第19話:初代の一行
その晩、私たちは、区分外の作業台に、戻った。鏡台は、また布をかけて、奥に、残した。宮下さんが、湯呑みに、ぬるいお茶を注いで、一つを、私に、寄越した。
「区分外収蔵庫が、いつできたか」宮下さんは、話し始めた。「正式な記録は、無い。この部屋自体が、"無い"ことになっとるからな。だが、いちばん古い台帳は、残っとる」
宮下さんは、金庫のような、古い戸棚の鍵を開けて、一冊の台帳を、出した。表紙の擦り切れた、和綴じの帳面。私が使っている台帳より、ずっと古い。ずっと薄い。
「初代の、台帳だ」宮下さんは、言った。「四冊、あるんだ。区分外の台帳は。今、あんたが書いてる、表の台帳。桐谷が影に控えとった、二冊目。そして、この、初代の帳面。……四冊目は、まだ、あんたに見せられん。順番だ」
私は、初代の台帳を、開いた。筆の字だった。墨の色が、褪せている。品名と、来歴が、几帳面に、並んでいた。私の使う記録票と、書式は違う。けれど、やっていることは、同じだった。来歴の切れた品を、調べ、書き、封じる。
いちばん、最初のページ。
そこに、一行だけ、来歴の書かれていない、品が、あった。
「一 鏡台。来歴――」
そこで、字が、止まっていた。「来歴」と書いて、その先が、白い。初代の記録係も、この鏡台の来歴を、書けていなかった。区分外の、最初のページの、最初の一行が、空白のまま、始まっていた。
「初代は」宮下さんが、言った。「この鏡台を、どこかから、預かった。曰く付きだ、と持ち込まれてな。調べようとした。だが、来歴が、辿れんかった。あんまり古くて、あんまり、たくさんの手を、渡ってきて――誰が最初に持っていたのか、どこで作られたのか、辿り着けんかった。初代は、来歴の空欄を、埋められんまま、番号だけ、"一"と振って、死んだ」
「病気で、ですか」
「分からん」宮下さんは、首を振った。「二代目も、三代目も、代替わりのたびに、この鏡台に、手を出した。区分外の、いちばん古い、いちばん大きい品を、いつか、ちゃんと記録せねばならん。誰もが、そう思う。そして、誰もが、来歴の最後の一点で、行き詰まる。初代が、どこから、これを預かったのか。その一点が、どうしても、埋まらん。……埋まらんまま、記録係は、代替わりしていった。辞めるか、消えるか、してな」
私は、初代の台帳の、空白の一行を、見ていた。「来歴――」で止まった、褪せた墨の字。桐谷さんの、「K─」で止まった木札。同じだった。四人の記録係が、同じ場所で、ペンを、止めていた。
「桐谷は」宮下さんが、湯呑みを、両手で包んだ。皺の深い手が、少し、震えていた。「桐谷は、この鏡台を、いちばん、本気で、記録しようとした。あの子は、初代の台帳を読んで、影の台帳を作って、消される記録を控えて――そのうえで、いちばん奥の、この一点を、埋めようとした。来歴の、最後の一点まで、辿ろうとした」
「辿れたんですか」
「途中までは、な」宮下さんは、言った。「あと一点、というところまで、いった。初代がどこから鏡台を預かったか――その手がかりが、外に、あると、桐谷は言っとった。よその、館に。巡回展で、貸し出された、別の品に。それを調べに行く、と。……だが、その前に」
宮下さんは、そこで、言葉を、切った。
「その前に、各務が、来た」
私は、顔を、上げた。
「各務が、また、品を、捨てに来た」宮下さんは、低く、言った。「桐谷は、その品の来歴に、気づいた。鏡台と、繋がっとる、と。だから、各務を、追った。奥へ。いちばん奥の、鏡台のところまで。……それきり、桐谷は、戻らんかった」
窓のない部屋の、低い空調のうなりだけが、していた。
「わしは」宮下さんは、湯呑みを、置いた。「止めるべきだった。桐谷が、奥へ入るのを。あの子は、記録に、のめり込みすぎとった。書ききれんものを、書こうとしとった。老いぼれの勘で、危ないと、分かっとった。……だが、止めなかった。あの子の、記録係としての、覚悟を、汚したくなかった。それが、正しいと、思った。今でも、正しかったのか、分からん」
初めて見る、宮下さんの、弱さだった。鍵束を鳴らして現れ、正しく書けば悪さはせん、と言い切る、あの老人が、湯呑みを両手で包んで、うつむいていた。桐谷さんを、救えなかった。その悔いを、この人は、三か月、いや、もっと長く、一人で、抱えていた。
「宮下さん」私は、言った。「私に、鏡台の記録を、続けさせてください」
宮下さんは、顔を、上げた。
「桐谷さんが、あと一点まで、辿ったんですよね」私は、言った。「なら、私が、続けます。四人目の記録係です。書ききれなかった一点を、書きに来ました。……宮下さん。もう、一人で、抱えないでください」
老人は、しばらく、私を、見ていた。それから、鍵束から、また一本、鍵を、外した。
「四冊目の台帳の場所を、教える」宮下さんは、言った。「あんたが、覚悟したなら」
区分外収蔵庫の、四人の記録係。初代・二代目・桐谷さん、そして四人目のナナミ。全員が、同じ鏡台の、同じ来歴の、最後の一点で、ペンを止めてきました。宮下さんの、桐谷さんを救えなかった悔いも、静かに、明かされます。次回、桐谷さんが「載せ損ねた」ものの正体へ。記録の欠落こそが怪異――その原理が、いよいよ前任者失踪の核心と、結びつきます。




