第23話 寺前に立つ子
翌朝、姫路の空は晴れていた。
風は冷たくない。
だが、官兵衛の胸の内は冷えていた。
妙徳寺へ行く。
松寿丸を連れて。
光も行く。
乳母も行く。
新介、久野、喜三右衛門もつける。
作兵衛には、馬を曳かせることにした。
松寿丸が顔を知る者である。
ただの護衛ではない。
子が怖がった時、戻れる顔だ。
官兵衛は、それを忘れぬようにした。
敵を見るためだけに行くのではない。
松寿丸に、家を見せるために行く。
それを忘れれば、己は子を囮にする男になる。
◇
出立の前、職隆が官兵衛を呼んだ。
姫路の奥の間である。
職隆は、すでに話を聞いていた。
火箸。
偽札。
松寿丸を動かそうとした文。
半助。
妙徳寺。
そのすべてを聞いたうえで、父は官兵衛を見た。
「松寿を連れて行くか」
「はい」
「怖がらせるぞ」
「承知しております」
「承知では足りぬ」
職隆の声は低かった。
「子が震えた時、そなたが先に怒れば終わりだ。敵を見る前に子を見よ」
「光にも、同じことを言われました」
「ならば、二度言われたと思え」
官兵衛は頭を下げた。
「はっ」
「寺は焼くな」
「焼きませぬ」
「僧を斬るな」
「斬りませぬ」
「町を怯えさせるな」
「できるだけ」
職隆が眉を上げた。
「できるだけ、では足りぬ」
官兵衛は少しだけ口を閉じた。
そして言い直す。
「怯えさせませぬ。ただし、黒田の名を軽く見る者には、重さを見せます」
職隆は、ようやく頷いた。
「それでよい」
それから、少し声を柔らげた。
「松寿の横に、光を置け」
「はい」
「乳母を離すな」
「はい」
「作兵衛も連れて行け。子は馬の匂いを覚えておる。怖い時、知った匂いがあるだけで違う」
官兵衛は顔を上げた。
父は、そこまで見ている。
家の背を見る男。
まさにそうだった。
「承知いたしました」
「それと」
職隆は続けた。
「そなたは、前に出すぎるな」
「私が、でございますか」
「怒った父が前に出れば、子は父を見る。子に見せたいのは、怒りではあるまい」
官兵衛は、深く頭を下げた。
「はい」
◇
妙徳寺へ向かう列は、物々しくはしなかった。
兵を並べれば、寺を攻めるように見える。
それでは相手が潜る。
町も怯える。
だから、列は小さい。
官兵衛。
光。
松寿丸。
乳母。
新介。
久野。
喜三右衛門。
作兵衛。
それに、離れて二人。
近すぎぬ護衛である。
松寿丸は小さな駕籠に乗った。
ただし、閉じ込めない。
簾は少し上げ、外が見えるようにしてある。
光がそばを歩く。
乳母も歩く。
作兵衛は、静かな馬を一頭曳いている。
松寿丸が時々、その馬を見る。
官兵衛は、そのたびに胸の内で確かめた。
子を見ているか。
敵だけを見ていないか。
道の途中、町の者が頭を下げた。
昨日、炭と塩の話が広がっている。
黒田の名を勝手に使った札があったこと。
鍛冶場の火が戻ったこと。
そして今日は、黒田の若君が妙徳寺へ向かうこと。
噂は、官兵衛が思うより早い。
腹から出た不満も早いが、目で見える出来事も早い。
ならば、見せるものを選ぶ。
官兵衛は、そう決めていた。
◇
妙徳寺は大きな寺ではない。
門も高くはない。
だが、古い。
姫路の町と村の間に立ち、行き交う者が手を合わせる寺である。
葬りもする。
寄進も受ける。
時には文も預かる。
そういう寺だ。
住持は了善といった。
年は六十を越えている。
背は曲がり、声は細い。
だが、目はまだ曇っていない。
官兵衛が門前に着くと、了善は慌てて出てきた。
「黒田様、これは」
「騒がせてすまぬ」
官兵衛はそう言った。
謝ったのではない。
だが、いきなり責める口では入らない。
「今日は、寺を責めに来たのではない」
了善の顔が少しだけ緩んだ。
だが、官兵衛は続けた。
「寺を道にした者を見に来た」
緩んだ顔が、また固まる。
官兵衛は、寺の前の石に布を敷かせた。
そこに三つのものを置く。
御着から持ち帰った火箸。
黒田御用と書かれた偽札。
松寿丸を御着へ動かそうとした文。
町の者が遠巻きに見ている。
寺男もいる。
小僧もいる。
商人の手代らしい男もいる。
官兵衛は、声を張りすぎなかった。
張れば脅しになる。
聞こうとする者に届く程度でよい。
「黒田の名を使った札が出た」
官兵衛は偽札を指した。
「黒田の名を使った文が出た」
次に文を指す。
「そして、我が子を動かそうとした」
松寿丸が、駕籠の中で小さく身じろぎした。
官兵衛はそれを見た。
すぐに言葉を止める。
敵ではない。
子を見る。
光が松寿丸のそばに膝を折った。
「大丈夫です」
小さく言う。
松寿丸は頷いた。
官兵衛は、それを見届けてから続けた。
「文そのものが悪いのではない。札そのものが悪いのでもない。名を偽り、文だけで人を動かそうとする者が悪い」
了善は頭を下げた。
「当寺は、そのようなことは」
「まだ、そなたを責めておらぬ」
官兵衛は言った。
「寺は道だ。道ならば、足跡を覚えておるはずだ」
了善の唇が動いた。
だが、言葉にならない。
◇
官兵衛は喜三右衛門へ目を向けた。
喜三右衛門が一歩出る。
「昨日、半助という男が水車小屋へ向かった。その後、使いの少年がこの寺の裏道へ入った。見た者がいる」
寺の小僧たちの中で、一人の肩が跳ねた。
新介が動きかける。
官兵衛は、目だけで止めた。
追うな。
今は、追う場ではない。
喜三右衛門が柔らかい声で続けた。
「逃げた者を責めに来たのではない。誰の道を通ったかを聞きに来た」
小僧は顔を伏せた。
了善が振り向く。
「与吉」
小僧の名らしい。
与吉は震えていた。
年は十二、三。
まだ子である。
松寿丸よりは大きい。
だが、子であることに変わりはない。
官兵衛は、与吉を見た。
怒りを出せば、潰れる。
潰せば、道が切れる。
「与吉」
官兵衛は静かに呼んだ。
小僧は顔を上げなかった。
「昨日、水車小屋へ行ったか」
「……はい」
「誰に頼まれた」
与吉は答えない。
「銭か」
小さく頷く。
「誰から」
「分かりませぬ」
「顔は」
「笠で」
「手は」
与吉は少し顔を上げた。
官兵衛は半助へ聞いた時と同じように問う。
「銭を渡した手だ。墨は。炭は。香は。油は」
与吉は震える声で言った。
「墨が、ありました」
同じ。
官兵衛は目を細める。
「炭の匂いは」
「ありました」
「その者は、寺の中へ入ったか」
与吉は首を横に振った。
「裏の榎のところで」
「何を渡された」
「半助という男が来たら、包みを見るようにと。包みがあれば、寺へ戻って知らせろと」
「誰に知らせる」
与吉は唇を噛んだ。
了善が厳しい声を出す。
「言え」
「寺男の嘉助に」
寺男の一人が、顔を上げた。
年は四十ほど。
寺男にしては、手がきれいだった。
いや、手の甲は荒れている。
だが、爪が短く整えられている。
そして指先に、墨が少し残っていた。
官兵衛は嘉助を見た。
嘉助は膝をついた。
「私は、何も」
「まだ何も聞いておらぬ」
官兵衛は言った。
「だが、何も聞かぬうちに否定した」
嘉助の顔が固まる。
新介が、今度は少しだけ前に出た。
官兵衛は止めなかった。
ただし、抜かせない。
「嘉助」
「はっ」
「半助を知っているか」
「知りませぬ」
「与吉には何を頼んだ」
「何も」
与吉が顔を上げた。
「嘉助さん」
「黙れ」
嘉助の声が荒くなった。
それだけで、周囲の目が変わった。
官兵衛は静かに言った。
「子に黙れと言う者は、だいたい急げとも言う」
松寿丸が、その言葉に小さく反応した。
官兵衛はすぐに松寿丸を見た。
怖がっている。
光がその手を握る。
乳母が背に手を添える。
作兵衛の曳く馬が、静かに鼻を鳴らした。
松寿丸は、その音を聞いて、少しだけ息を整えた。
官兵衛は、嘉助へ目を戻した。
「嘉助。誰に頼まれた」
「誰にも」
「寺男が、文を作るか」
「作りませぬ」
「ならば、誰が文を書いた」
「知りませぬ」
「墨のある手。炭の匂い。黒田御用の偽札。松寿丸を動かす文。すべて知らぬか」
「知りませぬ」
嘉助は繰り返した。
繰り返すほど、声が細くなる。
だが、まだ折れない。
官兵衛は、そこで詰め切らなかった。
今ここで折れば、見えるのは嘉助までである。
嘉助の後ろを見なければならない。
「了善殿」
官兵衛は住持へ向いた。
「この寺の寄進帳を見せよ」
了善は顔を上げた。
「寄進帳を」
「炭問屋、塩商人、町の者、御着へ出入りする者。誰がいつ、何を入れたか」
了善の顔にためらいが出た。
寺の帳は、寺の腹である。
見せれば、寄進した者の顔が見える。
見せたくないのは分かる。
だが、道として使われたなら、道の責もある。
「寺を焼きに来たのではない」
官兵衛は言った。
「だが、寺の名で道を隠すなら、寺を道として扱う」
了善は、深く頭を下げた。
「お見せいたします」
嘉助の顔色が変わった。
それで十分だった。
今、無理に縛らずともよい。
帳が出れば、嘉助の恐れる名も出る。
◇
その時、松寿丸が小さく言った。
「父上」
官兵衛はすぐに振り向いた。
「どうした」
「文は、怖いものですか」
町の者たちの耳が、そこへ集まった。
光も官兵衛を見る。
官兵衛は膝を折った。
松寿丸と目の高さを近づける。
「文は、怖いものではない」
「でも、昨日の文は」
「あれは、文を使った者が悪い」
松寿丸は考えている。
幼い顔で、懸命に。
「では、文は何ですか」
官兵衛は少し黙った。
難しい問いだった。
子へ答える言葉は、家中へも町へも届く。
飾れば嘘になる。
脅せば傷になる。
「文は、声を遠くへ運ぶものだ」
官兵衛は言った。
「だが、声だけでは人は動かぬ。顔を見る。母に聞く。家の者に聞く。そうして初めて動く」
松寿丸は頷いた。
「文だけでは動かぬ」
「そうだ」
官兵衛は、町の者にも聞こえるように言った。
「黒田の家は、文だけでは動かぬ」
風が流れた。
寺の門前にいた者たちは、誰も笑わなかった。
誰も騒がなかった。
だが、その言葉は、確かに残った。
黒田の名を使っても、子は動かない。
文だけでは、奥は動かない。
門も動かない。
家臣も動かない。
母も動かない。
黒田は、文を読む。
だが、文だけでは動かぬ。
官兵衛は松寿丸の頭に手を置いた。
「怖かったか」
松寿丸は少し考えた。
「少し」
「そうか」
「でも、母上がいました。乳母も。作兵衛の馬も」
作兵衛が、少し驚いた顔をした。
ただ馬を曳いていただけの男である。
だが、子の中では支えだった。
官兵衛は作兵衛へ目を向けた。
「作兵衛」
「はっ」
「よく馬を静かにしていた」
作兵衛は慌てて頭を下げた。
「恐れ入ります」
小さな手柄である。
だが、こういう手柄が家を支える。
◇
妙徳寺の寄進帳は、その場では開かなかった。
寺の前で人の名を晒せば、町は面白がる。
面白がった口は、真より早く走る。
官兵衛は、了善に命じた。
「帳は、夕刻までに姫路へ持って来い。了善殿自らだ」
「承知いたしました」
「嘉助は寺から出すな」
嘉助の顔が青くなる。
「縄はかけぬ。だが、逃げれば寺の責とする」
了善は頭を下げた。
官兵衛は久野へ目を向けた。
「久野」
「はっ」
「寺門に二人置け。寺預かりであって、寺任せではない」
「承知」
久野が短く答えた。
官兵衛は了善へ向き直る。
「逃げれば寺の責。逃がせば寺の罪とする」
了善の背が、深く沈んだ。
「肝に銘じます」
「与吉は」
小僧が震える。
官兵衛は少し考えた。
「叱るな」
了善が顔を上げる。
「しかし」
「銭に目がくらんだ。叱るべきだ。だが、今日叱れば、次から子は隠す」
官兵衛は与吉を見た。
「与吉」
「は、はい」
「次に笠の男から銭を渡されたら、誰に言う」
与吉は震えながら答えた。
「住持様に」
「住持がいなければ」
与吉は困った顔をした。
了善が静かに言った。
「寺の鐘を二つ打て」
官兵衛は了善を見た。
了善は続ける。
「火でも葬りでもない、寺内の急ぎとして。寺の者が集まります」
官兵衛は頷いた。
「それでよい」
寺にも、文だけで動かぬ形を作らせる。
それがよい。
寺を潰せば、道が別へ逃げる。
寺に目を持たせれば、道はこちらへ向く。
嘉助は、まだ何かを隠している。
だが、寺そのものを敵にするには早い。
◇
帰り道、松寿丸は駕籠の簾を少し上げていた。
町の者が頭を下げる。
松寿丸は、どうしてよいか分からず、光を見る。
光が小さく頷くと、松寿丸も小さく頭を下げた。
官兵衛は、その様子を見た。
子は見ている。
町も見ている。
今日、松寿丸は怖いものを少し見た。
だが、同時に、母の手も、乳母の目も、作兵衛の馬も、家臣の並びも見た。
それが傷になるか、力になるか。
それは、これからの父次第である。
城へ戻る前、松寿丸が言った。
「父上」
「何だ」
「文は、母上に見せます」
「ああ」
「父上にも」
「ああ」
「でも、父上が怖い顔をしていたら、母上に先に見せます」
光が、わずかに口元を押さえた。
乳母も目を伏せる。
新介は笑ってよいか迷っている。
官兵衛は、少しだけ目を閉じた。
「それでよい」
本当に、それでよい。
父が怖い顔をしているなら、母に見せればよい。
それが家である。
◇
夕刻、妙徳寺の了善が寄進帳を持って姫路へ来た。
嘉助も連れている。
縄はない。
だが、逃げていない。
寺門には、久野の者が二人残っている。
逃げれば、寺の責となる。
逃がせば、寺の罪となる。
了善も嘉助も、それを分かっていた。
寄進帳には、炭問屋庄右衛門の名があった。
灘屋仁助の名もあった。
それは驚くことではない。
町の商人が寺へ寄進するのは珍しくない。
だが、最近の欄に一つ、妙な名があった。
長尾屋清六。
姫路の者ではない。
飾磨と御着の間を動く、荷扱いの男だと喜三右衛門が言った。
「炭も扱います。塩も少し。文の取次も」
「小寺家中との縁は」
「薄くはありません」
「羽柴とは」
「商人は、風のある方へ顔を向けます」
官兵衛は寄進帳を見た。
長尾屋清六。
まだ、黒幕とは言えない。
だが、道が見えた。
御着。
姫路。
飾磨。
寺。
炭。
塩。
文。
松寿丸。
その間を、小さく動く荷扱いの男。
大名でもない。
家老でもない。
だが、こういう男が道を汚す。
あるいは、誰かのために道を汚す。
「嘉助」
官兵衛が呼ぶと、嘉助は肩を震わせた。
「長尾屋清六を知っているな」
嘉助は黙った。
「黙れば寺の帳が語る」
嘉助は床に額をつけた。
「清六殿から、頼まれました」
「文を書いたのは」
「私ではございませぬ。私は、与吉を使っただけで」
「文を書いた者は」
「清六殿が持っておりました。誰の筆かは」
官兵衛は了善を見た。
了善の顔には、苦さが浮かんでいる。
寺が、道にされた。
寺男が、道を汚した。
その苦さである。
「嘉助は寺で預かれ」
官兵衛は言った。
新介が驚く。
「捕らえぬのですか」
「逃がさぬ。だが、寺に預ける」
了善が顔を上げた。
「よろしいので」
「寺の道で起きたことだ。寺に責を持たせる。ただし、寺任せにはせぬ。久野の者は置いたままだ」
官兵衛は嘉助へ向いた。
「次に逃げれば寺ごと責を問う」
嘉助は震えたまま頭を下げた。
「長尾屋清六を探せ」
官兵衛は喜三右衛門へ言った。
「はっ」
「捕らえるな。まず荷を見ろ」
「荷を」
「清六が何を持ち、どこへ置き、誰の名を匂わせているか。それを見る」
喜三右衛門は頷いた。
「承知いたしました」
◇
夜、官兵衛は火箸と偽札と文の横に、寄進帳の写しを置いた。
長尾屋清六。
その名だけを、別に小さく書いた。
名が見えた。
だが、まだ首ではない。
道の一つである。
官兵衛は、その名を見ていた。
松寿丸は眠っている。
光も、今日は疲れているだろう。
だが、松寿丸は帰り道で笑った。
少しだけ。
怖いものを見た後で、笑った。
それが救いだった。
父としては、怖がらせたことに痛みが残る。
軍師としては、家が動いたことに手応えがある。
その二つが、胸の中で混ざっていた。
どちらかだけなら楽だった。
だが、どちらかだけでは、今度も間違える。
官兵衛は低く呟いた。
「文だけでは動かぬ。名だけでも動かぬ」
顔を見る。
手を見る。
道を見る。
子を見る。
そして、家で動く。
一度目の自分は、己の才で道を開いたと思っていた。
だが、道は一人で開くものではない。
門番が止める。
女中頭が走る。
乳母が抱く。
母が問う。
作兵衛が馬を静かにさせる。
久野が責を持つ。
喜三右衛門が町の目を置く。
新介が怒りを呑む。
そのすべてがあって、松寿丸は動かなかった。
官兵衛は、そこで初めて少しだけ息を緩めた。
姫路の城は、黒田の城である。
そしてその城は、今日、文だけでは動かぬ家になり始めた。




