表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈丁花の咲く家  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
102/102

沈丁花の咲く家 後編

俊葵は公田弁護士に手渡された書類に目を落とした。

所々潰れた文字…英語か、それと数字。これは日付だろう…とすると・・・


「送金記録ですか?それも海外、」

俊葵は公田を見上げた。

動きに遅れた鳶色の前髪がさらさらと目を覆う。


公田が頷いた。

「四年二ヶ月に渡る送金の記録です。ある女性に対しての。」


「ある女性?」

俊葵は怪訝な表情を浮かべたままだ。


「そう。お祖父さまから、アンナ・クワン・ハンプトンという女性に対してのね、」


公田の代わりに葵が答えた。


「アンナ・クワン…」


ーーAnna…世界中どこにでもありふれた名前、でも、ーー

俊葵の脳裏には一葵の左腕の刺青、ハートで囲んだあの、A&K foreverが思い浮かんでいた。

記憶の奥深く厳重に封をした記憶が古い映写機にかけられたように映し出されていく。

空港で領事館の井上と幼い葵が別れを惜しんで泣きじゃくっているシーンまで来ると、その姿に目の前の葵とが重なって、俊葵はやっと現実に浮上してきた。


「それは、誰だ…」


「私達の母親。」

葵の顔に表情は無かった。


俊葵は首を傾げ、

「はは、お、や…」

耳に入った音を意味なく繰り返す。


「はっ、」

急に言葉の意味に合点がいき、今度は葵に掴みかからんばかりに迫った。


「お前も…お、俺たちは両親共、同じ親なのか?」

俊葵自身、変な日本語だと思ったが、葵とふた親が同じだという安堵の前には、そんな事はどうでも良く、先ほど浮かんだ映像なども頭から消し飛んでしまっていた。


しかし、そんな俊葵に葵は、

「お兄ちゃん、早合点しないで、」

と、冷や水を浴びせるように言い放つ。


「え?はやがてん?」


「葵さん、ここは私が、」

と、公田が割って入ってきた。


「ええ、そうね。公田先生、お願いします。」

葵は席を立ち、キッチンに消えた。


「俊葵さん、次の資料を見てもらえますか?」

促され、俊葵は手元の紙を捲った。


それは、戸籍簿の写しのようだった。


「葵の?

え、…養子…葵、父さんの実子だろ…」


「そ、違ってたみたーい。」

ジャーッと水音をさせていた葵が、カウンターから顔を出して言った。


「いやいや、お前の中学校入学の時に取り寄せた戸籍謄本には、実子と書いてあったじゃねぇか!」


「そうよー、私も覚えてる。でも、本物はそれよーお祖父さまも手の込んだ事するわよねぇ。」


ーー西崎さんがわざわざ持参して…めっずらしーって葵と言い合って…役所の名入りの封筒を葵が開いて…俺は横から覗き込んだのだっけ・・・ーー


「俺達は、まんまと、偽造の書類を見せられてたって事か・・・」


「当時の橋本先生がどんなおつもりだったのか、今となっては・・・」

公田は緩く首を振った。

「じゃあ俺も、養子って事か…」

と、次の書類を捲る。


「俺は…え、実子?」


その戸籍謄本は、俊葵がかつて見たのと同じ内容だった。


「一体どうなってんだ?」


公田は唇をさっと引き締め小さく頷くと、静かに話し始めた。


「現在、葵さんは橋本 幸一先生の養子になられていますが、乳児期の一葵さんと葵さんの養子縁組の経緯をご存知の方は見つかりませんでした。

橋本先生も一葵さんもどうしてそれを黙っておられたのか…

そこのところも含めて調べて欲しいという葵さんのご要望がありましたので、調査をお引き受けした次第です。」


俊葵が身を乗り出した。


「私も30年弁護士をやっていますが、こんな事例は今まで一度も聞いた事がありません。

ですから、まず基本に戻って、どんな場合に、兄弟の一方が実子となり、一方が特別養子縁組みとなりるのか、そこから考え始めました。


まず父親の戸籍に実子として入っていて、かつ、母親の名前の記載がない、俊葵さんの例を考えてみたいんですが、

俊葵さんとは逆のパターンを頭に入れておくと理解が早いので、説明しますね。


それは、子供が母親の戸籍に入っていて、父親の名前がないという場合です。良くある事例です。未婚で子供を産んだ場合にそうなります。結婚していなければ、戸籍上、男性は父親になれないのです。


しかし、それが逆の立場になると、レア中のレア。ほとんど例がありません。子供を父親の戸籍に入れるには、やはり結婚が必要になるんです。離婚後も当然母親の名前が戸籍に残ります。未婚の父への親権者変更を家裁が認めてもそれは同じです。


一葵さんは、朱子あかねさんとの結婚が初めての結婚でした。

だから、俊葵さんの母親と結婚して離婚した後に俊葵さんを引き取ったという線は無くなります。その場合でも、俊葵さんの戸籍に母親の名前が残るはずですから、やはりその線はあり得ません。


しかし、一つだけ、婚姻を介さず実子として男性の戸籍に入れる方法があります。[胎児認知]という方法です。」


「胎児…認知?」


「そうです。あ、ありがとうございます。」


葵が香り豊かな煎茶を入れて、公田にそっと差し出すと、公田の向かいの1人掛けに座った。


「未婚の女性の妊娠中、男性が認知すると、そのお腹の子は男性の戸籍を得ることができます。」

ズズ、

「その女性が日本人ならば、女性の名前が母親の欄に記載されますが、外国籍ならば、」


「記載されない!つまり、空欄になる!」

俊葵は思わず叫んだ。


「もう、お兄ちゃん声が大きい!」

葵はブツブツ言いながら、俊葵にも湯呑みを差し出す。


「あ、ありがと。でも、なんだか妙だな。

一度も結婚したいと思ったことが無い俺が言うのもなんなんですけど、」


「ほんと、そうね。」

葵が相の手を入れニヤリと笑った。


自虐ネタを晒しておきながら、あっさり突っ込まれると面白くない。

俊葵は、ふんと鼻を鳴らし、葵に背を向けた。


「しかし先生。同じ女性の子供を二人も引き取ったのに、どうして父さんはその女性と結婚しなかったんでしょう?あ、その女性が既婚者だったんでしょうか?」


「私は、胎児認知の条件には未婚の女性とある。と言いました。」

公田が涼しい顔で俊葵の間違いを指摘する。


「あ、そうでした。うーん、そうなると…」

俊葵は頭の上で手を組み、長椅子の背にドサリと凭れた。


「さっき、なかなかいい所突いてたんだけど?」

と、葵。


「え、結婚したいと思ったことが無いって事か?それはもういいだろ…」

揶揄いは真っ平と、俊葵は顔の前で手をひらりとさせる。


「違うよ。その後。」


「えーっと、あ、父さんの相手の女性が既婚者ってとこか?先生それは違いますよね?」

と、公田を窺う。


「そうですね。女性側が既婚というのは間違いですが…」


「ん?ん?」

俊葵は益々混乱してしまった。


「では、視点を変えてみましょう。アンナ・クワン・ハンプトンさんについても調べてあります。」


すっかり混乱してしまった俊葵へ助け舟を出すように、公田が口を開いた。


「30年ほど前、一葵さんはワーキングホリデーの制度を使って一年程オーストリアに滞在していました。」


「オーストラリア!」

俊葵が叫ぶ。

今度はブツクサ言うこともなく、葵は頷いた。


「アンナさんとはその頃に出会っています。

すぐに恋愛関係に発展し、結婚の約束を交わしたマリアさんを伴って、一葵さんは帰国しました。

こちらがそのときの写真です。」


公田は別のファイルから、茶色のシミが浮き出し、角の折れ曲がったスナップ写真を取り出した。

当時の流行りであろう、もみ上げや襟足を大胆に刈り上げたヘアスタイルは一葵はを幼く見せている。

一葵に肩を抱き寄せられているアンナは、とても大人しそうで、白人女性にありがちな押しの強さは感じられない。名前からして中国系だが、目と眉毛の開き具合にアジア人の特徴が見られる程度で、ほとんど白人の顔立ちだ。肌の白さと栗色の髪、華奢な体型が葵に似ていると言えなくはないが、実のところよく分からない。


「お兄ちゃんに良く似ていると思うわ。」

写真を自分の側に引き寄せて、葵が感心したように言う。


「そう、か?」


「そうよ。アンナさんの髪の毛をもっと明るくして、背を高くごっつくしたらそっくりよ。」


楽しげに言う葵を俊葵は解せないという表情で見る。


「ふふ。お兄ちゃんたら相変わらずね。考えてる事が顔に出てるわよ。私だってこの一連の事を知った時にはショックも受けたし悩みもしたわよぉー、」


ン、ンン!

公田が咳払いをした。


「あ、ごめんなさい先生、これじゃ話はちっとも前に進みませんね。どうぞ。」

葵は舌を出し、公田に手を差し伸べて話を譲る。


「すみません。積もる話もあるでしょうに、」


「いいえ。」

葵が肩を竦めた。


「さて、一葵さんは両親や友人に、アンナさんと婚約者と紹介していました。」


コクリ、俊葵は頷いた。


「しかし、一葵さんと来日して二ヶ月足らずで、アンナさんは一人、オーストリアに帰国しています。その後の俊葵さんの憔悴し切った様子を当時の友人が証言して下さいました。」


俊葵はまた無言で頷く。


「アンナさんが『一葵は私の運命の人なの。』と話していたと、一葵さんの友人からお聞きしています。」


「うーん。父さんが代議士の長男と知って、自信が無くなったとか…」


「ま、それはあり得るけど、それなら、自分が産んだ子供を、その代議士の長男に託すっておかしくない?」

と葵が口を挟んできた。


「そうだなぁ、」


「俊葵さん、さっき私は、女性側が既婚者というのは、間違いだとは言いましたが…」


「え、あ、そうですね。じゃあ男性が既婚者…え、あ、あーっ!」


葵と公田が揃って頷いた。


「アンナさんは別の男の子供を妊娠してたって事ですか?その男が既婚者か。来日中にそれが発覚して、帰国した…あ、いや、それなら来日する前に発覚していたか?」


俊葵は、お手上げだと肩の前で掌を広げた。


公田は微笑みし、

「分かりました。しかし、一葵さんは何の資料も残していませんので、ここからは推測を含んだお話になりますが、それでも?」

と言った。


俊葵はコクリと頷く。


はっ、

息を呑んだ公田は、掌を自分の額にペシッと当てた。


「ああ、すみません。肝心な事を言い忘れていました。

実はアンナさんは、もうこの世にはいません。24年前に亡くなっています。進行性の胃がんだったようです。」


いきなりの宣告に、俊葵の目の前が揺れた。

そうじゃないかとは思っていた。

肉親への情が薄いたちではないかと密かに思っていた俊葵だが、母親さえもこの世にいないと知ると、急に世界が色褪せたような気がした。


「その当時、一葵さんは、オーストリアと日本を行ったり来たりしていました。一番長い期間でいうと半年間メルボルンに滞在しています。」


「メルボルン!」

俊葵が叫ぶと、

さすがに葵はうるさそうに眉を吊り上げた。


「あ、ごめん…」

俊葵はきまりが悪くなり、

一葵の生前から壁に掛かっている、蛇行する河岸に緑地帯が伸びる風景を描いたパステル画に目を向けた。


ーーこれをどこかで…ああ、西崎さんを尾けて走ったあのメルボルンのあの風景・・・ーー


俊葵の目の奥では、オーストラリアの映像がまたカラカラと音を立てて回り始めた。


公田は、急速に集中力を欠いた俊葵を心配そうに見ながら話を続ける。


「…ちょうど、アンナさんが亡くなった頃に重なっています。

実は当時アンナさんには一歳になる女児がいました。未婚での出産だったようです。

アンナさんの両親はすでに亡く、ご兄弟の所在も掴めませんでした。恐らく、身を寄せられる親戚なども居なかったのでしょう。橋本先生からの送金を頼みに暮らしていたと思われます。

一葵さんは、アンナさんに掛かった治療費のほとんどを持ったようです。クレジットカードの支払い記録が残されていました…」


ーー西崎さん、あの墓の前であんなに泣いて・・・まさか・・・ーー


「…その総額は数千万円に及びました。正直、そんな財力が一葵さんにあったとは思えません。その出所は、橋本先生だと考えるのが自然だとは思いませんか?俊葵さん!」


「!」

気が付くと、公田が俊葵の顔を覗き込んでいた。


「あ、あ、なんですか?」


葵も怪訝そうに俊葵を見ている。

公田はニコッと笑い、また話し出した。


「故人の事をこう言うのも憚られるのですけど、あなた方のお祖父さまは、息子のかつてのフィアンセというだけで、高額の治療費を出してしまうほど、慈善的な方だったでしょうか?と申し上げています。」


俊葵と葵はそれぞれ首を横に振った。


「かつてのフィアンセの子供をすでに引き取って育ててるんだ、送金などする必要はない。あの祖父さんならそう切り捨てるだろうな。」


「全く、()()()ない事をあなた方のお祖父さまはしていたことになりますよね。」


「そう…あの祖父さんは、自分にメリットがあることしかやらない…」


それまでの祖父幸一の言動の数々を思い出して俊葵は、ぽつりと呟く。


「送金…四年も、

祖父さんの何だったんだ…

アンナ…弱みを握っていた?口止め料…愛人…」


俊葵はもう一度送金記録に目を走らせた。


「俺の生まれる前の年から始まってるな…それから三歳までの間か…」


「そう、私が養子になる前の年でもあるわ。」


葵が一言一言噛んで含むように言った。


公田が微笑む。その顔は悲しげだ。

「法学部に通っていた友人に、一葵さんが尋ねたそうです。

学生に、国会議員を告発する事は可能だろうか、と、」


公田の穏やかな声だけが部屋に響く。


「あ、あーっ!」


突然、俊葵は叫び、髪の毛を掻きむしり始めた。


「父さん…父さんは、どんな思いで俺を…」


俊葵は頭を抱えた。


「お慰みは言いたくありません。だからと言って無意味に悲観したくもありません。

アンナさんに捨てられたと憔悴しきっていた一葵さんは、再びオーストリアを訪れ、アンナさんを探し出した。きっとアンナさんの口から真実を伝えられたでしょう。それでも尚、一葵さんは子供を迎え入れた。時が経ち、困り果てたアンナさんに助けを求められて、再び海を越え、彼女の面倒を見、恐らくは彼女を看取っています。これが愛情ではなければ一体何なんでしょうか、俊葵さんにはこれが復讐に燃えた男の所業に見えますか?」


「には、見えない…かな、」

俊葵が呟く。

「私にもそうは見えませんよ。」

公田が微笑んだ。


好奇心に目を輝かせ、生活能力はからっきし。気がつくと人の懐に飛び込んでいて、なのに本心を誰にも悟らせない飄々とした男…

俊葵の中でその掴み所のない男、橋本 一葵の輪郭がようやく露わになった。


ーーそんな悲しみを抱いて、誰にも見せず。父さん、あなたって人は・・・ーー


俊葵は、茶を飲む音に紛らわせて鼻を啜った。


あの世というものを信じている俊葵ではない。

しかし今はあの世というものがあって欲しいと思った。

あの世で、アンナと今度こそは結ばれていて欲しい。


そんなセンチメンタルな自分が恥ずかしくなり、俊葵は頭をワシワシと掻いた。


相変わらず自分に向けられる二人の優しい眼差しがむず痒い。

気持ちを切り替えよう俊葵は口を開いた。


「さっきから一つ気になってる事がある。葵、お前本当に父さんの子供じゃないのか?」


「あ、そこはすっごくシンプルに断言できる。

私、DNA鑑定したんだ。」

葵が呑気に言った。


「え、父さんの髪の毛とか?」


「ま、それもありだけど時間経ち過ぎてるかな。お兄ちゃん。あともう一人関係者を忘れてない?」


「あ、祖母さんか!」


「そっ、

結果は、お祖母さまとは血縁関係はゼロと出たわ。お祖父さまのは、検体がまだ残ってて、それが使えた。お祖父さまともほぼ無関係だったわ。」


「それにしても、DNA鑑定だなんて、お前、随分思い切ったな。」

俊葵が感嘆の声を上げると、


「遺言を執行するに当たり、この事がどうしても必要でした。」

と、公田が言葉を挟んできた。


「お祖母さまが、この家をお兄ちゃんに相続させることに凄くごねちゃって、」


俊葵が顔をぷいと反らせた。

「別に、俺はそれでも…」


「嘘つき!もっと本心曝け出しなよ!お祖母さまに疎まれて傷ついた。悲しいって、」


葵が声を張り上げると、

俊葵はその顔を睨み返す。


「私はお祖母さまが嫌いだった。お祖父さまもね。」


「葵っ!」


「きっとお祖父さまはアンナさんをレイプしたんだわ!」


「やめろ!」


俊葵が制止するのも聞かず葵は叫ぶ。


「それをお金で解決しようとした。それを全て知ってて、お祖母さまは何も言えなかった。だから私とお兄ちゃんにずっと八つ当たりしてきたんだわ。」


そして急に声のトーンを落とした。


「だから、私は利用する事にしたの。

検査の結果、私がお祖父さまの不貞の証しじゃないって分かって、お祖母さま、一気に優しくなったわ。お祖母さまともお祖父さまとも血縁関係は無いっていうのに、お祖母さまにとってはそれはどうでもいい事みたいでね。フフ、

それより、私、お祖母さまの気に入った人と縁談を進めているの。お祖母さまにとって、私が思い通りになるって事が何より重要みたいよ。そうしておいて、お祖父さまの遺言通りにこの家をお兄ちゃんに継がせてってお願いしたの。そしたら結構すんなり…今や、お祖母さまは私のシンパよ。フフフ…」


と言い、葵はバチッと音が出るようなウインクをした。


「あ、言っとくけど、橋本の家の犠牲になったなんて思わないで。

洋子大叔母さまの養子になったお兄ちゃんについて行かず、お祖父さまの養子になったのだって、将来、私がお祖父さまの地盤を継ぎたかったからなの。でも残念ながら私にはその器量はなかったわ。代わりに、お祖父さまの後を継ぐ野心的な男を探す事にした。私の事情を全て受け入れて橋本の家に骨をうずめてくれるような男をね、」


「・・・・」


時に青ざめ、頬を紅潮させしながら葵の話を聞いていた俊葵だったが、

あまりに反応が乏しく、葵は痺れを切らした。


「あ、れ?妹の結婚そんなに興味ない?」


俊葵が頭をかいた。

「い、いやぁ、感心してんだよ。お前、そんな条件呑んでくれる相手、よく見つけたなぁ〜って、」

そう言ってのっそり笑う。


「えーっなに、その反応ーっ!」


葵が気抜けしたように言って後ろに倒れこむと、公田が吹き出した。


「心の綺麗さが葵さんとは違うんじゃないんですか?」

とクールに言い放つ。


「言いますね。公田さんも、」

ジロリと睨みつつも、葵がその会話を楽しんでいるのがありありだ。


ガバリ、

葵が急に頭を下げた。

「ごめんなさい。お兄ちゃん。お兄ちゃんが継ぐべきだった地盤、私が貰っちゃってごめんなさい。」


突然な事に、俊葵は泡を食った。

「お、おい…俺は、高校の時には既に戒田の養子になってたんだぞ、今更、地盤が欲しいなんて言うはずないだろ、」


「うん。お兄ちゃんはきっとそう言うと思ってた。ただ、私なりのけじめって言うのかな?一度ちゃんと謝っておきたくて。」


いい、いい。と俊葵が掌をひらりとさせて話を遮ろうとすると、

葵は微笑み、

「実はね、今回の一連の話を洋子大叔母さまにお話したのよ。そしたらね、叔母さまが当時のことを話してくださったの。

お兄ちゃんが養子の件でいい返事をくれたって、報告をしに行った時に、お祖父さまがね言ってたんですって、『俊葵を連れて行かないでくれ。』って、今までの態度が態度だったから『俊葵を地盤を継がせる人材としか思ってないんでしょ。』って大叔母さまは言い返したんだって、お祖父さまもそう言われてただ笑ってたから、大叔母さまは本気で取り合わなかったって、

私がこのお話しをしたら、洋子大叔母さま、『ああ、この話をお兄さまの口から聞きたかったわ。一発殴ったかもしれないけど、その代わり、俊葵を取り上げるようなことはしなかったと思うわ。』って、言ってらしたの。」

と言い、ほぅと息を吐いた。

葵なりに、幸一の俊葵に対する思いを届けてやりたいという配慮だった。

その気持ちを受け止めて尚、

「ふふ、お母さんらしいや。」

と笑う俊葵の不器用さを、葵が優しげに見つめた。


トイレに立っていた公田が、

「そういえば、立候補決まったんでしたっけ?」

と言いながら戻ってきた。


「そうですね。お兄ちゃん。事後承諾みたいになって申し訳ないんだけど、私のフィアンセの出馬が決まってしまったの。」

葵が恥ずかしそうに言った。


「ええ〜そうなのか?

あ、いや。惜しんで言ってるんじゃないんだ。単純に驚いただけで…あの、聞いてもいいか?フィアンセって何処の誰?」


「ええ、もちろん教えるわ。紹介する。

結婚式には招待するし、だからお式、絶対来てよね。」


「それは遠慮する。嫌いなんだだよそんな堅っ苦しいとこ、名前だけ聞けりゃあいいって、」


「相変わらずね。

そう、彼の名前はねぇ、

弓削ゆげ 慎之介さんていうの。」


俊葵が目を天井に向け、何か思い出している風だ。

「それ、よくある名前なのか?俺の高校の同級生に同姓同名がいたぞ。野心家で嫌味ったらしくて、いつも俺に突っかかってきてたなぁ。」


「ふふ、その嫌味ったらしくて野心家で、お兄ちゃんの同級生の弓削 慎之介さんできっと間違いないわ。」


俊葵はポカンと口を開け呟く。


「結婚式…欠席確定だな。」




「私はもうそろそろ、タクシーの予約をしないと、」


公田が告げた声を合図にお開きにする事になった。


「引き渡し作業は?」

俊葵が聞くと、そんなもの、さっきの書類へのサインと鍵の受け渡しでお終いだと公田も葵も澄ました顔で答えた。


葵が

「公田先生。私、レンタカーで来てますから港までいっしょに、」と言うと、

鍵を預かった公田が、

「先に乗ってます。積もる話でも、」

と気を利かせた。


玄関を出て、ぶらりと海が見えるところを歩く。


「葵、ありがとな。」


「え、何?」


「その…家の相続の、事…」


「あ、うん。だって、お祖父さまの意志ですもの。」


「や、っぱ、嬉しい、よ。この家好きだし、」


それが心からの言葉であるらしく、俊葵は愛おしいものを見るように家を見上げている。


その顔を見て葵は、言おうかどうか迷っていた事を打ち明けようと思った。


「お兄ちゃん。一つ、解いておきたい疑惑、と言うか…」

葵が言った。


「疑惑?」

足を止めて、葵を凝視する。


「そう。稀世果きよかの事。」


「あ、ああ、」

その名前を聞いて、一気に俊葵のトーンが落ちた。


「聞きたくないのは分かってるわ。でも、」

葵が言い淀む。


「いいよ。聞くよ。」

俊葵は苦心して気楽に聞こえるように答えた。


ほーっと息を吐き葵は、

「稀世果のこと、私が突き落としたんじゃないわ。信じて!」

そう一気に言った。


「分かってるさ。ただ、お前と高峰 稀世果との間に、あの事故につながる何かがあったとは、ずっと思ってきた。」

ちらりと葵を見やる。


葵は、逡巡しつつもやがて、重い口を開き始めた。


「…私と稀世果は付き合っていたの…」


俊葵は思わず勢いよく葵を振り返ってしまい、失敗したと思った。


「レズビアンなのね。私、」


葵は重ねて言った。


「そ、うか。」

何と答えていいのか分からず、俊葵は鼻の頭をかいた。


「稀世果は、お兄ちゃんの気を引こうとしてたでしょ?」


コクリ、

俊樹は頷く。


「あれは、どうしてかと言うと…

稀世果は私の関心を引きたかったの。」


俊葵が首を捻った。


「どうしてそうなるのかと思った?」


コクリ、


「私がお兄ちゃんを好きだから。」


俊葵は思わず目を見開き、眉を上げるだけ上げ、親指で自分の胸を指した。


「やだ。おにいちゃん、外人さんみたい。」


葵は、クスクス笑ったかと思うと、顔を背け、

…ほらやっぱり、気づいてなかった…

と、ぽそり呟いた。

その声は、俊葵には届いていない。


「外人だよ。俺もお前もな、」


「え?あ!そっか、」

へへと葵が笑う。


「でも、父さんが日本人にしてくれた。」

俊葵は遠くの波を見つめたまま。静かに言った。


「そ、だね。」


葵が何か戸惑っているのは分かったが、俊葵は話を続けた。


「あの、幻のオーストラリア旅行さ、もし俺らが行けていたらって時々考えるんだ。」


「うん。」


「考えてもどうしようもないけどな。」


「そうだね。でも私も考えたことあるよ。」


俊葵が振り返る。

葵はにっこり笑った。


「父さん、メルボルンは初めから予定に入れてたんだよね。きっと。もしかしたら、お墓参りをさせてくれるつもりだったのかな?」


「ああ。今思うとな。」


「本当の事を話してくれるつもり…有ったのかな?」


「どうだろう?それは父さんに聞いてみないとな。」


ーー変わってないなーー

葵は微笑んだ。

普段理性的な俊葵だが、時々、こんな非科学的なことを会話に差し込んでくる事がある。


「ふふ。あの時、お兄ちゃんは中学生で私は小学生だったもんね。理解できないと思って話してくれなかったかもね。」


「まあな。今聞いても混乱したもんな。ただ、伝えるべき時を相手が待ってくれないって時もあるし、本当のところは分からないよ。」


ふふ、

葵は笑い、風で乱れる髪を手で押さえつけ、

そっと息を吐いた。


「私ね、気持ち悪いって言われたの…」


「え、ああ、高峰 稀世果にか、」


俊葵は、海風にあがなっているせいで涙が滲んだ瞳を葵に向けた。

それが感情の籠らないただの不随意的現象だと分かっていても、葵の胸はきゅんと高鳴る。


「うん。稀世果にお兄ちゃんへの気持ち、気づかれて、兄妹なのに気持ち悪いって、」


「・・・」


「レズビアンてさ、マイノリティーじゃない?差別されてしまう側の人間だからね、私たちだけは、自分の価値基準で人を測らない人になろうって、いつも話してたの。なのに稀世果は…ショックで、私…」


「そっか、」


「稀世果のメールもブロックして、学校でも待ち伏せしてるの分かってたから、別の門から下校したりとか、稀世果の事避けてた。」


「うん。」


「あの日の前日かな、稀世果、この家に来たみたい。郵便受けにメモを挟んでいたの。『連絡を下さい。でないとあなたの気持ち、ご本人に知らせてあげますよ。』って、

私、稀世果に言った。『言うなら言えばいい。どうせお兄ちゃんは私のことなんか何とも思ってないし、もうすぐこの地元からいなくなるんだから。』って、そして稀世果に別れを告げたの。まさか、あれっきり稀世果が死んでしまうとは思わなかったし、お兄ちゃんが疑われる事になるとは思ってもみなかった。」


「そ、うだったのか…」


ぞくりと上がってきた悪寒に、思わず体を震わす。

本当に苦い体験はは体の芯が覚えていて、容易に忘れる事がない。

まだまだ俊葵の中では、笑い飛ばすことができない過去なのだ。


一刻一刻、海上の船の影が長く伸びていく。それを眺めながら俊葵が口を開いた。


「あれはどう意味だ?」


「え?」


「ダフネに捧ぐ、あれ、俺に宛てたものじゃないな。」


「うん。」


「やっぱ知ってたんだな。」


「うん。

稀世果、占いに詳しかったでしょ。」


「らしいな。」


「ダフネっていうのは、ギリシャ神話の女神でしょう?」


「ああ、散々ぱら言われたからな。耳にタコができてる。」


「ダフネはね、小惑星の名前でもあるの。占星術では惑星や小惑星が意味を持つのは知っているでしょう?」


「ああ、」


「ダフネには、レズビアンという意味があるの。」


「え?」


「つまり、私に対する当てつけだわ。レズビアンのくせに、男の、それも血の繋がった兄が好きな私への、」


「・・・・・」


高峰 稀世果の死因が分かったような気がした。

きっと葵も思い当たっている。

俊葵はもう二度とこの話題に触れることはないと思った。


「…お前、良いのか?…」


「え?何が?」


「何がって、あれだ、その…男と、結婚…して…」


俊葵がひどく言いにくそうに、引っかかり引っかかり言うから、

葵はクスクス笑う。


「いいの、いいの。地盤のためだもん。」


手を顔の前でヒラヒラさせて、軽薄に言う姿が、俊葵には痛々しく見える。


「そんな、無理すんな。」


「無理なんてしてないわ。お兄ちゃんへの気持ちがあるから…それ以外は何でもいいの。私、それだけは譲らないから。」


心持ち顎を上げ、ひと筆で引いたような目の端に、うっすらと赤みを差した葵は壮絶に美しかった。

こんな場面だというのに、俊葵はシャッターを切りたいと思った。


「旦那は、弓削は、その事知ってんのか?」


「お兄ちゃんへの気持ちの事?」


「違げぇよ。レズビアンの件だ。」


くつくつ笑うその声で、俊葵は揶揄われたのに気がついた。


「面と向かって言ってはいないけど、知ってると思う。両方とも、」


「えっと、」


「お兄ちゃんへの〜」


ぁった、つぅってんだろぉ〜がよぉ!」


「あははは…」


「ったく、」

釣られて俊葵も笑った。


「私は男を愛せない。それを知っても彼は平気で私と結婚する。それだけ弓削さんは腹黒いし、私も負けず劣らず腹黒いってこと!」


そう言うと、葵は公田が待つコンパクトカーに駆け寄った。

俊葵もゆっくり後を追う。


「あ、お兄ちゃん。冷蔵庫の中に色々入れてるからね。

それと、私はずっと写真家、戒田 俊葵のファンでもあるんだからね。ブラコンの妹をがっかりさせないように、バンバン新作発表してよ!」


そして、ふふふと笑うと、葵は運転席に滑り込んだ。

軽いアイドリング音もそこそこに車は発車したが、舗装の破れ目に車輪を取られ、車体は傾き、そして停まった。


何事かと見ていると、助手席のガラスがスッと開く。

「お渡しするものがもう一つあるのを忘れてました。」

そう言いながら公田が膝に抱えたビジネスバックから取り出したものは、CDケースだった。


「沈丁花の咲く家…」


「そうです。お宅に関わるようになった頃、この曲を知りました。とても美しいジャズナンバーなんですよ。ぜひ聞いてみてください。あ、これは差し上げます。じゃ、」


プップッ、

二度鳴らされたクラクションを残し、再び車は動き出した。

その姿が角を曲がるまで見送る。

姿が見えなくなると、ほーっと長い息が漏れた。知らず知らずのうちに体に力が入っていたようだ。

もう一度大きく息を吸った。潮の香りが優しく鼻腔をくすぐる。

そう言えば、あの花の香りがしない…

俊葵は沈丁花のある方を見やった。

少し傾いた晩冬の日差しを受けて、薄紅色の花は今が盛りと咲き誇っている。


ふと、水先案内人という言葉が頭に浮かんだ。


『…いい香りだね。あの香りを辿ったら僕ね、目を瞑ってたって行けちゃうよ。

えーと、なんて名前だっけ、あの花、じん…じんちろ…」


「沈丁花だ!」


俊葵のあまりの声の大きさに、チョコチョコと庭を突き回していたセグロセキレイがピピーっと抗議の鳴き声を上げて飛び立った。


あっはっはっは…


そのお尻を振る愛らしい小鳥に、申し訳無く思いつつ、俊葵は大きな声で笑い続けた。


俺、多分、辿り着いたんだな…


今になってようやく分かったよ。

俺は探していたんだな。


寂しさがいつも隣にあった子供時代。

同級生の誰でも持っていて自分にはないもの…

与えられないものを羨む事がなかったのは、更に失う事を恐れていたからだ。

良い子なんかじゃ無かった。

自由に何処にでも出掛けてしまう父さんを本心では恨めしく思っていた。

だけどそれを言うと父さんすら失う気がした。


本当に望むものに蓋をするから、

自分の本心が分からなかった。


どこかに向かっているつもりさえなくて、

漂流者でいいと言いながら、

心はいつも焦っていた。


自分が分からなかった。

分からない自分が自分なんだと開き直りさえした。


だけどもう認めよう。


探していたのは、

愛された記憶。

愛されたいう証。


それは既にあった。この家と共に、


「お、さみぃ…」


気がつくと随分日が傾いている。

俊葵は家へと踵を返した。


近付きながらしげしげと家を眺める。

銅葺どうぶきの黒褐色から青緑色へ移り変わり始めた屋根を早春の夕陽が照らし、柔らかく浮かび上がらせている。

「明日、撮っとこう。」

屋根も家も庭も、これからどんどん美しくなりそうだ。

見惚れていると、目の端で何かがチカっとした。その方を見遣る。名も知らぬ星が光っていた。


ふふ、


やっと帰って来たよ父さん。


ただいま























































































評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ