第4話:四人目の記録係
手鏡が静かになってから、私は一つ、気になっていたことを片付けることにした。
令和七年に、この鏡を「祖父の遺品」と偽って持ち込んだのは、誰だったのか。
寄贈の受付には、申込書がある。氏名、連絡先、寄贈の意思。私は自分が受理したときの控えを引っ張り出した。氏名の欄には「田辺一夫」とあった。住所も電話番号も書かれている。私は電話をかけてみた。使われていない番号だった。住所を地図で確かめると、そこは十年前に取り壊された建物の跡地だった。
田辺一夫という人は、たぶん、存在しない。
入館時の防犯カメラも見た。仕立てのよいコートを着た男の人だった。年の頃は四十くらい。物腰は柔らかく、受付でにこやかに笑っていた。手に、風呂敷包み。あの中に、手鏡が入っていたのだろう。
私はその顔を、しばらく見ていた。感じのいい人だ。どこにでもいる、品のいい紳士。けれど、偽の名前と、取り壊された家の住所を書いて、来歴を偽った品を、博物館に置いていった人でもある。
覚えておこう、と思った。メモ帳に、「令和七・KG-0418寄贈者。田辺一夫(偽名)。四十代・コート・柔和」と書いた。この人は、たぶん、また来る。手放したい品を持って。そういう予感がした。予感は記録できないから、せめて顔だけ、書いておいた。
それから、私はもう一つの引き出しを開けた。
三か月、開けられずにいた、桐谷さんの机の引き出し。
書きかけの台帳が、一冊。手に取ると、思ったより軽かった。半分より少し先まで、あの几帳面な細い字で埋まっていて、そこから先は白紙だった。最後の行は、確かに、文字の途中で途切れていた。
「区分外・整理番号 K─」
そこまで。整理番号を書きかけて、Kの次の数字を書く前に、桐谷さんのペンは止まっていた。止まって、そのまま、彼女は収蔵庫で消えた。
私は、その途切れた一行を、長いあいだ見ていた。
無断退職、と警察は処理した。仕事が嫌になって、荷物も置いて、ふらりといなくなった人。そういうことになっている。けれど、この台帳を見ていると、私にはそうは思えなかった。
だって、几帳面すぎるのだ。この字は。一件ごとに、来歴を端から端まで書き切る人の字だ。そういう人が、整理番号を書きかけたまま、途中で仕事を投げ出すだろうか。
投げ出したのではない、と私は思った。桐谷さんは、何かを書こうとしていた。書き切ろうとして、書き切れなかった。書き切る前に、消えた。
——「記録を、続けてください」
あの筆跡が、私のペンを借りて残した一行を、思い出した。あれは、脅しではなかったのかもしれない。頼み、だったのかもしれない。自分が書き切れなかったものを、続けてほしいという。
私は、桐谷さんの台帳をそっと閉じて、自分の机に置いた。処分はしない。これは私が引き継ぐ。四人目の記録係として。
宮下さんが、夜勤に上がってきた。鍵束の音。私が桐谷さんの台帳を机に出しているのを見て、老人は少しだけ、目を細めた。
「開けたか」
「はい」私は言った。「……宮下さん。桐谷さんは、無断退職じゃ、ないですよね」
宮下さんは、すぐには答えなかった。制帽のつばを、指で少し押し上げただけだった。
「あの子はな」ようやく、低い声で言った。「載せちゃいかん品を載せたんじゃない。逆だ。載せなきゃならん品を、載せ損ねた。それだけのことで、人は、ああなる」
載せ損ねた。書き損なった。記録の、欠落。
「詳しいことは、まだ言えん」宮下さんは背を向けた。「あんたが、もう少し、この仕事の重さが分かってからだ」
窓のない部屋の、低い空調のうなりの中で、私は机の上の二冊の台帳を見た。桐谷さんの、途切れた台帳。私の、書き始めたばかりの台帳。
続けてください。
はい、と私は小さく答えた。誰に、というわけでもなく。
私は、四人目の記録係になった。
手鏡の一件は、ここでいったん幕。読んでくださってありがとうございます。第一章「手鏡」、お楽しみいただけたでしょうか。ですが、田辺一夫という偽名の紳士も、桐谷さんの途切れた一行も、まだ何ひとつ終わっていません。次回からは新しい収蔵品——今度は、一体の人形が持ち込まれます。「同じ人形が、二つの家に、同時にあった」。よろしければブックマークで、次の品もご一緒に。




