第16話:影の台帳
三上さんは、私を、止められなかった。
止めるには、区分外収蔵庫が"ある"と、認めなければならない。台帳を管理するな、と命じるには、その台帳が存在することを、公式に、認めることになる。三上さんは、区分外を"無い"ことにしてきた。だから、"無い"部屋の記録係に、表立って、何かを命じることが、できなかった。私が黙って記録を続けるかぎり、三上さんは、穏やかな笑顔のまま、遠くから見ているしか、なかった。
けれど、問題は、そこではなかった。
三上さんが、これまでに、いくつの記録を消したのか。私には、分からなかった。番号を剥がされた品。切り取られた台帳のページ。消された記録は、消されているがゆえに、「何が消されたか」すら、分からない。復元しようにも、辿る手がかりが、ない。
私は、途方に暮れた。夜の区分外で、桐谷さんの遺した、員数点検の台帳を、もう一度、開いた。カミソリで、ページを切り取られた、あの台帳。
そのとき、気づいた。
切り取られたページの、断面。よく見ると、根元に、ほんのわずか、桐谷さんの字が、残っていた。切り取る前に、彼女が、ページの端に、小さく、書き込んでいたのだ。「→ 別」。矢印と、別、の一文字。
別。別の、どこか。私は、桐谷さんの机を、もう一度、端から検めた。引き出しの、二重底。あるいは、と思って、探した。あった。引き出しの奥板が、外れた。その裏に、薄い、もう一冊の台帳が、貼りつけてあった。
桐谷さんの、影の台帳だった。
表の台帳とは、別に、彼女は、もう一冊、隠して持っていた。三上さんが記録を消すことを、桐谷さんは、知っていた。だから、消される前に、同じ内容を、もう一冊に、書き写していた。表の記録を消されても、影の台帳に、残るように。
几帳面な、細い字で、それは、埋まっていた。三上さんが番号を剥がした品。切り取ったページの品。全部、桐谷さんの影の台帳に、控えてあった。品名、来歴、封じの記録。何一つ、欠けずに。
私は、その一冊を、抱きしめたいような気持ちに、なった。
桐谷さんは、記録が封じだと、分かっていた。記録を消せば封じが解けると、分かっていた。だから、組織が消して回る記録を、一人で、こっそり、控え続けていた。誰にも言わず。評価もされず。ただ、消されてはならない記録を、影に、逃がし続けて。
それが、この人の、仕事だった。
私は、影の台帳を頼りに、消された品を、一つずつ、記録し直した。木彫りの像。ちぎれた紐の品々。桐谷さんが控えていた来歴を、表の台帳に、もう一度、載せ直す。載せるたびに、区分外の空気が、少しずつ、軽くなった。員数が、合っていく。載っていない品が、一つ、また一つ、載った品に、戻っていく。
正しく記録された品は、覚えていなくてよくなる。桐谷さんが逃がしておいてくれた記録のおかげで、私は、彼女が守ろうとしたものを、継ぐことが、できた。
明け方近く、和泉さんが、区分外の前を、通りかかった。早出の、資料整理だったらしい。灯りの点いた"無い"部屋を見て、和泉さんは、少し、驚いた顔をした。
「須藤さん……こんな時間まで? その部屋、そんなに、片付ける物、あったっけ」
「ええ、まあ」私は、影の台帳を、そっと、背に隠した。「昔の記録が、いろいろ、抜けていて。埋めているんです」
和泉さんは、しばらく、私を見ていた。それから、独り言のように、言った。
「……桐谷さんも、そう言ってた。抜けてる記録を、埋めてるって。夜中まで、一人で。……ねえ、須藤さん。あの部屋、本当は、何なの?」
明るい博物館の住人が、また一歩、裏の暗がりに、近づいた。私は、まだ、答えられなかった。答えていいのか、分からなかった。けれど、いつか、この人にも、話す日が来るのかもしれない。そう、思った。
「……いつか、話します」私は言った。「私が、この仕事の重さを、ちゃんと、分かったら」
宮下さんに言われた言葉を、私は、そのまま、和泉さんに、返していた。
桐谷さんの、影の台帳。組織が消す記録を、たった一人で控え続けた前任者の、静かな戦いの跡でした。ナナミは、それを継いで、消された記録を復元していきます。そして和泉さんが、また一歩、区分外へ。次回、第三章の締め。員数点検が、ついに、あと一点まで合います。合わない、最後の一点は――区分外の、いちばん奥に。宮下さんが、ナナミを、そこへ連れていきます。




