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博物館寄贈品室の怪異台帳 〜いわく付き収蔵品は、正しく記録すれば祓える〜  作者: 黒木 あん


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2/12

第2話:拭き取り跡

 その夜、私は家に帰ってからも、手鏡のことばかり考えていた。


 三十年で四人。木島、沢田、氏名空白、そして桐谷。持ち込む人だけが入れ替わる品。頭の中で、四つの名前が輪になって回っていた。輪は、どこにも切れ目がなかった。


 翌朝、いちばんに区分外収蔵庫へ入った。手鏡はゆうべ包んだままの位置に、包んだままの形で置かれている。当然だ。窓のない部屋に、動くものなんてない。


 私は綿手袋を嵌め直して、布を開いた。


 鏡面を見て、指が止まった。


 曇っていたはずの鏡が、部分的に、澄んでいた。まるで誰かが、指で拭ったように。銅鏡というのは湿気で曇る。ゆうべ受理したとき、私は状態欄に「経年の曇りあり」と書いた。写真も撮った。拭いてなどいない。触るときは必ず手袋をするし、鏡面に指を当てた覚えはない。


 なのに、拭き取り跡がある。


 指の腹の幅の、細い弧。ちょうど、誰かが鏡を覗き込むときに、無意識にこするような場所に。


 私は写真を並べて確かめた。昨日の鏡面と、今日の鏡面。見間違いではなかった。ゆうべはなかった跡が、今朝はある。


 こういうとき、悲鳴を上げる人もいるのだろう。私はそうではなかった。怖いときほど、手が先に手順を思い出す。私はメモ帳を開いて、日付と時刻を書き、「鏡面に新規の拭き取り痕。受理後、担当は接触せず」と記録した。書いてしまえば、それは私の外側の出来事になる。書類の中の一行になる。少しだけ、息がしやすくなった。


 沢田さんの記録を思い出した。平成九年。「夜中に鏡から物音がする」と返却を希望し、そこで記録は途切れている。


 物音。拭き取り跡。夜のあいだに、この鏡は、誰かに覗かれているのだろうか。


 私は防犯カメラの映像を確認することにした。閉館後の館内は、区分外収蔵庫の前の廊下まで、カメラが入っている。前任者の失踪以来、そこだけは録画時間が延ばされたと聞いた。映像の朝の確認は、もともと私の業務のうちだった。


 昨夜のぶんを早送りで流す。無人の廊下。非常灯の緑。何も起きない時間が、淡々と流れていく。


 二十二時十四分。


 廊下に、人影が映った。


 私は再生を止めて、一コマずつ送った。


 寄贈品整理係の、白い腕章。私が着ているのと同じ制服。短い髪。カメラに背を向けて立っている。手には——手鏡を持っていた。柄に、菊花の文様が見えた。


 その人影は、ゆっくりと、鏡を顔の高さに持ち上げて、覗き込んでいた。


 タイムスタンプは、二十二時十四分。私は昨夜、その時刻、家の台所で、ひとりで夕食のうどんを茹でていた。施錠は確認した。チェックリストにサインもした。最後に館を出たのは私で、私は確かに帰宅した。記録は、正しかったはずだった。


 人影が、ほんの少し、カメラのほうへ顔を向けかける。


 そこで映像は、砂嵐に変わった。ざあ、というノイズ。タイムスタンプだけが進んでいく。二十二時十五分。十六分。廊下が戻ってくる頃には、人影はもう、どこにもいなかった。


 記録が、途切れている。


 私は震える手で、区分外収蔵台帳を開いた。ゆうべ書きかけた、KG-0418の続きを書こうと思った。何かを書けば、これも私の外側の出来事になる。書類の中の一行に、なる。


 ペン先を、紙に下ろした。


 けれど、私の手は、私の書こうとした言葉を書かなかった。


 ペン先は、ひとりでに動いていた。私の字ではない。もっと細く、几帳面で、少し右上がりの——見覚えのある字だった。桐谷さんの、あの書きかけの台帳と、同じ筆跡だった。


 一行だけ、綴られた。


 ——「記録を、続けてください」


 ペンが、手から離れた。指はまた、私のものに戻っていた。


 私は、その一行を、長いあいだ見ていた。


 続けてください。何を。この鏡の記録を。それとも、あなたが書きかけて、文字の途中で途切れた、あの台帳の続きを。


 窓のない部屋で、空調だけが低くうなっていた。


 二十二時十四分、いるはずのない自分。防犯カメラの人影の正体は、次回、来歴をもう一枚めくると見えてきます。「拭いたのは、誰か」。桐谷さんの筆跡が最初に残したこの一行、たぶん物語の背骨になります。続きが気になったら、ブックマークで台帳に栞をはさんでおいてください。


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