第3話:正しく記録すれば
「覗き込む、というのがね」
宮下さんは、夜勤明けのお茶をすすりながら言った。私が防犯カメラの人影の話をすると、老人はさして驚かなかった。区分外の品では、珍しくもないことらしい。
「鏡ってのは、覗くもんだ。手放す前に、みんな一度は覗くんだよ。ああ、これともお別れだ、ってな。その"覗いた"のが、鏡には残る」
「残る、って……記録に、ですか」
「物に、だ」宮下さんは湯呑みを置いた。「あんたら記録係は、紙に残す。物は、物に残す。同じことさ。だから正しく紙に書いてやると、物のほうは、もう覚えとかんでよくなる」
正しく書いてやると、物は覚えていなくてよくなる。
その言い方が、妙に胸に落ちた。私は区分外収蔵庫に戻って、手鏡の来歴を、もう一度、端から組み直した。
これまで私は、来歴が「切れている」と思っていた。三十年で四人、寄贈者だけが入れ替わる、繋ぎ目のない輪。けれど輪の内側を、一枚ずつ丁寧に見ていくと、それは切れているのではなかった。
切られていたのだ。誰かの手で、意図的に。
昭和五十一年、木島さん。「亡母の鏡」。これはたぶん、いちばん本当に近い。彼は母の形見として、これを持て余していた。持て余して、博物館に寄贈した。手放したかったのだ。けれど半年後に本人が亡くなり、親族が返却を求め、鏡は「所在不明」として処理された。——処理された、というのは、要するに、きちんと記録されずに手元を離れたということだ。
平成九年、沢田さん。「骨董市で購入」。これは嘘だ。骨董市で買った物に「夜中に物音がする」と怯えて返しに来る人はいない。彼は、どこかで木島家から流れたこの鏡を受け取り、来歴を「骨董市」と偽って、博物館に押し付けた。手放したかったから。そして記録は、そこで途切れている。
平成二十二年、氏名空白、桐谷受理。
令和七年、「祖父の遺品」、須藤受理。——私だ。
分かってきた。この鏡は、手放したい人から手放したい人へ、そのたびに来歴を偽られながら、渡ってきた。誰も本当のことを書かなかった。書けば、自分がこれを「押し付けた」と認めることになるから。だから来歴は、代々、繋ぎ目を塗り潰されてきた。
そして博物館は、その塗り潰しを、そのまま受け取ってきた。木島のときは「所在不明」で流し、沢田のときは「途切れ」たまま止め、正しく記録し切ることを、三十年間、誰もしなかった。
だから鏡は、封じられなかった。覚えていなくてよくならなかった。ずっと、覗かれた記憶を抱えたまま、次の手放したい人のところへ帰っていった。
私は、綿手袋を嵌め直した。
ペンを取り、区分外収蔵台帳の、KG-0418の欄を開いた。今度は、私の字で書く。
来歴調査結果。 当該手鏡は、少なくとも昭和五十一年以降、複数の所有者間を移動している。各所有者はいずれも当該品を「手放す」意図で寄贈または譲渡し、その際、来歴を事実と異なる形で申告した疑いがある。以下に、確認できた移動の連鎖を、偽装を含めて記載する。
昭和五十一年、木島。母の形見。真。
平成九年、沢田。「骨董市」と申告するも、実際は木島家より流出した同一品と推定。偽。
平成二十二年、氏名不詳。受理担当・桐谷。当該時点で記録は完結せず。
令和七年、須藤受理。「祖父の遺品」との申告、実際の来歴とは無関係と推定。
私は、一つずつ、繋ぎ目を書き起こした。誰が、誰に、どんな嘘で託したのか。切れているように見えた線は、切れてなどいなかった。ただ、繋ぎ目が塗り潰されていただけだ。私は、その塗り潰しの下を、書いた。
台帳の余白が、埋まっていく。
最後に、私はこう書き足した。「本記録をもって、当該品の来歴の空白は解消された。以後、受理者はこの連鎖を継ぐものとする」。
ペンを置いた。
区分外収蔵庫は、静かだった。空調のうなりだけが、いつもどおりに低く続いている。
私は、鏡面を見た。
拭き取り跡は、もう、なかった。曇りは、曇りのままだった。ゆうべ確かにあった細い弧が、まるで最初から一度も存在しなかったように、消えていた。
その夜、二十二時十四分。私は自宅で、また、うどんを茹でていた。翌朝、防犯カメラを確認した。区分外収蔵庫の前の廊下は、朝まで、無人だった。誰も、覗きに来なかった。
正しく記録すれば、悪さはせん。宮下さんの言葉は、本当だった。
私は、少しだけ、この仕事のことが分かった気がした。
戦わない、祓わない、ただ来歴を書き切る。第一の解決回でした。「正しく記録すれば祓える」——このお仕事の型が伝わっていたら嬉しいです。ですが手鏡の件、これで本当に終わったのでしょうか。令和七年に「祖父の遺品」と嘘をついて持ち込んだ、あの寄贈者は、いったい誰だったのか。次回、桐谷さんの書きかけの台帳を、ようやく開きます。




