


 まだ子である。


 松寿丸よりは大きい。


 だが、子であることに変わりはない。


 官兵衛は、与吉を見た。


 怒りを出せば、潰れる。


 潰せば、道が切れる。


「与吉」


 官兵衛は静かに呼んだ。


 小僧は顔を上げなかった。


「昨日、水車小屋へ行ったか」


「……はい」


「誰に頼まれた」


 与吉は答えない。


「銭か」


 小さく頷く。


「誰から」


「分かりませぬ」


「顔は」


「笠で」


「手は」


 与吉は少し顔を上げた。


 官兵衛は半助へ聞いた時と同じように問う。


「銭を渡した手だ。墨は。炭は。香は。油は」


 与吉は震える声で言った。


「墨が、ありました」


 同じ。


 官兵衛は目を細める。


「炭の匂いは」


「ありました」


「その者は、寺の中へ入ったか」


 与吉は首を横に振った。


「裏の榎のところで」


「何を渡された」


「半助という男が来たら、包みを見るようにと。包みがあれば、寺へ戻って知らせろと」


「誰に知らせる」


 与吉は唇を噛んだ。


 了善が厳しい声を出す。


「言え」


「寺男の嘉助に」


 寺男の一人が、顔を上げた。


 年は四十ほど。


 寺男にしては、手がきれいだった。


 いや、手の甲は荒れている。


 だが、爪が短く整えられている。


 そして指先に、墨が少し残っていた。


 官兵衛は嘉助を見た。


 嘉助は膝をついた。


「私は、何も」


「まだ何も聞いておらぬ」


 官兵衛は言った。


「だが、何も聞かぬうちに否定した」


 嘉助の顔が固まる。


 新介が、今度は少しだけ前に出た。


 官兵衛は止めなかった。


 ただし、抜かせない。


「嘉助」


「はっ」


「半助を知っているか」


「知りませぬ」


「与吉には何を頼んだ」


「何も」


 与吉が顔を上げた。


「嘉助さん」


「黙れ」


 嘉助の声が荒くなった。


 それだけで、周囲の目が変わった。


 官兵衛は静かに言った。


「子に黙れと言う者は、だいたい急げとも言う」


 松寿丸が、その言葉に小さく反応した。


 官兵衛はすぐに松寿丸を見た。


 怖がっている。


 光がその手を握る。


 乳母が背に手を添える。


 作兵衛の曳く馬が、静かに鼻を鳴らした。


 松寿丸は、その音を聞いて、少しだけ息を整えた。


 官兵衛は、嘉助へ目を戻した。


「嘉助。誰に頼まれた」


「誰にも」


「寺男が、文を作るか」


「作りませぬ」


「ならば、誰が文を書いた」


「知りませぬ」


「墨のある手。炭の匂い。黒田御用の偽札。松寿丸を動かす文。すべて知らぬか」


「知りませぬ」


 嘉助は繰り返した。


 繰り返すほど、声が細くなる。


 だが、まだ折れない。


 官兵衛は、そこで詰め切らなかった。


 今ここで折れば、見えるのは嘉助までである。


 嘉助の後ろを見なければならない。


「了善殿」


 官兵衛は住持へ向いた。


「この寺の寄進帳を見せよ」


 了善は顔を上げた。


「寄進帳を」


「炭問屋、塩商人、町の者、御着へ出入りする者。誰がいつ、何を入れたか」


 了善の顔にためらいが出た。


 寺の帳は、寺の腹である。


 見せれば、寄進した者の顔が見える。


 見せたくないのは分かる。


 だが、道として使われたなら、道の責もある。


「寺を焼きに来たのではない」


 官兵衛は言った。


「だが、寺の名で道を隠すなら、寺を道として扱う」


 了善は、深く頭を下げた。


「お見せいたします」


 嘉助の顔色が変わった。


 それで十分だった。


 今、無理に縛らずともよい。


 帳が出れば、嘉助の恐れる名も出る。


     ◇


 その時、松寿丸が小さく言った。


「父上」


 官兵衛はすぐに振り向いた。


「どうした」


「文は、怖いものですか」


 町の者たちの耳が、そこへ集まった。


 光も官兵衛を見る。


 官兵衛は膝を折った。


 松寿丸と目の高さを近づける。


「文は、怖いものではない」


「でも、昨日の文は」


「あれは、文を使った者が悪い」


 松寿丸は考えている。


 幼い顔で、懸命に。


「では、文は何ですか」


 官兵衛は少し黙った。


 難しい問いだった。


 子へ答える言葉は、家中へも町へも届く。


 飾れば嘘になる。


 脅せば傷になる。


「文は、声を遠くへ運ぶものだ」


 官兵衛は言った。


「だが、声だけでは人は動かぬ。顔を見る。母に聞く。家の者に聞く。そうして初めて動く」


 松寿丸は頷いた。


「文だけでは動かぬ」


「そうだ」


 官兵衛は、町の者にも聞こえるように言った。


「黒田の家は、文だけでは動かぬ」


 風が流れた。


 寺の門前にいた者たちは、誰も笑わなかった。


 誰も騒がなかった。


 だが、その言葉は、確かに残った。


 黒田の名を使っても、子は動かない。


 文だけでは、奥は動かない。


 門も動かない。


 家臣も動かない。


 母も動かない。


 黒田は、文を読む。


 だが、文だけでは動かぬ。


 官兵衛は松寿丸の頭に手を置いた。


「怖かったか」


 松寿丸は少し考えた。


「少し」


「そうか」


「でも、母上がいました。乳母も。作兵衛の馬も」


 作兵衛が、少し驚いた顔をした。


 ただ馬を曳いていただけの男である。


 だが、子の中では支えだった。


 官兵衛は作兵衛へ目を向けた。


「作兵衛」


「はっ」


「よく馬を静かにしていた」


 作兵衛は慌てて頭を下げた。


「恐れ入ります」


 小さな手柄である。


 だが、こういう手柄が家を支える。


     ◇


 妙徳寺の寄進帳は、その場では開かなかった。


 寺の前で人の名を晒せば、町は面白がる。


 面白がった口は、真より早く走る。


 官兵衛は、了善に命じた。


「帳は、夕刻までに姫路へ持って来い。了善殿自らだ」


「承知いたしました」


「嘉助は寺から出すな」


 嘉助の顔が青くなる。


「縄はかけぬ。だが、逃げれば寺の責とする」


 了善は頭を下げた。


 官兵衛は久野へ目を向けた。


「久野」


「はっ」


「寺門に二人置け。寺預かりであって、寺任せではない」


「承知」


 久野が短く答えた。


 官兵衛は了善へ向き直る。


「逃げれば寺の責。逃がせば寺の罪とする」


 了善の背が、深く沈んだ。


「肝に銘じます」


「与吉は」


 小僧が震える。


 官兵衛は少し考えた。


「叱るな」


 了善が顔を上げる。


「しかし」


「銭に目がくらんだ。叱るべきだ。だが、今日叱れば、次から子は隠す」


 官兵衛は与吉を見た。


「与吉」


「は、はい」


「次に笠の男から銭を渡されたら、誰に言う」


 与吉は震えながら答えた。


「住持様に」


「住持がいなければ」


 与吉は困った顔をした。


 了善が静かに言った。


「寺の鐘を二つ打て」


 官兵衛は了善を見た。


 了善は続ける。


「火でも葬りでもない、寺内の急ぎとして。寺の者が集まります」


 官兵衛は頷いた。


「それでよい」


 寺にも、文だけで動かぬ形を作らせる。


 それがよい。


 寺を潰せば、道が別へ逃げる。


 寺に目を持たせれば、道はこちらへ向く。


 嘉助は、まだ何かを隠している。


 だが、寺そのものを敵にするには早い。


     ◇


 帰り道、松寿丸は駕籠の簾を少し上げていた。


 町の者が頭を下げる。


 松寿丸は、どうしてよいか分からず、光を見る。


 光が小さく頷くと、松寿丸も小さく頭を下げた。


 官兵衛は、その様子を見た。


 子は見ている。


 町も見ている。


 今日、松寿丸は怖いものを少し見た。


 だが、同時に、母の手も、乳母の目も、作兵衛の馬も、家臣の並びも見た。


 それが傷になるか、力になるか。


 それは、これからの父次第である。


 城へ戻る前、松寿丸が言った。


「父上」


「何だ」


「文は、母上に見せます」


「ああ」


「父上にも」


「ああ」


「でも、父上が怖い顔をしていたら、母上に先に見せます」


 光が、わずかに口元を押さえた。


 乳母も目を伏せる。


 新介は笑ってよいか迷っている。


 官兵衛は、少しだけ目を閉じた。


「それでよい」


 本当に、それでよい。


 父が怖い顔をしているなら、母に見せればよい。


 それが家である。


     ◇


 夕刻、妙徳寺の了善が寄進帳を持って姫路へ来た。


 嘉助も連れている。


 縄はない。


 だが、逃げていない。


 寺門には、久野の者が二人残っている。


 逃げれば、寺の責となる。


 逃がせば、寺の罪となる。


 了善も嘉助も、それを分かっていた。


 寄進帳には、炭問屋庄右衛門の名があった。


 灘屋仁助の名もあった。


 それは驚くことではない。


 町の商人が寺へ寄進するのは珍しくない。


 だが、最近の欄に一つ、妙な名があった。


 長尾屋清六。


 姫路の者ではない。


 飾磨と御着の間を動く、荷扱いの男だと喜三右衛門が言った。


「炭も扱います。塩も少し。文の取次も」


「小寺家中との縁は」


「薄くはありません」


「羽柴とは」


「商人は、風のある方へ顔を向けます」


 官兵衛は寄進帳を見た。


 長尾屋清六。


 まだ、黒幕とは言えない。


 だが、道が見えた。


 御着。


 姫路。


 飾磨。


 寺。


 炭。


 塩。


 文。


 松寿丸。


 その間を、小さく動く荷扱いの男。


 大名でもない。


 家老でもない。


 だが、こういう男が道を汚す。


 あるいは、誰かのために道を汚す。


「嘉助」


 官兵衛が呼ぶと、嘉助は肩を震わせた。


「長尾屋清六を知っているな」


 嘉助は黙った。


「黙れば寺の帳が語る」


 嘉助は床に額をつけた。


「清六殿から、頼まれました」


「文を書いたのは」


「私ではございませぬ。私は、与吉を使っただけで」


「文を書いた者は」


「清六殿が持っておりました。誰の筆かは」


 官兵衛は了善を見た。


 了善の顔には、苦さが浮かんでいる。


 寺が、道にされた。


 寺男が、道を汚した。


 その苦さである。


「嘉助は寺で預かれ」


 官兵衛は言った。


 新介が驚く。


「捕らえぬのですか」


「逃がさぬ。だが、寺に預ける」


 了善が顔を上げた。


「よろしいので」


「寺の道で起きたことだ。寺に責を持たせる。ただし、寺任せにはせぬ。久野の者は置いたままだ」


 官兵衛は嘉助へ向いた。


「次に逃げれば寺ごと責を問う」


 嘉助は震えたまま頭を下げた。


「長尾屋清六を探せ」


 官兵衛は喜三右衛門へ言った。


「はっ」


「捕らえるな。まず荷を見ろ」


「荷を」


「清六が何を持ち、どこへ置き、誰の名を匂わせているか。それを見る」


 喜三右衛門は頷いた。


「承知いたしました」


     ◇


 夜、官兵衛は火箸と偽札と文の横に、寄進帳の写しを置いた。


 長尾屋清六。


 その名だけを、別に小さく書いた。


 名が見えた。


 だが、まだ首ではない。


 道の一つである。


 官兵衛は、その名を見ていた。


 松寿丸は眠っている。


 光も、今日は疲れているだろう。


 だが、松寿丸は帰り道で笑った。


 少しだけ。


 怖いものを見た後で、笑った。


 それが救いだった。


 父としては、怖がらせたことに痛みが残る。


 軍師としては、家が動いたことに手応えがある。


 その二つが、胸の中で混ざっていた。


 どちらかだけなら楽だった。


 だが、どちらかだけでは、今度も間違える。


 官兵衛は低く呟いた。


「文だけでは動かぬ。名だけでも動かぬ」


 顔を見る。


 手を見る。


 道を見る。


 子を見る。


 そして、家で動く。


 一度目の自分は、己の才で道を開いたと思っていた。


 だが、道は一人で開くものではない。


 門番が止める。


 女中頭が走る。


 乳母が抱く。


 母が問う。


 作兵衛が馬を静かにさせる。


 久野が責を持つ。


 喜三右衛門が町の目を置く。


 新介が怒りを呑む。


 そのすべてがあって、松寿丸は動かなかった。


 官兵衛は、そこで初めて少しだけ息を緩めた。


 姫路の城は、黒田の城である。


 そしてその城は、今日、文だけでは動かぬ家になり始めた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ