第22話:捨てに来た者
「夜分に、失礼いたします」
各務は、にこやかに、笑っていた。仕立てのよいコートは、以前と同じ。崩れない笑み。私が扉を開けると、男は、丁寧に、頭を、下げた。
「昼間、受付に伺ったのですが、どうも、こちらの整理係の方は、夜のほうが、いらっしゃると、伺いまして。……須藤さん、でしたね。以前、螺鈿の小箱を、お預けした」
田代、と名乗った男だ。あのときは、螺鈿小箱KG-0468を、偽の来歴で、寄贈した。台帳に、各務、と正体を書いた男。五つの偽名を、一人に束ねて、締め出した相手。
「田代さんでしたか」私は、丁寧語で、返した。心臓が、速かった。この人は、桐谷さんを、奥へ、追いやった。けれど、そのことを、この人は、たぶん、知らない。知っていても、気にしていない。「今日は、どういった、ご用件でしょう」
「これを」各務は、風呂敷包みを、差し出した。「祖母の、遺品でしてね。実家の蔵を、整理していたら、出てまいりました。……由緒正しい品です。ぜひ、そちらで、大切に、記録していただけますか」
由緒正しい品でしてね。偽の来歴を語り出す、合図の言葉だった。私は、綿手袋を、嵌め直して、包みを、受け取った。開けると、中に、一挺の櫛が、あった。
柘植の、古い櫛だった。歯の一本一本が、丁寧に、挽いてある。背の部分に、彫り物が、あった。菊花の、文様。
私は、息を、呑んだ。
鏡台の抽斗と、同じ。手鏡の柄と、同じ。菊花文。同じ、組の品だった。鏡台に、対の手鏡があったように、対の櫛も、あったのだ。鏡台。手鏡。櫛。一つの、化粧道具の、揃い。ばらばらに、外へ出て、渡り歩いていた、その一つが、今、各務の手から、私の手に、渡った。
「これは」私は、櫛を、見つめたまま、言った。「本当に、お祖母様の、遺品ですか」
「ええ、もちろん」各務は、笑った。「祖母が、若い頃から、使っていたものです。祖母の、母から、譲られたと、聞いております。ですから、来歴は、はっきり、しております。何も、心配は、ありません」
嘘だ、と、私は、思った。この人は、いつも、そう言う。来歴は、はっきりしている、と。心配はいらない、と。けれど、この人が、はっきりしていると言う品ほど、来歴は、切れている。手放したい品ほど、由緒正しい、と語る。
けれど――今度は、少し、違った。祖母の、母から。祖母の、母。もし、それが、本当なら。この櫛は、少なくとも、三代は、各務の家系を、遡る。そして、菊花文の組は、鏡台に、繋がる。ということは。
「田代さん」私は、顔を、上げた。「あなたのお家は、この鏡台を――いえ、この菊花文の揃いを、昔、持っていたことが、ありますか」
各務の、笑みが、ほんの、一瞬。
止まった。
螺鈿小箱のときと、同じだった。この人の嘘は、崩れない。けれど、思いがけない一点を、突かれると、ほんの一瞬だけ、笑みが、止まる。それが、この人の、いちばんの、綻びだった。
「……さあ」各務は、すぐに、笑みを、戻した。「古い家ですのでね。何を、持っていたやら。私は、詳しく、存じません。ただ、蔵に、こういう品が、いくつも、ありましてね。持っているのが、どうも、落ち着かない。だから、ちゃんとした場所に、記録して、いただきたいのですよ。……手放したい、とは、申しませんが」
手放したい、とは、一言も、言わない。それでも、私には、分かった。この人は、これを、捨てに、来ている。自分の家系に、憑いた品を。博物館という、正規の記録機関に、押し付けて。自分から、切り離すために。
「一つ、伺っても、いいですか」私は、言った。「以前、桐谷という、記録係が、ここに、いました。あなたに、会いに、行きませんでしたか。この、菊花文の品のことで」
各務は、しばらく、私を、見ていた。にこやかなまま。
「……前の方ですか」各務は、静かに、言った。「ええ。一度、お会いしました。熱心な方でしたよ。この揃いの、来歴を、根っこまで辿りたい、と。私の家に、まで、いらしてね。……ですが、私には、お話しできることが、ありませんでした。私も、この品が、どこから来たのか、知らないのです。ただ、家に、あった。それだけで。だから、お引き取り、いただいた。……そのあと、あの方が、どうなったかは、存じません」
嘘だ。半分は、嘘だ。けれど、半分は、本当かもしれない、と、私は、思った。各務も、この揃いの、根っこを、知らない。知らないまま、家から家へ、代から代へ、渡ってきた。各務は、この、手放しの連鎖の、いちばん、末端に、いる者なのだ。連鎖を、断ち切りたくて、けれど、来歴を、知らなくて、だから、博物館に、押し付けに来る。
桐谷さんは、各務の家まで行って、そこで、行き止まった。各務も、根っこを、知らなかったから。だから、桐谷さんは、外の館の、貸出品に、望みを、繋いだ。そして、奥へ、入った。
「櫛は、お預かりします」私は、言った。「正しく、記録します。始めから、終わりまで。あなたの、家系の、ぶんまで」
各務の笑みが、ほんの少し、変わった気が、した。ほっとした、ような。けれど、それは、すぐに、いつもの、崩れない笑みに、戻った。
「よろしく、お願いいたします」各務は、頭を下げて、夜の博物館を、出ていった。
私は、手の中の、菊花文の櫛を、見た。鏡台の、揃いの、一つ。桐谷さんが、辿ろうとした、連鎖の、末端。私は、この一挺から、根っこへ、遡らなければ、ならない。
あと一点は、まだ、外の館に、ある。
各務が捨てに来たのは、鏡台と同じ菊花文の、揃いの櫛でした。鏡台・手鏡・櫛――ばらばらに手放されてきた、一組の化粧道具。各務は、この手放しの連鎖の末端にいる者で、根っこを知らない。桐谷さんは彼の家で行き止まり、外の館の貸出品に望みを繋いで、奥へ入りました。次回、桐谷さんが遺した「あと一点」の手がかり。物語は、他館へ貸し出された品――第五章「巡回展」へ向かいます。




