第3話 器にあらず
翌朝、官兵衛は夜明け前から筆を取っていた。
障子は開けてある。
まだ冷えの残る風が、部屋の中へ細く入り込んでいた。燭台の火が揺れ、墨の匂いが湿った朝の空気に混じる。
新介は部屋の隅に控えていた。
昨夜拾わせた草鞋が、布に包まれて官兵衛の前に置かれている。
ただの草鞋である。
泥がこびりつき、紐の片方が切れかけている。歩き潰された安物で、見ようによっては厩の隅にでも捨てられていそうなものだった。
だが、官兵衛はそれをしばらく見ていた。
泥は語る。
人は嘘をつく。
書状は焼ける。
口約束は変わる。
だが、泥は踏まれた場所を忘れない。
「赤い」
官兵衛が呟いた。
新介が顔を上げる。
「泥でございますか」
「城下の泥ではない。御着の周りなら、もっと黒い。これは西へ抜ける道の泥に近い」
「では、やはり備前筋へ」
「まだ断じるな」
官兵衛は草鞋から目を離さずに言った。
「断じた瞬間、人は見たいものだけを見るようになる」
「はっ」
「だが、疑うには十分だ」
官兵衛は草鞋を包ませた。
そのまま紙へ向き直る。
すでに何枚かの草案ができていた。
一枚は強い。
小寺家が播磨の諸家に対し、東西いずれにも軽々しく膝をつかず、国中の通行、米、塩、港の荷を乱す者を許さぬと示す文。
一枚は柔らかい。
近隣諸家の旧誼を重んじ、近年の騒がしき世情にあって互いに誤解なきよう、文の往来を正すとした文。
一枚は弱い。
誰にも敵意を向けぬ。誰にも強く出ぬ。ただ時勢を見て、今後とも懇意に願うという、何も言っていないに等しい文。
官兵衛は三枚を並べた。
一度目の生ならば、迷わず強い一枚を出すよう進言したかもしれない。
だが今は違う。
正しい策が通るとは限らない。
正しい言葉は、弱い主君の喉には硬すぎる。
硬すぎる骨を飲ませれば、喉に刺さる。
ならば、飲み込める大きさに切り、飲んだ後で腹の中から効くようにすればよい。
「殿」
新介が静かに声をかけた。
「その三つ、どれを政職様へ」
「全部だ」
「全部、でございますか」
「人は選んだと思えば、己のものにしたがる」
官兵衛は筆を置いた。
「こちらが一つだけ差し出せば、押しつけられたと思う。三つ差し出せば、選んだと思う。たとえ、どれを選ばせるかをこちらが決めていてもな」
新介は黙った。
理解しきれぬ顔だった。
それでよい。
まだ、この若い家臣には早い。
いや。
本当は、誰にも早いのかもしれぬ。
主君に選ばせる形で、選ぶ道そのものを奪う。
これは忠臣のすることではない。
官兵衛は己の手を見た。
まだ若い手だ。
この手は、主を支える手であるべきだった。
だが、支えた先に何があるかを、官兵衛は知っている。
迷う主君。
割れる播磨。
荒木の裏切り。
信長の疑い。
有岡の闇。
松寿丸の命。
あの道へ戻るくらいなら、忠義などいくらでも焼いてやる。
火をつけるのは、信長だけでよい。
◇
昼前、官兵衛は政職の前へ呼ばれた。
広間ではない。
奥に近い小部屋である。
庭に面してはいるが、障子は半ば閉じられていた。官兵衛は部屋に入った瞬間、わずかに息が詰まった。
閉じている。
ただそれだけで、喉の奥に冷たい手が入る。
有岡の闇が、畳の下から滲み出す。
湿った藁。
腐った水。
石の冷たさ。
遠い光。
違う。
ここは御着だ。
まだ牢ではない。
官兵衛は静かに頭を下げ、戸口に近い席へ座った。
政職はそれを見たが、何も言わなかった。
小寺政職の前には、数名の老臣が並んでいる。
昨日から官兵衛へ不快を隠さぬ者もいた。反対に、まだ態度を決めかねている者もいる。
迷う主君の下には、迷う家臣が集まる。
官兵衛は、そう思った。
「官兵衛」
政職が言った。
「文はできたか」
「はっ。三つ、草案を整えました」
「三つ?」
「はい。強き文、柔らかき文、そして穏やかすぎる文にございます」
政職の眉が動いた。
「穏やかすぎる、とは」
「何も決めぬ文にございます」
老臣の一人が顔をしかめた。
「官兵衛殿、物の言いようがあろう」
「失礼いたしました。されど、そういう文もまた必要かと存じます。殿がどの危うさを取られるか、比べていただくために」
「危うさを取る?」
政職が問う。
官兵衛は三枚の紙を膝前へ置いた。
「策には、必ず毒がございます。毒のない策は、たいてい薬にもなりませぬ」
部屋の空気がわずかに硬くなった。
官兵衛はまず、強い文を差し出した。
政職が目を通す。
読み進めるほどに、その顔は険しくなっていった。
「これは強すぎる」
予想通りの言葉だった。
「小寺が播磨の通行と港を正すなどと書けば、赤松も別所も面白くあるまい」
「はい」
「毛利にも織田にも、こちらが構えたように見える」
「はい」
「では、なぜこれを持ってきた」
「殿が、この文を選ばぬためにございます」
政職は目を上げた。
老臣たちも官兵衛を見た。
官兵衛は頭を下げる。
「強き文の危うさは、すぐ見えます。敵を作ることです。されど、弱き文の危うさは見えにくい。味方を作らぬことにございます」
次に、柔らかい文を出した。
政職はそれを読む。
先ほどより顔は和らいだ。
老臣たちも覗き込み、互いに小さく頷く。
近隣諸家との旧誼。
米、塩、港荷の乱れを避けること。
小寺は東西の騒乱に軽々しく乗らず、播磨の諸家と誤解なきよう文を通わせること。
強すぎない。
だが、返書は小寺家へ集まる。
さらに文の末には、小さく一文を入れてある。
諸家よりの返答、ならびに道中港津の乱れについては、黒田官兵衛が承り、政職へ取り次ぐ。
これが骨だ。
文全体は柔らかい。
だが、その骨は官兵衛の手にある。
諸家の返事。
国衆の本音。
港の乱れ。
米と塩の流れ。
それらが、すべて官兵衛の前を通る形になる。
「これならば、角は立ちにくいか」
政職が呟いた。
老臣の一人が頷く。
「強すぎず、弱すぎず。よろしいのでは」
別の老臣が紙の末尾を指で叩いた。
「ただ、ここだ。返答を官兵衛殿が取り次ぐというのは、少し重くないか」
来た。
官兵衛は心の中で目を細めた。
そこを誰も気づかぬようでは困る。
気づいた上で通すから、意味がある。
「殿の御前へ、諸家からの文がばらばらに入れば、誰の言がまことか見えにくくなります」
官兵衛は静かに言った。
「私は文を預かり、写しを取り、筋ごとに分けるだけにございます。最後に決められるのは、殿です」
最後に決める。
その言葉に、政職は少し安堵した顔をした。
官兵衛はそれを見ていた。
決める者でありたい。
だが、決める重さは背負いたくない。
この男の弱さは、そこにある。
「なるほど」
政職は頷いた。
「官兵衛が取りまとめ、わしが決める。ならばよかろう」
老臣たちの間に、微妙な空気が流れた。
完全には納得していない。
しかし、主君が頷いた以上、強くは押し返せない。
官兵衛は、その空気も覚えた。
誰が不満を飲み込んだか。
誰が目を伏せたか。
誰が官兵衛ではなく、政職の顔を見たか。
人の心は、声より先に目に出る。
「では、この柔らかい文で進める」
政職が言った。
官兵衛は頭を下げた。
「承りました」
そして、最後の一枚。
弱い文が、まだ残っている。
政職はそれを手に取った。
読む。
少しだけ、顔が緩む。
その表情を見た瞬間、官兵衛の胸に冷たいものが落ちた。
この男は、本当ならこれを選びたいのだ。
何も決めぬ文。
誰にも嫌われぬ文。
東にも西にも、赤松にも別所にも、浦上にも、ただ当たり障りなく頭を下げるだけの文。
それは、政職にとって一番優しい文だった。
だが、乱世は優しい文を読まない。
弱い文は、弱い家の匂いを放つ。
匂いを嗅いだ狼は、必ず寄ってくる。
「これは……」
政職が言いかけた。
官兵衛は言葉を待った。
主君が自ら、その弱さを口にするかどうか。
「これは、穏やかでよい」
老臣の一人がすぐに口を挟んだ。
「近隣を刺激せずに済む。まずはこちらで様子を見るのも手かと」
政職の目が揺れた。
迷った。
また、迷った。
官兵衛は、その揺れを見ていた。
この場で押し切ることはできる。
強い言葉で、弱い文の危うさを斬ればよい。
だが、それでは政職は傷つく。
傷ついた主君は、官兵衛を恐れる。
恐れは早すぎる。
まだ、政職には表の顔として立ってもらわねばならない。
小寺の旗は使える。
小寺の名は、まだ播磨に通る。
壊すには早い。
喰うには、まず柔らかく煮ねばならぬ。
「殿」
官兵衛は静かに言った。
「こちらの文をお選びになるなら、それも一策にございます」
政職が少し驚いた顔をした。
「よいのか」
「はい。ただし、その場合は、家中の文の出入りをより厳しく改める必要がございます」
「なぜだ」
「外へ出す文が弱ければ、家中の者はそれぞれに補おうとします。毛利へ寄りたい者は毛利へ、織田へ寄りたい者は織田へ、赤松へ戻りたい者は赤松へ。殿の文が何も決めぬ分、家臣が勝手に決め始めます」
政職の手が止まった。
「では」
「弱い文を選ぶなら、内は強く締める。外へやわらかく示すなら、内の勝手を許さぬ。外も内も柔らかくすれば、小寺は水になります」
「水か」
「はい。器があれば形を保てます。器がなければ、ただ低きへ流れるのみ」
器。
その言葉に、政職は小さく息を呑んだ。
官兵衛は伏せた目の奥で、己の言葉を噛みしめていた。
言ってしまった。
この男は器ではない。
小寺という器は、播磨の水を保てない。
だが、まだ本人には気づかせない。
今はただ、選ばせる。
「……柔らかい文でよい」
政職は、二枚目の文を置いた。
「ただし、表現はいくらか和らげよ。小寺が上から物を言うように見えてはならぬ」
「承知いたしました」
「それと、返書をそなたが取り次ぐ件も、あくまで一時のことだ。よいな」
「もちろんにございます」
嘘ではない。
一時とは、どれほどの長さを指すのか。
それを決めるのも、結局は力を持つ者である。
官兵衛は頭を下げた。
政職は選んだ。
自分で選んだと思っている。
ならば、それでよい。
◇
評定の後、官兵衛は政職に一人だけ残された。
老臣たちが退き、部屋の空気が少し軽くなる。
だが、障子はまだ半ば閉じていた。
官兵衛は、そこへ目を向けないようにした。
「官兵衛」
「はっ」
「そなた、近頃少し変わったな」
政職の声は穏やかだった。
叱責ではない。
探る声でもない。
むしろ、案じている声に近かった。
「そう見えますか」
「見える。昨日から、そなたの言葉は刃に似ておる」
「刃でなければ、乱世は裂けませぬ」
「それだ」
政職は苦く笑った。
「昔のそなたなら、そのようには言わなんだ。もう少し、相手が飲み込みやすいように言うた」
官兵衛は黙った。
政職は続ける。
「わしは、そなたの才を疑ってはおらぬ。むしろ頼みにしておる。だが、家中には古き者も多い。そなたが急ぎすぎれば、反発も出よう」
「承知しております」
「本当にか」
政職は官兵衛を見た。
その目には、迷いと不安があった。
そして、わずかな信頼もあった。
それが、官兵衛には痛かった。
一度目の生で、自分はこの男を支えようとした。
小寺を守り、播磨を渡り、より強き者へ仕える道を探った。
その結果、何を得た。
迷いに巻き込まれ、荒木のもとへ赴き、牢に落ち、信長に疑われ、松寿丸の命まで他人の手に乗せた。
政職がすべて悪いわけではない。
それは分かっている。
この男は、悪人ではない。
情もある。
家を思う心もある。
官兵衛を頼る気持ちも、本物だろう。
だが、乱世で本物の情だけでは足りない。
足りない主君に命を預けるのは、家族を牢に差し出すのと同じだ。
「殿」
官兵衛は静かに言った。
「私は、小寺を守るために急いでおります」
半分は真である。
小寺が崩れれば、黒田も巻き込まれる。
小寺を守るふりは、当面必要だ。
だが、もう半分は違う。
官兵衛が守ろうとしているのは、小寺ではない。
黒田だ。
松寿丸だ。
そして、二度と誰にも握らせぬ己の運命だ。
「ならばよい」
政職は息を吐いた。
「わしは、そなたを信じておる」
その一言に、官兵衛の胸の奥で何かが軋んだ。
信じておる。
それは、かつて欲しかった言葉だったかもしれない。
だが今は、違う。
信じるという言葉は、鎖になる。
信じられた者は、相手の期待に縛られる。
信じた者は、相手の裏切りに傷つく。
どちらも、もう要らぬ。
「ありがたきお言葉にございます」
官兵衛は頭を下げた。
顔は見せなかった。
見せれば、目の奥にあるものを読まれるかもしれない。
政職はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「織田も毛利も、大きすぎる」
「はい」
「小寺は、小さき家だ」
「はい」
「小さき家は、強き者の間で生きねばならぬ。わしは、家を残したいのだ」
その言葉は本心だった。
官兵衛は分かった。
政職は家を残したい。
血を残したい。
家臣を守りたい。
播磨の波を、できれば荒立てずに越えたい。
だが、それは願いであって策ではない。
願いだけを抱えた主君は、いずれ願いごと敵に奪われる。
「そのために、そなたの知恵が要る」
政職は言った。
「頼むぞ、官兵衛」
官兵衛は深く頭を下げた。
「はっ」
その一声は、臣下の返事だった。
だが、心の底では別の言葉が落ちていた。
器にあらず。
この男では、播磨を保てぬ。
この男では、黒田を守れぬ。
この男では、松寿丸を守れぬ。
この男では、わしはまた牢に落ちる。
ならば、支えぬ。
立てるだけだ。
旗として。
名として。
小寺という器が割れる前に、その中身を黒田の手へ移す。
官兵衛は、ゆっくりと顔を上げた。
政職はまだ、官兵衛を信じている顔をしていた。
それを見て、官兵衛は初めてはっきりと悟った。
一度目の忠義は、ここで終わったのだと。
◇
部屋を出ると、廊下の空気は冷たかった。
障子の外から光が差している。
官兵衛は一度立ち止まり、深く息を吸った。
胸の奥に残っていた息苦しさが、少しだけ薄れる。
新介が廊下の端で待っていた。
「殿」
「文の支度をせよ」
「柔らかい方でございますか」
「そうだ」
「弱くはございませぬか」
新介にしては、踏み込んだ問いだった。
官兵衛はその顔を見た。
迷いがある。
だが、ただ従うだけではなく、考えようとしている。
一度目の生では、見落とした顔だ。
「弱い文ほど、返事が来る」
「返事が」
「強い文には、身構える。弱い文には、侮って本音を書く。柔らかい文には、近づいてくる」
「では、狙いは」
「返書だ」
官兵衛は歩き出した。
「誰が早く返すか。誰が遅れるか。誰が米の話をし、誰が兵の話を避けるか。誰が小寺を立て、誰が探るか。文とは、相手が己の腹を少しだけ見せる穴だ」
新介は黙ってついてくる。
「では、殿は政職様に、あえて柔らかい文を選ばせたのですか」
官兵衛は答えなかった。
廊下の先に、外の光が見える。
風が吹き込んでいた。
閉じていない。
それだけで、足が前へ出る。
「新介」
「はっ」
「小寺家中で、今夜文を出さぬ者を見よ」
「出す者ではなく、出さぬ者を、でございますか」
「そうだ。昨日まで動いていた者が、今日動かぬならば、恐れたということだ。恐れた者は、次に人へ会う。人に会えば、顔に出る」
「承りました」
「それと、飾磨津と室津へ人を出せ。商人には、今回の文を早く見せすぎるな。噂だけを先に流す」
「噂を」
「小寺が播磨の米と塩に口を出すらしい、と」
新介が息を呑んだ。
「それでは、商人どもが騒ぎます」
「騒がせる」
官兵衛は淡々と言った。
「騒げば、誰がどこと繋がっているか浮く」
新介は深く頭を下げた。
その目に、わずかな恐れがあった。
官兵衛はそれを見逃さなかった。
恐れられ始めている。
早い。
だが、避けられぬ。
人を駒として見れば、駒もまた盤上の冷たさに気づく。
官兵衛は一瞬、口を開きかけた。
言うべきか。
案ずるな、と。
そなたを捨て駒にはせぬ、と。
だが、その言葉は喉で止まった。
約束できぬことを言えば、それは慰めではなく嘘になる。
そして自分は、必要ならこの若者も使う。
守るために。
勝つために。
牢へ戻らぬために。
天下を盗るために。
官兵衛は視線を前へ戻した。
「行け」
「はっ」
新介が走り去る。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、官兵衛は廊下に一人残った。
御着の城は、まだ小寺の城である。
政職は、まだ主君である。
官兵衛は、まだ忠臣である。
誰の目にも、そう見えている。
だが、官兵衛の中では、もう一つの線が引かれていた。
小寺政職を守るのではない。
小寺政職を立てて使う。
小寺家を救うのではない。
小寺家を器として、中身を黒田へ移す。
迷う主君の手から、舵を奪う。
それでも表では、臣下として頭を下げる。
祈る口で天下を数えた男に、それくらいの嘘は容易かった。
官兵衛は外の空を見た。
まだ若い空だった。
まだ戦火に焼かれていない。
まだ毛利の網も、織田の火も、秀吉の手も届いていない。
だが、いずれ来る。
必ず来る。
ならば、その前に奪う。
官兵衛は低く呟いた。
「殿。あなた様では、足りませぬ」
誰にも聞こえぬ声だった。
だが、その一言で、一度目の黒田官兵衛は完全に小寺家から離れた。
残ったのは、礼儀正しく頭を下げる若き家臣の顔をした、壊れた如水だけだった。




