表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『如水逆行~壊れた軍師・官兵衛、今度こそ天下を盗る~』  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/23

第1話 死に際の如水、若き官兵衛に戻る

 慶長九年、三月二十日。


 伏見の黒田屋敷には、雨の匂いが残っていた。


 庭の苔は濡れ、軒から落ちる雫が、ぽたり、ぽたりと石を叩いている。春というにはまだ冷たく、冬というにはどこか緩い。その半端な空気の中で、黒田如水は死の床にあった。


 齢五十九。


 戦国を泳ぎ、牢に腐り、天下人に仕え、九州で最後の勝負を仕掛け、それでも天下には届かなかった男の終わりとしては、部屋の中は驚くほど静かだった。


 枕元に置かれた祈祷文。


 胸の上に乗せられたロザリオ。


 その冷たい珠に、痩せた指が触れていた。


 如水の呼吸は細い。胸がわずかに上下するたび、骨の浮いた喉が小さく鳴った。


 かつて牢の中で朽ちかけた脚は、今も形ばかり布団の下にある。だが、そこに力はなかった。槍も太刀も采配も握らぬまま、天下を動かした男の身体は、ただ一人の病人として薄い布団の上に横たわっていた。


 周囲には人がいた。


 声を殺して泣く者。


 息を呑んで主の最期を見守る者。


 何か言いたげに唇を噛む者。


 だが、如水はその顔を一つ一つ見ようとはしなかった。目を向ければ情が残る。情が残れば、死ぬにも邪魔になる。


 祈りは、とうに済ませた。


 辞世も残した。


 おもひをく 言の葉なくて つゐに行く

 道はまよはじ なるにまかせて


 言葉にすれば、綺麗な終わりであった。


 迷わぬ。


 なるにまかせる。


 そう言い置いて逝くのが、軍師らしい終わりなのかもしれぬ。


 だが。


 如水の胸の奥底で、まだ一つ、黒い火が消えていなかった。


 ――嘘だ。


 乾いた唇の奥で、声にならぬ声が漏れた。


 なるにまかせる、などと。


 わしは一度でも、まことに任せたか。


 任せたのではない。


 任せられたのだ。


 小寺に。


 織田に。


 羽柴に。


 豊臣に。


 そして最後には、徳川に。


 己の手で盤を作ったつもりで、いつも誰かの盤の上にいた。


 荒木村重を説きに行った。


 牢に落ちた。


 信長に疑われた。


 松寿丸の首が刎ねられたと思った。


 秀吉に拾われ、使われ、恐れられ、遠ざけられた。


 九州で兵を起こした時、天下の隙間は確かに見えた。


 関ヶ原で東西がぶつかり、諸将が畿内と関東に目を奪われている間、九州には一瞬だけ、空白が生まれた。


 あの時。


 もう少し早く。


 もう少し大きく。


 もう少し、ためらわずに動いていれば。


 如水の指がロザリオを握った。


 珠が骨ばった指の中でかすかに鳴った。


 デウスよ。


 わしは罪深い。


 祈りの中でさえ、まだ天下を思う。


 救いを願う口で、奪えなかった国を数えている。


 だが、仕方あるまい。


 これが黒田官兵衛であり、黒田如水であった。


 信長は火だった。


 近づけば力を得る。だが、触れれば焼かれる。


 秀吉は飢えた猿だった。


 笑い、泣き、すがり、抱き、最後には使い潰す。


 家康は沼だった。


 静かで、深く、足を踏み入れた者を音もなく沈める。


 毛利は網だった。


 一筋と思えば十筋、十筋と思えば百筋。気づけば手足が絡め取られている。


 では、わしは何だった。


 軍師か。


 僧か。


 敗者か。


 天下を見ながら手を伸ばしきれなかった、臆病者か。


 如水の瞼が震えた。


 部屋の隅が暗い。


 その暗さが、ふと別の闇に変わった。


 有岡の牢。


 湿った土。


 腐った藁。


 冷えた石。


 膝を抱えることもできぬ狭さ。


 光が遠い。


 声が遠い。


 人の足音だけが近い。


 あの闇で、わしは一度死んだ。


 あの闇から出た時、黒田官兵衛はもう元には戻らなかった。


 如水は薄く目を開けた。


 天井の木目がぼやけて見える。


 誰かが「如水様」と呼んだ。


 遠い。


 すべてが遠い。


 妻も子も家臣も、今となっては向こう岸の影であった。


 ただ一つだけ、鮮やかに浮かぶ顔がある。


 松寿丸。


 まだ幼かった我が子。


 信長の疑いの前で、首を刎ねられたと思ったあの子。


 竹中半兵衛が命を賭けて隠してくれた、黒田の灯。


 あの時の恐怖だけは、老いても薄れなかった。


 天下を奪えなかった悔いよりも。


 牢に押し込められた憎しみよりも。


 我が子の命を他人の手に握られた記憶は、如水の魂に深く刺さっていた。


 もう、嫌だ。


 誰にも握らせぬ。


 小寺にも。


 信長にも。


 秀吉にも。


 家康にも。


 黒田の命運を、誰にも預けぬ。


 如水の呼吸が止まりかけた。


 周囲の気配が揺れる。


 すすり泣きが大きくなる。


 その中で、如水は最後に思った。


 まだだ。


 わしは、まだ一度も天下を盗っておらぬ。


 祈祷文の文字が滲む。


 ロザリオの珠が冷える。


 雫の音が消える。


 そして、黒田如水は死んだ。


     ◇


 暗い。


 狭い。


 湿っている。


 違う。


 ここは牢ではない。


 だが、闇があった。


 如水は目を開けようとした。開かぬ。まぶたが重い。耳の奥で誰かの声がする。


「……殿」


 誰だ。


「殿。いかがなされました」


 殿。


 その呼び声が、耳の奥に深く入った。


 如水ではない。


 官兵衛。


 とうに遠くへ置いてきたはずの名が、身体の奥から立ち上がる。


「殿」


 今度は、はっきり聞こえた。


 如水は目を開けた。


 白い光が入ってきた。


 障子越しの昼の光だった。


 伏見の死の床ではない。


 湿った牢でもない。


 畳の匂い。


 墨の匂い。


 人の汗。


 古い木。


 そして、播磨の空気。


 如水は息を吸った。


 胸が、大きく膨らんだ。


 痛くない。


 喉が焼けていない。


 肺が重くない。


 指が動く。


 腕が動く。


 足が――。


 足が、動いた。


 如水は布団ではなく、評定の席に座っていた。


 周囲には小寺家の者たちがいる。何人かは怪訝そうにこちらを見ていた。何人かは、今まさに口論を続けようとしていた顔のまま固まっている。


 少し離れたところには、黒田の若い家臣も控えていた。先ほど声をかけたのは、その者であろう。


 その上座に、小寺政職がいた。


 若い。


 いや、若いというほどでもない。だが、如水の記憶にある、迷いに迷って家を傾けた男よりも、まだ顔に余裕がある。


 その顔を見た途端、如水の内側で冷たいものが広がった。


 ああ。


 この男か。


 一度目のわしが、主と呼んだ男。


 播磨という荒波の中で、舵を握るには指が細すぎた男。


 悪人ではない。


 愚者でもない。


 ただ、足りぬ。


 乱世で足りぬということは、それだけで罪だ。


「官兵衛、顔色が悪いぞ」


 政職が言った。


 声には気遣いがある。


 だが、その気遣いの奥にあるものまで、如水には見えた。


 決められぬ者の優しさ。


 責を取らぬ者の柔らかさ。


 刃を抜かぬまま人を死なせる者の温さ。


 如水は返事をしようとした。


 だが、声より先に手が震えた。


 若い手だった。


 皺がない。


 骨ばってはいるが、老いの乾きがない。


 爪も、指も、皮膚も、すべてが違う。


 有岡で折れ、伏見で冷えたはずの身体ではない。


 如水はゆっくりと己の足を見た。


 動く。


 痛みがない。


 牢で傷めた痕もない。


 布に隠れた膝も、足首も、まだ若い男のものだった。


 喉の奥で笑いが起きかけた。


 だが、笑わなかった。


 笑えば壊れる。


 今ここで笑えば、周囲は官兵衛が乱心したと思う。


 それでは早すぎる。


「……少し、目眩がしただけにございます」


 声が出た。


 若い。


 己の声が若い。


 如水は、その響きに吐き気を覚えた。


 死の床の魂が、若い喉を使っている。


 まるで墓の中の骨に、無理やり笛を吹かせているようだった。


「無理はするな。そなたには、まだ話してもらわねばならぬ」


 政職はそう言い、周囲を見た。


 評定の空気が戻る。


 誰かが赤松の名を出した。


 誰かが別所の動きを語った。


 浦上。


 毛利。


 織田。


 播磨の国衆。


 東から伸びる火。


 西からかかる網。


 その言葉一つ一つが、如水の中で過去と重なった。


 知っている。


 すべて知っている。


 この後、播磨は割れる。


 小寺は迷う。


 別所は動く。


 荒木村重は裏切る。


 信長は疑う。


 秀吉は笑いながら近づき、こちらの才を抱きしめるように使い、やがて恐れて遠ざける。


 松寿丸は人質となる。


 わしは有岡に入る。


 牢に落ちる。


 腐る。


 足が壊れる。


 心も、そこで一度壊れる。


 如水の呼吸が浅くなった。


 部屋の隅が暗い。


 そこに、牢の闇がある気がした。


 違う。


 ここは評定の間だ。


 壁は開く。


 障子もある。


 人もいる。


 鎖はない。


 だが、身体は覚えていた。


 閉じられる恐怖。


 光を奪われる恐怖。


 誰かの都合で、生かされる恐怖。


「官兵衛殿」


 小寺家の老臣が声をかけた。


「いかがされた。先ほどより、ただならぬご様子だが」


 如水は目だけを動かし、その男を見た。


 名は知っている。


 一度目では、さほど大きな役を果たさず、やがてどこかで消えた男。


 だが今、その男は若き官兵衛を案じているのか、探っているのか、まだ定まらぬ顔をしていた。


 生きている。


 この場の者たちは、まだ己の末路を知らぬ。


 如水だけが知っている。


 誰が迷い。


 誰が裏切り。


 誰が逃げ。


 誰が死ぬか。


 ならば。


 如水は静かに息を整えた。


 この場は牢ではない。


 だが、小寺家もまた牢だ。


 主家という名の牢。


 忠義という名の鎖。


 迷う主君に仕える限り、黒田の命はいつでも他人の手に渡る。


 一度目のわしは、それを忠義と呼んだ。


 二度目は違う。


 牢には入らぬ。


 人質にも出さぬ。


 使われるだけの軍師にはならぬ。


 政職がこちらを見ていた。


「官兵衛、そなたはどう見る」


 その問いに、評定の間が静まった。


 若き黒田官兵衛の才は、すでに小寺家中で知られている。だが、それはあくまで才人としてのものだった。主君を支え、家を守り、危うい播磨をどうにか渡るための知恵。


 だが、今ここに座っているのは違う。


 死の床から戻った如水。


 有岡の闇を知る男。


 秀吉の天下を見た男。


 関ヶ原で天下の隙間を見ながら届かなかった男。


 祈りながらなお天下を欲した、壊れた軍師。


 如水は顔を上げた。


 政職を見る。


 家臣たちを見る。


 そして、まだ誰にも見えぬ未来の戦場を見た。


「播磨は、待てば裂けます」


 穏やかな声だった。


 若い官兵衛らしい、礼を失わぬ声。


 だが、その言葉に含まれた冷たさに、何人かが眉を動かした。


「裂ける、とは」


 政職が問う。


「東の織田は、いずれ播磨を欲します。西の毛利は、播磨を盾と見ます。赤松、別所、浦上、いずれも己の家を守るために動く。誰も小寺のためには動きませぬ」


「言い過ぎではないか」


 反官兵衛派の一人が低く言った。


 如水はその男を見た。


 一度目でも、似たようなことを言った男だった。


 小寺の面目。


 旧き家格。


 播磨の誇り。


 そういう薄い紙を鎧と思い込み、火の前に立つ者。


 如水は頭を下げた。


「言い過ぎで済むなら、それが一番にございます」


 柔らかい言い方だった。


 だが、退かない。


「されど、敵は我らの面目を待ってはくれませぬ。織田は火。触れれば焼ける。毛利は網。近づけば絡む。播磨の国衆は風。強い方へ靡く。ならば小寺は、己が柱にならねばなりませぬ」


「柱とな」


「はい」


 如水は静かに続けた。


「まず、家中の兵と蔵と書状の流れを一つに集めるべきです。誰がどこへ文を出し、誰がどの城と誼を通じ、どの村がどの国衆へ米を流しているか。知らずして評定を重ねても、ただ畳の上で霧を斬るだけにございます」


 帳面の話に見える。


 だが、如水の狙いは帳面ではなかった。


 兵と蔵と書状。


 それを握る者が、家を握る。


 小寺政職はまだ気づいていない。


 反官兵衛派も気づいていない。


 これは家を救う策ではない。


 家を内側から喰うための、最初の糸だった。


「それを、誰に任せる」


 政職が尋ねた。


 その問いを待っていた。


 だが、如水はすぐには答えなかった。


 欲しがってはならぬ。


 奪う者は、まず差し出させる。


「御屋形様のご裁量に」


 如水は深く頭を下げた。


「ただし、遅れれば播磨は他家の草刈り場となりましょう」


 部屋の空気が重くなった。


 政職は迷った。


 その迷いを、如水は見逃さなかった。


 ああ、やはり。


 この男は迷う。


 目の前の火にも、水にも、同じように迷う。


 一度目のわしは、この迷いを支えようとした。


 違う。


 支えるべきではなかった。


 迷う手から、舵を奪うべきだったのだ。


 やがて政職が口を開いた。


「官兵衛」


「はっ」


「しばらく、そなたが調べよ。家中の兵、蔵、書状の流れ。急ぎまとめ、わしに示せ」


 周囲がざわめいた。


 反官兵衛派の目が鋭くなる。


 如水はそれらすべてを受け止め、静かに頭を下げた。


「承りました」


 第一の鎖が、こちらの手に来た。


 小さな鎖だ。


 だが、鎖とは不思議なもので、一つ握れば次の輪がついてくる。


 兵を知れば、城を知る。


 蔵を知れば、人心を知る。


 書状を知れば、裏切りの芽を知る。


 小寺家はまだ己の家だと思っている。


 政職も、家臣たちも、この城が小寺の城だと思っている。


 だが、違う。


 今この瞬間から、城の奥に黒田の闇が入った。


 評定が終わり、人々が立ち上がる。


 如水も立った。


 足が動く。


 若い足だ。


 有岡の痛みはない。


 だが、心の奥ではまだ鎖の音が鳴っている。


 廊下へ出ると、外の光が眩しかった。


 播磨の風が吹いていた。


 如水は立ち止まり、己の掌を見た。


 まだ何も握っていない。


 だが、今度は違う。


 この手で握る。


 誰かに差し出された采配ではなく、己で奪った采配を。


 小寺は器にあらず。


 信長は火。


 秀吉は飢えた猿。


 家康は沼。


 毛利は網。


 ならば、わしは闇になる。


 背後から声がした。


「殿、まことに大丈夫でございますか」


 先ほどの若い黒田家臣だった。


「評定の間で、ひどく苦しそうに見えました」


 如水は振り返った。


 その顔に、心配があった。


 まだ疑いではない。


 恐れでもない。


 ただ、主を案じる家臣の顔。


 一瞬、如水の胸に痛みが走った。


 この者も、いずれわしを恐れるか。


 それとも、わしのために死ぬか。


 どちらにせよ、わしはこの者を使うのだろう。


 そう思った自分に、如水はわずかに嫌悪を覚えた。


 だが、その嫌悪もすぐに沈めた。


 綺麗な心で天下は盗れぬ。


「案ずるな」


 如水は穏やかに言った。


「少し、昔の夢を見ただけだ」


「昔、でございますか」


「そうだ」


 如水は廊下の先にある光を見た。


 まだ奪われていない未来。


 まだ焼かれていない城。


 まだ牢に続いていない道。


 まだ人質に出されていない松寿丸。


 まだ天下人になっていない秀吉。


 まだ本能寺に至っていない信長。


 まだ沼の底で息を潜めている家康。


 すべてが、まだ始まる前だった。


 如水は笑わなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、誰にも聞こえぬほど低く呟いた。


「ならば、今度は先に奪う」


 その声は、祈りではなかった。


 誓いでもなかった。


 もっと暗く、もっと冷たいものだった。


 死の床で消え残った黒い火が、若き官兵衛の胸の奥で、静かに燃え始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ