第2話 迷う主君の手から、最初の舵を奪う
評定が終わった後も、小寺家中のざわめきは消えなかった。
官兵衛が奇妙であった。
そう囁く者がいた。
目眩と称して一時黙り込み、顔色を死人のように青くしたかと思えば、次には播磨の行く末を断ち切るように語った。
東の織田。
西の毛利。
赤松、別所、浦上。
それらの名を並べる声は穏やかであったのに、聞く者の背筋には冷たいものが這った。
若い才人の言葉ではない。
あれは、一度焼け落ちた城の跡から、まだ燃える火種を拾っている者の声だ。
そう感じた者は、一人や二人ではなかった。
だが、誰も口には出さない。
黒田官兵衛は、まだ若い。
小寺家の家臣である。
才はあるが、家中を呑むほどの立場ではない。
少なくとも、その日の夕刻までは皆がそう思っていた。
◇
官兵衛は、黒田の控え部屋に戻ると、まず障子を開け放たせた。
夕暮れの光が斜めに差し込み、部屋の畳を赤く染める。風が入った。湿った空気ではない。閉じた空気でもない。
それだけで、少し息がしやすくなった。
「殿、風が冷えます」
若い家臣が言った。
先ほど評定の間で官兵衛を案じた男である。
官兵衛はその顔を見た。
名は覚えている。
井手新介。
一度目の生では、大きな手柄を立てる前に消えた男だ。戦で死んだのか、病で倒れたのか、家を離れたのか。詳しくは思い出せない。
思い出せないということは、官兵衛にとって、その程度の扱いだったということでもある。
胸の奥に、わずかな棘が刺さった。
だが、官兵衛はそれを顔に出さなかった。
「冷えてよい」
「しかし」
「閉めるな」
短い声だった。
新介ははっとして頭を下げた。
「申し訳ございませぬ」
怯えさせたか。
官兵衛は己の声の硬さに気づいた。
違う。
この者は牢番ではない。
障子を閉めようとしただけだ。
それだけのことに、身体が反応する。
有岡の闇は、まだ骨の奥に残っている。
いや、残っているのではない。
わしは、あそこから一度も出ていなかったのかもしれぬ。
官兵衛は膝の上で指を握った。
若い指が震えている。
腹立たしいほど、若い。
「新介」
「はっ」
「小寺家中の者で、今日の評定の後、すぐに使いを出した者を調べよ」
新介が顔を上げた。
「使い、でございますか」
「そうだ。城外へ出た者だけではない。厩へ行った者、文箱を持たせた者、寺へ走らせた者もだ」
「どこへ向かったかまで、でございましょうか」
「分かる範囲でよい。急がせるな。急げばこちらが探っていると気づかれる」
新介は一瞬だけ戸惑った。
評定の直後に、味方の使いを探る。
それは、家中を疑うということだ。
若い官兵衛ならば、もう少し柔らかく命じたかもしれない。だが、若い官兵衛の身体に戻った如水には、その柔らかさが遠かった。
味方を疑わずに死ぬのは、一度で足りる。
「承りました」
新介が下がろうとする。
官兵衛は、その背に声をかけた。
「新介」
「はっ」
「……先ほどは、きつく言うた」
新介が目を丸くした。
「いえ、殿が謝られることなど」
「障子は開けておけ。だが、寒ければそなたは外へ出てよい」
新介はしばらく官兵衛を見た。
若い家臣の顔に、困惑と安堵が混じる。
「いえ。ここに控えます」
「そうか」
官兵衛は小さく頷いた。
使う。
疑う。
だが、それだけでは人は残らぬ。
一度目のわしは、人を信じすぎた。
二度目のわしは、人を駒にしすぎるかもしれぬ。
そのどちらも、滅びる道だ。
官兵衛は目を閉じた。
風が入る。
開いた障子の向こうに、夕焼けの端が見えた。
牢には、あれがなかった。
◇
翌朝、御着の城は朝から落ち着かなかった。
官兵衛に、家中の兵、蔵、書状の流れを調べよという命が下った。
それだけならば、まだよい。
だが、その命が評定の席で出たことが問題であった。
小寺政職が官兵衛を重く用い始めた。
そう見る者がいた。
官兵衛が殿を言葉で追い詰め、役目を奪い取った。
そう見る者もいた。
どちらも半分は正しい。
奪ったのではない。
差し出させたのだ。
その差は、奪う側にとってだけ意味がある。
昼前、再び小さな評定が開かれた。
大広間ではない。
政職の近臣と数名の家老、そして官兵衛だけが呼ばれた。
火鉢が置かれているが、部屋の空気は冷えている。城の中というものは、広くてもどこか息が詰まる。官兵衛は戸口に近い席を選んだ。
誰かがそれを見て、怪訝そうに眉を動かした。
上座に近い席を避けたと思われたかもしれない。
それでよい。
戸が見える場所でなければ、息ができぬ。
「官兵衛」
政職が口を開いた。
「昨夜、そなたに命じた件、さっそく動いていると聞く」
「はっ」
「早いのはよい。だが、家中を騒がせすぎてはならぬ」
柔らかい注意だった。
官兵衛は頭を下げた。
「心得ております」
嘘ではない。
騒がせすぎてはならぬ。
だが、少しは騒がねばならぬ。
水底に沈んだ泥は、棒を入れねば見えない。
「それで、何か見えたか」
政職の問いに、周囲の目が集まった。
早すぎる。
そう思った者が多かった。
昨夜命じられ、今朝には報告できるほどのものなどあるはずがない。
官兵衛は、袖の中で指を軽く握った。
ある。
一度目の記憶がある。
そして、昨夜新介に探らせた小さな事実がある。
未来だけでは足りぬ。
未来を語れば、ただの怪異だ。
今ここにある埃を摘まみ、それを火種に見せねばならぬ。
「殿」
官兵衛は静かに言った。
「昨夜の評定後、城外へ三つの使いが出ております」
広間の空気が、ぴたりと止まった。
「三つ?」
「一つは、赤松方に誼を通じる寺へ。これは以前からのものにございましょう。二つ目は、飾磨津の商人へ。米と塩の値を尋ねる文に見えます。三つ目は――」
官兵衛は少しだけ間を置いた。
反官兵衛派の老臣の頬が動いた。
その男の名は、ここではあえて呼ばない。
呼べば相手は防ぐ。
呼ばずに刺せば、周りが見る。
「西へ向かいました」
「西?」
「はい。毛利と近い者を経て、備前へ抜ける筋にございます」
ざわめきが起きた。
政職の顔色が変わる。
「誰が出した」
官兵衛は頭を下げた。
「まだ名は申しませぬ」
「なぜだ」
「ここで名を挙げれば、その者一人の咎になります。されど問題は一人ではございませぬ」
政職は口を閉じた。
老臣たちが顔を見合わせる。
官兵衛は続けた。
「小寺家中には今、二つの心がございます。東の織田へ傾くべきか。西の毛利へ寄るべきか。どちらにも膝をつかず、播磨の国衆として立つべきか。皆、それぞれに思うところがありましょう。それ自体は罪ではございませぬ」
表向きは、穏やか。
だが、その言葉は逃げ道を塞いでいく。
「罪となるのは、殿の知らぬところで、小寺の名を使って文が出ることでございます」
「小寺の名を?」
政職の声が硬くなった。
「はい」
官兵衛は懐から一枚の紙を取り出した。
まだ書状ではない。
書き損じの紙だ。
文箱から出たものではない。使いが捨てた下書きの端を、新介が拾わせた。
そこにある文字は少ない。
だが、十分だった。
西国御味方。
御内意。
時節至らば。
それだけで、意味は通じる。
今すぐ毛利につくとは書いていない。
だが、毛利にとっては十分な餌となる。
後になって織田へつこうとすれば、この紙片一つで小寺は疑われる。
信長は疑う。
疑った信長は、ただでは済ませぬ。
官兵衛の胸の奥に、冷たい汗が滲んだ。
信長の目が浮かぶ。
あの火のような目。
疑いを抱いた時、相手がどれほど忠義を尽くしたかなど見ぬ。
燃えるか。
燃えぬか。
ただそれだけを見る男。
松寿丸。
一瞬、その名が心の奥で跳ねた。
官兵衛は息を止めた。
今は違う。
まだ、あの子は奪われていない。
まだ間に合う。
「これは……」
政職が紙片を見る。
反官兵衛派の老臣が声を荒げた。
「そのような紙片、どこで拾ったかも分からぬ。官兵衛殿、家中を疑うにも程がある」
「疑ってはおりませぬ」
官兵衛はすぐに返した。
「疑う段では、もう遅いからです」
老臣が言葉に詰まる。
官兵衛は畳に手をつき、政職へ向き直った。
「殿。今、この紙を書いた者を罰すれば、家中は東西に割れます。毛利へ心を寄せる者は怯え、織田へ心を寄せる者は勝ったと思う。そうなれば、小寺の評定は外の敵と戦う前に内で裂けましょう」
「では、捨て置けと申すか」
「いいえ」
官兵衛は顔を上げた。
「殿の名で、先に文を出すべきです」
「どこへ」
「赤松、別所、浦上、そして飾磨津、室津、英賀の有力な者どもへ」
部屋の中に、さらにざわめきが広がった。
「それでは広すぎる」
「広く出すのです」
官兵衛の声は静かだった。
「小寺は東西いずれにも軽々しく膝をつかぬ。ただし、播磨を戦場にする者を許さぬ。諸家の行き来、米と塩の流れ、港の荷に乱れがあれば、小寺が仲立ちする。そう殿の名で触れるのです」
老臣の一人が鼻で笑った。
「仲立ち? 小寺が播磨の柱になるとでも?」
「ならねば、小寺は柱に縛られる縄になります」
「何だと」
「織田につけば織田の先手。毛利につけば毛利の盾。赤松に寄れば赤松の古き名に呑まれ、別所に寄れば東播磨の都合で振り回される。どれを選んでも、ただ選ぶだけなら小寺は使われます」
使われる。
その言葉が、官兵衛自身の胸にも刺さった。
秀吉の顔が浮かぶ。
あの笑顔。
あの手。
肩を叩き、褒め、頼り、最後には遠ざける。
官兵衛は瞼の奥で、その顔を押し潰した。
まだ会っていない。
まだ、あの猿はこの場にいない。
今見るべきは、目の前の迷う主君だ。
「殿」
官兵衛は声を低くした。
「迷うことは悪ではございませぬ。されど、迷っていると見られることは、乱世では傷になります」
政職の顔がわずかに強張った。
斬りすぎたか。
いや、これでよい。
この男は、傷つかねば決められない。
「先に殿の文を播磨へ通せば、家中の勝手な文はすべて偽物になります。誰かが毛利へ内意を伝えても、織田へ誼を示しても、殿の公の文と違えば、その者が小寺を騙ったことになる」
老臣たちの顔色が変わった。
ようやく気づいたのだ。
官兵衛は、毛利寄りの者をすぐには斬らない。
そのかわり、今後勝手に動けば、主君の名を騙った逆臣にできる形を作ろうとしている。
刃は抜いていない。
だが、首筋にはもう冷たいものが当たっていた。
「官兵衛殿」
先ほどの老臣が低く言った。
「それでは、家中の者は何も言えなくなる」
「言えます」
官兵衛はその男を見た。
「評定で言えばよいのです」
老臣の喉が鳴った。
「殿の前で、堂々と。毛利へ寄るべきと申したいなら申せばよい。織田へつくべきと申したいなら申せばよい。別所と結ぶべきと申したいなら申せばよい。私は、それを咎とは申しませぬ」
そこで一度、官兵衛は言葉を切った。
「ただし、殿の背後で、小寺の名を売ることは許さぬ」
静かだった。
怒鳴っていない。
だが、広間の中でその言葉だけが重く落ちた。
政職は黙っていた。
迷っている。
また迷っている。
官兵衛には、その迷いの形が見えた。
家中を締めれば、反発が出る。
締めねば、外へ漏れる。
織田も恐い。
毛利も恐い。
播磨の国衆も信用ならない。
だから、今日決めずに済ませたい。
一度目の政職なら、おそらくそうした。
そして、先へ送った迷いは、やがて膿む。
官兵衛は、静かに一歩進めた。
「殿」
「何だ」
「文は、私が草案を作ります」
周囲が息を呑んだ。
「そなたが?」
「はい。殿の御意を受け、播磨へ示す文を整えます。その上で、家老衆にご覧いただけばよろしい」
老臣たちの顔が少し緩む。
自分たちも見るならば、完全に官兵衛へ奪われるわけではない。
そう思ったのだろう。
甘い。
草案を作る者が、言葉の骨を決める。
骨が決まれば、肉の付き方も決まる。
そのことに、まだ気づかない。
「よかろう」
政職が言った。
その瞬間、官兵衛は頭を下げた。
「承りました」
第二の鎖が、手の内に入った。
兵と蔵と書状の流れ。
そして、播磨へ出す小寺政職の公の言葉。
まだ小さい。
だが、小寺家の舌先を、官兵衛が握った。
◇
評定が終わると、老臣たちはそれぞれの顔を隠しながら退いた。
怒り。
警戒。
安堵。
計算。
それぞれが、それぞれの色を持っている。
官兵衛は、それを一つずつ胸の内に置いた。
誰が不満を抱いたか。
誰が官兵衛へ近づくか。
誰が今夜また文を出すか。
誰が文を出せなくなったことで、別の手を使うか。
人の心は水に似ている。
塞げば、別の低いところへ流れる。
ならば、流れる先に壺を置けばよい。
廊下へ出ると、新介が待っていた。
「殿」
こちらの殿は、政職ではない。
黒田家臣が主を見る時の呼び方だった。
「どうした」
「昨夜の使いの件ですが、もう一つ分かりました」
官兵衛は足を止めた。
「申せ」
「西へ向かった使い、途中で馬を替えております。城下の外れで一度、草鞋も替えたと」
「草鞋を」
「はい。泥がついたものを、わざわざ捨てたそうにございます」
官兵衛は目を細めた。
泥。
道を隠すためか。
それとも、どこの道を通ったかを見られたくなかったか。
一度目の記憶の底で、何かが小さく鳴った。
毛利へ傾く者。
浦上を経る筋。
備前へ抜ける道。
その先に、誰がいる。
官兵衛は、すぐには答えを出さなかった。
未来を知っているからといって、今の人間が同じ道を選ぶとは限らない。
決めつければ、足を掬われる。
それでも。
これは、使える。
「新介」
「はっ」
「捨てられた草鞋を拾わせろ」
「草鞋を、でございますか」
「泥がついているなら、道が分かる」
新介は驚いた顔をした。
官兵衛は続けた。
「それと、使いの者を捕らえるな。尾けるだけでよい。帰ってきても、問い詰めるな」
「なぜでございますか」
「泳がせる」
その一言に、新介の表情が変わった。
恐れではない。
まだ理解できぬものを見る顔だ。
官兵衛は、その顔を見ながら思った。
そうだ。
今のわしは、若い家臣には分からぬ。
分からぬままでよい。
すべてを分からせれば、人は重さに潰れる。
「殿は、誰が裏にいるか、お分かりなのですか」
新介が小さく問うた。
官兵衛は少し黙った。
分かっている。
分かっていない。
一度目の記憶がある。
だが、それに溺れれば、二度目を失う。
「分からぬ」
官兵衛は言った。
「だから、分かる形にする」
新介は深く頭を下げた。
「承りました」
その背を見送りながら、官兵衛は廊下の柱に手を置いた。
木の感触がある。
牢の石ではない。
冷たくない。
だが、指の奥ではまだ鎖が鳴っている。
有岡の牢。
荒木村重。
信長の疑い。
秀吉の顔。
松寿丸の命。
すべてが、まだ遠い。
遠いが、道はすでにつながっている。
ならば、一つずつ潰す。
牢に続く道を。
人質に続く道を。
使われる軍師に続く道を。
官兵衛は、開け放たれた廊下の向こうに目を向けた。
御着の城は、まだ小寺の城である。
誰もがそう思っている。
だが、今日から小寺の言葉は、官兵衛の筆で外へ出る。
今日から小寺の迷いは、官兵衛の形をして播磨へ広がる。
今日から小寺家中で勝手に動く者は、官兵衛が置いた壺へ流れ込む。
まだ、誰も気づいていない。
政職も。
老臣たちも。
反官兵衛派も。
黒田の若い家臣でさえも。
官兵衛は小さく息を吐いた。
「まずは、舌だ」
兵を握る前に、言葉を握る。
城を奪う前に、主君の迷いを握る。
天下を盗るには、まだ遠い。
だが、最初の一手は打った。
小寺家は今、自らの口で、黒田官兵衛の作った言葉を語り始める。




